133.会話の形
扉がゆっくり開かれ、アデランテがソッと隣の部屋を覗き込む。長らく使われていない冷え切った空間を見回し、背後の一団へ合図を送った。
「…行くぞ」
素早く部屋に侵入すれば、手前の壁で待機。入ってくる男たちの頭数を確認し、最後尾のパクサーナと目が合う。
同時に彼女が扉を閉め、すかさずアデランテは奥の扉へ移動した。その間に男たちは散開し、慣れた様子で物色を開始する。
一室は相変わらず豪華な家具で囲われ、見慣れた光景に吐き気すら覚えそうで。いっそ安宿のような部屋に行き当たれば、新鮮味すら感じたかもしれない。
現実逃避も程々に隣室を覗くが、部屋は直立が不可能なほどの急斜面にも関わらず、家具は床に張り付いて動かない。
試しに傍の灰皿を投げ込めば、見た目通りの重力に従って底へ転がっていく。
カツンっ、と。
途中で当たったランプも、共に音を立てて崩落。落下音が響く前に扉を閉め、パクサーナに指先だけで合図を出す。
目を見開いた彼女も男たちの様子に気を配りつつ、ソッと背後の扉を覗く。
それから2秒と経たずに閉じ、垂直に立てた手を反対側へひっくり返す。さらに寝かせた掌を天井へ翻す仕草から、前室は別空間が取って代わったらしい。
挙句に天地は逆さまになり、とても移動できる状況ではなかった。
もう1度アデランテ側の扉を確認するが、部屋は相変わらず斜めのまま。底の方には割れたランプと灰皿が無念そうに散らばっている。
もしも前進するなら移動にロープは必須。戻るにしても家具の下敷きになるリスクに、腕を唸るように組む。
チラッと砂時計を見れば底にかなりの砂が溜まり、再びパクサーナを見つめれば指を1本立ててクルクルと回した。
「……みんな。今日はご苦労だった。俺とアデライトは引き続き見張りに立つから、戦利品を整理しつつ、野営の準備に入ってくれ」
アデランテの合図に頷き、落ち着いた声が部屋に伝わる。1日の終わりに誰もが安堵し、荷物を降ろしながら互いを口々に労った。
その姿は家路につく労働者のようだったが、アデランテたち護衛に休息はない。ロープでドアノブを固定し、どちらも扉横にどっかり座り込んだ。
やがて2人に運ばれてくるのは、以前も食べた質素な味付けの山羊乳スープ。身体や腹は温まるが、喉越しは川の水を飲んだ方が遥かにマシだろう。
味気ない舌触りは、口直しに閉架へ逃げ込みたくもなる。
有難みの少ない一杯をグッと飲み干し、器を床に滑らせて男たちに返す。それから程なく“夜”が訪れるが、作戦会議があるわけでもない。
各々の体調や戦果がパクサーナに報告され、早々に全員が就寝。皆が寝静まったのを確認してから、ソッと扉を引いて隣室を覗く。
しかし血の香りが漂うや、素早く閉じて何事も無かったように座り直した。ウーフニールに映像を再生してもらえば、男“2人分”の死体が散乱。
身体に残った装備から見るに、冒険者ではなく山賊の類だろう。
それも明らかに魔物か。または大型の獣に仕留められていたが、どの道前進できる空間ではない。
天地が歪められた部屋と遭遇する頻度も増え。人知れず小さな溜息を吐けば、背中を扉につけて天井を見上げようとした。
だがふいに。パクサーナが視界に入ると、思わず途中で視線を戻す。
ジッと見つめてきた彼女は片腕を持ち上げ、短く。かつ素早く手首を翻し、アデランテも笑みを浮かべて手を左右に振って返す。
【何をしている】
(“商人の符牒”さ。手信号とも言うんだけど、こうやって手を動かして、離れた相手と声を出さずに簡単な会話が出来るんだ。ちなみにさっきは「どうしたんだ?」って来たから「なんでもない」って答えた感じだな)
【何故“商人”の呼称を冠している】
