142.砂落ちる時
カツンっ――と。
小石が落ちるような音がした。一瞬瞼が痙攣するが、開く気配はない。
しかし額を鋭く小突かれると、反射的に腕が顔を覆った。
「……うぅ…ザー、ボン?」
瞳が黒い影をぼんやり映すが、頬を小突かれて渋々身体を起こす。
途端に背中が痛み出し、擦ってやれば節々が悲鳴を上げている。顔をしかめて座り直すが、ふいに硬直すればウーフニールを抱え込んだ。
思い立ったように周囲を見回せば、猫の如く身体を竦める。
「さ、さっきの化け物は!?」
《下を見ろ》
いつも通りの無愛想な声にホッとしたのも束の間。不用心に見下ろせば怪物が横たわり、その上に寝転がっていたらしい。
込み上げた悲鳴を咄嗟に抑え、見上げれば絶壁が天井高くまでそそり立っていた。
家具は突き出るように横から生えていたが、中央は不自然に空いている。
黒ずんだ怪物が家具をいくつも下敷きにしている事から、落下時に巻き込んだらしい。手足も後から降ってきた物で、トマトのように潰されていた。
フーガに落ちてこなかったのは奇跡と言えようが、怪物退治の達成感よりも虚脱感が身体を蝕む。共に落ちたソファで横になりたいが、こめかみを穿つ一撃が彼を正気に戻した。
《何をしている。早急に撤退せよ》
「……~痛っっ。だ、だからって暴力に訴える事ないだろ?ものすっごぉ~っ…く頑張ったんだし、優しくしてくれてもいいじゃんか」
《小娘の下へ戻れなくなるぞ》
愛のない労いに顔をしかめるも、魔法の呪文が直ちにフーガを奮い立たせた。懐をまさぐれば砂時計が指先に触れ、意を決して忍び足で進む。
1歩踏み出す毎にグニっ、と。怪物の皮膚が足の下で感じられ、不快にすら思える感触に何度も転びかける。
ぐらつく家具に掴まり、最後に踏んだ棚が起こした雪崩に乗って滑り落ちるが、振り返っても怪物は息を吹き返していない。
今度こそ死んだはず。絶対に生き返っては来ない。
もはや肩に停まるウーフニールの視線に注意を向けず、抜き足差し足。音を立てないよう移動し、ようやくドアノブに手をかけた時。
ガララっ――と。
背後で崩れる音が響き、肩が震えた拍子に停まっていたウーフニールが落ちかけた。
「……あのさ。一応聞いておきたいんだけど…家具が倒れただけだよな?」
《気休めを求めるならば、そう答えるが》
「…もうはっきり言ってくれよ」
《異形の生物が身体を起こし、我々を凝視している》
淡々と告げられる言葉に、まずは肺一杯の溜息を吐く。そのまま隣室へ進めば良いものを、それでも振り返ったのは怖いもの見たさか。
あるいはウーフニールの報告を拒絶すべく、自ら確認したかったのかもしれない。
ガラッ――とまた音が鳴る。
ガラクタを踏みしめたおぞましい存在は、フーガを真っすぐ睨み。家具から腕を引き抜けば、折れ曲がった指が床に置かれた。
もはや足は機能を果たせず、重荷となった半身をズルズル引きずっている。
もはや失禁も辞さない光景であったものの。その頃にはフーガも扉の奥へ消え、がむしゃらに部屋を移動していた。
砂時計を当てる余裕など無く、まずは怪物を煙に巻くべきだろう。少女の下へ帰るのはそれからだが、渦巻き状に広がった廊下に血の気が引く。
それでも身体を前へ押し出し、行き止まりが無い事を祈りながら次の扉へ突き進んだ。幸いどの部屋も隣室に続くが、それ以前にまともな部屋が1つも無い。
斜め。
捻じれ。
逆さ。
ある時は転ばないように足を突っ張り、また家具が落ちて来ないように身を屈め。
反対側の扉を目指して走り続けたが、どれ程移動しても背後の足音は無くならない。
引きずるような音が耳にこびりつき、振り返る気にもなれなかった。
「…はぁ、はぁ、はぁ…ザーボン!」
《どうした》
「偉大な…魔術師なん、はぁはぁ、だろ!?あいつ何とかしてくれよ!」
《条件が揃っていない》
「なんだよ条件って!このままじゃ…はぁはぁ……ほん、本当にただの喋るカラスじゃんか!それも、ものすごく頭の良いっ!」
《前方注意》
体力は確実に消耗され、危うく壁から突き出た椅子に顔をぶつけそうになる。屈んだ拍子に背後を一瞥すれば、怪物は視界に収まる距離まで迫っていた。
