ジル・アンド・コートニー
妖精の伝説が息づくある小さな町に数年ぶりに雪が降り積もった。
砂糖をまぶしたように真っ白になった家々が軒を連ねるシュレーガー通り、そのある一角の家の窓から、淡い光が漏れ差した。
出窓の片隅にいくつも並んだ作りかけの人形たちを背景に、絹のように滑らかで美しい翅を羽ばたかせた妖精がゆっくりと屈みこむ。
妖精の前には、一体のキャストドールがあった。
豊かにうねった銀髪の髪が人形の頬に落ちかかる。薄かった影が次第に濃くなり、温度のない唇と小さな唇が重なりあった。
雪が降った満月の夜に生まれた妖精が「口付け」するとき、奇跡の光で周囲が光り輝くという伝説のとおりに、その夜、小さな工房に光が差した――。
「ジルッ、見てちょうだい!」
「ヤダ」
「いいから見て、大至急よ。こっちを見て!」
鈴を転がす明るい声がして振り返ると案の定、そこには銀髪の妖精が自分の背丈ほどもあるガーベラの花を一輪抱えて立っていた。
「ついに来たわ、恋の季節! ガーベラの花も咲き乱れ、深窓の乙女も顔を出す季節が!」
「深窓の乙女を竹の子か何かみたいに言うなよ」
「さあこのガーベラの花を活けるのにどの花瓶を引っ張り出せばいい? 色はアクアマリン? それとも……」
人の話を聞かず、妖精は勝手知ったる部屋を漁り出す。
「キャロットオレンジ!」
両手で大きな人参を必死に持ち上げながら妖精が満面の笑顔で振り返った。
「新しい花瓶を発明したわ、ジル。このヘタを切り落として中を空洞にするの」
「誰が空洞にするって?」
「もちろんジルよ!」
「却下だ」
まだ日も登りきらないうちからせわしなく動きまわる妖精を、出窓に腰掛けた人形が見下ろしていた。
「名案だったわ……」
落ち込む妖精が少しだけ不憫に思えて、人形は出窓から立ち上がると、妖精に程近い作業台の上に乗り移って言った。
「俺の力ではとても無理だ、ルミナス」
とても残念そうに心をこめてそう言うと、「いいの、気にしないで」とルミナス。
「この花瓶が世に生まれれば、わたしの恋も成就する気がしたのだけど。要はこのニンジンがわたしの恋そのものを体現しているのよ」
「皮ばかりが厚くて固いってことか?」
作業台の縁に座り、足をぶらぶらさせながらジルが皮肉る。
「ジ・ル! わたしの恋を応援してって何度お願いすればわかってくれるの!?」
それまで大事そうに抱えていたニンジンを放り出し、ルミナスが浮かび上がった。
背中についている二対の翅が優雅に羽ばたき、音もなく体を浮き上がらせたのだ。昇りだした朝陽を背景に、角度を変えて紫金色に輝く彼女は実に幻想的で息が詰まるほど神々しい。
「コートニーが起きてもガーベラのことは内緒ね」
キャロットオレンジの花瓶を諦め、アクアマリンのガラス細工の花瓶に摘んできた一輪のガーベラを挿しながらルミナスは囁いた。
「愛しのコートニー! 今日こそは気づいてくれるかしら」
ヒラヒラと部屋の中央を舞い踊る、恋する妖精ルミナス。
「愛しの……ね」
皮肉屋少年ドールはそんな妖精を遠目に眺めながら、唇を引き結んだ。
妖精ルミナスがジルに「口付け」して命を吹き込んだことには理由があって、人形師コートニーとの間を取り持って欲しいそうだ。
なぜならジルはコートニーの最高傑作!
