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暗い星座 日本フェザー級王者 中西 清明(1928-1998?)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/08/31

昭和三十二年に公開され、石原裕次郎の代表作の一つともなった日活映画『勝利者』には、当時日本フェザー級チャンピオンだった中西も出演している。中西は石原兄弟とは仲が良く、裕次郎にボクシングをコーチしたこともあるのだ。

 中西清明は絵になる男である。身長は一六〇センチそこそこの小柄なフェザー級だが、筋骨逞しく、苦みばしったクールなルックスは、同時代のボクサーの中ではかなり垢抜けしていた。日本タイトル在位がわずか半年という短命にもかかわらず、ボクシング専門誌のみならず総合スポーツ誌の表紙を度々飾っていたのは、スター性のある容姿ゆえであろう。

 東洋チャンピオンくらいではボクシング専門誌の表紙を飾る機会はほとんどない今日と比べると、階級も少ない時代だけに、日本チャンピオンといえばちょっとした有名人扱いだったが、さすがに総合スポーツ誌の表紙となると、東洋チャンピオンか世界ランカー以外のボクサーはまずお目にかかることはなかった。

 しかも中西は主戦場を東京に移して二ヶ月足らず、まだ日本ランキング中位の頃には単独で平沢雪村主筆の『ザ・ボクシング』の表紙(二十七年九月号)に抜擢されているところからすると、見た目の格好良さもさることながら、ボクサーとしての期待値も相当高かったと考えられる。

 見栄えがよく、ハードパンチャーで試合もスリリングなら、スター性十分だが、グラス・ジョーに泣かされて取りこぼしが多く、いつもファンに地団駄を踏ませるところが玉にキズだった

 夜空にきらきらと輝く北斗七星やオリオン座のようにはなれなかったが、天気がよく雲ひとつない闇夜にだけ、天空の果てに薄っすらと輝く暗い星座だった。輝きは小さくとも、ダイヤモンドのように澄んで美しく、見る者たちを魅了した。


 兵庫県神戸市葺合区の会社員の次男に生まれた中西は、戦時中は甲種海軍予科練習生として鍛え上げられただけあって、一筋縄ではゆかない男だった。

 復員後通い始めた私立村野工業学校二年の時に、何の因果か、バンカラな上級生たちから呼び出されて袋叩きに遭った中西は、その報復のためにYMCAに通ってボクシングを習い、わずか二週間後にはきっちりと借りを返している。

 この復讐劇がボクシングにのめり込むきっかけとなった。十八年七月に篠崎ボクシングクラブに入門するが、戦火が激しくなった十九年五月に三重航空隊予科練に入隊し、一旦ボクシングから離れることとになる。したがって本格的にボクシングを始めたのは復員後のことになる。

 アマチュアからスタートした中西が昭和二十三年の福岡国体で優勝(フェザー級)すると、それまで町道場のようなものだった篠崎ボクシングクラブも、中西を全面的に支援するために六甲ジムと改称してプロの興行に参入することになった。

 魚河岸で働きながらのプロ生活だったが、三試合連続KOという派手なデビューで、中西はたちまち関西地方の人気ボクサーとなった。アマチュアで素晴らしい実績があるにもかかわらず、フィニッシュブローの左頼みという、当たるも八卦当たらぬも八卦的なファンをハラハラさせるようなボクシングから最後まで抜け切れないでいた。それにもかかわらず、ファン人気が高かったのは、本人の性格そのままの駆け引きなしの直情的なファイティングスタイルに一種の清清しさを感じる向きも多かったからだろう。

関西時代の中西の“どつきあい”ボクシングの代表的な一戦というと、二十六年一月十四日に大阪中之島で行われた宮本昇戦をおいて他はない。この試合、四ラウンドに宮本が放った左ストレートが中西の顎を貫いたのと寸分たがわぬタイミングで中西の右アッパーが宮本のボディを抉ると、両者ともに昏倒したままテンカウントを聞いた。これが世にいうダブルナックアウトで、日本ボクシング史上唯一の椿事である。

