121.黒翼に舞う
調度品が輝かしく並び。赤い絨毯が敷き詰められた廊下を、黒い翼が静かに滑空する。瞳は無機質に室内を映していたが、ふと羽ばたき音が止んだ。
かぎ爪は扉の取っ手に掴まり、端に移動すれば何度も上下に飛び跳ねる。
やがてガコンっ――と。
少しは手応えがあっても、扉は重くて一向に開かない。嘴を引っ掛け、前後に身体を揺らしても効果は無し。
新たな部屋を見る事も叶わず、二手に分かれた意義に疑念を抱き始める。
いっそ消滅して本体から新たに出現した方が良いのでは。
あるいは二手に分かれる事そのものが、屋敷内では悪手だったのかもしれない。
夕暮れの訪れが如く溜息を吐くも、廊下の調査を最後に1度。むしろもう何度か実施し、それでも成果がなければ消える他ないだろう。
机の上で身を屈め、再び羽ばたこうと翼を広げた刹那――ガチャリ。
視界左。15番目の扉付近から音が聞こえ、咄嗟に踏み留まった。程なく慎重な足運びが近付き、当然の如く対象への興味は尽きない。
だが普段なら遠目に眺めるだけのカラスも、この環境では立派な鶏肉。夕餉にされる未来に不用意な行動は避け、徐々に迫る足音に翼を広げた。
脚も左右に開き、前屈みになれば嘴を開けて静止。そのまま姿勢を維持すれば、やがて黒真珠の瞳に映ったのは小さな頭。
続けて相応の指が曲がり角を掴み、キョロキョロ警戒しながら進んだ。
しかし机に近付くや否や、黒塗りのカラスにギョっとしたのだろう。目を丸くして身体を引くが、すぐに置物と判断したらしい。
生きているような躍動感に惚け、しばし滾った好奇心は徐々に下へと向けられる。
感心はもっぱら机下の収納へ集中し、サッと引き出しを開けては閉じられ。ハズレを引いても少年は悔しがらず、慣れた様子で扉に視線を向けた。
戸を1枚隔てた向こうに、何が待ち受けているのか。
開けてみるまで分からないはずが、まるで当たりを吟味するように。ようやく1つを選べば、顔だけ突っ込んで反対側の様子を窺う。
背後への警戒もなく、少年に同伴者もいない。絶好の機会に机を飛び立てば、羽ばたきに驚いた彼の頭上を掠めていく。
新たな部屋は2階相当の広大な空間。すかさず天井まで飛び上がるも――ガシャンっ!と。
ふいに階下で騒々しい物音がした。
「……このっ!!このっ!このっ…当たれ!!」
壺の破片が次々飛来し、威勢の良い言葉と共にウーフニールへ投げられる。
だが所詮は子供の膂力。精一杯投げても届くはずはなく、声ばかりが虚しく空回りする。
彼の愚行に構わずシャンデリアに止まり、無駄な行動を見下ろしていたのも束の間。少年の背後でドアノブが回れば、それまでの勇ましい顔付きも途端に凍り付く。
破片を捨てれば棚の下へ隠れるが、身を潜めるのが遅すぎたらしい。
部屋へ入ったゴロツキ然の男たちに見つかり、少年を掴めば強引に引っ張り出す。
「離せよ!離せったら!」
「おぉ、おぉ?活きがいいねぇ。ママとはぐれたのかな?」
「何も持ってなさそうだな。ガキ1人に調達なんざやらせるわけねぇし…おおかた群れが潰れたんだろうよ」
「離せって言ってんだろぉ!?」
訴えに耳を貸さず、片足で吊るした少年は上下に揺さぶられる。戦利品を探っているようだが、聞こえてくるのは衣擦れの音ばかり。
もともと期待していなかった分、男たちの表情が変わる事はない。
しかしコツンっ――と。静寂の中で転がる音に、天井で身を潜めていたウーフニールも注目した。
「…砂時計か?お守りにしては随分と粗末な物を持ち歩いてんな」
「返せよ!」
拾い上げた男が指先で回すが、何度見ても半分に割れた砂時計でしかない。
価値もないゴミに舌打ちし。少年ともども無造作に放り捨てれば、小さな身体は家具へと容赦なく叩きつけられた。
「……う、うぅぅ」
