二日目 月曜日 その3
またというのは今度という意味ではなくて、明日のことだった。
つまりまた明日、鬼塚姫乃さんはお弁当を作ってきてくれるそうだ。というわけで明日のお昼はまたここで二人で一緒にお弁当を食べる約束をしてしまった。
ものすごく流されてしまっているような気がする。このままでいいのだろうかと、不安な気持ちでいっぱいだ。
だけどあまり表情には出ていないけれど、上機嫌そうな彼女を見ていると下手なこともいえないわけで。僕がただ単にヘタレているのかどうか判断に迷うところだ。
気がつけばお昼休みもそろそろ終わりそうな時間だった。
鬼塚姫乃さんは空になったお弁当箱や水筒を片づけている。
洗って返した方がいいのかな。などと考えているうちに僕の分のお弁当箱はさっさと回収されてしまっていた。
「ねえ鬼塚さん」
声をかけると片づけていた手を止めて彼女は身体ごと僕の方を向いた。これも実は敬語以上に気になっていたことだ。質問した時もそうだけど、彼女は僕の話を真剣に訊きすぎるような気がする。これも別に悪いことじゃないのだけど、姿勢まで正しちゃいそうな勢いだ。
「お弁当のお礼に、何かさせてよ。何か僕にできることあったりするかな?」
どんどんと自ら墓穴を掘っている気もしないでもないけれど、お礼がしたいなと思ったのは本心からだ。
「そ、そんなお礼だなんて」
ある意味予想通りの答えが返ってくる。
「わたしは加藤さんに友達と思ってもらえているだけで十分幸せですから」
予想以上の答えが返ってきた。しかも冗談でも何でもなく真顔で言われてしまった。これってもしかして告白されているくらいの言葉の重さじゃないか。
「それにお弁当も喜んでもらえて、こんなにうれしいと思った日はないくらいです」
正直に言おう。僕は少しひいてしまった。顔も軽くひきつっていたかもしれない。
だけれども僕は一歩踏み出すことにした。
勘違いから始まったことだけれど、勘違いを本当にしてしまってもいいかなと思った。本当の鬼塚姫乃さんを多少なりとも知ってしまった今となっては、彼女が鬼姫と呼ばれていたとしても怖がったり嫌ったりできそうにないしね。それにここまで言われてしまったら、後悔することになったとしても後には引けないというものだ。
だから僕は鬼塚姫乃さんに向かって右手を差し出した。
「今さらかもしれないけど、あらためてよろしく!」
突然すぎる僕の行動に、鬼塚姫乃さんはポカンと口を開けて僕の顔を見ている。自分でも唐突だなと思うくらいだから、彼女にとってはまさに青天の霹靂だっただろう。でも僕の中ではっきりとケジメというか前に進むための意思表示みたいのが必要だったんだ。
鬼塚姫乃さんはいまだに僕の行動の意味を計りかねているようだった。言葉の意味もうまく理解できていないといった感じだ。戸惑いいっぱいの瞳を何度か瞬きして、視線を僕の顔から差し出している右手に移す。それからまた僕の顔に戻ってきた。
「はい握手」
もう一度僕は右手を差し出した。
「は、は、ははい」
びっくりしたように鬼塚姫乃さんは身体を震わせてから、ぎこちなく、怯えているのかと思えるくらいおっかなびっくりな様子で僕の手に触れてきた。それから両手で、自分で言うのもなんだけど、大切なものでも扱うように両手で僕の右手を包み込んだ。
やっぱり鬼塚姫乃さんの手は小さくて華奢な感じだった。ひんやりとしているようであたたかなぬくもりが伝わってくる。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
下を向いて消え去りそうな声で呟いた。
「それじゃ戻ろっか」
僕は立ち上がった。そして彼女の手を引っ張って立ち上がるのを助けてあげる。
「……すいません」
立ち上がった鬼塚姫乃さんの手を離すと、彼女は両手を胸の前で握りしめた。
「だからさ、もうちょっと気楽にしてよ」
申し訳なさそうにしている彼女を見ているとなんだか苦笑してしまう。
でもまあお互いまだ打ち解けているとは言えない状態だし、しょうがないのかなとも思う。
というよりも果たして打ち解けることができるのだろうか。
とりあえず誤解から始まったこの関係に半歩くらいは踏み出せたと思うけど、この先どうなっていくのかものすごく不安でもある。
「ああ、そうだ!」
少しわざとらしい感じもしたけれど、僕はちょっとしたことを思いついてポンと一つ手を叩いた。思っていた以上にいい音がして踊り場に響き渡ってしまった。
鬼塚姫乃さんのことも驚かせてしまったようだ。目を見開いてこちらを見ている。
そんな彼女に僕は一つ提案をしてみた。
「僕のことはこれから、カトちゃんとか優太って呼んでよ。いつまでも加藤さんじゃなんだか型苦しい感じもするしさ。ね?」
気軽に気軽にと言ってもいきなりは打ち解けられないと思う。僕も「気楽にしてよ」と気を使っているつもりでいたけれど、逆にそのことがプレッシャーをかけている事になっていたかもしれない。だからまず第一歩として呼び方をフレンドリーにしてみようというわけだ。
さて僕のことをなんて呼んでくれるかな。ちょっと楽しみだ。
その鬼塚姫乃さんは追いつめられたように視線を泳がせている。目をそらしては僕を見るというようなことを何度か繰り返してついに決意を固めたようだった。
「でしたらあの……」
と話し始めた時だった。昼休みがもうすぐ終わりという予鈴が聞こえてきた。
チャイムの音に邪魔されて鬼塚姫乃さんは口を閉ざす。
タイミングが悪いな、と思いながら何となく天井を見上げてしまう。静かな場所にいるせいかいつもよりもチャイムの音が大きく聞こえるような気がする。
どうにも気まずい雰囲気になってしまって、僕たちは黙ってチャイムが鳴りやむのを待った。
普段はまったく気にしていなかったけど、結構長い時間鳴っているんだな、というようなことを考えているとようやくチャイムが鳴り終わった。
余韻のようなものが残っているけれど、また静かな空間が戻ってきた。
「……優太さんと呼ばせてもらってもいいですか?」
「もちろん!」
意味もなく見ていた天井から鬼塚姫乃さんに視線を移して僕は答えた。
「というか、さん付けじゃなくて呼び捨てでかまわないよ」
「とんでもないです! そんな恐れ多い」
「…………」
ちょっと恐れ多いって……。鬼塚姫乃さんの中で僕ってどんな扱いになっているんだ?
