七日目 土曜日の午後 その3
食事の時間はあっけなく終わってしまった。
特に話すこともないくらいだ。
料理は普通においしかった。可もなく不可もなくといった感じだ。
思ったよりも早く食べ終わってしまったのは、相変わらず緊張状態の姫乃が緊張を紛らわすためなのか、やけに料理に集中してしまった結果だ。
どうやらこのお店の売りは、料理よりもデザートのほうらしかった。
空いたお皿をさげてもらってからすぐにある意味メインの品が運ばれてきた。
というわけでデザートだ。
「すごいなそれ……」
「そ、そうですね」
十分にびっくりしていい大きさだと思う。
スペシャルパフェ。
写真で見た時もいろいろと盛りだくさんですごいなと思っていたけれど……実物を見て実感する。本当にスペシャルなパフェだった。
冗談抜きで姫乃の顔より大きかった。
金魚鉢、は言い過ぎかもしれないけど、それを細くした感じのグラスの一番下にはコーンフレークがぎっしり詰められている。その上に生クリームの層があって、またコーンフレークがきてアイスクリームとバナナやイチゴをはじめとしたフルーツたちがふんだんに盛りつけてあった。今度はプリンがのっかっていて、プリンの周りにはプチシューや生クリームが交互にデコレーションされていてチョコクリームやチョコチップが振りかけられているし、ポッキーなんかも刺さっていたりする。そこにまたアイスがのせられていた。まだ終わりじゃない、グラスからはみ出した部分にはキウイやイチゴやマンゴーなどの色の鮮やかなフルーツが盛りつけてあった。
もちろん一番上にも大きなアイスがあって、その上には生クリームがきれいに渦巻きを作っている。そしてとどめとばかりにサクランボがちょこんとのっかっていた。
さすがはスペシャルだ。
このパフェに比べたら僕が頼んだチーズケーキなんて本当に普通だった。
普通すぎるけれど、味はとてもおいしかった。
姫乃はスペシャルパフェを攻略中だ。
最初はどこから食べたらいいのか迷っていたけれど、パフェ用の長いスプーンで生クリームやアイスクリームをせっせと口に運んでいる。それなのにまったく減っていく気配がないのはなんでだろう。
僕のチーズケーキなんてそれはもうあっという間になくなってしまった。
姫乃は甘いものが好きらしいので、幸せそうにパフェを食べている。
「おいしい?」
のんびりとした気分だった。食後の紅茶を飲みながらまったりとしたひと時。背もたれに体重を預けた楽な姿勢で僕は姫乃に訊ねてみた。
「はい、とっても」
「それはよかった」
なんだか幸せな気持ちになれた。
姫乃は何やら考えているようだった。パフェを食べる手を止めて、パフェと僕を交互に見比べている。
少し悩んだような表情を浮かべてから、恥ずかしそうに小さな声で言った。
「あの、一口食べてみますか?」
お腹はいっぱいだったけど、スペシャルパフェには興味があった。それどころか実は興味心身だったりしていた。
正直にいっちゃえば食べたい。
「じゃあちょっともらっちゃおうかな」
むしろ喜んでという感じで、僕は身を乗り出した。チーズケーキを食べた時のフォークを手にとって早速一口いただくことにした。
フォークを手にスペシャルパフェに手を伸ばして、そこで僕は固まってしまった。
目の前にスプーンがあった。
スプーンには生クリームとアイスクリームが程良い感じで盛られていて、僕に向かって差し出されていた。そのスプーンの先は姫乃の右手が握っていて、彼女はややうつむいた感じで頬を染めていたりした。
「え……」
これはつまりどういうことだろう。
どうもこうもない。状況はわかりすぎるくらいわかっている。
ほらあれだ。
これがかの有名なうれしはずかしイベントなわけだ。
でもまさか姫乃がやるとは思わなかった。だってそうだろ。ついさっき間接キスがとかなんとか騒いでいたばかりじゃないか。
これこそまさに間接キスの最高峰というやつだ。
さすがに僕は差し出されたスプーンを見て、それから姫乃の顔に視線を移してごくりと唾を飲み込む。
顔が熱くなってくるのがわかる。
