二日目 月曜日 その2
一時間目の授業が終わった後の休み時間、僕は小野寺の誤解を解こうと思ったのだけれど、小野寺はそんなことは忘れたというようにテレビの話やマンガの話などを振ってきた。
まあいいか。
わざわざここで話を振ってもやぶへびになりそうだ。
たぶん小野寺流の軽口だったのだろうと思うことにする。
午前中の授業では特に指されてピンチになるということもなく、睡魔と闘ったりしながら無事に過ごすことができた。
昼近くになると授業の内容よりもお昼ご飯をどうしようかと考える方が忙しくなる。
そういえばお弁当を作ってくれると言っていたけれどあの話は本当なのだろうか。
何度か視線を感じたような気もしたけれど、振り向くと鬼塚姫乃さんが僕の方を見ている。なんていうこともなく接点がまるっきりないまま午前中の最後の授業が終わろうとしていた。
「カトちゃん、今日はお昼どうするの?」
あと五分で授業も終わりという頃に小野寺が身体を後ろにひねるようにして訊いてきた。
その小野寺の手にはすでに五〇〇円玉が握られていたりする。
小野寺と同じように学食組の何人かは、特に後ろの入り口近くにいる連中はすでに中腰になっていたりして臨戦態勢だ。
「どうしようかな?」
僕のお昼は、学食に行ってみたり売店でパンやおにぎりを買ったり、朝余裕があればコンビニなどで買ってきたりとその日その日の気分で決めている。
「学食にするなら席取っとくけど?」
毎日学食の小野寺が気を使っていってくれる。
とりあえず今日はコンビニには寄っていないから学食に行くか売店に行くしかないのだけれど……。大混雑する学食で並ぶ気分でもないし、昨日の鬼塚姫乃さんの笑顔が思い出される。
「うーん、とりあえず学食って気分じゃないかな」
「そっか了解」
僕の返事を聞いて小野寺は戻っていった。というかすでに身体の半分くらいは椅子からはみ出していた。教科書も仕舞ってしまっている。
まあこれもいつもの光景なのだけれど。
先生もしょうがないとあきらめているのか苦笑いを浮かべつつも何も言わなかった。
「じゃあ今日はここまで」
と、先生が言った瞬間に小野寺を含む何人かが教室から飛び出していく。
チャイムが鳴る。
あっという間に教室内から人の姿が少なくなる。残ったのはお弁当組やお昼を買ってきている連中だ。仲のいい同士で机をくっつけたりして、お弁当を取り出している。
そんな中、僕はなんとなくぐずぐずしていた。
学食に行くにも売店に行くにも完全に出遅れている状態だし、いまさら急いでもしょうがないというのもある。
今日は残りもので我慢しよう。そう思ってなにげなく窓際の席に視線を向けると、ちょうど鬼塚姫乃さんが鞄を持って席を立つところだった。
今日もどこかでお昼を食べるのだろう。
特に意味もなく僕は彼女の姿を目で追っていた。静かに気配を感じさせない歩き方で出入り口へと進んでいく。休み時間には前も後ろのドアもほぼ開けっぱなしになっている。そのドアの前で鬼塚姫乃さんは躊躇するように立ち止まった。悩んでいるといってもいい。出て行こうかそれとも……。という感じでなぜか迷うように固まっている。
どうしたのだろうと思っていると、彼女は急に方向を変えたかと思ったら、勢いよく一直線に僕の前までやってきた。
普段とは違う鬼姫の行動に教室内がざわめいた。
直接視線を向けてくるやつはほとんどいなかったけれど、教室内にいつ全員が鬼姫と僕の様子をうかがっているのはわかった。それというのもみんなお昼を食べる手が止まっている。
という僕も冷静ではいられなかった。余裕はない。
本当に驚いていた。
僕は何も言えずに椅子に座ったまま目の前の鬼塚姫乃さんを見上げていた。
怖いくらいに力の入った真剣な白い顔が僕に向けられている。けれども目があったと思ったらすぐに反らされて、でもまたこちらに視線が向いて目が合うのだけれど反らされて……。というようなことが何度か続いた。
よく見れば鞄を持っていない左手が、スカートを握ったり離したりと鬼姫のイメージからは想像できない行動をしている。それだけで緊張が伝わってくるというものだ。
「えっと、どうかした?」
言ってから後悔する。なんて間の抜けた問いかけだろう。もっと気のきいたことを言えない自分が嫌になる。きっと後になってこう言えばよかったなんて思いついたりするんだ。
でも今の僕にはなんにも思いつかなかった。なんて言えばよかったんだ?