直後に瞳が赤く光り、慌てて這いつくばると熱線が頭上を引き裂く。前方で爆発音が轟けば、隣室へ続く扉はメラメラ燃えながら半壊。
纏わりつく炎は、到底子供には近付けそうもない。
ふいに――べたっ、と。
轟音に混じって聞こえた生々しい音が、フーガを飛び上がらせる。恐る恐る振り返れば瞳をギラつかせ、折れた手足で巨躯を引きずる怪物が映った。
これから焼かれるのか。
それとも食べられるのか。
もしかすれば焼かれてから、食べられるのかもしれない。
4つの足の間に生えた、おぞましい口からムシャムシャと。
この世ならざる見た目も相まって、脳裏に浮かぶ想像力が少年の心を挫く。思わず後退すれば首筋に熱気が伝わり、行き止まりだと執拗に警告してきた。
しかし唯一の抜け道があるとすれば、怪物が潜ってきた扉だけ。
「…ザ、ザーボンっ。これ!」
震える手で懐をまさぐり、肩に停まるウーフニールに砂時計を渡す。
「これで女の子の所まで戻れるだろ!お、オレがひきつけ…ひきつけてる間に、怪物の後ろ、まわ…回り込んでっ…」
《扉の開閉は貴様の役目だ》
「こんな時にそんなこと言ってる場合かよ!ザーボンならオレがいなくったってドアの1つや2つ簡単に開けられるはずだろ!?」
ただ会話できるだけのカラスではない事など知っている。このままでは無力な子供ともども怪物の餌食になる事も一目瞭然。
賢い彼ならば、最善の選択をしてくれるはずで。だからこそ胸にグイグイ押し当てるが、フーガの事など眼中に無いのか。
つぶらな瞳は怪物に向けられ、事態を静観していた。
ようやく反応してくれても砂時計は依然受け取らず、紅蓮に照らされた黒真珠の瞳がフーガを射抜く。
《契約違反だ》
「……な、なんのことだよ。別に変なことはしてない…と思うけど」
言い切ろうとしたが、我儘に付き合ってもらった事は何度もある。心当たりの多さに語尾が弱々しくなるも、開かれた嘴が言葉を紡いだ。
《扉の開閉を行なう限り、小娘の護衛を担うのが条件だったはず》
「…じゃあ何だよ。ドアを開けないオレは用済みって言いたいのか?女の子も見捨てる気か!?そんなのって…」
《契約は脱出、または貴様の死によってのみ終わる。破棄した覚えは1度もない》
俯いた顔がハッと持ち上がる。再びウーフニールを見れば、視線はすでに怪物へ戻されていた。
どう考えても絶望的な状況だが、あるいは抜け目の無い彼の事。小さな頭では想像もつかない秘策を巡らせているのかもしれない。
呆然と開いていた口をグッと閉じ、目元を乱暴に拭った。砂時計も握り直し、尖った先を下に持つ。
戦意に火が灯ったところで覚悟を決めたが、ふと相棒が肩で囀った。
《伏せろ》
「……へっ?」
突然の指示に反応できず、困惑しながら怪物を見るが目を光らせてはいない。炎が迸るわけでも無く、それでも身を屈めて大人しく従った時。
ふいに聞こえた物音に思わず耳を立てた。
爆ぜる炎に混じり、遠くから響く轟きにチラチラ見回し、やがて音の出所を追うように振り返った刹那――。
――炎と影が。
扉を完全に破壊し、人の形をしてフーガに襲い掛かった。恐怖に目を見開き、腰を抜かして床にへたれ込めば咄嗟に砂時計を突き出すが、炎は現れた時と同じく。
フーガの頭上を風のように通り過ぎていき、直後におぞましい奇声を怪物が上げた。炎に纏わりつかれている様子は、まるで自ら放った魔法がそのまま術者に返ったようで。
ウーフニールからも聞いた事がない現象に唖然とするや、徐々に火が消えていく。
残影は人間を模り、怪物に弾かれて後退すると頭からフードを目深く被っていた。
服装も物語から飛び出した騎士そのもので、首からはプレートを3つもぶら下げている。
「――…冒、険者?」
やっと絞り出した言葉も、再び飛び込んだ“冒険者”と怪物が掻き消してしまう。
「……な、なぁ。急に現れたあいつって…」
《我が名を口にせよ》
「…えっ?」
《我が名を言ってみろ》
何もかもが急すぎて、全く理解が追いつかない。それでも求められるがまま。
“偉大なる魔術師ザーボン”の名を恐る恐る口にした時。黒い嘴がフーガに向けられ、心なしか眼が笑った気がした。