 同年六月二十一日には、前年に世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノと引き分けて男を上げた現役の日本フェザー級チャンピオン後藤秀夫にノンタイトル戦で勝利し、一躍日本ランキングにその名を連ねたが、主戦場が関西では、人気、実力ともに兼ね備えていても、ビッグカードが組めるプロモーターが少なく、そうそうタイトルマッチの機会が巡ってくるわけではなかった。

 関西に残るか、上京するか決めあぐねていた中西に救いの手を差し伸べたのが、新宿でAO拳を主催する塚原崇司の義兄で、業界では腕利きのマネージャーとして知られる折口信夫である。折口は中西の試合を見てその実力を高く評価し、上京した方がチャンスに恵まれると諭し、二十七年七月に中西のAO拳への移籍契約を結んだ。

 移籍後第一戦(七月十六日)で、後の東洋J・ライト級チャンピオン大川寛に勝った中西は、第二戦(八月一日)では終生のライバルとなる金子繁治(後の東洋フェザー級チャンピオン)と対戦し、六ラウンドKO負け。それでも軽量級のホープとの連戦で試合内容が評価されたのか、九月二十三日には堀口宏と空位の日本バンタム級王座をかけて対戦する機会に恵まれた。

 さすがに白井義男のライバルでもあった堀口は中西の手には余ったが、その後もベビー・ゴステロ、小坂克己、田中昇、フラッシュ・エロルデといった日本、東洋のチャンピオンクラスの人気ボクサーとの対戦が次々と組まれ、関東でも中西の名は有名になった。関西時代とはうって変わって人気カードに恵まれたのは、ひとえにジムオーナー兼プロモーターである塚原の力が大きい。

 塚原は老舗蕎麦屋の後取り息子だが、プロモーター業以外にも貸しビル業や喫茶店経営など様々な商売を手がける新宿のボス的存在の男だった。若い頃は“明大の塚原”といえば、愚連隊の一員として鳴らしながらも、ボクサーとしてリングに立った経験もあるせいか、ボクシングに対する愛情は人一倍で、損得勘定抜きでファンの喜びそうな対戦の実現のために奔走していた。白井義男の次にファイトマネーが高い金子と中西の対戦を三十年代前半屈指の好カードとして世に知らしめたのは、塚原の根回しのあってこそだ。

 金子は後に世界J・ライト級チャンピオンになった“フィリピンの閃光”フラッシュ・エロルデとの四連戦でも知られるが、KO決着は一度もないのに対し、中西戦は倒し倒されの熱戦続きで、盛り上がり方も半端ではなかった。金子のリングキャリアは中西という手強いライバルを得て、より華やかなものになったと考えれば、中西に入れ込んだ折口と塚原の観察眼の確かさが日本のボクシング史に彩りを添えたことは間違いない。

 とはいえ、中西は相変わらず打たれ弱く、塚原の期待通りの結果にはなかなか結びつかなかった。おまけに交際していた女性に裏切られるわ、ふんだりけったりの中西に彼の人生を変える機会が訪れた。

 台湾からボクシング指導員の派遣を要請されていた日本ボクシング協会から白羽の矢を立てられた中西は、自宅も売っぱらって、台湾に移住するつもりで、すでに引退した後藤秀夫や羽後武夫とともに海を渡ったのである。昭和二十九年春のことだった。

 台湾の北から南までボクシング指導員として巡回した中西は、地元のボクサーたちとも拳を交え、連戦連勝。あまりに評判が良いので、自分一人だけ台湾に長逗留し、いつしか「台湾拳撃王」の異名を取る人気者になっていた。

 二年近く台湾で生活していた中西は、日本に帰国したら引退をする腹積もりだったようだが、台湾での巡業生活の中で手ごたえを感じたのか、三十年に帰国すると段違いに逞しくなっていた。

 三十一年一月六日にはかつて勝利した大川寛の日本フェザー級タイトルに挑戦し、またしてもタイトル奪取には失敗したものの、後に“KOキング”として名を売った高山一夫、後の東洋フェザー級チャンピオン小林久雄といった将来性豊かな金の卵たちを退けた勢いで、八月三十日の大川とのラバーマッチに漕ぎ着けた。