きっと僕も姫乃に負けないくらい顔が赤くなっていることだろう。
勇気がいる。この一口を食べるためにはとてつもない勇気が必要だ。
「あ、あの、その、あ~ん」
止めをさすように姫乃はスプーンを持ったまま身を乗り出してくる。
「あ、あーん」
逃げ場を求めるように視線をさまよわせるけれど逃げ場なんてどこにもない。
覚悟を決める。
口を開けてスプーンをくわえるために顔を前に出した。
もう少しでパフェが食べられるというところで、僕は辺りがなんだか騒がしいということに気がついた。
理由はすぐにわかった。
パトカーのサイレンが聞こえる。しかも一台じゃない。何台かわからないくらいたくさんのサイレンが響いていた。
しかもだんだんとこっちに近づいてきているようだ。
視線だけ窓の外に視線を向けると、ちょうど信号が変わって信号待ちをしていた乗用車が発進すると事だった。
僕の位置からだと交差点の様子がよくわかる。
反対側で止まっていた車も動き出した。
サイレンが聞こえているから動くのに少し迷うような車もあったけれど、とにかく今のところはパトカーの姿も見えないし、車の列は動いていく。
そこに横から黒っぽい車が信号を無視して交差点に突入してきた。たぶんブレーキを踏むことなくまっすぐ突っ込んできて、信号を守って発進した乗用車と衝突した。
ものすごい音がしたのだろうけど、よくわからなかった。
違う。
あまりのことに何も考えられなかった。
だって、信号を無視した車が衝突した乗用車を跳ね飛ばして、そのまま僕たちがいるカフェに向かって突進してきたのだ。
その間どれくらいの時間があったんだろう。
一〇秒は絶対にない。
なら五秒。
もっと短かったと思う。
窓をぶち破って、テーブルを砕いて椅子をなぎ倒し、そして人を跳ね飛ばして、黒っぽい色をした信号無視の車は完全に車体を店内に乗り入れてようやく止まった。
姫乃をかばう暇もなかった。
ビル全体が揺れたのではと思えるくらいの衝撃があった。
静寂。
本当はいろんな音が盛大に入り混じって爆発音のような轟音が辺りに響き渡ったのだろうけど、なぜかしんと静まり返っているように感じた。
よく見る光景だと思う。
もちろんテレビでだ。
衝撃の決定的瞬間やアクション映画なんかでは当たり前のようにしょっちゅう見る映像だ。
車が建物に突っ込む光景なんて見慣れている。
けれどだ、リアルに経験するとなるとそれはどれくらいの確率だろう。
僕はまだ一七歳だ。
だから人生なんて言い方は大袈裟なのかもしれない。だけどこの状況は普通に生きていれば一生お目にかかれない事態なんじゃないだろうか。
ほとんどの人が一生に一度も出会わない出来事じゃないだろうか。
たまたま僕は無傷だった。
たまたま案内されたのが窓際だったけれど、お店の奥の方の席だったので運よく巻き込まれることなく助かった。
たまたま僕と姫乃は助かった。
ほんのちょっとした幸運だ。
ツイていた。
よかった。
今は素直にそう思った。
知らない間に僕は息を止めていたようだった。ゆっくりと息を吐き出す。これまた知らないうちに中腰になっていたので椅子に腰を落として坐りなおした。
なんだか気が抜けたというか腰が抜けたというか。
力が入らない感じだった。
音が戻ってきた。
サイレンが近づいてきていた。
「びっくりしたね。ケガはないよね?」
姫乃に声をかけた。けれども返事は返ってこなかった。
驚いたことに姫乃はまだ固まっていた。
僕よりも度胸も肝も座っているはずの姫乃が、パフェ用の長いスプーンを空中に構えたままで、びっくりした表情を浮かべて固まっている。
ちなみにスプーンには何ものっかっていなかった。
テーブルの上にあったスペシャルパフェも倒れてしまっていて、中身をほとんど全部テーブルにこぼしてしまっていた。
でもそれがなんだ。
とにかく僕と姫乃は無事だった。
悲鳴が上がった。
店内でも時間が動き始めたようだった。
茫然としていた女性客が思い出したように悲鳴をあげている。
店内はすごいことになっていた。
おしゃれだった店内は一瞬で廃墟に変わってしまった。
