声を描く
大久保が灯してきた無数の火の中で、一際大きな炎となったのが成田だった。
かつて彼の劇団を巣立った役者や劇作家は数知れず、いわば演劇という焚き火の担い手たちに、火を分け与えてきたのが大久保だとすれば、その火を掲げ、遠くの観客へと照らしてきたのが成田だった。
成田は今もなお、満席の劇場に甘んじることなく、学校や障害者施設、高齢者施設など、演劇に触れる機会の少ない場所へ赴き続けている。
そこで彼は、簡素なライトのもと、ほんの数人の観客に向けて語り、泣き、笑う。
大舞台でスポットライトに包まれた役者も、静かな集会所で誰かの心に火を灯す役者も、彼の目には等しく輝いて見えているのだろう。
そんな二人が築いてきた演劇という灯火の先に、いま僕たちはいる。
場の空気が、静かに熱を帯び始めていた。
絵を戯曲として見るかどうか、それだけでここまで議論が広がること自体、異例だった。
──これは演劇なのか?
──これは戯曲と呼べるのか?
議論は、すでに技術論や規定の範疇を超えていた。
一枚の絵に声を聴こうとする者と、ただの絵だと切り捨てる者。
両者の間には、埋まらないはずの距離があった。
けれど、誰もがその距離に目を向けていた。
もしかすると、橋がかかるかもしれないという希望とともに。
その空気を切り裂いたのは、審査員長・大久保の一言だった。
「横山さん」
大久保さんが静かに名を呼ぶ。
「この作品を、あなたはどう捉えましたか」
一瞬、会議室の空気が止まったような気がした。
その質問は、まるで舞台袖から照明がスッと差し込むような鋭さと優しさを持っていた。
僕は、ゆっくりと息を吸い込みながら、言葉を選んだ。
「……この2枚の絵を見たとき、僕はまず、少女の物語を想像しました。
きっと彼女の夢はピアニストだった。でも、耳の病気で、その夢は追えなくなってしまった。
母親はそれを誰よりも早く知っていて、けれど、言えなかった。
演奏する少女と、それを顔を隠して聴く母の姿には、そんなすれ違いと愛情が重なって見えました」
会議室に沈黙が落ちる。僕は続けた。
「でも少女はやがて新たな夢を見つける。それが演劇だったのではないかと。
ピアノでは届かなかった想いを、舞台の上でなら伝えられる——
だから、もう一枚の絵。終演の礼の場面で、少女は舞台に立っていた。
彼女の夢は、形を変えて、でも確かに届いたんだと、そう感じました」
ここまで話し終えたとき、小畑さんがゆっくりと煙草を灰皿に押しつけながら言った。
「……なるほど、面白い読みだよ。話も綺麗にまとまってるし、きっと観客も泣くだろうな」
一拍おいて、小畑の声の調子が変わった。
「でもさ、それ、お前が勝手に作った物語じゃないか?」
「え?」
「つまり、“想像力”で補完しすぎてる。そういう話なら、もっといい絵だって世の中にはある。
勝手に感動できちゃうやつ、いくらでもな。
それに、この絵の作者がそこまで考えて描いた保証なんか、どこにもないだろ?」
その言葉に、会議室の誰かが小さくうなずく気配がした。
的を射ていた。
本当にその通りだった。
小畑さんの指摘は、僕の想像の“危うさ”を正確に突いていた。
でも——
「はい。おっしゃる通りです」
僕はうなずいた。逃げるつもりはなかった。
「この物語は、僕の想像です。作者が何を意図して描いたかは、わかりません。
でも、演劇って——
脚本と演出、役者、照明、音響、観客、それぞれの想像が重なって、初めて立ち上がるものじゃないでしょうか」
その場の空気がわずかに揺れた。
「正確な答えがないからこそ、観る側が、自分の中の“物語”を投影していく。
僕がさっき話した少女の物語も、誰かにとっては母の物語かもしれないし、
まったく別の感情や記憶に繋がるものかもしれません」
僕は、成田さんの言葉を思い出していた。
——舞台で呼吸させて、はじめて命になる。
「この絵は、完成してない。けれど、呼吸する準備ができている。
そういう意味で、これは“脚本”ではなく、“火種”なんだと思うんです」
言い終えたとき、大久保さんが再び口を開いた。
「……横山さん」
その声は穏やかで、だが重みがあった。
「あなたは今、言いましたね。これは脚本ではなく、火種だと」
「はい」
「それなら——火を灯せるかどうかは、誰に委ねられるべきだと思いますか?」
僕は、はっとして言葉を詰まらせた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……観客です」
「そう。評価とは、燃えた火の温度ではなく、
火をつけたときに、どれだけの人がその温もりを感じたかで決まる。
これは、そういう“問い”を内に持った作品なんじゃないですかね」
その言葉に、しばらく誰も何も言わなかった。
ただ、深く、深く、静かに舞台の幕が開いていた。
次で最終章になります