(もともとは競り市で使われてたらしいけど、騎士や冒険者よりも遠出する職種だからな。大声で話し合って山賊の注意を惹くわけにもいかないし、それで発達したのが手信号ってわけさ)
【…貴様は騎士の出自と認識していたが、商人に身を落とした話は知ら……護衛か】
(そういうこと)
珍しく教える立場へ回った事に胸を張るも、一方で驚きも隠せなかった。1度護衛したキャラバンで教わった事柄を、自身がいまだ覚えていた事に。
かつてアデランテの食べっぷりを隊長が気に入り、移動中も延々教えてくれた物だった。
他にも金のない客だとか。金を落とすカモだと合図を出し合うのに、商店街でも使われる事があるとか。
だから活気で満ちた街には、必ず気を付けるよう忠告された記憶が懐かしい。思い出に耽り、遠い目をしていたアデランテの脳が突如刺激される。
首も強引にパクサーナに固定され、彼女の手信号がまた送られてきた。
〔さっき扉開けてたろ。向こうに何があったんだ?〕
〔な、なんでもない。気にしないでくれ〕
〔扉を覗いた途端、血相変えて閉めたくせに何でもないわけがない。一応俺がリーダーを務めてるんだから、言いにくい事でも教えてくれ〕
【今度は何を話している】
(……屋敷を出たら美味しい物を食べに行こうって誘われて…)
【符牒を読めずとも女の表情は理解できる。貴様、今度は何を伝えた】
不可避の問答に内からも外からも責められ、止むを得ず扉の先で見た死体の話をパクサーナへ。その情報を彼女に催促された事をウーフニールに伝えるが、話はそこで終わらない。
どういった状況だったのか。
人の仕業か。
魔物の仕業か。
回収できそうな戦利品はあったか。
襲撃者の姿はあったか。
今いる部屋への脅威は。
まずは前者から怒涛の質問攻めを受ける。
それから――何故悟られたのか。
フードが無ければ本音も隠せないのか。
あるいはフードやマスクに甘えた結果ならば、次回より表情筋を奪う事も検討する。
不要な謝罪をするならば、今すぐ扉を抜けてパクサーナたちを見捨てるべき。
後者からは己の不甲斐無さを容赦なく責め立てられる。
味方が1人もいない環境のなか、泣く泣く手先でパクサーナに。心中でウーフニールに回答し、屋敷に来た事を幾ばくか後悔しながらも。
それでいて顔に出さないよう努めるが、ジッと見つめてきたリーダーが指先を動かす。
〔…お前がフードを被ってた理由がなんとなく分かったよ。この“正直者”〕
しかし不機嫌な表情から一変。次の瞬間にはクスリと笑みを浮かべ、呆れながら手信号を続ける。
それから話題を切り替え、彼女らの大移動について議論を交わし始めた。
食料調達の成果は芳しくないが、人数が減ったゆえに辛うじて行き渡っている事。異質な空間の遭遇頻度により、“模様替え”の待機で体力も問題ない事。
一方で目的地の見えない行軍には精神的な疲労が伴う。何人かはすでに諦めの色が窺えると、顔をしかめながら報告された。
いっそ天地や傾きを気にせず、時間を掛けて部屋を渡るのはどうか。パクサーナの提案に目を丸くし、血迷ったか問い質せばムッと口をつぐまれる。
そして即座に身の安全よりも、屋敷への恐怖を払拭する事が先決だと反論してきた。
〔彼らも魔物が徘徊してる事や、狂った部屋の様相は知っている。いくら休みを与えた所で、扉向こうの事が気になって、心ここに非ずって感じなんだ〕
〔だからと言って危険すぎるだろう?1歩間違えれば全員家具の下敷きだぞ?〕
〔いつ着くかも分からない目的地なんだ。ロープを使って慎重に進むにしても、時間を掛けたところで問題は全くない。屋敷への恐怖心を少しでも克服してこそ、移動も捗ると俺は思う〕
〔百歩譲って君の考えが正しいとして、ロープの移動中に襲われたら、ひとたまりもないんだぞ〕