突っ込んできた車はくわしい車種はわからないけれど、RV車というやつらしかった。アウトドアに使うような大型のごつい車だ。濃いスモークガラスで仲の様子はよく見えないけれど、どうやらエアバックが作動しているようだった。
今はエンジンは止まっていて、衝撃でぺしゃんこになったボンネットを無残にさらしている。
そのRV車は窓から突っ込んでカウンターにぶつかるようにして止まっていた。その間にいた何人かの客が巻き込まれてしまったようで、床に倒れている女の人やへたり込んでいる男の姿なんかがあった。
カウンターは頑丈な作りだったようで壊れていなかった。仲にいたウエートレスのお姉さんが青い顔をしていまだに茫然としていた。
そのカウンター席についていたらしい黒のスーツを着た女性は、テーブルとカウンターに挟まれてしまって身動きが取れないようだった。
サイレンの音がどんどんと近づいてくる。
よかった。とりあえず警察に連絡するという手間は省けるみたいだ。
それとも誰かが電話してくれているのだろうか。
怪我をしてしまった人には悪いけど、とりあえず僕と姫乃が無事だったのを喜ぼうと思う。
ちょっとだけ、ちょっとだけ休憩したら、僕にも何か手伝えることがあるはずだ。
混沌とした店内で車のエンジンをかけようとしている音が響いた。
セルが力なく回転している。
意味がわからない。
エンジンをかけようとしているのだから車を運転してきた人物は無事なのだろうけど、なぜ今エンジンをかけようとするのかがわからない。
いや違う。考えればすぐわかることだ。
たくさんのサイレンの音。信号無視。そして事故を起こしたこと。この状況で止まってしまったエンジンをかけ直そうとする理由は一つしか思い浮かばない。
逃げようとしているのだ。
でもエンジンはかからない。
空しいくらいにセルの音が空回りするだけだった。
そんな中、一人の男性客がRV車に近づいていった。その男の人は運よく怪我もなかったらしく、RV車の近くの席にいたらしかった。
コンコンと運転席側の真っ黒な窓ガラスを叩いて「大丈夫ですか?」と声をかける。
返事はない。
セルを回す音もなくなった。
男性客がもう一度窓を叩こうとした時、乱暴に勢いよく車のドアが開いた。
ドアに弾き飛ばされるようにして男性客は床に尻もちをつく。
「な、何をするんだ!」
「うるせぇ!」
男性客の文句は怒鳴り声にかき消された。
「うるせぇえんだよ!」
車から降りてきたのは全身黒ずくめの男だった。トレーナーも上着もズボンも、顔を隠すニットの覆面もすべてが黒だった。
「クソッ! クソッ! クソッ! くそったれが!」
男は荒っぽく叫び声をあげると尻もちをついている男性客を蹴り飛ばした。
「な、や、やめて」
「うるせぇうるせぇうるせぇ! このくそ野郎が!」
何度も何度も男は蹴りをいれた。
男性客がうずくまって何も言えなくなるまで何度も何度も執拗に蹴りをいれた。男性客には何にも罪はない。心配して声をかけただけだ。それなのに男の暴力は終わらない。
だからこれは男の八つ当たり、ただ単に怒りのはけ口に、ちょうどいい場所に、男性客には不運な場所に居合わせてしまった。それだけなんだと思う。
誰も声を出せなかった。
唖然として茫然として、そして恐怖で。
男性客の連れらしい女性も声もなく口元に手を当てて涙を流している。
人を蹴る鈍い音が辺りにこだまする。
「ッとについてねえぜ!」
ピクリとも動かなくなった男性客を最後にもう一度蹴とばして、男は店内を見回した。
たまらず何人かの女性客が悲鳴を上げる。
轟音。
それは銃声だった。
「うるせぇえって言ってんだろうが!」
男の手には黒く光る拳銃が握られていた。
男は拳銃を一発、天井に向けて撃ったのだ。
「次にしゃべったやつは殺す! 悲鳴を上げたやつも殺す! 動いても殺す! 俺の気にくわないやつは殺す! 邪魔するやつも殺す! わかったか?」
と怒鳴ると、男は今度は店の外に向かって拳銃をぶっ放した。
集まりかけていた野次馬が慌てて逃げ出す。文字通り蜘蛛の子を散らすように、それ以上の勢いで外はパニック状態になった。
