143.カニッツァの扉
カチャリ――と。
ゆっくり扉が開かれたが、途中でつっかえて動かなくなる。
隙間から剣でサッと一閃すれば、ドアノブを結ぶ縄はあっさり断ち切られた。
程なくフーガが覗き込み、その上からウーフニールが嘴を突き出す。室内は荒れ果て、とても長居したくなるような空間ではない。
それでも忍び足で侵入すれば、奥の壁に身を寄せる3人の冒険者を発見した。
各々が毛布にくるまり、全員疲弊し切っているのだろう。息を潜めているとはいえ、近付いても一向に目覚める気配はない。
その内1人は涙が頬を伝い、痕を追うように視線を降ろせば、毛布にくるまれた少女が身体を預けて眠っていた。
「……よかった」
胸を上下させる彼女に心底安堵したのか。思わず声を出した少年に、ピクリとリンプラントが反応する。
幸い目覚める事はなく、慎重に少女を引き話せば毛布を冒険者たちにかけ直す。彼らをしばし眺めたフーガは一礼し、来た時よりも早足で去っていく。
その後ろをアデランテが再び追従するや、少女を背負ったまま隣室へ移動。扉を後ろ手に閉め、一行が出た先は小さな応接間だった。
来賓を迎えるには十分豪華な造りで、座る場所も十分ある。しかし2人とも足を止めてからは、椅子の存在を忘れたようにその場で佇んでいた。
「…約束だ。話してもらおうか」
少女を背負い直したアデランテが、壁を向いたフーガに詰め寄る。部屋に入ってから1度も振り返らず、やがて腹を括ったのか。
向き直った彼の顔は子供のソレではなく、まるで疲れた大人のようだった。
「お前を殺して屋敷を出られる、って言うのはどういう意味だ。生贄の類なら遠慮させてもらうぞ」
「そのまんまの意味だよ。おにーさんっ」
くるくる回った彼はわざとらしくフラつき、1人用の椅子に倒れ込む。まるでお調子者の子供そのものだが、よじ登れば身体を押し付けるように沈めた。
アデランテにもソファへ座るよう促し、渋々少女を降ろした隣に腰を下ろす。ウーフニールも肘置きに停まり、その様子に笑みを浮かべた少年は、一家の主とばかりに背もたれへ身体を預けた。
「どっから話せばいいのかな~……まずは“ちゃんと”自己紹介した方がいいかな。はじめまして、屋敷を守護する怪物の一角。フーガだよ」
ひらひらと小さな手が振られるも、アデランテが応える事はない。分かり切っていた反応に嘆息を吐けば、悲しそうに顔をしかめた。
「…この屋敷は人民救済のために元々作られたらしくてさ。俗に言う避難所っていうの?ほら、棚から食べ物も出てくるし、部屋も豪華だったろ?この世の終わりだーってなっても、ココに来れば一安心ってわけ」
「……守護する怪物の一角、と吹聴する割には積極的に住人を殺していたようだがな」
「無から有は作り出せない。食べ物だって屋敷周りの…外の栄養を吸い取って生み出されて、それでも足りない分は扉を開けて、おにーさんたちや魔物とか獣を中へ誘い込むんだ」
「そんなものを避難所と呼べるのか?」
「たぶん失敗作だったんじゃないかな。栄養が取れなくなったら別の土地に屋敷ごと移動してるっぽいしね……でも確かに守護者の役目は果たし続けたよ。オレたちは…」
怪物たちを兄弟のように告げる彼は、膝を抱えて眼前の小机を眺めた。
パクサーナの隊を襲った3つ手の怪物。
ケイルダンの隊を襲ったサソリの化け物。
そして最後に仕留めた、醜悪な人型の肉塊は皆フーガに同じ。全員が屋敷の守護者にして、迷える住人の食糧難を解決する“間引き手”だった。
死の不安さえ命を絶つ事で取り除き、歪んだ秩序を組み立てる番人は、何も殺戮だけが目的ではない。
砂時計の器が満たされた時、全ての物は元ある形へ戻る原則を有するように。消化された食料も例外ではなく、死体を屋敷が吸収する事で強引に配給を取り戻すように出来ていた。
「…元ある形、という事は命を落とした輩が復活することも…」
「死んだ人間が戻ってくるわけないだろ?屋敷がいくら万能でも、そんなこと誰にも出来っこないよ」
