000.プロローグ
いつからだろう。
人の姿を見かけなくなったのは。
いつからだろう。
そよ風の音が、こんなにもはっきり聞こえるようになったのは。
広大な大陸の地図にすら載らない小さな農村。
いつもなら日が昇る前に村の年寄りが活動を始め、それから順繰りに大人から子供まで起きてくるはずだった。
近所で上がる元気の良い挨拶は、いつだって良い目覚まし代わりになってくれる。
そんな賑やかなはずの村を、ミアータは窓を開け放つことで始めるも、その顔は天気相応に曇った表情で周囲を見回していた。
「…コーグおじさんは今日もいないっと。マーガルおばさんも、キャロちゃんも、ビンデレも最近見かけないな…」
耳を傾けても話し声はなく、鳥のさえずりが遠くで聞こえるだけ。
本当はダメだと子供の頃から言われてきたが、スカートをたくし上げると窓を飛び越え、誰か話せる人を探しに出かけた。
いっそマナーをとやかく咎める者でも見つけられたら幸いだったかもしれないだろう。
裸足でパタパタ村を走り、隣家の窓を覗き込んではまた別の家へと赴く。
しかしどこもかしこも留守。
あるいはもぬけの殻。
まさか本当にみんなが村を出て行ってしまったのかと。
生まれ故郷を捨てたのかと、村で空き家が発覚する度に悲哀が積もっていった。
最初は釣り師のヨングからだった。
顔見知り程度の男だったが、ある日突然行方をくらませた。
当初は捜索に乗り出した住人も、やがて彼は釣りに出掛けて川に流されたのだろうと。
その時は村の外では気を抜かないよう、注意喚起がなされただけだった。
ところがその日を皮切りに少しずつ。
“●●が村からいなくなった”というフレーズが、口癖のようにあちこちで囁かれるようになった。
魔物に襲われた、獣に襲われた、と言う者は誰1人としていない。
実際襲撃された形跡がなかったから、というのもあったろうが、多くは出先で。
あるいは村の中を得体の知れない〝何か”が潜んでいると、決して想像したくはなかったからだろう。
だが、ただでさえ多くない村の人口も、指先で数えられるようになってくれば、“村を出ていった”というにはあまりにも不自然すぎた。
稀に訪れる旅人の話を聞いて、村の外に興味を抱く者。
刺激を求めて飛び出す者。
そういった住人が村を抜ければ、つられて他の誰かがマネすることはあるが、全員が全員。
それも家財道具を全て残して、姿を消すことなどあり得るだろうか。
タチの悪い冗談ならば、今頃は誰かしらが帰ってきて種明かしをしてくれていたろう。
溜息を吐きたくて仕方ないが、探し回る事に全ての体力を費やすせいでその余裕もない。
やがて疑念が焦燥にすり替わり、村の外への捜索も視野に入れ始めた時だった。
「――っ見つけた!」
木こり一家の窓を覗くと、ベッドの1つが奇妙に盛り上がっている事に気付いた。
すかさずガラスを叩き、何度も声をかけると毛布がもぞりと動き始める。
不安も確信に変わり、すぐさま窓を離れて玄関まで移動すると、再びノックの嵐を響かせた。
それからカギが開錠される音。
続いてドアノブが回るとゆっくり扉が開き、隙間から幼い少女が顔を覗かせた。
「んぅーーー…おはようミアお姉ちゃん」
「おはようカルネちゃん。起こしちゃってごめんね?悪いんだけどお父さんとお母さんはいるかな。お姉ちゃん、ちょっとお話があるんだけど」
「…2人とも起きたらいないの。お外にもいなかったの?」
眠気眼をさすり、ぼんやりと見上げる少女に返す言葉が見つからない。
しかし彼女の父は昨晩、ミアータと共に消えた両親を探す手伝いをしてくれた借りがある。
ならば今度は自分が手伝う番だろう。
意を決したところで屈み込み、頭を撫でてやるとカルネの目を優しく覗き込んだ。
「たぶん…きっとどこかにいるんじゃないかな。よかったら一緒に探そうか?とりあえず寝間着を脱がなきゃだね」
「お腹空いたの」
「そういえばご飯食べ忘れてたな。カルネちゃんは何か食べたい物はある?お姉ちゃんが何でも作ってあげ…」
ガッツポーズを決めながら、無理に笑顔を作ったのも束の間。
手を握った少女の指に力が籠もり、徐々に痛みを覚えた。
顔を歪めて腕を振っても放してはくれず、5歳児の握力とはとても思えない。
骨が軋む音までし始め、彼女に放すよう怒鳴りながら、自分の手を引き抜こうと試みた。
だが抜けるどころか、いくら突き放そうともカルネ自身が微動だにしない。
トラバサミに捕まった獲物の如く暴れ、肌身離さず身に着けていた黒真珠の耳飾りが飛んでいった事にも気付けなかった。
それでも少女と視線が合うや、ふいに全身の力が抜けていくのを感じた。
カルネ“だった物”の肌や髪。
着ていた寝間着がこの世の終わりを体現する彩色に染まり、歪んだ表面は内側で何かが動いているようだった。
『オなカ、空イたノぉぉ』
カルネの最後の言葉だけを繰り返し、水底で泡立つような声を発しながら佇む〝ソレ”は、今やミアータの背丈をゆうに越していた。
陽射しすらミアータから覆い隠し、もはや逃げる事も叶わないと悟った獲物ができることは、ただ1つ。
終わりを受け入れ、一筋の涙を頬を伝わせることだけだった。
雲の隙間から覗く太陽光は家屋にのみ遮られ、風に吹かれた草木以外に動くものはない。
こうして誰に知られる事もなく、誰に見られる事もなく。
ミアータの消失を最後に、小さな村はひっそり息を引き取った。
日が差し込む川辺を、遠出には向かない服装の村娘が歩いていた。
ヨロヨロと河原を歩くや、遠くにいた旅商人が彼女の存在に気付くと、慌てて駆け寄っていった。
いくら話しかけても虚ろな瞳は応えず、カバンを降ろした彼は青ざめている女に何か役立つ物をと。
必死に頭を突っ込んで、荷を掻きだし始める。
その隣では亡霊の如く女が佇み、何を思ったのか。
生気を失った口元に笑みを浮かべると口角はさらに広がり、両頬から首の根本まで亀裂が走ると、断面に牙がずらりと並んだ。
太陽の光は牙と美しい黒真珠の耳飾りを反射し、ようやく商人が目当ての物を掘り当てて振り返る頃には、顔色を変える時間すら与えられなかった。