恋の仲人にはピッタリだというのがルミナスの持論。
ジルとしては迷惑千万である。誰がくっつけてやるもんか! と思っている。そうとはしらないルミナスはのんきなもので、毎日ジルのいる出窓の所から工房にやって来ては、花やキレイな小石などを置いていく。
綺麗なもの、可愛らしいものがあるだけで心が華やき、インスピレーションも湧くに違いないと信じて疑わないのである。けれど小心者のコートニーは毎日変わる花などの贈り物を、近所のパン屋の看板娘が持って来てくれているのだと勘違いしていた。
そう勘違いさせたのはジルである。
ジルはルミナスと違って、コートニーとも話せるのだ。
「今日もあの娘が来ていたんだね」と寝ぼけ眼で欠伸を噛み殺しながら呟くコートニー。
ジルは否定も肯定もせずに黙っている。彼の傍にはまだルミナスがいたからだ。
「ジル、恋に効く薬をいれたら振り向いてくれる?」
「そんなのやった瞬間にすべてが終わりだ」
本当はルミナスの姿を今までのように自分以外は誰にも見られたくないと思っているのだった。だからもしコートニーが薬を飲んでしまって、体調に変化が生じてルミナスの姿が見えるようになってしまったら、と思うと思わずつっけんどんに言ってしまうのだった。
ルミナスは本当に綺麗だった。ジルの瞳を飾る燐灰石よりも綺麗に違いないとジルは信じていた。
綿飴のようにふわふわとうねる銀髪は重さを感じさせず、常に浮いていて、虹を閉じ込めた大きな瞳は角度によって様々な色に変わった。笑うと小さな笑窪ができる口元は薔薇色に艶めき、いつだってジルを魅了した。
だからこそやきもきするのだ。
コートニーが沸かしたお湯で熱めの紅茶を蒸らしながら、朝食づくりに取り掛かった。
分厚く切ったトーストをさらに並べ、熱したフライパンでベーコンと目玉焼きをつくり――「紅茶を蒸らしすぎよコートニー!」――ティーカップに、蒸らし過ぎた紅茶を注ぎ入れて着席する。
「いただきます」
コートニーは静かに佇むジルにむかって言うと、手に持ったナイフでベーコンと目玉焼きを均等に切り分けた。
「いつもながらのんびりしてて、良い風景ね」
だから朝は好きよ、とルミナスがジルの隣で笑う。これで恋だの愛だの言わなければいいのに、と胸の内でジルは思った。
食事を終え、さっそく仕事をするようだ。コートニーは汚れてきたエプロンを首にかけ、鼻歌交じりに机に向かう。
「今日もハッピーみたいね」
「それはキミだろ」
ニコニコと嬉しそうにコートニーを眺めるルミナスの姿がジルは好きではない。
「どうしてジルはいつも冷たいことばかり口にするの」
少し強い口調でルミナスがジルをなじった。不満顔もかわいいなどと思われているとも知らず、彼女は歌うように言葉を続ける。
「氷のような貴方なんか嫌い。大好きなのはポカポカ太陽の貴方。わけを話して。貴方の機嫌の悪いわけを話して」
しかしそれは難しい話だった。
ジルは答える代わりに無言でそっぽを向いた。
「わけを話してくれないといつまでもわからないわよ、怒りんぼさん? だんまりは反則じゃなくって、こまったさん?」
するとルミナスはいつもの調子で言葉遊びを始めてしまう始末。人の心配をしているのか、怒らせようとしているのか……。妖精の考えることはよくわからない。
(ああ、それでも俺はルミナスが好きなのだ)
ジルはキッと前を向くとコートニーに向かって指さしながら囁いた。
「ルミナス、よく聞け。あいつは少しもお前のことを信じちゃいない。お前の存在を微塵も感じていないんだ」
「ど、どうしたのよジル……そんな酷いことをいうなんて貴方らしく……貴方らしいけど、」
「どうして言い直した」
「……決してそんな冷たいことは言わなかったのに!」
「酷すぎるわ!」涙を目に浮かべながらルミナスは逃げるようにして外に飛び出して行ってしまったのだった。
ルミナスはどこへ行くとも知れない荷車に揺られながらぼんやりと遠くの景色を眺めていた。
ルミナスがコートニーに恋したきっかけは、寝ぼけて屋根から滑り落ちた時、ガーベラの花束で受け止めてくれたのが彼だったからだ。