とにもかくにもこれでとりあえずは一歩前進なわけだからよしとしよう。
それよりもだ。
僕は鬼塚姫乃さんのことを何と呼べばいいのだろう。
自分のことを「加藤さん」じゃ型苦しいからといった手前、僕も彼女のことを今までのように「鬼塚さん」と呼び続けるのは違うと思う。
不公平だし、僕から距離を開けているようだ。それに僕と彼女との間にある距離感という壁がなかなか取り除けない。
だからと言ってなんて呼んだらいいのだろう。という問題に戻る。
例えば、鬼ちゃんとかかな。でもちゃん付けはまずいよな。
などと考えていると彼女が何か言いたそうに僕のことを見ていた。
「……わ、わたしからも、あの、お願いしてもいいですか?」
「遠慮なくどうぞ」
笑顔で答えてあげる。
すると鬼塚姫乃さんは一度視線を落としてためらった後、
「わたしのことも名前で呼んでもらえますか?」
と言った。
まさに今考えていたことだった。
でも名前って……。
「姫乃さんって呼べばいいのかな?」
けれども彼女は首を横に振る。
まさか、姫乃ちゃんと呼べと……。
それはそれでハードルが高い気がするのだけれど、彼女はもっと難易度の高いすごいことを僕に要求してきた。
「姫乃と呼んでください」
ハードルが高いどころじゃない。飛び越えちゃいけない地雷原が目の前にあった。さすがに呼び捨てはきつすぎる。
ついさっき僕も彼女に同じようなことを言ったけれども、それとこれとは問題の大きさが天と地ほどもある。いくらなんでも鬼姫と恐れられている鬼塚姫乃さんを呼び捨てにはできない。考えただけでも恐ろしい。それこそ恐れ多いというものだ。
実際は噂と違って十分かわいらしい女の子なのだけれど、それでもやっぱり呼び捨てにするのはまずいと思う。
「……ダメですか?」
切なそうに呟いた。一睨みでそこらの不良も泣いて逃げ出すと言われている瞳が今は悲しそうに揺らいでいる。
「ダメってわけじゃないけど……でも……」
そう、でもだ。
ちゃん付けもどうかなと思っていたのに、呼び捨ては……。
たとえば昨日会ったシンさんやカツマ君なんかが僕が姫乃って呼び捨てにしているのを聞いたらどう思うだろう。直接何かをいってくることはないと思うけど、お嬢と呼んで大切に思っている姫乃さんが友達だという男に呼び捨てにされていたらきっといい気持はしないと思う。
それに鬼姫だぞ。
鬼姫を呼び捨てにする僕って、一体どんなイメージだろう。
お弁当のお礼もしたいって気持ちもあるし、お願いを遠慮なくいってと言った手前もあるからどうにも断りにくい状況だ。
だけど考えてみたら本当になんて呼べばいいのだろうと悩んでしまう。
さんもダメ。ちゃんもちょっとなと思うし、かといって姫乃と呼び捨てもきついとなるとなかなか難しいところである。
姫乃さんは僕の返事を待っている。
どうしよう、どうしよう。だんだんと焦ってくる。
焦った結果、僕はこんなことを言っていた。
「姫って呼んでもいいかな?」
「姫、ですか?」
「そう姫。姫乃の姫で呼びやすいし、かわいくない?」
説明しながらこの姫という呼び方は、我ながら最高の答えなんじゃないかと思えてきた。
姫乃の姫だし、お姫様の姫でもある。
これだったら呼び捨てという印象もものすごく軽くなる気がするし、ちょっと敬っている感じもあったりする。まさに一石何鳥もある呼び方かも。
「愛称みたいなものだよ」
姫と呼ばれて戸惑っている姫乃に僕は笑顔で言ってみた。
心の中では姫乃と呼び捨てにするからこれで勘弁してくださいといった思いだ。
「ゆ、優太さんがそれでいいのなら」
初めて名前を呼ばれた。
頬を赤く染めて照れくさそうに呼ばれるとこっちまで照れくさくなってしまう。
鼻の頭をかきながらなるべく平静を保つ。
もしかしたら僕の顔も赤くなっているかもしれない。
顔が熱くなってきていた。
「それでは姫、教室に戻るとしますか」
照れ隠しのつもりもあって僕は丁寧にお辞儀をしてみせた。
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