脱臼地獄
そもそものはじまりは、私が高校一年生だったころのとある日の部活動だったのです。
ボクシング部員だった私は、その日の放課後、いつものように、体育館の二階にある部の練習場へ行きました。同じ学年の女子二人を連れていました。二人はボクシング部のマネージャーになることに興味を持っていて、それなら一度練習を観にこないか、と私が勧誘し、連れてきたのでした。
女子二人を後ろに連れて偉そうに、練習場に向かう急な階段を登ると、視界に練習場の風景が開けました。狭い練習場の奥に古びたリングがあって、窓から射し込む秋の夕陽に照らされていました。古沢という同級生の部員が一人、リングの中で黙々と練習していました。
「古沢だけか」
私はリングに近づいていって多少がっかりしながら言いました。私の所属していたボクシング部は当時活気が無く、部員数自体も少ないのですがその大半が幽霊部員で、練習に来る者はずいぶん少ないのでした。顧問の教師さえ、見に来ない日が多いのです。この日もそうでした。(それにしても俺を入れて二人きりか。せっかく観に来てもらったのに、これじゃあ仕方ないな)そう思いながら、私は他にどうしようもなく、パイプ椅子を用意して女子二人をリングのそばに座らせ、ジャージに着替え、古沢に混じって練習をはじめました。
縄跳びをし、シャドー・ボクシングを終えて体が温まったところで、私は「マス・ボクシングをしよう」と古沢に提案しました。マス・ボクシングとは要するに軽めのスパーリングで、力を抜いて相手とパンチを打ち合います。せっかく女子に来てもらったのに、たった二人きりで陰気にシャドー・ボクシングやサンドバッグ打ちをしているところを見せても仕方ない、闘っているところを観てもらわないと、と思ったのでした。
「この二人、マネージャー志望なんだ。せっかくだからマスでも観せようと思って」
私が言うと、古沢は二人の女子をちらりと見て、
「ああ、わかった」
いつものように無愛想に答えました。私が連れてきた女子は、二人ともなかなかかわいいのです。
「軽めにな、軽めに」
私はあくまでそう言いました。古沢は背が高く、体格が私とは違いました。ボクシングでは体重が数キロ違うと別の階級になって試合をしますし、練習でも、体重の重い選手は軽い相手には手加減をするのが一般的です。古沢に本気になってこられたらたまらない、と私は思ったのです。
ところが。ゴングが鳴ると、古沢は勢いよくコーナーを出て、ばんばんパンチを強打してきたのです。私はそれまで何度も古沢とはスパーリングやマス・ボクシングをしてきましたが、間違いなくその中で一番、古沢は力を入れていました。
(軽くって言ったのに)
私は古沢の攻撃を受けながら、この同級生を恨みました。私にもその思いが無いではありませんでしたが――要するに、マネージャー志望の女子たちにいいところを見せたいのでしょう。
滅多打ちに遭いながら、私はだんだん腹が立ってきて、そっちがそういうつもりなら、と、こちらも思い切りパンチを打ちました。ワン・ツーからの右フック。そのパンチを打つため、腕を思い切り振った瞬間、
ごきり
嫌な音が体内に響いて、激しい痛みが私の肩を襲いました。
後からよくよくこの瞬間のことを思い出してはっきりと理解したのですが、古沢の顔を狙った私の右こぶしは、彼の背が高いこともあって狙いが下に外れ、古沢の右肩に当たってしまいました。本来狙っていた、顔に当たる位置よりもずいぶん短い位置でインパクトしたため、腕がおかしな形で極まり、私の右肩の骨がそれに耐えられず、外れてしまったのでした。
(ぐっ……?)