「……それもそうだったな…ところで狂った部屋がいくつもあったが、アレはお前たちの仕業だったのか?」
「食料不足になると人間同士が出会い易いよう屋敷が並びを勝手に組み替えるんだ。協力してオレたちを倒そうとか、生き残ろうって考えるより、あいつらは真っ先に殺し合うからね。部屋がどんどん酷くなってたのは屋敷の栄養不足。それから守護者が死んでったから、空間を保つだけの力がなくなって増々変になったってとこ」
屋敷もまた兄弟とばかりに説明されるが、いまさら何を言われても驚かない。管理者にして秩序たる怪物が消えれば、空間そのものが崩壊する。
そのような未来を回避すべく、それぞれが託された力で屋敷を守り続けてきた。
物体に変身する能力。
如何なる攻撃も跳ね返す強固な鎧。
魔術を行使する知能。
《――…そして貴様は、人間に変身する力を与えられた》
「当たりー……でもオレたちってやる事は一緒なのに仲悪くてさ。ずーっと1人だったのに女の子と会えて…しかもザーボンもオレと同じで生き物に変身できたろ?初めて1人じゃないって思えた時は嬉しかったなぁ」
「…なんであの子を助けた?」
「……それが女の子の願いだったから」
身体を落ち着きなく揺らし、少女を一瞥する表情に外見不相応な陰りが浮かぶ。
初めて少女と会った時。 彼女は襲われる寸前であり、奇しくも魔物を仕留めるに至った。
だが捻じ曲がった鉄柵の中で、ピクリとも動かない姿に思わず首を傾げてしまう。誰もが恐怖し、誰もが死を逃れるべく抵抗すると言うのに。
一風変わった反応に近付けば、彼ら守護者に共通する“もう1つの力”を使った。
人民救済のため。住人の願いを“叶える”ため。
相手の心が一瞬だけ読め、挙句に1人につき1度しか読めない不要な力。戦闘以外では役に全く立たないものの、壊れた少女の心中に渦巻く思考はただ1つ。
――…1人にしないで。
屋敷への絶望を忘れるための死を。恐怖を忘れるための終わりを。
これまで“叶えてきた”どの願いとも違い、彼女ほど純真で。静かで。
身が凍える程冷たい想いを零した者はいなかった。
当然彼女の願いも守護者として聞き届けないわけにもいかず、以来“少年”に身を扮して守ってきたが、守護者ゆえに分かるものもある。
屋敷にいる限り、少女の願いは永劫叶えられない事を。
「……心がけは立派だが、死にたくないと思った奴らは他にも沢山いたぞ…少なくとも私はその内の1人を見届けた」
アデランテの拳が握られ、ビクついたフーガは椅子の奥に身体を押し込む。怯えながらも恐る恐る冒険者を一瞥すれば、フードで依然表情は見えない。
「…そんなのイヤってほど知ってるよ…でも屋敷がないとオレたちは生きられなくて、オレたちがいないと屋敷も生きられないんだ」
「……でも、お前だって屋敷は出たいんだろ?」
怪物だ鬼畜だと罵られるのを覚悟していたが、予期せぬ声掛けに思わず顔を上げた。
「私も命令されて沢山殺してきた。お前の事を責められるほど立派な人間じゃないよ……それに女の子を守るにしたって、その気になればいくらでも始末できたはずだろ。それこそ“1人”にしなければ良いだけなんだから」
そして事も無く告げた恐ろしい“可能性”に、フーガの肩が震えた。
――1人がイヤなら“皆”がいるところへ送ればいい。
願いを歪めて叶えてきた守護者にとっては、息をするよりも簡単な結論で。ただ爪や牙を軽く柔肌に食い込ませれば、全てが一瞬で終わったはず。
だが何故か本能に抗ってしまったのは、彼女が命乞いをしないからか。
抵抗しないからか。食指が湧かなかったからか。
今となっては“怪物”自身にも理由は分からず、気付けば子供の姿に変身し――見た目相応の力しか出せないというのに、それでも構わず少女を背負い続けた。
元の姿に戻る気も、2度と少女に恐ろしい姿を見せる気もない。他の誰でもない、自分自身と交わした約束にして願いだったから。
だからこそ自分の事はどうでも良い。守護者は願いを叶えねばならず、別室の冒険者たちも脱出を望んでいた。
