136.黒き積雲
見えない階段を駆け下りれば、暗がりに浮かぶ足跡が少しばかり幻想的に見える。
しかし徐々に肉を貪る不快な音が聞こえるや、意識を冒険者仕様へ切り替えた。ようやく下層に到達すれば、壁に沿った光る足跡が奇しくも部屋の外周を模っていた。
家が2軒は建ちそうな広さを訝し気に。それから落とした松明に視線を移せば、いまだ爆ぜて奥で転がっている。
抜刀すれば光源まで慎重に進むが、夥しい血の匂いが否応なく警戒を呼んだ。
【嗅覚を遮断するか】
「…問題ない。ただ嫌な予感も一緒にぷんぷん臭うだけさ」
無機質な問いかけに苦し紛れの笑みで返し、松明をパッと拾い上げる。直後に足先で触れた物を覗けば、落ちていたのは血まみれの水筒。
他にも荷に入っていたろう品が散乱し、引きずった血の跡が奥へ続いていく。
追えば引き裂かれた鞄も見つかり、程なく粗雑な咀嚼音まで聞こえてきた。いよいよ現実味を帯びた怪物の存在に喉を鳴らし、恐る恐る松明をかざす。
はっきりとは捉えられないが、確かに2つの影が忙しなく動いている。輪郭は人のモノではなく、背後に佇むアデランテに気付いていないのか。
それとも興味がないのか。振り返りもせずに貪り続ける様に、今なら奇襲をかける絶好の機会。
だが木刀並みの切れ味で、2体を一撃で仕留められる自信はない。
何よりも下手に刺激すれば、上階のパクサーナにも危害が及ぶだろう。
【どうした】
(正体は掴めたんだ。一旦パクサーナの所まで戻って態勢を立て直す)
【どのように】
(予定は未定でな。このまま私が勝手に暴れて彼女に何かあれば目も当てられないし、今頃他の連中も部屋を出られたって考えれば、倒すよりも被害を出さない事を優先すべきだろ?)
【…上階より叫喚が接近】
(……上から何だって?)
じりじりと後ずさりを開始するも、唐突な話題の変化に疑問符が浮かぶ。言葉を辿るように見上げるが、松明を以てしても見えるはずがない。
しかし直後に聞こえた断末魔が。
ベシャっと。
グシャっと。
不快な音を立て続けに響かせ、また誰か落下したようだった。階段を踏み外したのかと思ったが、直後に聞こえたもう1つの――ドシャっと潰れた音に混じって。
搔き消えた短い悲鳴のあと、風切り音と着地した微々たる振動が伝わってきた。
再び獣の宴が木霊し、頭上からは阿鼻叫喚から騒がしい羽音まで。想定外かつ最悪の事態が訪れた事を、五感全てが感じ取っていた。
【戦闘または撤退を推奨する】
「こんな状況じゃ、どっちも厳しいっての!」
【ならば次はどうする】
「…ッッ。一旦、パクサーナのところまで戻るぞ!!」
踵を返せば光る足音を追うが、ふいに頬を一陣の風が掠めた。咄嗟に身を屈めれば、頭上を凶悪な斬撃が通り過ぎていく。
即座に剣を振り被るが、切っ先が微かに触れただけで手応えはない。お返しとばかりに背中を抉る一撃を喰らい、反射的に一閃見舞うが結果は同じ。
剣の先端が掠るだけで、一向に当たる気配はない。
再び斬撃が闇を削ぐように足を。腕を。
アデランテを襲う度に反撃するせいで、壊れた操り人形の如く身体が揺れる。
しかし切り裂かれた傷口は直後に塞がり、持ち前の気力で立ち続ける最中。肩に硬い物がぶつかり、それが壁だと認識するまで長くは掛からなかった。
あとは足跡を追って階段を昇るだけのはずが、アデランテはその場を動かない。暗闇を睨みつければ風の流れが変わり、獲物が虫の息と判断されたのか。
やがて頬を再び風が凪ぐや、肩口に鋭い激痛が刺し込まれた。
「――…やっと、捕まえたぞッ」
敵の牙は獲物を捉えたが、笑みを浮かべたのはアデランテの方だった。