初めての脱臼だったので、私は一瞬何が起こったのか分からず、グローブをつけた左手で、右肩を押さえてただうずくまりました。脱臼は、骨折より痛いと言います。痛みで息さえ吸えず、自然と涙が右目から流れました。
「どうした」
古沢が私の異変に気づき、闘うのをやめて話しかけてきました。
「肩、外れた! いってえ……」
私はようやく息を吸い、大きな声で言いました。古沢はそんな私をどうすることもできず、肩で息をしながら見下ろしてきます。
すると、いつの間にか練習場に姿を現し、私と古沢のマス・ボクシングをリング脇で観ていた、塚原というやはり一年生の部員が、――この部員は少々軽薄な性格をしていましたが――リングに入ってきて、私の背を叩き、何がおかしいのか、
「外れた? 外れた?」
とふざけていかにも楽しそうに言ったのです。
私はぷつん、とキレました。
「うるせえ! こっちは痛えんだよ!」
気づいたら、大声で怒鳴っていました。
リングの外の、数メートル離れたところで、マネージャー志望の女子二人がドン引きしていました。
*
そのまま私はリングの中でうずくまっていたのですが、どういうわけか数分経つと、
ごくっ
と肩が鳴って自然と骨がはまり、痛みがやわらぎました。私はその日は当然練習を中止し、地元の整形外科へ直行しました。
整形外科でレントゲンを撮ったり問診を受けたりして、診断を仰ぐと、どうやら「亜脱臼」というものらしいのでした。亜脱臼とは、完全な脱臼まではいかないものの、骨が関節から外れかかってしまっている状態のことだそうです。また、一度脱臼した関節が、自然に元に戻ったり、自分で戻せたりする状態のことも亜脱臼というそうです。
とにかく、私の場合無事骨が元に戻ったわけですから、これで万事解決、となれば良かったのですが、そうは行きませんでした。私はこの時の亜脱臼が原因で、それから何度も右肩を外すようになってしまったのです。
*
最初のころは、ボクシングの練習中に、初めて亜脱臼したときと同じようなパンチを繰り出すと、右肩が外れてしまうという現象が起きてきました。外れては、数十秒から数分経つと、自然と元に戻るのです。私は、得意としていた、サウスポー(私は左利きです)としては必須のパンチである、右フックを打つことができなくなりました。
しかし悪夢はまだまだはじまったばかりでした。一生懸命練習していて、肩が外れてしまうのはまだ格好がつきますが、そうでない時にも外れてしまう現象が起きてきたのです。
私が二年生になり、ボクシング部でも後輩ができた、ある日の練習でのことでした。私は後輩の木村という気の良い部員とシャドー・ボクシングをしていました。たまたま顧問の先生の眼が離れていたので、私は図に乗り、木村を相手にモノマネをはじめました。
「白鷗の三田!」
と言いながら、同じ県内にある高校の、ボクシング部員のファイティング・ポーズを真似しはじめました。
この三田勝利という選手は、後に関東大会で優勝する優秀な選手だったのですが、当時は自分の構え――ファイティング・ポーズ――がおかしいのではないか、と悩んでおり、直そうとしてますますおかしな構えになってしまっているところでした。三田選手は私と同じサウスポーで、前に出した右手を高く、顔よりも高く上げて、脚のステップに合わせてゆらゆら揺らして構えます。その高さから手のひらを勢い良く振り下ろして、パリングという、相手の拳をはたき落とすディフェンステクニックを良く使います。三田選手はいかつい顔をしていますが、そのパリングの仕草は猫のようでどことなくかわいげがあり、おかしいので、私はそれを真似しました。
三田選手と同様、右手を高く上げてゆらゆらとうごめかし、顔まで三田選手に似せていかつく眉を寄せ、それを木村に見せて、
「――からの、三田のパリング!」
と言って右手を振り下ろしました。
ごきっ
肩が外れました。
(……)
私は息がつまって、背を丸めました。激痛でしたが、ふざけていたためへたに痛がることもできません。
「……だいじょうぶですか?」
木村が呆れて言いました。私は恥ずかしさと痛みの混濁した中で、肩が自然に戻る瞬間をひたすら待ちました。
*
「要するに、ルーズショルダーですよね? 関口さんのって」
ある日のこと、部活終わりに部室で皆で雑談していたら、川田という後輩が言いました。
この川田という後輩は、木村と同様に非常に気の良い後輩でした。彼が初めて大会に出て試合をした後、試合会場が宇都宮だったので、減量後で胃が縮まっているというのに宇都宮餃子を六皿も食べて、結局吐き、それ以来餃子が食べられなくなったり、ロードワーク中に衰弱したのら猫を拾ってきて部室で飼おうとしたり、そんな素朴なエピソードがたくさんある後輩です。