「あ、昨日約束したから、お弁当を作ってきたのですけど……」
爆弾が炸裂した。とっておきの爆弾だ。一瞬にして教室内から音が消えた。
思わずといった感じで教室内にいた全員が僕たちの方を見ていた。
その顔のどれもが信じられないものを見たという表情でいっぱいの驚愕としたものだった。
僕からは教室内の様子がよく見えるけど、彼女、鬼塚姫乃さんはまっすぐ僕の方を見つめているのでクラスメートたちの状態には気がついていないようだった。
そうじゃない。
彼女は僕の返事を待っていて、他のことは気にしている状態じゃないようだった。
「ありがとう。ほんとに作ってきてくれたんだ」
なんとか答えることができた。それどころか普通に答えることができて僕は少しホッとした。
「約束したから」
彼女は約束の言葉を繰り返した。
約束。
昨日の出来事もそうだけど、元は僕が軽い気持ちで言ったことが始まりだ。
それでも彼女の中では僕の想像以上に大きなものになっているようだった。
「それじゃあ」
と呟きながら教室内を見回すと、何人ものクラスメートが慌てて視線を外す。なんだか一瞬にして僕は珍獣扱いらしかった。普通に話していたクラスメートたちとの間になぜか壁ができてしまったように感じるのは気のせいだろうか。
今度は僕が爆弾を投下した。
「それじゃあ一緒にお昼食べようか」
ピクピクとクラスメートたちが反応する。見たいけど見れない、それなのに全員の耳がこちらに集中しているのがわかって少しおもしろい。
「でもここじゃなんだから、どこか場所を変えようか」
さすがに教室でクラスメートに注目されながらお弁当を食べる気にもなれない。かといってどこに行っても注目の的になりそうな予感はするけれど……。
「それならいつもわたしがお昼を食べるのに使っている場所があるので」
と、鬼塚姫乃さんが言ってくれたので、彼女の知っている場所に移動することにした。
その移動も騒動の元だった。僕が鬼塚姫乃さんに続いて教室を出た瞬間、大爆発が起こった。本当に爆発したんじゃないかと思えるくらい教室内は大騒動になっていた。悲鳴や叫び声が聞こえてくる。いったいどうなっているのか戻って確かめたくなるくらいの大騒ぎだ。
まあ気持ちはわかるけれどね。
そんな教室の阿鼻叫喚具合よりも今の僕にはもっと重要な出来事がある。
もちろん鬼塚姫乃さんとお弁当のことだ。
彼女は教室の騒ぎに気がついているのかいないのか。それともただ単に気にしていないだけなのか。僕の前を黙って歩いている。
鬼姫が廊下を歩くと、おもしろいように人影がなくなっていく。人がいたとしても僕らを避けるように壁際に立っている。中には息を止めているやつもいるようだ。
なんというか……これが鬼塚姫乃さんの現実だった。あからさまに逃げたりしているわけじゃないけれど、それでも鬼姫という存在に係わり合いになりたくないという雰囲気だけは伝わってくる。
そして今日は彼女の後ろを歩く僕の存在が大きな話題をさらっているようだ。
後ろから視線が刺さってくるし、ざわめきが後を追いかけてくる。
廊下の突き当たりにある階段を昇っている時も大変だった。彼女だけならそうでもないのだろうけど、鬼姫に連れがいるということはほんとに衝撃的なことらしかった。
やれやれこれからどうなる事やら。先のことを考えるのがちょっと怖かった。
鬼塚姫乃さんに連れてこられたのは、階段を昇りきった踊り場だった。
「いつもここでお昼を食べているの?」
「はい、ここは誰も来ませんから」
ここは屋上へと続く階段の終点なのだけれど、屋上は立ち入り禁止でカギが閉まっているのでなるほどほとんど人が来ない場所だった。