悔しさに唇を噛み締める余裕もなく。痛みに悶える少年を尻目に、構わず男たちは話し出す。
彼が部屋に住み着いていなければ、まだ探索はしていないはず。さらに食料探しは当然ながら、少年の処遇についても意見を交わしていた。
「…“デカいネズミ”を野放しにする余裕はない」
不穏な気配が漂い始めるも、男たちの思惑に。増してや少年の命すら、ウーフニールの興味を惹く範疇にはない。
だが扉に視線を向け、それから階下の人物たちを交互に見つめる。
仮に男たちが扉を抜けた隙を付けば、次に空中戦を繰り広げる相手は彼らに移るだけ。かと言って留まり続けたところで、再び部屋に閉じ込められる事になるだろう。
捜索のためにも扉を開ける役割が必要な今、やるべき事は1つ。酷く気乗りしない案だが、渋々翼を広げたウーフニールは瞬く間に降下。
男たちの背後を通り過ぎて驚かし、振り向いて武器を構えた瞬間。
カッと見開いた少年が起き上がり、砂時計を拾って扉に走り出した。突然の脱走劇に男たちも反応するが、旋回したウーフニールが眼前を飛ぶ。
思わず彼らは足を止め、その隙に少年は隣室へ急いで滑り込んだ。
バタンっと戸を閉じる寸前に黒翼が潜り抜け、鋭い風切り音が彼の頭上を通過。目まぐるしい出来事に彼もいまだ戸惑っていたが、今解決すべき問題は扉向こうの男たち。
狩りの暇など無く、一目散に走り出せば奥へ奥へと向かった。
部屋を横断し、扉という扉を抜け。背後で破壊音が聞こえても、一瞬飛び上がるだけ。
止まれば仕留められ、走っていてもいずれは追いつかれる。
それでも壊された家具は、男たちが追跡を阻まれている証拠。小さな体躯を活かして巧みに遮蔽物を避け、やがて背後の足音はゆっくり消えていった。
「…はぁ…はぁ…はぁ……あー…死ぬかと思った」
最後に閉めた扉へ寄り掛かり、忘れていたように呼吸を繰り返す。そのまま横に倒れてしまいたいが、隣室に耳を澄ませる事も忘れない。
しばし聴覚に集中するが、ようやく安全を確保したところで力なく崩れた。
傍に着地したカラスを捕まえる元気もなく、気怠そうに眼差しを向けるだけ。
だが身も心も落ち着けば、やがて思考は助けてくれた協力者へ恩義を示すべきか。それとも明日は我が身だからと、夕餉の妄想に勤しむか悩み出す。
苦渋の選択に唸り声まで零すが、悩める子羊に予期せぬ光が差し込んだ。
《――…小僧》
無機質な。腹底を震わす声に飛び上がり、思わず扉から離れた。
まさか男たちが追いついたのかと振り返るが誰もおらず、部屋を見回しても人の姿はない。
それでも気のせいだと断言するには、あまりにもはっきり声は聞こえていた。
《何処を見ている》
また聞こえた。
再びビクつき、しかし聴覚を頼りにゆっくり床へ視線を落とす。視界に映るのはカラスだけで、今も首を可愛らしく傾げている。
まさか、そんな。
当然あり得るはずがない。
《聴覚を駆使していた事は確認済みだ。声が聞こえないわけではあるまい》
ヘラヘラと自身を嘲笑っていた矢先、嘴が動けば流暢に言葉が囀られた。突然の現象に思考や心臓が停止するも、気付けば少年の口も独りでに動いていた。
「……た、助けてくれたのか?」
《利害の一致に過ぎない。扉を抜けるには貴様の助力が必要だった》
「…どういたし…まして?それともありが、とう?えっと…」
《これからどうする》
「えぇっ!?…あ、お~……とりあえずオレの秘密基地まで戻ろうと思ってるんだけど」
《…戻る?》
「うん」
当然とばかりに少年は頷き、ゆっくり身体を起こす。
絶妙な間合いを取っているのは、ウーフニールが逃げる事を心配してか。あるいは喋るカラスを不気味に思っての、心の距離の表れか。
答えはどちらでも構わなかったが、彼の気持ちが前者に傾いていたのは、浮かべた笑顔から自ずと伝わった。