その日からルミナスはコートニーの傍で長い時を過ごすようになったのだった。
コートニーが紅茶を飲もうとした時には、もっと美味しくなるように、甘くて幸せな気持ちになるようにとおまじないをかけた角砂糖をプレゼントしたりしたっけ。
コートニーが仕事をしている時は、なるべく邪魔にならない所――ルミナスの特等席である出窓――に座って作業を見守ったものだ。
ルミナスの毎日はいつもコートニーを中心に回っていた。それがある日、ルミナスの特等席に別の人影が居座っていたことで変化した。それはとても美しい少年の面差しをした人形で、コートニーの最高傑作だった。
「ジル」
コートニーが彼の名前を呼んだ時、ルミナスの中に電流が走った。
ジル。
ジルという名前なの。
最初は興味半分で、コートニーの目を盗みジルでお人形遊びをした。
満月の夜にジルとパヴァーヌを踊ったりもした。
けれどそのうちに、だんだんと惹かれるようになっていって、「口付け」の理由欲しさにコートニーが好きなふりをした。
コートニー、ごめんなさい。わたしはあなたを利用したわ。そうしなければ、"物"に「口付け」ることは許されないから……。
「口付け」は妖精にとって命も同然の大事なものだから、おいそれとしてはいけない儀式だから。ルミナスにとって一生に一度の「口付け」がジルのためなら。
雪の降る満月の夜、命を賭して「口付け」したのだった。
数日間かけて荷馬車は隣町に停まった。俯いていたルミナスが顔をあげると、陰気な見世物小屋が町の片隅に建っており、その中に見間違えもしないジルの姿が見えた。
「ジルッ!!」
ショーケースの中にぐったりと倒れこんでいる。
ルミナスの声に、燐灰石の瞳を薄く開けてジルは弱々しく微笑んだ。
「よう、ルミナス」
「ジル! 貴方どうしてこんなところに!」
「昨日の夜、工房に強盗が入ったんだ。ほとんどの人形は無傷だったが、俺だけは目が宝石だったんで連れて来られたみたいだ」
「見たい…って、他人事じゃないでしょう!?」
ルミナスは頑丈なショーケースを懸命に揺さぶった。びくともしない重たい素材のショーケースを憎々しげに眺めていたルミナスは、わずかに口を開けたジルに気がつくと、彼の言葉を一言一句聞き漏らさないようにと耳をそばだてた。
「お前じゃ無理だよ。見世物は今晩一晩やってるから、コートニーの前に姿を現してあいつを呼べ。そんでお前自身の存在を信じさせて来い」
ルミナスはすぐに飛んで帰った。
コートニーのいる工房へは目をつぶっていても通えるほどに知り尽くしていたから何の心配もなかった。
そして工房にコートニーはいた。
彼は荒らされた工房内を一人黙々と片付けているところだった。
「コートニー!」
突然工房の扉を蹴破る勢いで一人の娘が乱入した。人の姿を借りたルミナスであった。
「姉さん、どうしてここに……?」
そしてその姿は、今は亡きコートニーの姉の姿であった。
「ジルが隣町の見世物小屋に捕まっているわ! 助けて、コートニー!」
すがりついて来る少女の姿に、小心者のコートニーは思わずたじろいだ。
「わ、わかった。憲警を呼ぶ!」
亡き姉が生き返った、もしくは化けて出てきたと思っているのだろう。コートニーはルミナスの言葉に従順だった。
借りてきた馬を叱咤し、見世物小屋に乱入すると憲警の助けもあってポカンポカンと相手をやっつけたのだった。
元の姿にもどり、ジルを助け起こしたルミナスにジルが言った。
「ようやくお前の願いが叶ったな」
ジルは未だルミナスがコートニーを好いていて、今回の件で彼の前に姿を現したと思っているのだった。
「何言ってるのよ、私の願いはまだ叶いそうにないわ」
ふふふ、と笑うルミナスを、ジルは小首を傾げて見た。
その後、無事にコートニーの工房へ戻ったジルは、コートニーの前で亡き姉の姿をとるルミナスを見て「それじゃあ叶うものも叶うわけないから」と呆れて呟いた。その言葉はあまりにも小さ過ぎて、コートニーとルミナスのたてる朗らかな笑い声にかき消されて、彼の言葉は二人の耳にまで届かなかった。