それでも男が放った弾丸は誰かに命中はしなかったようで、新たな怪我人はいないようだ。
それは一安心だけれど、店内の僕たちは全然安心できない状態だった。
いったいぜんたいなんなんだこれは。
たまたまいたカフェに車が突っ込んできたということが一生にあるかないかの出来事だとしたら、その突っ込んできた車に拳銃を持った凶暴な男が乗っている確率はどれくらいだろう。
これこそ天文学的な確率なんじゃないだろうか。
サイレンの音が近づいてくる。
でもパトカーはまだ到着していない。
店内が静かになると男は助手席側に回った。
僕たちの席から助手席はよく見えた。男が助手席のドアを開けると、同じような格好をした人物を車の外に引っ張り出した。
「いつまでも目ぇまわしてんじゃねえよ。いい加減起きやがれ!」
もう一人も身体つきからしてどうやら男のようだった。意識がもうろうとしているようで、最初の男に頬の辺りを何度か叩かれている。
「……あ、ああ、大丈夫だ。それよりいったいどうなったんだ?」
「サツはまだ来てねぇ。だが車はおしゃかだ。金持って早いとこずらからなきゃヤバいぜ」
「そりゃ笑えないニュースだな」
「ああ、だから早いとこシャキッとしろや」
相棒の肩を叩いて、最初の男は今度は車の後部に回ると後部ハッチを開けた。トランクルームから大きな黒いスポーツバックを取り出して、それを乱暴に床に落とした。
あのバックにはお金が入っているのだろうか。
だとしたらこの二人組は銀行強盗で、絶賛逃亡中とかそういう状況なんだろう。
最悪だ。
僕らは思い切り巻き込まれたわけだ。
車の中にはまだ荷物があるようで、男はトランクルームに身を乗り入れる。
たぶん事故の衝撃で後ろに積んであった荷物が前の方に吹っ飛んだりしたのだろう。
もう一人の男は指でこめかみをもむようにして車によりかかっていた。
まだ事故のショックが抜けきっていなくて頭がもうろうとしているようだ。
サイレンの音は聞こえるのにパトカーはまだ来ない。
来るのは時間の問題だけれど、もしかしたら今すぐ来てくれない方が状況的にいいかもしれない。
ダメージを受けている男のことはわからないけれど、荷物を取り出している男は危なすぎる。
暴力的なところも拳銃を躊躇なく撃つところも危険すぎて行動が予測不能だ。
だから今ここにパトカーが到着して警察の姿が見えたら、男達は間違いなく僕たちを人質として使うだろう。そしてまた躊躇なく拳銃を撃つはずだ。
それが人に向かってだって気にしないような人種だと思う。
だからこのまま警察が来る前にいなくなってくれたほうが安心かもしれない。
……チャリン
乾いた音がすぐ近くから聞こえてきた。
それはスプーンが落ちた音だった。
姫乃は今の今まで固まっていた。パフェ用の長いスプーンを差し出した格好のまま固まっていた。その姫乃の手からスプーンが床に落ちた音だった。
ゆらりと言う感じだった。
ゆらりと姫乃は立ちあがると、おもむろにテーブルに転がっている中身のこぼれてしまったスペシャルパフェのグラスを手に取った。
そして車に寄りかかって頭を振っている男に向かってパフェのグラスを投げつけた。
パフェのグラスは一直線に男に向かって飛んでいき、見事に顔面にぶつかって砕け散った。
「――!」
声を出す余裕も止める暇もなかった。
「優太さんとわたしの初デートを妨害した罪。わたしの、その、あ~ん、を。勇気を出したあ~んを邪魔した罪は、万死に値します!」
きっぱりと宣言して、姫乃はパフェのグラスの一撃をくらって倒れこみそうになっている男に、何事かと車から顔をのぞかせている男にむかって突進していった。
本当に一寸先のことはわからないものだ。
本当に何が起こるかわからない。
初デートで入ったカフェに車が突っ込んでくるというあり得ない状況。
しかもその車に乗っていたのが強盗という事実。
そして、そしてだ。
拳銃を持った強盗に彼女が喧嘩を吹っかけて立ち向かっていくという今この瞬間。
本当に人生はままならない。
一寸先は闇。
僕は心の底からそう思った。
ご意見、感想などいただけたら嬉しいです。