逆にいえば誰も来ないこの場所で、彼女はいつも一人でいたわけだ。
とりあえず僕らは並んで座ってみた。
人の気配や声はほとんど聞こえてこなかった。思った以上の静けさに、僕は微妙に落ち着かない気分になってしまった。
考えてみれば女の子とお昼休みに人気のない場所で二人きりというのは緊張してしまう場面ではないだろうか。
しかもその相手が有名人の鬼塚姫乃さんなのだ。緊張しない方がおかしいと思う。
というわけで緊張感がぐんぐんとアップしてきてしまっていた。というか今までがどうかしていたのだ。たぶんびっくりしすぎて感覚がマヒしていたんだ。
それが今になって現実に、正気に戻ったというわけだ。
隣に座っている鬼塚姫乃さんは持ってきた鞄を床に置くと、中から水色とピンクの二つのきんちゃく袋を取り出した。同じような柄の色違いに見えるのは気のせいかな。
「ど、どうぞ」
そう言って水色のきんちゃく袋を差し出してくる。
「ありがとう」
お礼を言って受け取ってから、胡坐をかいた足の上にひとまず置いてみる。
間違いなくお弁当だ。軽くない重みが足から伝わってくる。
鬼塚姫乃さんは正座した姿で、膝の上にピンクのきんちゃく袋を置いて僕の様子をうかがっている。どことなく鬼気迫るような雰囲気が漂っていた。
「えっと、開けてもいいかな?」
自分でも間抜けなことを言っているなと思ったりもしたけれど、とりあえず聞いてみた。
こんな場面で辺りが静かすぎるのも問題だなと思った。
「はい、どうぞ」
鋭すぎる眼光が僕に向けられていた。彼女が怖がられる要因の一つでもある、氷のような無表情でまっすぐ僕を見つめている。まるで睨まれているようだった。
いろいろ例えがあると思うけれど、彼女をわかりやすく説明すると日本人形を思い浮かべるといいかもしれない。黒髪で色白の彼女がさらに白くなった顔を僕に向けていた。
その中でも意思が強すぎる瞳が微かにだけれど揺れているような気がした。
ただし僕からは視線を外さない。僕の挙動を一瞬たりとも逃さないとでもいうようにしっかりと見られていた。
僕以上に緊張した面持ちだった。
思わず唾を飲み込みたくなる気分だけれど、我慢してきんちゃく袋の口を開けた。
中にはきんちゃく袋と同じ青系のお弁当箱が入っていた。
間違っても落っことすようなドジをしないように気をつけながらお弁当箱をきんちゃく袋から取り出して、お弁当箱の蓋を開ける。
「へえ、すごいね。おいしそうだ」
素直に感嘆の声が出た。
僕の声を聞いてわずかに鬼塚姫乃さんの身体から力が抜けたみたいだった。
お弁当の中身は、なんて言ったらいいのかな。基本中の基本というか、僕の偏見かもしれないけれど、これぞ正しいお弁当といった感じだった。
まず海苔のまかれたおにぎりが三つきれいに並んで入っていた。おかずエリアには、入っていたらうれしいお弁当のおかずシリーズみたいなランキングがあったら、間違いなく上位に入賞していそうなものばかりだった。
その一として、焦げ目もなくきれいに形の整った卵焼き。その二として、卵焼きの隣には鳥の唐揚げあって、手作りのミニハンバーグの姿もある。卵焼きの黄色だけじゃ色どりが悪いと思ったわけじゃないだろうけど、赤いプチトマトとコールスローのサラダが添えてあった。
バランス良く詰められているお弁当は本当においしそうだ。
「あ、お箸を忘れていました」
お弁当に感心していると、鬼塚姫乃さんは慌てた様子で自分のピンクのきんちゃく袋を床に置いて、鞄の中から割り箸を二繕と大きな水筒を取り出した。