 大川はスピードのあるボクサーファイターで、技術的に中西の歯が立つ相手ではない。この日も序盤から左ジャブと左ストレートで中西を翻弄した大川が圧倒的に優勢だったが、五ラウンドにやみくもに振り回した中西の左フックがたまたま顎に当たり、八カウントのダウン。それでも中西の単調な攻撃に救われ、ピンチを脱した大川は、左ジャブで中西の古傷を切り裂き、再び主導権を握ったかと思われたが、七ラウンドに出会いがしらの左ストレートを浴びてまたしてもダウン。

 結局アンラッキーとも思える二度のダウンの失点が響いた大川はタイトルを失い、二十七歳の中西が初の栄冠を手に入れた。

 日本チャンピオンという看板を手に入れた中西人気はさらにヒートアップし、十二月十日には金子とのラバーマッチが実現した。前回までの対戦と違って二人ともチャンピオンになっているため、東洋と日本のチャンピオンが戦うというドリームマッチで、ノンタイトルとはいえ十二回戦という豪華版の試合が組まれることになった。

 ノンタイトル戦とはいえ、プロモーターの塚原がこの一戦だけで二百五十万円の利益が出たと豪語するほどの盛況ぶりで、まさにボクシングファンにとっては、今日の日本人の世界戦など目ではないビッグなクリスマスプレゼントだった。

 試合内容も期待通りの内容で、四ラウンドにカウンターを決めて金子の足を揺らした中西がとどめを刺そうと攻撃がラフになったところで、狙い済ました右フックを浴びてダウン。ここから試合は一気に凄惨さを帯びてゆく。五ラウンドもダメージが残る中西がまたしても右フックでダウンを奪われ、ふらふらと立ち上がったところにボディアッパーを喰らい、ロープにもたれかかってしまう。

 戦意喪失気味の中西は金子に背を向けたところで、ロープダウンを取られるが、カウント五でファイティングポーズを取り、試合は続行。この時点で観客席から「もうやめさせろ」という声も上がるが、中西もチャンピオンの意地かいつになくしぶとく、今度こそナックアウトかと思われるほどの痛烈なダウンを喫しながら、カウント四でまたしてもゾンビのように立ち上がってきた。

 中西の鬼気迫る表情にさすがの金子も怖気づいたか、追撃の右フックで身体が泳いだところに中西の渾身の右ストレートが炸裂すると、金子は膝からマットに崩れてしまう。四度ダウンを奪われてKO負け寸前の中西の逆襲に、観客席はもうお祭り騒ぎである。

 この右ストレートこそ金子が一番警戒していたパンチだった。中西の左は、まともにボディにもらえば内臓がきしむほどの威力がある反面、リードなしでビュンビュン振り回してくるぶん、身切りやすい。

 ところが、大振りの左ばかりを注視していると、その間隙を縫ってコンパクトに振り抜かれる右が目に入りづらくなるのだ。中西も「左フックよりも右ストレートの方が自信があったが、あまり当たらなくて、たまたま左フックの方がよく当たっていた」と回顧しているように、威力は右の方が強かった。

 過去に二度対戦経験がある金子は、中西の右を最も警戒していたが、並のボクサーならとっくにテンカウントを聞いているほどのダメージを負い、足元がふらついているのを目の当たりにして、もうカウンターで逆転KOを狙う気力もないはずと早とちりしたのだろう。中西は打たれ続けながらその瞬間を待っていたのだ。

 中西の右をまともに喰らった金子は完全に膝にきていた。試合後も膝の痛みを訴えていたのは、パンチの衝撃を膝の靭帯で吸収したからだろう。恐るべし中西の右ストレートである。

 ピンチの金子にとって幸いだったのは、中西も体力を使い果たしていたため、逆転KOを狙って攻め続けるも、足がついてこなかったことだろう。何とかダッキングとクリンチで中西の追撃弾から逃れることができた。