その川田が、私が、たびたび肩が外れることを皆に愚痴っていたら、そんなことを言ったのでした。
「ルーズショルダー?」
聞き慣れない言葉だったので、私が聞き返すと、川田は、
「脱臼しやすい肩をしている、ってことですよ。生まれつき、外れやすい肩をしている人がいるそうなんです。中には、くしゃみしただけで外れちゃう人もいるらしいですよ」
「へー。よく知ってんな」
「うちの妹がそうなんです」
「妹?」
「はい。まだ妹がちっちゃくて、よく二人で遊んでいたころのことなんですけど――」
川田の話によると、ある日、まだ幼稚園生くらいだった妹さんといつものように遊んでいて、どういう弾みでそういう遊びになったか、川田が妹さんと両手を繋いでぐるぐる回しはじめたそうです。川田は回る勢いで生まれた遠心力によって妹さんを宙に浮かせて、彼の周りを回転させました。
妹さんはきゃっきゃっと喜んでいましたが、ある時点で突如同時に両肩が外れてしまいました。その両肩が外れる気味の悪い感触が、繋いだ手を通じて川田に伝わってきて、慌てて彼は回るのを止め、手を離しました。
哀れな妹さんは両腕をだらりと下げて、
「お兄ちゃん、痛いいいい」
とゾンビさながらに腕をぶらんぶらんさせながら泣きついてきたそうです。
なんという悲劇。
脱臼は、全くの悲劇です。いや、周囲の人からすれば、もしかしたら痔などと同じように喜劇的要素を持つ怪我なのかも知れませんが、当の本人にとってこんなに苦しく、恐ろしい怪我はありません。
その痛みは激しく、いったん癖がつくと運動や日常生活に支障をきたし、またいつ外れるかわからないという恐怖は当人の精神を追い込みます。そうして骨折などと違って死ぬまでまとわりついてくるのです。
*
私が高校三年のインターハイ予選を終え、ボクシングを辞めた後も、脱臼癖は私の日常にしばしば現れ、私をいじめ抜きました。
その脱臼遍歴を、時系列を無視して思い出すままに書くと、だいたい次のようになります。
自分の部屋のベッドで横になって眠りかけていた時、なんとなしに右腕を伸ばし、頭を載せて枕代わりにしていたら、外れました。
実家のコタツに入って、独り金曜ロードショーを観ていた時、テレビの音を小さくしようとしてコタツの天板にあるリモコンを取ろうと、やや無理な角度で腕を伸ばしたら、外れました。
腰痛を治すために整体マッサージを受けた時、整体師があまりに強く私の体を押してくるので、仰向けになって整体を受けていた私は我慢ができなくなり、
「いたたたたっ」
と勢いよく上半身を起こしたのですが、その瞬間ごきりと肩が外れ、もはや腰が痛いのか整体師に押されている部分が痛いのか肩が痛いのか、わけが分からなくなりました。
このほか、挙げていけばキリが無いのですが、なんといっても一番思い出に残っているのは予備校の授業中での亜脱臼です。
高校を卒業した私は、ボクシングばかりしてきて全く勉強をしてこなかったので、大学受験に全落ちし、浪人して予備校生になりました。
予備校で勉強漬けの毎日を送っていた初夏のある午後、英語の授業でのことでした。その時の授業内容は英文の読解テストでした。私は机に座って配られてきた一枚のプリントの英文を読んでいましたが、なんとなく右肩がうずき、(いってえな)と思いながら、ぐるぐる肩を回しました。
ぼぐっ
見事に外れました。
私は痛みで机に突っ伏しました。いつもより外れかたがひどいようで、息がつまり、いつまで待ってもなかなか元に戻りません。
どうしよう、と思いました。試験時間は刻々と過ぎていきます。それに、このまま肩が戻らなかったら、病院に行かなければなりません。
「先生、肩が外れました」
手を挙げて、テスト中の教室の静寂を裂き、他の生徒の注目を集めながら、まさかそんなことは言えません。恥ずかしすぎます。
仕方なく私は痛みに耐えながら、肩の外れた状態で英文読解を再開しました。するとしばらくして、
ごくっ
と肩が鳴って元に戻りました。私は額に浮かんだ汗をぬぐって、非常に悲しい思いになりながら、誰に何も言うこともできず、何事も無かったように読解を続けました。
*
一年間の浪人期間を終えて、私は無事都内の大学に受かりました。そうして性懲りも無く、受験期間中は中断していた格闘技をまたはじめたのです。
入学早々、私は空手を習いはじめました。私が下宿していたアパート近くの、小学校の体育館で教えている、町道場でした。練習生は子供が多く、組み手よりも型(演舞のこと)中心で教える、和気あいあいとした道場でした。