〔そのために俺とアデライトが先頭と最後尾にいるんだろ?もともとリスクを承知の上で全員移動してるんだ〕
眠気も忘れ、互いの険しい表情に比例して手の動きも激しくなる。移動を提案した手前、これ以上の犠牲を出さない事が目標だというのに、リーダーは至って強気。
むしろ押していかねば、誰もついてこなくなる事態を恐れての考えなのだろう。
それでも思い直すよう伝えても、彼女は首を縦に振らない。無理をしなければ、むしろ今のような野営すら危ういと主張される。
現状の収穫量は、部屋を1つ回って2人分が確保できれば良い方。そこから分配するために、1人当たりの摂取量は大幅に制限されてしまう。
今では山羊肉すら献立として持ち上がりつつあり、挙句に室内灯しかない閉鎖的な空間が一行の士気を著しく下げていた。
睨むように現状をアデランテに伝え、1歩も引かないパクサーナ。押し問答の末、諦めに近い形で彼女の提案を条件付きで受け入れる事にした。
あくまで“固定された家具”の配置を見た上で判断する事。時間があまりにも掛かる場合は、通常運転に戻す事でパクサーナも同意した。
代表者会議が終わった所で議題も尽き、やがて「おやすみ」と。手の代わりに口を動かし、無音の挨拶で1日最後の会話は幕を閉じる。
身をよじって俯いたパクサーナを眺め、それからイビキを上げる男たちを一瞥するが、夢の中で安息を覚えているなら幸いだろう。
明日からは新たな挑戦が待ち受け、十分に英気を養う必要があるのだから。
しかし一方でアデランテもまた責務が増え、嘆息を零しながら眠れぬ夜を過ごす。
砂時計を一瞥すれば、1日の終わりまでまだ時間がある。ますます遠のく眠気に、隙間風が如く嘆息をまた吐いた。
(…ウーフニール。起きてるか?)
【どうした】
(なかなか寝付けなくてな。子供たちの方はどうだ?旅路は順調か?怪我はしてないよな?お前の事だから無茶はさせてないと思うけど、脱出の糸口は見つかりそうか?)
【……冒険者プレートを2つ回収。残る捜索対象は“壇上の咆哮”、“眠れる麒麟”、“錆谷一家”、“電光石火山”の計4パーティ。報告は以上だ】
(おぉ!流石はウーフニー…はぁぁあッ!?今4ぱ、4パーティって言ったかッッ!!?)
【うるさいぞ】
(重大イベントだろ!いつの間にそんなこと…いや、そもそも見つけた時に教えてくれよ!!それに回収したって事はソイツら…)
【警告はした】
騒ぎ立てるアデランテの背筋が疼けば、身体の奥もギュッと締めつけられ。熱烈な刺激に仰け反っては背中を壁にぶつけた。
今にも漏れそうな声も唇を噛みしめて堪えるが、まだ白旗を上げるには早かった。
(…んんッ……ハァッ…なんだって……ぐっ…)
【黙って休め。明日は女の提案を実施すべく、一層面倒な行軍となる】
(んぅッ…ふーッふーッ……ふー…ひとまず、落ち着いた。落ち着いたから、ハァ…きちんと教えてくれ、ないか?どの道今ので身体が火照って…ハァハァ……目が覚めちまった)
艶っぽい吐息を漏らし、紅潮した頬の熱を逃がすように肩で息をする。発汗すら覚えながら無言の応酬を乗り越え、渋々ウーフニールが言葉を紡いだ。
発見された冒険者プレートは“鋼鉄の意思”。 そして“微風たる緑林”の2パーティ分。
死因は魔物の襲撃や“人災”によるもので、少年たちに危害は及んでいない。
淡々と告げられた短い情報に、果たして責め苦を受けるに値する物だったのか。疑問を抱えつつ追って確認したい事柄がいくつもあったが、息切れする身では。
余韻が残る身では今1つ思考が纏まらない。呼吸を落ち着け、最後に一息吸って彼を問い詰めようとした時。
顔を上げれば、心配そうに見つめてくるパクサーナと目が合ってしまう。