むしろ誰1人。恐らく屋敷ですら望まない、地獄のような世界に鼻で笑いそうになった。
そんな感情を辛うじて堪え、勢いよく椅子から飛び降りると胸を精一杯張った。
「それじゃあ、ザーボン!思い切ってズバッと頼む!」
《…なんの話だ》
「話は聞いてたろ?オレを倒さないとココから出られないし、ザーボンの脱出を助けるのが~…なんだっけ。約束じゃなくて、もっと難しくてカッコいい感じの…」
《契約》
「それそれっ!さぁドンと来い!!覚悟はとーの昔に出来てるんだいっ!!」
不安をかき消すように大声で唱えれば、固く目を閉じて意識が刈り取られるのを待った。ところが期待した時間は訪れず、恐る恐る片目を開ければ少女はおろか。
アデランテやウーフニールでさえ、最後に見た位置から1歩も動いていない。互いを怪訝そうに見つめ合い、それからフーガに顔を向けてきた。
「…お前がいなくなったら、この子はどうするんだ?」
「ザーボンに守ってもらうから大丈夫っ」
《そのような取り決めを交わした憶えはない》
「えぇぇえーーっ!オレに何かあったら見てくれるって前に約束っ…じゃなくて契約したじゃんか!?」
《善処する、と答えたはず》
「そりゃあないぜぇー…扉の開け閉めもやって、脱出まで手伝ってるんだから、そこは男らしく“リョーショーした”って言ってくれてもさぁ……ザーボンって男だよな?」
《契約に性別は関係ない》
手を合わせては拝み。目を瞑っては片目を開け。
忙しなく移ろう言葉や表情に、何処まで効力があったかは分からない。だが一向に手を出される気配はなく、思わぬ弊害にフーガ自身が困惑してしまった。
だが交渉材料が途端に浮かび、悪役らしく不敵な笑みを浮かべた。
「ふっふっふーん。そんなのんびりしてていいのか?時期にオレの…仲間、じゃないよな。あいつら……同じ仕事をしてる奴のことって何て言うんだ?」
「…同僚、かな」
「そのドーリョーが復活して、また最初っから化け物退治をしなきゃならないんだぞ!だからほらっ、オレが怖気付く前にスパってやっちゃってよ!」
「ちょっと待て。連中は復活するのか?」
「最初に言ったろ?“元ある形に戻る”って。オレたちも屋敷の一部みたいなもんだからさ」
《それほど重要な情報こそ最初に伝えるべきだが…覚悟は出来たと告げる貴様が“怖気付く”とはどういう事だ》
聞き慣れた声音のはずが、まるで責めるような雰囲気に思わず尻込む。虚勢を張っている内に仕留めてもらうはずが、いまだ傷1つ付けられていない。
敵意の欠片も見せない彼らに、それでも少女に見えないよう片手を一瞬だけ戻し、本当に怪物である事も証明した。
もはや万策尽きた少年は、精魂果てたように椅子へ寄り掛かる。
「…正直私も辛い別れを味わったばかりでな。提案に気乗りしないのもあるが、死ぬ事なんて好んで望む奴なんかいないぞ」
「……死ぬのは怖いけど、今はオレのことより女の子がこんな所に閉じ込められてる方がもっと辛い」
「ずっと守ってくれた相手がいなくなったら、この子も悲しむんじゃないか?」
「ないね。ずーっと心非ずって感じなんだから、オレのことなんて憶えてもいないよ……それにさ。覚悟してたって言うのは本当なんだ。ザーボンに初めて会った時に聞いたろ?派手な魔法1発でドーンって相手を倒せないかって。痛いのはイヤだったし、最後の最期でスパッとやってもらおうと思ってたんだ」
「……ほかに脱出する方法は本当にないのか?どんな建物にだって裏口はあるはずだ」
なおも渋る冒険者に首を力なく横に振る。1度入った者は誰1人として出られない。
守護者を倒す事こそが“裏口”に該当するために。
互いの間に重い空気ばかりが漂ったが、一方でフーガの顔には笑みが浮かんだ。
裏表なく会話できる楽しさに。自分を偽る事なく語れる解放感に、もっと前に出会いたかったと思った刹那。
屋敷全体を覆った不穏な気配が、一行に時間切れを知らせる。再び飛び起きれば声を張り、一刻も早く自分を始末するよう懇願した。