はじめて体験稽古をしに行った時、ウォーミングアップの一環で、皆で体育館の中をぐるぐる走るメニューがあったのですが、それをすると私の前にも後ろにも道着を着たたくさんの子供たちがばたばた走り回って、私は小さい子を踏んづけてしまわないよう気をつけなければならないほどでした。そんな子供たちがかわいく、私はつい入会を決めてしまいました。
その空手道場で、子供に混じってわいわい型の稽古などをしているうちは、まだ良かったのです。三年生になったころ、私はその道場内で行われる小規模の組み手大会で、どうしても優勝したくなりました。そのためには、その空手道場の練習だけでは全く不足でした。そこで私は水道橋にあるキックボクシングのジムにも入会し、練習不足を補うために本格的に格闘技を再開してしまったのです。
空手の練習は、私にとっては軽く、型中心だったこともあり、亜脱臼は一度もしませんでした。しかしキックボクシングの練習ではそうはいきません。練習は厳しく、かつ激しく、私は何度も肩を外しました。
しかし皮肉なことに、そのころになると肩を外しすぎて、かえって外れることに慣れてきてしまいました。痛みも、肩を外しはじめたころほどでは無いのです。私は亜脱臼するたび冷静に元に戻るのを待ち、肩がはまるとすぐ練習に戻り、痛みの残る右手以外、つまり両脚と左手だけを使ってサンドバッグ打ちやマス・ボクシングに参加するのでした。
いよいよ空手の大会が近づいてきた、大学三年時の初秋のある日のことでした。私はキックボクシングのジムでマス・ボクシングをしていて、また肩を外しました。
「すみません、肩外れました」
私がマス・ボクシングを中断してインストラクターの先生に言うと、先生はちょっと驚いた顔をして、
「大丈夫か」
「大丈夫です。ほっておけば、自然に治るので。みっともないので、はまるまで更衣室に行ってます」
「おう」
私も先生も、もう慣れたものでした。
私は練習場の階下にある更衣室で、肩がはまるのを待ちました。更衣室は私以外誰もおらず、ひっそりとしていました。
(痛いなあ。早く戻らないかな)
ロッカーが壁際に並んだ更衣室の真ん中で、私はそんなことをぼんやり考えていましたが、やがてふと興味を持って部屋の隅にある姿見鏡の前に行きました。外れている状態の自分の肩がどんな風に見えるのか、知りたくなったのです。
その日私はハーフパンツだけを着て練習していました。裸の上半身が鏡に映りました。
右腕は、上腕骨が外れたため、肩の丸みが数センチ下に落ち、腕先はだらりと垂れ下がっていました。鎖骨の先っぽが、肩先の皮膚の下で、体の外側に向かって突き出ているのが分かります。
(ふうん、こんな風になっているのか)
私はのんびりそんなことを考えました。いつかテレビで見た、千代の富士の脱臼した肩と一緒だな、と思いました。練習直後でまだ弾んでいる息が鏡にかかり、鏡が白く曇りました。
(もう、長く格闘技を続けるのは無理だな。今度の大会で優勝したら、いや、遅くとも大学を卒業するまでには、空手もキックボクシングも辞めよう。それにしても今回は時期が悪いな、大会が近いっていうのに……二、三週間は痛みで右手は使えないだろうから、そのあいだは左手と脚だけで練習するしかないな、本番までには右手も使えるようになるだろうけど)
そんなことが、つらつらと頭に浮かんできました。すると、思わぬことに涙がにじんできて、こぼれそうになったので、慌てて手でぬぐいました。痛みからではなく、悲しくて泣きそうになったのです。
格闘技が好きで、好きで、仕方がなく、それまでやってきましたが、こんな厄介な怪我を持ちながら続けられるほど甘い競技ではないことは、自分自身が一番良く分かっていました。この脱臼癖に対して、何も努力しなかったわけでなく、腕立て伏せやダンベル挙げなど、肩まわりの筋力トレーニングは人一倍やって、ずいぶん予防に心がけてきたのですが、どうしても外れてしまいます。あと、残る手段は手術しかないのですが、そんなお金もありませんし、そこまでしようとは思えないのでした。
「ぐっちょん(私のあだ名)、大丈夫か?」
その時、心配した先生が練習から抜けて更衣室へやってきてくれました。
この先生はリョウ・ペガサスというリングネームで、私と同い年の現役のキックボクサーでした。まだ二十歳そこそこだった当時、既に日本ランキングに入っていて、こうしてキックボクシングのインストラクターの仕事も持っており、それから十年近く経った今(2018年一月現在)も、第一線で活躍しています。今度の二月、日本タイトルマッチに挑戦するそうです。
