158.招かれざる客
ふと目を開けた時、最初に映ったのは木目調の天井だった。窓から明かりは差し込まず、暗闇が包む室内は二度寝にうってつけだろう。
もっとも少女は眠っていたわけではない。ただベッドに横たわり、いつものように瞳を閉じていただけ。
それでも今日ばかりは、驚くほど意識がハッキリしていた。
霧の中を彷徨うような浮遊感もなく。地に足がついた感覚が首を動かせば、隣に座っている赤毛の女と目を合わせる事も出来た。
彼女もまた腕を組んで話す事は無いが、眉を顰めていても敵意は感じられない。何より食事の世話から湯浴みまで。何もかも面倒を看てくれる相手を警戒するのも野暮というもの。
それでも心の内を知りたくて。視線を合わせれば表情が一層険しくなったが、危害を加えてこない事は知っている。
恐れずに集中して見つめ続けた矢先。ふいに浮遊感がロゼッタを襲うが、いつもの高波に攫われるような感覚はない。
流れにしがみつき、やがて意識が赤毛の女の瞳に吸い込まれていく。
次に目覚めた時。ロゼッタは床に突っ伏し、長い睫毛を瞬かせながらゆっくり身体を起こした。
困惑しながら辺りを見回せば、右も左も本棚が整然と並んでいる。前と後ろには何処までも通路が続き、息を呑んで歩き出そうとした途端。
ジャランっ――と。
足元で響いた忌々しい音に、思わず足を止めてしまう。ジッと見下ろせば、足首の鉄枷が移動を拒むようにしがみついていた。
途端に顔をしかめれば鬱陶しそうに宙を蹴ったが、当然外れるはずもない。諦めて道を進むも、注意はすぐに大小様々な本や巻物へ向けられる。
好奇心の赴くままに1冊引き抜くが、重さのあまりにそのまま落としてしまう。響き渡る反響音に飛び上がり、慌てて周囲を警戒するが怒りに来る大人はいない。
ホッとしながら屈めば、床に落ちた本をパラパラめくっていく。ズラリと並ぶ文字列を眺めていき、すぐに飽きると今度は巻物を引っ張り出した。
それからも広げては捨て。引き抜いては放り。
おもちゃ箱の如く通路を散らかせば、奥に見えた明かりを次は目指した。勢いのまま鉄柵にしがみつくが、飛び上がっても手すりまでは届かない。
懸命に足を蹴って登り、ようやく半身を乗せて一息吐いた矢先。
眼前に広がる光景に目を丸くし、真っ逆さまに落ちてしまえる吹き抜けに、鉄柵を握る手に自ずと力が籠もる。
螺旋状の回廊は各階へ続き、目で追っていけば視線はやがて“底”へ行き着く。
ソファに丸机。その周囲には本が積まれ、読書家には溜まらない光景だろう。
一帯に注がれる光柱を次は追い、天窓から差し込む暖かな明かりに目を輝かせる。
触れてみれば身も心も温めてくれそうで。思いっきり手を伸ばすが、身長に関係なく届きそうにはない。
それでも諦めなければ、いずれ触れる気がして。さらに身を乗り出した途端にバランスを崩し、慌てて身体を起こしたが手遅れ。
膝が鉄柵を乗り越え、勢いのままに世界がグルンっと反転。遥か眼下の底が視界に映り、最後の抵抗に見せた身体の強張りも解けていく。
だが直後にガチャリっ――と。
身体が不自然に宙で静止し、プラプラと力なく四肢がぶら下がった。目を瞬かせ、足を見れば鉄枷が手すりに引っ掛かってくれたらしい。
予期せぬ活躍に驚くが、長い髪は落下を待ち侘びるように垂れ続けている。落下先も口を開くように贄を欲し、身体の震えに呼応して咄嗟に鉄柵を掴んだ。
そのまま器用に柵を登って行き、一気に足を後ろに蹴り出せば再び床に着地。思わぬ冒険に鼓動はいまだ高鳴り、胸に触れると少しずつ息を整えていく。
やがて呼吸も落ち着くが、子供の好奇心とは末恐ろしいもの。凝りもせずに鉄柵へ近付いたものの、今度は身を乗り出すような真似はしない。