毛むくじゃらの首を抱え込み、松明を顔目掛けて押し付けた刹那。鼓膜を突き破る絶叫が真横で轟き、肉と毛が焦げる異臭に顔が歪む。
それでも顔は逸らさず。目を凝らせば人の体躯程のコウモリが、金切り声を上げながら悶えていた。
首から上は豚やトカゲを混ぜたようで、暴れる度に爪がアデランテを切り刻む。
苦悶の声を上げながら耐え凌ぎ、やっと解放したのは敵の全身が燃え上がった時。
ずるりと身体を貫いていた爪も抜け、激痛にビクンと震えても出血はない。塞がる傷口に痛みと、耐え難い甘美な衝動がいっぺんに襲い掛かってくる。
「…~くッ……ど、どうだウーフニールぅ!?…今の魔物に見覚えは…」
【該当情報なし】
「やっぱりか…くそ!さっき掴んでる時に摂り込めば良かったッ」
【貴様が焼いたがために、上階より女に目撃された可能性は大いにあった】
「…さ、さんざん撫で切りにされたから、自分の目で見てやろうって思ったんだけど…流石にまずかったか?」
敵に一矢報いた喜び半分、私怨を優先した自身に肩を落としたのも束の間。無言の圧力に左右を見回せば、燃え盛った魔物が一帯を狂ったように照らしていく。
暗闇の中では似た出で立ちの魔物が次々飛び立つが、燃えた個体が同胞に接触。絡みついた炎やパニックが伝染し、一帯は火の海と化し始めていた。
しかし上階の暗がりから小さな明かりが落ち、思わず軌道を追った矢先。ガラスの割れた音が響くや、一面は一層業火で包まれていく。
魔物もますます興奮し、もはや最下層の熱気に留まる余裕はない。
「…か、火炎瓶?」
【投擲地点より女の仕業と目される】
「パクサーナッ!?」
味方はおろか、敵の注意をも惹きつける行動に戸惑いを隠せるはずがない。なおも降る火炎瓶が混乱を巻き起こし、その内1つ2つが魔物に直撃。
地獄絵図と呼ぶには、まだ余地があった事を思い知らされた。
引火した魔物は蛾のように飛び交い。激痛を転嫁するように仲間へ纏わりつけば、悲鳴と共に火口は広がっていく。
やがて十分な光源が一帯を照らし、家具のない地下室であった事を知らしめれば、第一印象が正しかった事に納得しつつ。すぐさま踵を返せば階段を駆け上がっていった。
時折行く手は妨害されるが、見えてさえいればコチラのもの。斬撃と噛みつきを巧みに躱し、すかさず武器を顔に叩き込む。
奇声を上げた魔物は階下へ消え、邪魔者を薙ぎ払っていけば目的地が見えてきた。
すると相手もアデランテに気付いたらしく。持っていた火炎瓶を魔物に投擲すれば、荷を背負って共に上階へ走り出した。
「良かったのか?貴重な油をあんなに使って」
「さっきので最後だ!下で急に騒ぎ出したから、せめて援護しようと思ったのに、出てくる言葉がソレかっ!」
「感謝はしてるさ。ただ火炎瓶の量から言って、油の管理はパクサーナがしていたんだなって」
「…物資を隠してたのはお互い様って事だ」
溜息を吐くパクサーナの横を追い抜き、松明が不要な螺旋階段を昇っていく。刻一刻と火の海が離れていき、やがて影が上階を覆い始めた頃。
ウーフニールの警告に速度を緩め、血の臭いがパクサーナを制止させる。松明で前方を照らせば、一帯には凄惨な光景が広がっていた。
階段にもたれた骸や、バラバラになった切れ端。一行の生存は絶望的に思えたが、破片を数えたウーフニールが疑惑を確信に変える。
かつての仲間の死に様に、“元”リーダーは何を思うのか。命令を聞かなくなったとはいえ、共に長い時間を屋敷で過ごした身。
普段ならば慰めの1つでも掛けたろうが、暗がりの咀嚼音が気遣う余裕も与えない。パクサーナに目で合図し、数歩下がらせてからアデランテが前進。