「今、お茶も淹れますね」
なんだか至れり尽くせりだった。
「では、いただきます」
「お口に合うといいのですけど……」
僕は右手に割り箸を装備して左手でおにぎりを一つ手に取った。
おにぎりは作った人の味がする。なんていうことを誰かが言っていた。なんでも手のひらの味がするのだそうだ。ということはこれが鬼塚姫乃さんの味というわけだ。
おにぎりの具はシャケだった。おにぎりをほうばって、唐揚げを食べる。
「うん、おいしい」
見た目を裏切らないおいしさだった。
「……ほんとうですか?」
「うん、本当においしいよ」
人間おいしいものを食べると笑顔になれる。僕は自然に浮かんできた笑顔を浮かべて嘘偽りのない感想を述べた。実際、唐揚げも卵焼きも文句なしだ。
「……よかった」
固唾を飲むようにして見守っていた鬼塚姫乃さんがため息をつくように言った。教室で声を掛けられてから初めて表情が緩んだような気がする。
そこでようやく彼女は自分のお弁当箱を取り出して蓋を開けた。
薄いピンク色の彼女のお弁当箱の中身は当然だけど僕とまったく同じメニューだった。違うところといえばおにぎりが二個でおかずの量が少し少ないというところだ。
二つ目のおにぎりの具は焼きタラコだった。
「これ、もしかしておにぎりの中身は全部違うの?」
「シャケと焼きタラコとツナマヨにしてみたのですけど、なにか苦手なものがありましたか?」
「ううん、基本的に僕、食べられないものないから」
心配そうに尋ねてくる鬼塚姫乃さんに僕は慌てて答えた。どうやら具が違うことにびっくりしたのを、嫌いなものがあったと勘違いされてしまったようだ。
「でもさ、これを全部鬼塚さんが作ったんでょ? すごい手間がかかったんじゃない?」
単純に考えて、おにぎりだけでもシャケを焼いてタラコを焼いて、ツナをマヨネーズであえているわけだし、さらに唐揚げにハンバーグに卵焼きだ。
「そんなことないですよ。みんな簡単なものばかりですし」
と、彼女は答えるのだけれど、やっぱりこれだけの品数を作ったことを考えると、結構な労力と時間がかかっているのだろうなと思う。
薄味の上品な味付けの卵焼きを口にして、ハンバーグもおいしくいただく。実は卵焼きは甘いやつが好きだったりするのだけれど、これは内緒だ。
お弁当箱の中身はいいペースでどんどんなくなっていく。
鬼塚姫乃さんの方を見ると彼女のお弁当箱はまだ半分以上残っているようだった。
僕だけ先に食べ終わっちゃうのも何なので、食べるペースを少し落として昨日から気になっている事を訊ねてみることにした。
僕としてはご飯を食べながらの軽い会話のつもりだった。それなのになぜか鬼塚姫乃さんはお弁当箱を床に置いて、お箸も置いて、両手を腿のあたりに置いて姿勢まで正して、
「どうぞ、何でも聞いてください」
と、とても改まった調子で言った。
「………いやいやいや、そんなに構えないでよ。お弁当食べながらいいから気楽に聞いてよ」
「そうですか」と、鬼塚姫乃さんは再びお箸とお弁当箱を手に持ったのだけど、手をつけようとしないで、黙って僕の質問を待っている。
どうにも調子が狂うな。僕が訊きたかったことは本当に些細なことなのだけれど、こうも構えられてしまうと聞きづらくなってしまうというものだ。
それでもここまできたら訊かないわけにもいかない状態だ。
もう一度「気軽に訊いてね」と断ってから、僕は改めて質問してみた。
「あのさ、なんで敬語なの?」
