144.木漏れ日の家
強い緑の匂いに刺激され、陽の光が瞼に惜しみなく差し込む。小鳥の囀りまで聞こえる中で身体を起こそうとしたが、悲鳴を上げた肉体はさらなる休息を欲している。
しかしこの世でもっとも恐ろしい空間に座す今、弱音を吐いている場合ではない。渋々腕をついて身体を起こせば、もう1つの異変に気付いた。
最後に覚えているのは少年が自らを囮に、怪物を部屋から追い出した光景。彼を探しに行こうとしたリンプラントを宥め、全員固まって壁に寄り添ったはずだった。
だと言うのに床は砂地のようでザラザラで。ようやく重い瞼を上げれば、押し寄せてきた現実に何度も目を瞬かせた。
一帯には視界の端まで森が広がり、砂時の上では数えられる程度の人たちが倒れている。そのどれもが浮浪者のように薄汚れ、中にはケイルダンのように負傷した者もいた。
全員とも意識を失っているらしく、ドゥーランたちもまた例外ではない。傍で各々が寝息を立て、リンプラントに至っては涙の痕がまだ残っていた。
「…屋敷から、出られたのか?」
彼女の頬を拭い、改めて状況を確認する。
一帯に扉はおろか、天井も壁も無い。大空と森が何処までも広がり、倒れた人の中には金等級ギンジョウの姿まで見える。
両手に剣を握ったまま寝る癖は依然治っていないらしく、笑おうとすれば傷口に滲みてしまった。
おかげで意識が再び覚醒し、まずはこれからどうすべきかを仲間と。そして幻でなくばギンジョウを始め、周囲で寝転ぶ集団と話し合う必要がある。
しかしふと。背後から聞こえた足音に咄嗟に振り返れば、途端に身体が悲鳴を上げた。
当分は満足に剣も握れないだろうが、それでも視界に映った人物に弱味を見せる気はない。
「……冒険者…それも青銅等級か。こんなところで何をしている」
「金等級“壇上の咆哮”ケイルダン・ブラシュカッツだな。冒険者ギルドより出された捜索依頼により参上仕った」
「…ギルド?」
尋ねたのは自分だと言うのに、半ば信じられない報告に思わず息を呑む。屋敷から出られた事と言い、もはや夢のようにしか感じられなかったが、痛覚は現実だと執拗に知らしめてくる。
一方で興奮が痛みを幾らか抑制し、金等級の誇りを胸に毅然とした態度で問いかけた。もっともボロボロの姿では、何処まで威厳が保てたかは定かではない。
「救援の駆けつけに感謝する。それで人数は?」
「私と……あそこに寝転がってる4人で全員になるな」
フードの人物が首を動かせば、見えない視線を期待しながら辿っていく。
その先にはギンジョウと彼のパーティメンバーが1人。そして見知らぬ銀等級の冒険者が2人だけ。
最初は何の冗談かと思ったが、ふいに鋼鉄の意思ロレンゾの存在を思い出した。彼を含む4パーティが捜索に赴いた話から、全員が屋敷へ入ったとしても不思議ではない。
「……俺たちはどれほどの期間、行方をくらましていた」
「そうだな…1ヶ月半くらい、そんなにかッ!?……それ位だそうだ」
一体何と対話しているのか。屋敷に収監されて精神が病んだように思えたが、今は1人でも動ける人材がいる。
全員倒れ、自身も気張っていなければ再び深い眠りにつきそうで。少しでも意識を揺り起こすべく、地図に印を必死に書き込んだ。
相手の素性が何であれ、増援を1日でも早く呼んでもらう必要がある。青銅等級なら1人でも街に戻れると判断し、地図を渡せば必要な荷を持っていくよう告げた。
だが相手はきっぱり断り、腰に剣を1つ下げた身なりに不安を覚えても事態は一刻を争う。
「…いいか。その地図をギルドに渡せば、俺たちの救助に動くはずだ。お前は街へ戻ったらゆっくり休め」
「了承した」
「それと!街で俺と合流するまで決して屋敷の話は口にするな!これは金等級命令だっ!!」
周囲が起きんばかりに声を張り上げるが、必死になるのも無理はないだろう。
人食い屋敷に、扉1つで別空間に移動する部屋。
収納箱の食料や迷い込む獣に魔物たち。そして屋敷に巣食っていた醜悪な怪物。