《その名に相応しい力。今こそ貴様に見せてやろう》
普段と変わらない声音に黒翼ほどの力強さを感じるや、飛び立ったウーフニールは迷わず戦場へ飛び込んだ。
怪物との間に割って入れば、そのまま冒険者と共に衝立の裏へ旋回する。
「――…おい!待て、どこから入ろうとしてっ……ちょ、やめ…はあぅッん!!」
直後に聞こえた艶めかしい声に続き、人影が悶えながら震えているのが見える。
一体どんな“魔術”を使ったのか。それから流れた不気味な沈黙に目を瞬かせるも、気付けば怪物も静止していた。
フーガと異なり、醜悪なソレからは衝立の裏が。乱入してきた冒険者の姿が見えていると言うのに、襲う気配は一向にない。
つい首を伸ばして覗こうとすれば、突如人影が歪に膨れ上がった。衝立では隠し切れないほど巨大化し、突き出た大角に思わず家具の裏に飛び込む。
それでも顔を覗かせれば、やがて凶悪そうなコウモリが悠然と姿を現した。腹からは蹄をつけた逞しい足が4つ伸び、背中に鋭い爪を生やした腕が広がっている。
その姿は醜悪。と呼ぶには、あまりにも難解で。
魔物。と呼ぶには奇怪すぎる姿に、怪物すら畏怖を感じたのだろう。
身体を引きずるように後退していくが、身体を膨らませた恐ろしい生命体の咆哮が部屋全体を揺るがした。
頭が砕けそうな轟音に耳を押さえ、それでも視線を逸らさず。片目を辛うじて開けば、コウモリの怪物が一つ目に飛び掛かっていた。
応戦に立ち上がった一つ目は前足。もとい腕で翼に掴みかかり、牙を鳴らすコウモリの鋭い歯を抑えていたが、蹴り出す蹄が胴体を抉っていく。
現状を打破せんと怪物は瞳を赤く灯し、翼を広げて後退した獲物に炎の槍を次々放った。
しかし巨体の割に素早いらしく、壁が穿たれていくだけで1発とて掠りはしない。喧しい羽音を立てながら滑空するも、突如身を翻すと一つ目に突撃。
直後に炎の壁が間にそびえ立ち、コウモリは退散を余儀なくされる。
滑空と砲撃が繰り返される攻防に、部屋は瞬く間に火の海になり。雨の如く火の粉が降りかかれば、たまらずフーガは机の下へ避難した。
このまま部屋が焼け落ちないか。天井に押し潰されないか不安を口にするよりも早く、事態はすぐさま進展を見せた。
炎の壁は襲撃こそ阻むが、床を這う怪物の視界をも塞ぐ。程なくコウモリの怪物を見失えば、がら空きになった背後に急降下。
しかし一つ目が床を掴めば、再び逆立ちになって歪な口を開く。さらに頭部から炎を噴き出し、地響きを轟かせながら宙へ飛び始めた。
射られた矢の如く直線に飛び、翼の怪物を捉えると同時に壁へ押さえ込む。4つの足はガッチリ相手を固定し、あとは身体を屈めて捕食するのみ。
恐ろしい外見を持つ怪物同士の争いに、あわよくば共倒れ。あるいは片方の敗北を望むのが、人間としては当然の感覚だろう。
だがフーガの熱い眼差しは、翼の怪物へと向けられていた。
「…ま、負けるなザーボぉぉンっ!!」
机の脚にしがみつき、声を張り上げた途端にコウモリと目が合った。一瞬背筋が凍り付いたが、すぐに視線は一つ目に移される。
つられて追えば、腹から生えた4つ足に阻まれて歪な口が届いていなかったらしい。壁に打ち付けられた背中も、後ろに生えた腕4つが支えてノーダメージ。
むしろ捕らえられていたのは、一つ目の方であった。
抑えつける素振りも、実は逃れるための抵抗だったのか。歯を食い込ませようとするのも、解放されるための反撃だったのか。
どちらとも捉えられる様相をよそに、コウモリが大きく口を開いた。すると先端に牙を生やした太い舌が飛び出し、容赦なく相手に噛みつく。
怪物の奇声が轟き、徐々に弱くなる抵抗に勝敗は決したように思えたが、一つ目がおもむろに顔を上げるや。
赤く灯った瞳から一筋の光線が放たれ、コウモリの顔を真っ二つに引き裂いた。
最後の最期に見せた逆転劇にフーガも。双方の怪物も力が抜けたものの、ふいに左右へ断ち切れた頭部がグッと持ち上がった。
瞳がそれぞれ一つ目を凝視し、かつ伸びた舌はいまだ喰らいついている。
それから“拘束”していた足が緩めば、燃え尽きた蛾の如く怪物は落下。その後を追って滑空したコウモリも、膜状の羽根が全てを覆い隠した。