 続く六ラウンドはもう殴り合いの喧嘩になってしまったが、地力で優る金子が打ち勝ち、五度目のダウンを喫した中西はレフェリーストップが入りTKO負けを宣せられた。敗れたとはいえ、中西は世界ランカーと真っ向勝負で打ち合い、テンカウントを聞かなかったことでかえって評価を上げ、日本ボクシング協会から昭和三十一年度の敢闘賞を受賞している。ちなみ最優秀選手賞は金子繁治であった。


 三十二年に入ってからも、大越利晴(前日本ライト級チャンピオン)、レオ・エスピノサといった大物に勝ったことで、遅ればせながら「中西時代到来か?」の声も聞かれるようになったが、大川寛とのラバーマッチに敗れて無冠になってからは、下り坂になった。

 金子と東洋タイトルを賭けての四度目の対戦は、国際スタジアムに入場しきれない観客が周囲を取り囲むほどの人気ぶりで、またしても壮絶な打撃戦となったが、力及ばず四ラウンドKO負け。この年の五月に華燭の宴を挙げた中西は、引退後のことを考えて高円寺にバーを開くなど副業の方に力を入れ始め、試合からも遠ざかったが、観客の声援が耳から離れず、正式な引退発表も行わないまま、不完全燃焼の日々を過ごしていた。

 やがて子供も生まれることになり、細君は身を削るような商売から足を洗って欲しいと懇願する中、またしてもボクシングの神様は、中西をリングに引き戻すべく、甘い言葉を囁きかけたのである。

 ボクサーとしてピークは過ぎていても、中西人気はいまだ根強いものがあった。まだ名前だけでも客が呼べることから、何とアマチュアボクシング界のスーパースター、池山伊佐巳のデビュー戦の対戦相手としてオファーを受けたのである。

 中西の役どころは“咬ませ犬”ではなるが、池山人気からすれば会場は超満員間違いなしで、ファイトマネーも期待できる。最初は引退前の一稼ぎという邪な気持ちもあったが、工業学校時代に先輩たちから袋叩きに遭った時の記憶が甦ってきた。

「池山を倒す」本気でそう考え始めた中西は、これまでも何度もコンビを組んだスタンレー伊藤がトレーナーについてくれることを条件にオファーを飲んだ。

 スタンレー伊藤といえば、世界チャンピオン、ダド・マリノのトレーナーとして来日したのを機に、日本でもその名を広く知られるようになり、マリノの引退後は日本人ボクサーの指導も快く引き受けていた。しかも、後年には世界チャンピオンたちからも引く手あまたの存在になるほどの一流とあって、中西も伊藤がセコンドについた試合では一度も負けたことがなかった。占いやゲン担ぎに凝っている中西としては、伊藤がいれば勝てると踏んだのだろう。

 三十三年十月二十二日は、デビュー戦がメインエベントという、まさにゴールデンルーキーの門出のために企画されたスペシャルファイトだったが、動きが固い池山に、試合開始早々中西の右ストレートが炸裂し、いきなりダウンを奪うという波乱の幕開けとなった。

 慌てて飛び起きた池山は逆襲のパンチを振るって一気にたたみかけるが、熱くなってしまいなかなか中西のガードを破れない。一方の中西も、彼にしては珍しくペース配分を考えた慎重な試合運びで、中盤は盛り上がりに欠けた試合展開が続いた。

 最初のダウンを奪った時は、KOする気でいたのかもしれないが、意外に池山が打たれ強く、回復力も早いので、途中から勝利優先に切り替えたのだろう。独身時代は当たって砕けろ式のボクシングにも自分なりの美学を感じていたのが、結婚したことによって、勝利という結果にこだわるようになったとしても不思議ではない。そもそも中西の夫人はボクシングから足を洗って欲しいという気持ちが強かったので、いつものように傷だらけになって帰宅するのははばかられたのではないだろうか。

 終盤になってもスピードが落ちない池山は、九、十ラウンドには中西を追い詰めるシーンも見られたが、そこは百戦錬磨のベテランである。防御に徹して致命的なパンチを許さなかった。