ほらね、全然なんでもないことだ。ただ昨日から鬼塚姫乃さんの言葉使いにはギャップというか、イメージと違うなと思ったりしていたのだ。別に鬼姫の通称通りに乱暴な言葉使いが正しいというわけではないのだけれど、どうにもこう低姿勢というか丁寧な口調だと正直居心地が悪いというのもある。
そんなふとした気持ちで訊ねてみたのだけれど、どうも僕の質問は意外なくらいに鬼塚姫乃さんの意表をついたようだった。
「……は?」と呟いて微かに驚いた表情をしている。
「いや、えっとさ、深い意味はないんだけど、ちょっと気になったから。なんで敬語なんだろうなってさ」
「あの、変ですか?」
「うーん、変とかそういうのではなくてさ、ほら僕は思いっきりタメ口だしさ。鬼塚さんも別に敬語じゃなくてタメ口でかまわないよ。気を使わないでよ」
「別に気を使って敬語というわけでは……」
そこまで言ってからハッと何かに気がついた表情を浮かべて、鬼塚姫乃さんはまたお弁当箱を床に置いて慌てたように、なんというかあたふたとしている。
「あ、あのまったく気を使っていないというわけではなくてですね。その、わたしはいつもこのような口調なのですけど」
「そうなの? まあ無理にとは言わないけど……。でもさ、同級生でクラスメートなわけだし、鬼塚さんもタメ口で全然構わないのにってちょっと思っただけだから」
「……タメ口ですか?」
戸惑うように問い返してくる。
「それに、敬語だとなんだか他人行儀な気もするしさ」
「……他人行儀……」
同い年の子に敬語で丁寧に話をされるとなんとなく壁があるような気がするのだ。
あれ? でもこんな風に感じるということは、僕は鬼塚姫乃さんともっと仲良くなりたいと思っているということなのだろうか。
今までの感想を言えば、昨日あっという間に不良たちをぶちのめしてしまった時はびっくりしたものだ。さすがは鬼姫の名は伊達じゃないと思った。その後、友達と勘違いされて、それを嬉しそうによろこんでいた姿を見て罪悪感のようなものを感じたりもした。シンさんやカツマ君の登場でやっぱり違う世界の人なのだと感じたりもしたけれど、大切に思われている事もわかった。
そして今日、これまた僕の軽口から始まったお弁当を本当に作ってきてくれた。
お弁当はとてもおいしいし。
鬼塚姫乃さんて、親がやくざとかいろいろと悪名高いけど本当はいい子なんじゃないだろうか。実はとっても美人だし。
ふむ。
だから僕はもっと彼女と打ち解けたいと感じ始めているのだと思う。
それにタメ口の方が僕的にも気持ちがずっと楽になるはずだ。逆に周りからはどう思われるかわからないけど……。それはそれ、なるようにしかならないさ。
と思うのだけど、どうも鬼塚姫乃さんの様子を見ていると非常に戸惑っている感じだった。
「けどまあ、鬼塚さんの話しやすい話し方で全然構わないんだけどね」
助け舟というわけじゃないけど、僕は言った。敬語で話をされるとムズムズとした気分になるけれど、無理に話し方を変えてもらうのも本末転倒というやつだ。
「すいません」
僕の言葉を聞いて鬼塚姫乃さんはため息をつくように息を吐き出した。
「いや謝るようなことじゃないって」
逆に今度は僕が慌ててしまう。本当にもう調子が狂ってしょうがない。鬼塚姫乃さんは何だってこう腰が低いのだろう。
「わたし、がんばってタメ口で話してみますね」
「って、がんばるようなことじゃないんだけどね。もしかして敬語なのには何か理由があったりするの?」
「えっとですね。実はわたし、その、気が短いところがありまして……」
あ、やっぱり噂通り口より先に手が出るタイプだったんだ。
恥ずかしそうに鬼塚姫乃さんは続ける。