それらの“慎重な扱い”が求められる情報に加え、話したところで信用される内容でもない。下手をすれば正気を疑われ、ギルドが増援を渋る危険性も孕む。
意図が汲み取られたか定かではないが、あっさり了承されると相手は再び踵を返した。早々に出立してくれる事に安堵するも、少し進んだ先で突如冒険者が屈み込む。
そのまま1人の少女を背負い、森へ今にも走りだそうとしていた。
「おい待て!」
「…今度は何だ?私が街へ戻っても、救援が来るまでに時間は掛かるんだぞ?」
「……その背中の娘。どうするつもりだ」
一瞬でも少女の事を忘れていた自身を責め、かつ取り戻せない不甲斐なさに歯を食いしばる。彼女がいなくなれば、目覚めたリンプラントが必ず取り乱すだろう。
何とかして置いていくよう説得するつもりだったが、フードの人物は真っすぐ森の奥へ進んでいく。
「――…任されたんだ」
やがて茂みに姿が消えた時、残された一言が少年の安否を暗に仄めかした。
彼の最期は冒険者に引けを取らない、まさに英雄そのものを表す行動。怪物に挑んでくれなければ、あの時死んでいたのはケイルダンたちだったろう。
小さな冒険者の勇姿に胸が熱くなるも、その話をどうリンプラントに伝えるべきか。
まずはドゥーランと話し合うべきだろうが、眠気は容赦なく思考を揺さぶる。甲冑の重みに耐えきれず、地面へ吸い寄せられると瞼をゆっくり閉ざした。
心地よい惰性に身を委ねるも、ふいに意識の狭間で疑問が浮かぶ。
少年が従えていた賢いカラスはどうなったのか。
そしてフードの人物。何処かで会った気がしたが、暖かい微風が最後の意識を奪ってしまった。
茂みをなるべく避け、比較的踏み慣らされた道を突き進む。あるいは行きに使ったのかもしれないが、青い煙以外の順路を追うつもりはない。
屋敷を離れてから1度も止まらず、街へ戻る事だけを考えていた矢先。気付けば陽も落ちて、森を冷気が満たしていた。
普段なら強行軍を続けていたろうが、背負っている少女は生身。食事も与えなければ、とても身体が持たないだろう。
風切り音ばかり耳にしていた最中、ふいに腹底を揺さぶる声に足を止めた。
視界の端に映る岩穴に飛び込み、入口手前でサッと中を確認。獣の残り香もなければ足跡もない空間に、毛布ごと少女を寝かせた。
周辺から枝葉も回収し、瞬く間に焚火も灯す。
「…やっぱり夜の明かりはコレくらいが丁度良いな。我ながら良い出来だ」
【焚火に出来の良し悪しがあるとは思えん】
「ははっ、まぁな。でも騎士団にいた頃は設営班を半日でクビにされたから、こういう事を1人でやるのは新鮮なんだ……なぁ。出来れば鳥と話しちゃダメか?何もない空に向かって話しかけるのは流石に寂しいし…」
【ならば黙っていろ】
「子供とは話せて、何で私とは話してくれないんだよ。不公平だろ、そういうのって」
虚空をジッと睨めば、無言の応酬に勝利したのはアデランテだった。
ふいに羽ばたきが聞こえ、暗闇が鳥を模ると焚火の前にスッと降り立つ。黒い嘴と翼は煌々と照らされ、向けてくる瞳には神々しさか。
あるいは災厄を予言するかのような呪い的迫力が感じられた。
《偵察を切り上げてまで要求する事か》
「私ら2人なら何とかなるし、念には念を入れて頼んでただけさ」
ニッコリ微笑みかければ、いつもの唸り声が返される。絶妙に手が届かない距離で佇む“彼らしさ”に微笑み、薪を黙々とくべていく。
森の静寂に火の爆ぜる音が混じる様相は、旅の景色の醍醐味とも言えるだろう。
だが黙っていられたのも、せいぜい10秒が限界だったろうか。居住まいを変えたアデランテがポツリと呟いた。
「街にはいつ頃着けそうなんだ?帰りは行きより早く戻れると思うけど、連中を待たせるわけにもいかない。女の子には悪いけど、夜を通してでも走って距離を稼がないとな」
《走行速度を維持可能ならば、明日の夜には着く》
「……嘘だろ?屋敷までは何週間も歩いたはずだぞ」
《貴様の常人離れした速度や体力に加え、大所帯による行軍では休憩を多用し、捜索を行なうために速度を落としていた。挙句に都度“作戦会議”を開いていれば日数に差が出るのは必然だ》