 試合終了のゴングが鳴った時は、中西は勝利の手ごたえを感じていたようだが、終盤の消極策が祟って僅差の判定負けに終わっている。

 試合には負けても大きな見せ場を作ったことで、中西人気は再び上昇し、フラッシュ・エロルデやレオ・エスピノサといった人気ボクサーとの対戦オファーが相次いだ。ところが人気の再燃が引退時期を誤らせ、ひいては幸せな家庭を崩壊させる大きな要因となろうとは、さすがの中西にも想像がつかなかった。

 中西のファイトぶりは凄惨であるがゆえに、顔を腫れ上がらせ、あちこち絆創膏だらけだったが、本人は見た目ほどのダメージは受けていなかった。むしろ顎が弱く、打たれながら長く踏ん張れないおかげで、KOされても翌日までダメージが残らず、回復は早い方だった。逆に打たれ強い金子の方が年上の中西より早く引退したのは、ダメージが蓄積による眼疾が原因だった。

 したがって中西は、ピークを過ぎスピードこそ衰えても、身体にはこれといった故障がなく、十回戦でも無難にこなせる体力が残されていたのである。しかし、夫人からすると、選手生活も晩年に入り、負けが込んでくると、ボロボロになって帰宅する夫の姿を見るのはしのびなかっただろう。

 いくら夫人が引退を懇願したところで、商才のない中西は、ファイトマネーで開店したバーも茶屋も、歯科技工業もうまくゆかず、結果としてボクシングを続けるしか選択肢が残されていなかった。そこに一人娘の育児ノイローゼも重なったのかもしれない。三十三年十二月、フィリピン遠征から帰宅してみると、夫人は自ら命を断っていた。

 夫人が亡くなった後も、引退後の生活のめどが立たない中西は、翌年の再婚後も現役を続け、三十六年三月十二日の引退試合をもってようやく十三年の現役生活に別れを告げた。

 引退後は伊豆の大仁町にジムを開くが、場所柄練習生も集まらず、半年も持たずに閉鎖した後、名年の友人だった石原慎太郎らの支援もあって江東区砂町で再開している。

 残念ながら指導者という柄でもなかったようで、こちらの方でも松本芳明(日本フライ級チャンピオン)、西村貴晴(日本バンタム級チャンピオン)、村田英次郎(東洋バンタム級チャンピオン)らを輩出した金子の後塵を許してしまう。後輩にジムを譲って業界から足を洗ったあとは、小田原市の清掃職員として地道に働いていたが、結婚を控えた一人娘が二十四歳の若さで交通事故死するなど、終生彼の周囲には悲劇がつきまとっていた。

 石原兄弟をはじめ、南田洋子、水島道太郎といった芸能関係者にも贔屓筋が多く、人々の記憶に残るボクサーだったにもかかわらず、晩年を知る人はほとんどなく、死亡年月日でさえ正確に伝えられていないのは、不可解としか言いようがない。本人がそっとしておいてほしいことを望んだのか、周囲の関心が薄れていったのかは不明だが、戦後の日本ボクシング界の繁栄期における貢献度は、平成以降雨後の筍のように現れては消えていった一過性の世界チャンピオンよりも遥かに大きい一代の拳雄の晩年に業界までが

無関心だったというのは、寂しい限りである。

 中西というボクサーは、太陽の光を浴びて美しく輝く地球や月とは違って、自らが核融合を起こして

光を放ち、やがて燃え尽きて天空の闇の中に消えゆく恒星のような男だった。


 生涯戦績 60勝32敗(21KO)9分1ダブルナックアウト

中西の生年月日は『ボクシングマガジン』誌の選手名鑑には十月十六日とあるが、現役引退から一年後のインタビュー記事のプロフィールには十月七日とあるので、こちらの方が信憑性が高いと考える。没年は平成十年というものもあれば、没年齢が六十三歳というものもあり、これも全く一致しない(平成十年没なら六十九歳か七十歳ということになる)。少なくとも同時代の雑誌の表紙を六回以上飾ったこともある人気ボクサーの情報がこれほど曖昧というのも不可解だ。

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