「それで子供のころお母さんから、乱暴な言葉使いだから行動も乱暴になっていくのだ。落ち着いて話すようにすれば少しは気も長くなるかもしれないって言われて……。それから気をつけて話すようにしていたら、すっかり癖になってしまって……それに同世代の人とゆっくりお話しする機会もあまりなかったので……」
「……なるほどね」
それにしても普通にお母さんという単語が出てくるとホッとしてしまうのはなぜだろう。親とか母とかじゃなくて「お母さん」といわれると不思議と鬼塚姫乃さんのことを身近に思えたりする。それに何やら悲しいエピソードをさらっと言われた気がする……。
「ま、まあ、なんていうか話しやすい話し方でいいからさ、気楽にいこうよ」
「そ、そうですね」
その後はなんとなくお互い無言になってしまって、僕たちはお弁当を食べるのに専念した。
といっても僕のお弁当は残り少なかったのであっという間になくなってしまった。おにぎりも唐揚げも卵焼きもハンバーグもサラダもみんな残らず完食だ。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ」
ぬるくなったお茶を飲んでほっと息をつく。もちろん満足のため息だ。おいしかったという僕の感想は嘘偽りのないもので、これだけでは感謝の気持ちが足りないぐらいだ。
「よかったです。なんだかわたしは食べていても味がよくわからなくて……加藤さんにおいしいと言ってもらえて安心しました」
うつむいてお弁当を見つめながら鬼塚姫乃さんはつぶやいた。それから上目づかいで僕のことをうかがうようにして、
「あ、あの、また、お弁当、作ってきてもいいですか?」
少し自信がなさそうな口調で言ってきた。
「僕としてはまた作ってきてくれたらうれしいけれど、鬼塚さんも大変だし、迷惑じゃないの? ほら手間もかかるしさ、悪いよ」
「そんなことないです」
鬼塚姫乃さんの好意はうれしいけれどやっぱり悪いような気がする。だからやんわりと断ったのだけれど、思いのほか強い口調で否定されてしまった。
「でもさ……」
「本当に迷惑なんてまったくないです。毎日お弁当作ってますし、一人分増えても手間なんてほとんど増えませんから」
「……だけど」
言いよどむ僕に鬼塚姫乃さんは悲しそうな瞳を向けてくる。上目づかいなのがさらに彼女の悲しみを倍増中だ。
いやいや待て待て。僕が知っていた鬼姫はこんな表情は浮かべないはずなのだけれど……。
でもここで負けるわけにはいかない。
昨日から続いている僕のヘマ、いろいろと勘違いさせてしまった事とか、ここいら辺で一度しっかりと清算しなくてはいけないような気がする。するのだけれど……
「やっぱり迷惑ですよね」
さみしそうに呟いて視線を落とす。
「別に迷惑じゃないよ」
断らなくてはいけないという気持ちに反して、僕は答えてしまっていた。
やってしまった。もう取り返しは付かない。
落ち込み気味だった鬼塚姫乃さんが顔を上げる。
僕は目をそらす。自分を落ち着かせるために、それと場の空気にたえられなくなって、お茶のカップに口をつけた。けれどもいつの間に僕はお茶を飲み干していたようだ。
「あ、お茶ですね」
空のカップを持った間抜けな状態でいると、鬼塚姫乃さんは水筒を両手で持って湯気のたつお茶を注いでくれた。
「あのさ、本当に手間じゃないのなら、またお弁当を作ってきてもらえたらうれしいな」
僕は馬鹿なのかな。
お茶を注ぐ鬼塚姫乃さんの横顔を眺めながらそんなことをいってしまっていた。
その答えは、
「はい喜んで」
という学校では誰も見たことがない彼女のうれしそうな笑顔だった。
ご意見、感想などいただけたら嬉しいです。