物語のまえ
第三四回 八田島登戯曲賞 授賞式。
客席には劇作家、演出家、評論家、学生、演劇ファン、関係者……それぞれの想いを胸にした人々が集まっていた。
壇上に立つ司会者が、緊張と期待に包まれた会場に向けて、ゆっくりと発表する。
「……大賞は、西原憲一郎さんの《カワセミの翡翼》に決定しました!」
会場から拍手が沸き起こる。
西原が一礼し、緊張した面持ちで登壇する。
審査員のひとり、小畑が笑顔を浮かべながら賞状を手渡した。
司会者が続けて口を開く。
「そして今回、特別賞が一作、選ばれました。」
一瞬、場内にざわめきが広がった。
「作品名は──《無題》、原稿用紙2枚、作者名不詳の応募作です。」
息をのむような沈黙が、空間を包む。
スクリーンには、例の二枚の絵が映し出されていた。
ひとつ目の絵。
ステージ上に一列に並ぶ役者たち。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが手を伸ばしている。
終演の礼を描いた、静かな一枚。
ふたつ目の絵。
ピアノの前に座る幼い少女。
顔を手で覆い、じっと聴く女性。
そこには言葉がなかった。でも、確かに──声があった。
その絵を見つめる人々の目が、少しずつ潤んでいく。
少し前
審査会場には、まだ議論の熱が残っていた。
【カワセミの翡翼】を大賞に推す声が多数を占め、結論はほぼ見えていた。だが、あの“絵だけの作品”をどう扱うかは、誰の胸にも引っかかっていた。
「この作品を、無視するのは簡単です。でも、私はそれでこの場を終えるのが正しいとは思えません」
大久保の声が、静かに響いた。
「これは、たしかに完成された戯曲とは言えない。だが、舞台化の余地があるという一点において、他のどの応募作よりも議論を呼び起こした。つまり、今、我々の想像をもっとも“動かした”作品です」
馬場が、腕を組んで小さくうなずいた。
「たしかに……。評価が分かれたというより、“深まった”という感覚はあったわね」
「賞を与えるということは、“書き方を変えるな”と励ますことでもある。だったらこれは、“このまま進め”とは言いづらい。ただ、書いた本人の声が、ここまで届いたという事実は、評価に値する」
小畑が鼻を鳴らした。
「……特別賞ってのは、そういう時のためにあるんじゃないのか」
大久保はうなずいた。
「正式な審査項目にはない。だが、創設しても構わないはずです。
我々審査員が、“この作品に何かを感じた”という証として。
その場に、誰も異を唱えなかった。
会場の展示スペースには、受賞作の紹介パネルとともに、特別賞の盾が飾られていた。
木製のシンプルな盾。下部の小さなプレートには、こう記されていた。
《無題》
作者不詳
第三四回 八田島登戯曲賞・特別賞
その下に、小さな手書きの紙が一枚、セロテープでそっと貼られていた。
「台詞はない。けれど、声がした。」
気づいたスタッフが、怪訝な顔をして横山に声をかけた。
「これ、誰が貼ったかわからないんですが……外しますか?」
横山は、しばらくその文字をじっと見つめていた。
そして、静かに首を振った。
「もう少し、このままで飾ってもらえますか」
スタッフは少し驚いたような顔をしたが、「わかりました」と応え、そっとその場を離れた。
横山は一歩引いて、展示全体を見渡す。
そこには何も語らない絵と、何も語らない盾と、
けれどたしかに何かを伝えようとしている、“声なき声”があった。
夜。
誰もいない小劇場の一室。
簡素な照明に照らされた舞台の中央。
ただ一筋のスポットライトが、静かに落ちている。
セットも、役者も、音もない。
台詞も、ない。
けれど、どこかに声があった。
聞こえるはずのないものに、耳を澄ませるように。
──物語は、もう始まっているのかもしれない。
あるいは、すべてが終わったあとなのかもしれない。
舞台の幕は、上がってもいないし、下りてもいない。
ただ、その場所に“在る”。
静かな、けれど確かな熱だけが、そこに残っていた。
最後まで読んで頂きありがとうございました
また、次の作品でお会いしましょう
沖峰みきお