直後に黒いモヤまで立ち昇り、炎の影の中でどちらも揺らいで消えてしまう。
「…ザーボン?」
火の海と化した轟音の中、ポツリと少年の声が洩らされる。
「……ザーーーボぉぉおンっっ!!」
《どうした》
「うぉわぅっ!ザーボンっ!?」
大声で呼びかけた直後、無機質な声音が背後で響いた。
急旋回すれば床にちょこんと。見慣れた黒いカラスが、訝し気にフーガを見上げていた。
「…ざ…ざ……ザァアアーーボぉおおおン!!」
《気安く触れるな》
「心配したからに決まってるだろーー!?カッコいい台詞吐いて急に消えたかと思ったら別の怪物が出てきて…っあのまま燃えて消えたかと思ったじゃんよーー!!……ところでお兄さん、だれ?」
ウーフニールをすくい上げ、潰しかねない勢いで抱き着くも、ふとその背後に立つ人影を見上げた。
炎の中から颯爽と飛び出し、怪物の相手をしてくれた事は知っている。だが偉大なる魔術師ザーボンの“相棒”が如く佇んでいるのは気に食わない。
それに冒険者と言えど、仲間を見捨てるロクデナシの同業も以前見ている。
ギュッとカラスを抱き込み、警戒心を露わにして返答を待つが、そんな少年の様子に相手はわざとらしく咳払いする。
「ははっ、ようやく会え……じゃなくて“はじめまして”だな!冒険者にして偉大なる魔術師ザーボンの従者アデラんん~~っっ!!……アデライトだ。よろしく頼む」
自信たっぷりの紹介に反し、後半に差し掛かるにつれて勢いは衰えていった。締めに至ってはバツが悪そうに口をつぐんだが、そんな事をフーガは気にも留めない。
目を輝かせて“従者”を見つめれば、瞬く間に冒険者の傍へ詰め寄った。
「従者って、もしかしてデッカい蜘蛛退治したり、屋敷で3つ手の化け物も倒して、薬で弱った子供を助けたって言う、あの従者!?」
「…くすり?……あ、あぁ!そうだ。悪い魔法使いを倒すのに尽力したのは何を隠そう、この私だ!」
「困った女の人の弱みに付け込んで“ろうらく”出来るのに、人の顔とか名前をちゃんと覚えられないって本当!?」
「お…おぉ…?」
「いっぱい食べて、いっぱい我儘言って、ザーボンを物凄く困らせてるから“愚かな”従者なんだって思ってたんだけど、どうなんだ?」
フードやマスクで顔は殆ど見えず、口を閉ざせば何1つ意思は伝わらない。少なくとも顔の向きから、フーガの肩に停まるカラスを見つめてはいるのだろう。
《部屋が焼け落ちる。一刻も早く退出し、小娘の下へ戻る事を推奨する》
ハッと我に返ると同時に身体が浮き、豪風が顔を叩きつける。次に目を開けた時には、熱気も無い全く違う部屋にいた。
驚く間もなく床へ降ろされ、瞬間移動の魔法と思うも束の間。単純に従者がフーガを抱え、恐ろしい速度で部屋を抜け出したらしい。
「砂時計は持ってるな?」
ふいに声を掛けられ、慌てて取り出せば大事な“鍵”はまだ手元にあった。ホッと胸を撫で下ろすが、すぐに少女の下へ戻る事を告げる冒険者の背中を追った。
しかし最初に抱えていた警戒心は一体何処へ消えたのか。初対面であるはずなのに、不思議と居心地が良い。
出会ってから然程時間も経っていないだろうに、何故そう思ったのか。
答えは相棒が従者の肩に乗り、さも当然のように会話をしていたからだろう。
《遅い》
「子供がケガする前に辿り着いたんだからセーフだろ?それに途中で食料を調達出来そうだったから、回収するかどうか迷ってたんだ」
《人命優先が貴様のモットーだと認識していた》
「生きるのに食べることも大事だぞ?……まぁ結局何も見つからなかったわけだけど…」
「…おにーさん」
裾を引き、会話を中断した従者が見下ろしてくる。
「ここから出してくれるんだよな?」
「当然だ。そのために私はココにいるんだからな」
表情は見えない。
けれど肩に停まる相棒に。彼と仲良く話す姿に。
恐ろしい怪物にも恐れず飛び掛かった、偉大なる魔術師の従者こそが、数々の物語を紡いだ人物に見えてならなかった。
「……だったらさ」
この人なら任せられる。
そう思った時、拳を握ると口を結んで従者に。
そして相棒に力強い視線を向けた。
「――…オレを……殺してよ」