如何に子供の姿をしようとも。どんなに少女を守ろうとも。
フーガもまた同僚と同じこの世ならざる存在。人の身体を模した、化け物でしかないから。
「オレはこんな所にずっといるより、ザーボンの物語に出てくる登場人物になりたいんだ!怪物を倒して、街を救うような話のさ……どんなに頑張ったって、英雄には絶対なれないから…」
ましてや冒険者にだってなれない。首にずっと掛けていたプレートを外し、いまだ読めない文字を指でなぞる。
金に輝く色合いはフーガに眩しく、また怪物には不相応な代物だろう。
《…怪物が英雄になりえないのは当然の事だ》
グサリ――っと。
あるのかも分からない心臓に、杭を容赦なく打ち込まれた気がした。いくら事実でも最後の最期で突き付ける必要があるのかと。
恨めしそうにウーフニールを見つめるが、言い返す事はしない。それで彼らが手を掛けやすくなるのなら、そうあるべきなのだろう。
《――…だが貴様は偉大なる魔術師ザーボンの勇敢なる従者である事実もまた変わらない》
声音はいつもと同じ。だというのに頭の奥底に響き、いつまでも木霊する感情で視界がボヤけた。
人間に化けるための機能が誤作動を起こし、慌てて顔を乱暴に拭う。
本来の命令に背き、同僚を倒す手助けをした挙句に今は自分の命まで捧げている。いよいよ守護者として故障してしまったらしいが、考えずともずっと前から。
少女に会った時から壊れていた事実が、腕で覆った顔に笑みをもたらした。
だがアデランテがふいに立ち上がれば、驚いた少年も思わず顔を上げる。
俯いている間に覆面を脱いだのだろう。最初に飛び込んだのは銀糸の美しい髪に、色違いの瞳。
左頬には古い傷痕が刻まれ、右頬の爪痕が屋敷での活躍を物語っていた。
「…1つ聞いておきたいんだが」
拳を握って覚悟していた矢先、ポツリとアデランテが声を掛ける。
「お前を倒したら私らはどうなるんだ?元の場所に…屋敷に入る前の土地へ戻されるのか?」
「……そんなこと聞かれてもオレだって初めてだから分かんないよ。でも何かあったらイヤだから、女の子は背負ってあげて」
《小娘に関わる脱出後の取り決めは一切していない》
「いーんだ。オレが勝手にザーボンと約束したんだから…ほら、早くしないと本当にドーリョーが戻ってくるから!急いでっ!!」
いよいよ屋敷が再生に向けて動き始めたらしい。床や壁が軋み、まるで空腹を訴える様な音が部屋中に木霊している。
同僚が復活すれば今度こそ住人は根絶やしにされ、“裏切り者”の処遇もどうなるか見当もつかない。
急かす少年をよそに、アデランテは少女を壊れ物の如くソッと背負った。ウーフニールも肩に停まり、見下ろされる状況に竦んだのも束の間。
冒険者が小さく口を開くや、ガス状に吐かれた黒いモヤがフーガに迫った。
「……なんか想像してたのと全然チガウ…」
一瞬で意識が刈られる事を期待したつもりが、まるで嬲るように。獲物を弄ぶようにモヤが身体を包み、思わず冒険者プレートを強く握りしめた。
それでもコレが偉大なる魔術師に。少女のために自分が開けられる“最期の扉”。
だから逃げてはいけない。
むしろ身体が硬直して、怖くて逃げられない。
初めて覚えた“死の恐怖”に足は震え、不要な機能がまた込み上げそうになる。そのまま気絶してしまいそうだったが、ふいに少女と目が合った気がした。
黒くおぞましいモヤの隙間から、色白の肌と金糸の髪はよく目立つ。必然的に視界へ入った彼女は、カラスとは反対の肩に頭を預けている。
その間もジーっと。まるでフーガを見ていたように錯覚するが、そんなはずはないだろう。
それでも目元を拭い、満面の笑みを浮かべると黒いモヤの冷気にも耐え、小さな手を左右に振った。
「――…元気でなっ」
情けない顔は見せられない。それに偉大な魔術師とその従者が、これからは彼女を代わりに守ってくれる。
徐々に意識が深淵へ引きずり込まれていくが、恐怖は全く無かった。
名も知らぬ少女が無事に屋敷を脱出する事。
それだけが彼の最初で最期の願いだったから――。