隙間から階下をジッと眺めるが、彼女の注意は最底辺の突きあたりの壁。最初は気付かなかったが、左右に開け放たれた扉に向けられた。
景色の変化に俄然興味を覚え、視線は自ずと回廊をグルグル追う。何周か回る内に底へと辿り着き、シミュレーションを終えれば後は実行に移すだけ。
容易く果たせる目的にスッと立ち上がるも、ふいに一帯が暗闇に包まれた。まるで天窓の明かりが遮られたようで、吹き抜けに自然と視線を戻した時。
鉄柵の向こうに“黒い太陽”が浮かび、歪んだ輪郭は出来損ないの泥団子そのもの。その表面からは際限なく黒い滴が垂れるのに、決して階下へ零れる事は無い。
もっとも異様な外見など、突如開かれた無数の眼に比べれば可愛くすら思えてしまった。ギョロついた視線は一点に集中され、巨塊から一筋の黒い腕がロゼッタに伸ばされる。
直後に竦んだ身体が反応し、気付けば書架の迷宮へ飛び込んでいた。背後から無数の手足が迫って来る音が響き、到底子供の脚力では逃げられない。
恐ろしい眼差しから外れるべく、角という角を何度も曲がり。幸い書架の通路は窮屈なようで、怪物も思うように速度を上げられないのだろう。
予期せぬ光景にさらなる戦略が浮かび、本棚を漁れば中身を勢いよく掻きだした。
その度に唸り声が轟き、震えた背筋がさらに足を動かしてくれる。さらに浮かんだ案を実行すれば、本を押し出して強引に隣の通路へ近道を開通。
怪物はおろか、誰もいない空間にホッと嘆息を吐く。
だが不用意に振り返るや、“通り道”から覗く怪物の瞳が少女の身を凍り付かせた。隙間から伸ばされた泥のような腕を咄嗟に躱し、当てもなく再び走り出す。
それからも書架の近道を作っては、反対側へ出るふりをして元の通路へ戻った。積もった瓦礫の山に隠れる事もあったが、無数の眼も伊達ではない。
流石に怪物を何度も欺けず、その時は潔く近道を潜り抜けていく。
悪夢の追いかけっこは延々続くが、曲がった先の通路に箱や本の山が築かれ。知らぬ間に元の場所へ戻ってしまったらしい。
焦りは判断力を鈍らせ、飛び越えようとしたのが運の尽き。
ふいにガチャンっ――と。鉄枷が木箱に引っ掛かり、そのまま瓦礫に仰向けにペシャリ。慌てて起きようとするが、込み上げた違和感に身体が硬直した。
――ぺたぺたべたべたぺたぺた。
延々に流れていた背後の足音が、初めて聞こえなくなった。一帯には影まで差し、想像したくもない光景が脳裏に浮かぶ。
ロゼッタの息遣いは一層荒くなり、全身を震わす鼓動に眩暈さえ覚える最中。少女の聴覚がもう1つの疑念を囁いた。
自分の物とは別の荒い息遣いが傍で聞こえる気がして。麻痺した感情の赴くがまま、ゆっくり振り返れば怪物の姿は無い。
代わりに視界を覆ったのは、両腕を木の幹のように広げた人物で。大きな背中で少女を怪物から守る姿は、物語に登場する騎士そのものだった。
【――…邪魔だ】
「ハァハァハァ…な、なんて言われようと…ココは絶対動かないからなッ!!」
片や見下すように。片や突き上げるように睨み、両者1歩とも譲らない。
突如走りだしたウーフニールを閉架から追い、臓書に辿り着いた矢先。柱を登っていく様を眺めれば、8階の回廊に座る“例の少女”が視界に飛び込んだ。
何故。どうやって。
思う所はあまりにも多く。しかし逃げ出したロゼッタを追うウーフニールの姿に、考えている暇など無かった。
閉架の脱出に体力を大幅に消費したが、休む間もなく回廊を疾走。ようやく目的の階層へ着いても、聞こえてくるのは書架の悲鳴ばかり。
ウーフニールのおぞましい唸り声を追い、咄嗟に回り込んだまでは良かった。