血塗れの段差が嫌な音を立てるが、ふと大柄な影を捉えれば素早く武器を構えた。
松明を標的の手前に放り、薄明かりに浮かぶ姿を鋭く睨みつけた。
「…デカいな」
前方に映るのは、階下の魔物を優に超す体躯の怪物。階段先を我が物顔で陣取り、羽根で食事風景を隠すように。
あるいは横取りされないように、顔ごと口元を覆っている。
巨体に挑む個体がいるとは思えないが、アデランテの視線はさらに奥。魔物の背後に見える、扉の輪郭に注がれていた。
部屋の出口は確かにあったが、魔物に行く手を塞がれたのだろう。先走った男たちが彼らを起こし、そして屍の山を築くに至った。
いまさら死者に手向ける言葉は無いが、のんびり佇んでいる暇も無い。観察している間に気付かれ、餌をボトリと落とした魔物がゆっくり身体を起こした。
直後に醜悪な顔が接近し。腕に噛みつかれた衝撃で一瞬息が止まったが、それでも反射的に壁を蹴れば、魔物ごと階段の外へ引きずり下ろした。
「アデライト!!?」
「先に行け!あとからついていくかッ…ら…」
悲鳴に似た呼びかけに応じたつもりが、叫び返した時には遅かった。言い終える間もなく、飛び出したパクサーナが魔物の頭上へ落下。
覆い被さるように掴まれば、一体誰を真似たのか。片手に握った松明を押し付け、鼓膜が破れんばかりの鳴き声が響き渡る。
「なにやってるんだ君はッ!バカなのかッ!?」
「なんでお前は好意を素直に受け取れないんだ!?それに気付いたら飛び出してたんだから、仕方ないだろ!」
「気持ちだけは受け取っておく!」
宙を羽ばたく間も、魔物に負けない声量で2人は互いに怒鳴り合う。その間もパクサーナは果敢に松明で殴るが、打撲そのものは効いてもいない。
大人2人分の体重も物ともせず、しかしコントロールまでは出来なかったようだ。
右へ左へ。仲間にぶつかる事も構わず四方へ飛び、最後に撥ねた魔物の口には、家畜が咥えられていた。
その間も一行は降下していき、炎で滾る地獄絵図へ真っすぐ向かっていく。充満した煙は他の魔物を地表へ落とし、放っておけば残る敵は勝手に死ぬだろう。
だがアデランテの腕に食い込む牙は、小憎らしい程に健在。むしろ魔物に掴まるパクサーナが咳き込み、徐々に疲労が彼女を蝕む。
いつ降り落とされるか分からない状態の最中、ふと赤い数字が視界の端に浮かんだ。
【安全着地点を補足。到達まで残り7秒】
不可解な言動に目を瞬かせたものの、金色に輝く階段が視界の端に映し出される。
疑問を覚える前に答えが浮かび、理解するよりも先に身体が動いていた。
【残り4秒】
一息吐き、躊躇なく腕を引き抜くと肉が激痛と共に切り裂ける。苦悶を堪えて魔物の頭を登るが、その拍子に腹を噛まれてしまった。
それでもパクサーナの腕を掴み、目を見開いた彼女がアデランテを捉えた刹那。
強引に身体を放れば階段にぶつかり、苦悶を上げながらも即座に彼女は階下を覗いた。瞳には“護衛”が魔物ごと火の海へ沈む光景が映されるも、直後に怒号が響く。
「上にッッ、登れぇぇえーーー!!」
やがて燃え盛る地獄の中に姿は消え、呆然としたパクサーナが腰を落とした。黒煙とは関係なしに涙がこみ上げ、顔を抑えたのも束の間。
ふいに遠方で聞こえた異音に顔を上げ、階段の端に再び身を乗り出す。
立ち込める煙に口元を覆うが、目を凝らせば異様な影が2つ見える。
1つは巨大で。
1つは人間。
両者とも炎の壁をものともせず、一騎打ちに我が身を興じていた。狂気染みた光景に声を掛けようとするが、口を開けば煙を否応なく吸い込んでしまう。
傷めた喉に思わず咳き込み、潤んだ瞳でアデランテの姿もボヤけるが、言葉で無くとも伝える方法はまだ残されていた。