リョウさん――私たち生徒は彼をそう呼んでいました――は、若い頃の魔裟斗選手をほうふつとさせる金髪と日焼けサロンで焼いた小麦色の肌を持ち、当たり前ですが細マッチョのいい体をしていました。性格は一見どこまでも明るく、前向きで(「一見」と書いたのは、格闘家という厳しい職業を続けるため、本人が努力して明るく、前向きになろうとしている節があったからです)、自分の強さを鼻にかけず、そうして誰よりも練習と指導にひたむきな、皆から好かれる魅力的な青年でした。
「肩戻った?」
リョウさんは私のそばへやってくると、いつも冗談ばかりを言うこの人には珍しく、真剣に言いました。私と同様、上半身は何も着ておらず、キックボクシングパンツ一丁です。私は慌てて鏡の前から離れると、涙を浮かべていたのがばれないように、震えそうになる声をわざと大きく張って、
「大丈夫です。いや、まだ戻ってないんですけど、大丈夫ですから」
「そうか」
「練習に戻ってください。それから、肥沼さん(私が先ほど肩を外した時、マス・ボクシングの相手をしていた練習生)に、いつものことだから気にしないでくださいって、伝えといてくれますか」
「分かった。じゃあ行くから」
「はい。……あっ」
ごきっ
「どうした?」
「戻りました」
「あ、そう」
「はい」
「……ははは」
リョウさんは人なつっこい笑顔を浮かべて、心からおかしそうに笑いました。私もなんだかおかしくなってきて、つられて笑ってしまいました。
私は元気に練習に戻りました。
*
リョウさんの下で散々練習をしたおかげで、私はその後の空手の大会で無事優勝しました。調子に乗って、就職活動そっちのけで四年生の時にあった大会にも出場し、連覇しました。
こうして連覇と書くとなにやらすごいことのように思えるかもしれませんが、前に述べたとおり道場内の本当に小さな大会で、成人男性の部は出場者が五、六人しかいなかったので、人に自慢できるようなものではありません。
しかしそれでも私には非常にうれしく、私は満足して格闘技を卒業しました。
*
そうして、去年の秋のことです。
私の住む栃木の実家に、横浜から兄家族が連休を利用して帰省してきました。兄は数年前に結婚し、娘を二人もうけています。当然、二人は私にとって姪っ子になります。
姪っ子たちは五歳と二歳で、遊びざかりです。実家の中をかけまわり、ときどき二階の私の部屋にもやってきます。
私の部屋では、二人してベッドの上に乗っかって、ベッドをトランポリン代わりにしてぴょんぴょん跳ねるのがお気に入りです。
その午後も、二人は私の部屋へ来襲し、ベッドを占領して遊びはじめました。二人の様子を私がベッドのそばで眺めていると、下の二歳の姪が、舌っ足らずな口調で、
「にいに、たかいたかい、してぇ」
とねだってきました。そう言いながら、その小さな腕を私のほうへ伸ばしてきます。
「たかいたかい? いいよ」
姪っ子のかわいさにはかないません。私は姪の両脇の下を持ち、
「はい、たかいたかーい!」
と言いながら彼女をベッドから高く持ち上げました。姪はきゃははは、と笑って大喜びです。
すると、それを見ていた上の子が、
「わたしも、わたしも」
とむずかりはじめました。上の姪は体重二十キロほどあるでしょう。しかし私は姪っ子たちがなついてくれるのがうれしく、調子に乗って、今度は上の姪の両脇を持って、
「はいはい。じゃあいくよ、それ、たかいたかー」
ごきん!
盛大に外れました。
「ぎゃああああっ」
私は突如のことで若干パニックになり、両手を離して姪を落としてしまいました。姪はベッドのマットレスの端に膝から落ち、そのままバランスを崩して前に倒れて、べしゃん、と床におでこをぶつけました。
「うわああああん」
姪は痛みとびっくりしたのとで、火の点いたように泣きだしました。それを見ていた下の姪っ子も、びっくりしてしまったらしく、
「ぴゃああああ」
と泣きだしました。
「どうしたの!?」
何よりも二人の娘を大切にしている義姉が、勢いよく一階のリビングから階段を上がってきて、部屋の扉を開けました。
泣いている二人の姪は、やってきた義姉に駆け寄って抱きつき、激しく泣きじゃくりました。私は戻らない肩を左手でおさえて、片膝をついてひたすらあぶら汗を流していました。
地獄絵図。
私は、一生、かわいい姪っ子を抱き上げることさえできないのでしょうか。
それ以来、肩は外れていません。今私の右肩は、普通の状態でも回したりするとごきごき骨が鳴ります。もう、骨がおかしくなっているのでしょう。これを書きながら、私はどうにも肩が気になり、ときどき回して、ごきごき鳴らし、次はいつ肩が外れるか、戦々恐々としています。