目を輝かせてウーフニールを眺め、それでもハッと我に返ればグッと身を引く。
それから本来の目的を思い出したように。片端から部屋を漁り出せば、食料探しが終わるまで移動しない彼を見兼ねてウーフニールも行動を開始。
小さな引き出しや棚の取っ手を咥え、巧みに引っ張れば1つずつ開け放つ。大抵は空振りに終わるが、5つ目でようやくりんごを1つ発見。
蹴落とせば床を転がしていき、収穫の芳しくない袋の中へ押し込む。
そんな目を疑うような光景に少年は唖然とし。だが再び笑みが浮かべれば、負けじと探索を進めていく。
やがて二手に分かれた食料調達も無事に終わり、移動する少年の後ろに飛んでついていけば、扉で止まった彼は開ける事もしない。
ポケットから壊れた砂時計を引き抜き、ぴたりと戸に当てる。それからは耳を傾けるだけで、微動だにしなくなってしまった。
《何をして…》
「しーーーーっっ」
口元に指をあてがい、嘴を閉ざすよう命じる彼の奇行を渋々観察。ようやく少年が立ち上がっても、別の扉へ向かえば同じ事を繰り返す。
また異様な静寂が流れるも、ふいにドアノブを掴めば隣の部屋へ移動した。
「ほら、置いてっちまうぞ?」
扉を開けたままウーフニールを待ち、“喋る鳥”を受け入れた少年の肩に飛び乗れば、目論み通り移動手段の確保には成功した。
やはり子供という生き物は扱いやすい。仮に他者へウーフニールとの関わりを話したところで、大人が信用するはずもないだろう。
何より鳥が口を利いても、滑稽無糖な珍事をあっさり受け入れてくれる。
《小僧》
「こぞうじゃなくてフーガだ!」
《扉での行為の意味は》
「…砂時計のことか?う~ん……秘密基地に着いたら教えてやるよ。聞き逃げされても嫌だし」
《扉の開閉は出来ないと伝えたはずだが》
「秘密基地のメンバーにしか教えたくないんだ!」
そして面倒かつ不合理な駆け引きも同時に付きまとう。
想定内とはいえ。予期せぬ代価に溜息の1つでも零したくなるが、フーガは早々に話す鳥の存在に慣れたらしい。
移動しながら食料を調達する傍ら、疑いもなく声を掛けてくる。
「この屋敷に来て長いのか?」
《半日》
「そんだけ?長いこと屋敷にいるから話せるようになったんじゃないの!?…でもそれならオレの方が先輩だから、隊長って呼んでくれてもいいんだぞ」
《断る》
「なんなら今からフーガ隊長!って呼ぶなら、道すがら砂時計のことを教えてやってもいいんだぜ?」
《いますぐ拠点へ向かえ》
「ノリ悪いな~……ところで名前はあるのか?」
開けたクローゼットからバターが見つかり、喜ぶ彼の横顔が視界に広がる。しかし注意はすぐにウーフニールへ戻され、問いの返事を待っているらしい。
当然“本名”を名乗るつもりは毛頭ないが、すでに答えは決まっていた。
《…我が名はザーボン。変幻自在の術を身につけし、偉大なる魔術師なり》
嘴を高らかに掲げ、胸を張った姿はオオワシにも劣らない威光が醸されたろう。
あるいは背後で煌々と照るライトスタンドが、そう見せただけかもしれない。
そしてウーフニールの答えに、少年の瞳が輝くのは好奇心によるものか。はたまた明かりを反射したものなのか。
どちらとも区別は容易に付けられず、しかし表情からは後者の匂いが強く感じ取れた。
「へぇ~…ザーボンって言うんだ。魔術師って凄いんだな。とりあえずよろしく……もし今お前を食べたらさ。それで人を食べたって事にはならないよな?鶏肉を食べた事になるんだよな?」
呑み込みの早さに肩透かしを食らい、思わず首を傾げてしまう。
獣と話せる事を疑わない少年も意識を再び扉に戻し、壊れた砂時計を近付ければ目をゆっくり閉ざす。
その様相は数秒前の会話など忘れていそうで。子供の切り替えの早さ――もとい不合理な心情に、増々首を傾げるほかなかった。