だが年端もいかない娘と言えど、彼女の罪状はハッキリしている。不法侵入を始め、今も彼女が横たわる本の山。
そして逃げた際の散らかしっぷりを考えれば、ウーフニールの怒りも至極当然。アデランテが初めて臓書に訪れた日を思い出し、ついほくそ笑んでしまった。
おかげで彼の怒りを増々買い、黒い腕が1歩。荒々しい音を立てながら前に進み出れば、彼の瞳が目と鼻の先まで迫った。
否が応でも仰け反らざるを得ず、少女の震えが背中に伝わってくる。長い付き合いの相棒とは言え、アデランテもまた恐怖を忘れたわけではない。
それでもパクサーナの姿が。フーガの最期が脳裏をよぎり、歯を食い縛れば毅然と怪物に立ち向かった。
例えウーフニールと火花を散らそうとも、譲れない境界線はアデランテにもある。
そして1度曲げてしまえば、永遠に自分を許せない事も。
【邪魔だと言っている】
「…私がどいたら、お前はどうするつもりなんだ」
【目撃者は排除する】
「必死に助け出した少年との約束を無視してもか?この子の事を守ってやるんじゃなかったのかよッ!ちょっと私らの中を覗かれたからって、ソレは無いだろ!!」
【ウーフニールの存在は秘匿事項。貴様との契約における大原則を破る理由に値はしない】
「値するっての!…いや、別にお前との約束を破るわけじゃないけどさ……そ、それに…え~っと、あっほら!どうやって書庫に入ってきたか知る必要もあるだろ?」
【喰らえば分かる】
「うっ、そう来たか……でも書庫に入られた事に関しては、私の部屋だって一応下にあるんだ。この子をどうするか決める権利は2割あるだろ!!……1割…未満、ならどうだ?」
当初の勢いも徐々に衰え、針の穴を通す細い声に変わっていく。一方で腕はしっかり背後に回され、少女を守るようにギュッと抱き込んだ。
彼が強硬手段に出るならば、彼女を抱えて臓書中を走り回る事も辞さない。
そんなアデランテの決意が伝わったのか。ふいに小さな指がキュッと手首を握り、震える少女と気持ちが1つになる。
むしろウーフニールが迫る度に背中へしがみつかれ、可能な限り彼女を身体で覆った。
しかし頭上に佇む彼の眼からは隠せず、足取りも普段の軽やかな物ではない。図体に見合う重々しい足音が、ズシンっともう1歩。
さらに2歩。そして3歩進めば、徐々に頭上を覆う影は消えていく。
アデランテたちをそのまま通り過ぎ、彼は書架の奥へ何も告げずに去ってしまった。
途端に重々しい空気も消え、知らぬ間に止めていた息を一気に吐き出す。少女を避けるように倒れ込めば、荒い息遣いを何度も繰り返した。
運動不足とボヤいた罰が当たったのか、久方ぶりの緊張感に額の汗を拭う。肉体の疲労に足腰も立たず、肺に籠もった熱も徐々に抜けていく。
不覚にも程よい眠気に襲われ、いっそこのまま本の山で寝てしまうかと。1人でクスリとほくそ笑むも、眼前を小さな影が覆った。
そのままジッとアデランテを見下ろしてくるが、彼女の表情に変化は無い。“怪物”に追われていたとは思えない落ち着きぶりに、また笑みが綻んでしまう。
「…一緒にあとで謝りに行こうな?」
ポツリと呟きながら緑の瞳を見つめ返せば、ロゼッタの頭を優しく撫でた。
その間も脳裏によぎるのは、ぶち撒けられた本棚の中身。加えてウーフニールと共有する2人だけの空間に、少女が無断で侵入した事実。
当然どうやったかは知らない。唯一知るロゼッタ本人も、感情や言葉を発さないために聞くのは至難の業だろう。
先行きは長く険しいが、それでも屋敷の人間を初めて救えた気がして。撫でられる度に目を閉じて、頬擦りする彼女に笑みが止まらなかった。