「…それなら救援に行く奴らも、時間を掛けずに向かえる…のかな?」
予期せぬ情報に驚かされたが、到着が明日になるなら今夜はなおさら休むべきだろう。
そのままゴロンっと横に転がり、枝を焚火に投入すれば背後で眠る少女を一瞥する。毛布の下では片足に鉄枷が嵌められたままで、“奴隷商パクサーナ”の置き土産に思わず嘆息を吐いた。
「……あの子の足枷さ。鍛冶屋にでも連れていけば、外してもらえると思うか?」
《鉄枷は旧世代の遺物。“魔術封じ”に使われた品につき、解除が可能なのは外す方法を知る者のみ》
「そんな事よく知って……パクサーナか」
火をつついていた枝が半分燃えた所で指先から弾き、寝返りをうって焚火に背を向けた。
パクサーナの記憶を探ってもらったが、少女の解放や生い立ちにまつわる情報は皆無。少女を売りつけた人物も、パクサーナの隊にいた男が殺害してしまった。
財布も“荷”も奪い、可憐な少女を貴族に売る計画に変えたらしい。
もっともパクサーナは乗り気ではなく。せめてまともな奉公先を探すつもりだったとは言え、彼女ともども隊が消えた今はどうでも良い事。
それよりもパクサーナを助け出せなかった己の無力さに、とめどなく溜息が零れてしまう。
《女の事は気に病むな。小娘を屋敷へ連れ込んだ張本人でしかない》
「…でもその子はウーフニールが助け出せたじゃないか。それもカラスの姿でさ…私に至っては長年使い込んだ自分の身体を駆使しても守れなかったんだ……まったく、とんだヤブ騎士もいたもんだよ」
《だが同伴した小僧の護衛は叶わなかった》
「それこそッ……それこそ…仕方がなかったろ」
《小娘の救出。女の死。どちらも戦況次第では結末が逆転していた可能性はあった。此度の件は小娘に軍配が上がった“仕方のない”事案に過ぎない》
「……慰めてくれてるのか?」
《事実を告げたまでだ》
心地よい会話に気持ちが安らいだところで、チラッと焚火に当たるウーフニールを見つめる。岩穴の外を警戒する姿を収めつつ、ゆっくり少女に視線を逸らした刹那。
一気に転がって黒翼に両手を伸ばすが、ぴょんぴょん跳ねて躱されてしまう。出来れば物理的にも癒されたかったが、多くを求めるのも贅沢というもの。
「…ありがとな」
失敗に肩を落とすでもなく、ゆっくり立ち上がれば薪の補充に向かった。振り返ればウーフニールは少女の傍まで跳ね、まるで守るように入口を見張っていた。
――…1人にしないで。
少女の細やかな願いは、いまだ彼が叶え続け。ほくそ笑む一方で眩しく見えるウーフニールから隠れるように森の奥へ進んだ。
道中で薪を次々拾っていくが、ふいに川のせせらぎを耳にすると足の赴くまま。身を委ねて音を追いかければ、月明かりに照らされた小川に辿り着いた。
また1つ旅の醍醐味を味わっていたものの、ふと川底の異物がアデランテの注意を惹く。よく見れば陸の蔦に繋がっており、グイっと引っ張ると容れ物が水面から飛び出した。
枝葉で造られた簡易的な罠だったらしく、かなり以前に設置されたのだろう。蔦の擦り切れ具合や足跡の無さから、あるいは捜索隊が仕掛けたのかもしれない。
中には小さなザリガニが捕らわれ、アデランテを脅威と見なしたのか。ハサミを緩慢に向け、精一杯の威嚇を示していた。
しばし互いに見つめ合っていたが、小腹が空いていないと言えば嘘になる。焚火に放り込めば、一口スナックが瞬く間に完成するだろう。
だが屈んだアデランテが仕掛けを外せば、ザリガニは川底を這って流れていく。
「……誰だって閉じ込められるのは好きじゃないもんな」
ポツリと告げたところで人間の言葉が分かるはずもない。そもそも川の音で聞こえはしなかったろう。
それでもザリガニは容器を。アデランテは屋敷から抜け出す事が出来た。
そしてウーフニールはアデランテの中にいまだ囚われたままだが、屋敷の少年は運命に抗い、少女を世に送り出す事が出来たのだ。
きっと何か方法があるだろうと微笑み、くるりと踵を返すと薪を抱えて岩穴に戻って行った。