〔…大丈夫か?身じろぎまでして、なんだか苦しそうだった〕
〔……夢見が悪かっただけさ。起こしてしまったなら、すまなかった〕
〔…やっぱり移動の件、考え直した方がいいか?〕
〔ちがう違うチガウ。関係ないからッ〕
不安そうに顔を歪めるパクサーナに、慌てて首を横に振る。健在である旨を必死にアピールすれば、やがて彼女も落ち着いた様子を見せた。
むしろ意味深な笑みまで浮かべられ、再びパクサーナは手を動かす。
〔守るものが多いと大変だからな。仕方ないさ…俺も初めてココに来た時はそうだった〕
〔私の事は気にしないでくれ。こういう状況には……まぁ良くも悪くも慣れてはいるんだ。明日のためにもしっかり寝た方が良い〕
〔…慣れてる、ね……最初会った時はフードも相まって薄気味悪かったって言うのに、仲間になれば頼もしいというか…う~ん、それとも違うか〕
〔どうした?〕
〔……何というか、アデライトも人間なんだなってホッとしたかな〕
そう告げる彼女は、にへらっと表情を崩す。気恥ずかしそうに頭を掻き、傍にいれば笑い声さえ聞こえたかもしれない。
だがアデランテは表情が強張らせていなければ、内心を恐らく曝け出していたろう。
幸い心中は悟られず、視線はスラスラと動く彼女の指先を追う。時折ウーフニールに解読をせっつかれ、符牒の内容を伝えていく。
初めてアデランテと会った時。屋敷に摂り込まれた新参者である事は、会話で瞬時に把握していた。
しかし一帯の異常事態はおろか、未知の怪物にすら平然とする姿は不気味そのもので。熟練の冒険者、と一言で片付けられる落ち着きではなかった。
まるで人間の皮を被った得体の知れない存在に、一時は追放の案すら浮上していたらしい。
ところが怪物を始末して戻ってくるや、家を閉め出された子供の如く。扉を何度も叩く“人間らしさ”が、渦巻いていた疑念を悉く拭い払った。
〔「開けてくれー」って、あんな大声を出すんだもんな。すぐに応じなかった俺たちも悪かったけど、アデライトも騒いだりするんだって、皆驚いてたよ〕
〔……誤解が解けたようで何よりだ〕
複雑な心境に駆られたまま、強引に会話を閉じようとするも、パクサーナはさらに続ける。
怪物が現れていなければ、移動案が本当は却下されていた事。
アデライトに対する不信感や、リスクを鑑みた結果であった事。
皮肉にも人数が減り、移動が容易になった事。
そして恐怖に突き動かされ、安全な場所は無いとようやく悟った事。
リーダーとして謝罪する、と。付け足された言葉のあと、深々と頭を上げた彼女に手を仰ぐ。
気にしていない旨を告げるが、途端に表情を変えたパクサーナに自ずと緊張が走る。
〔…もう拠点は作りたくない。屋敷に残ったって、悪戯に犠牲が増えるだけだ……だから、だから何があってもココから出してくれ!もう、こんな生活は…耐えられないっっ〕
〔……正直出られる保証なんてどこにもない〕
腕まで振り乱すパクサーナに、アデランテは小さな手振りで冷静に返す。絶望的な答えに肩を落とされるも、直後に頬を緩めてやれば彼女の目が丸くなる。
〔それでも約束したろう?何があっても、必ず君の下へ戻るって…〕
だから気を強く持ってくれ、と。
最後に掌を上に向け、彼女の同意を求める。
口頭による答えは当然ないが、かと言って符牒で示す事もない。
呆然と見ていた彼女はゆっくり手を降ろし、膝を立てると顔を埋めてしまった。
これで少しは彼女の不安を取り除けたのか。手応えのない様子に顔をしかめるも、告げた言葉は嘘でも出鱈目でもない。
しかしウーフニールが唸り声を上げれば、アデランテもまた瞳を閉じた。
明日はこれまでにない苦難が待ち受けているはず。そのためにも休息を取り、“副リーダー”として備えるべきなのだから。