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唯椿睨阪(ただつばきにらみざか)

作者: 武田 嵐癸
掲載日:2026/03/30

   唯(ただ)椿(つばき)睨(にらみ)阪(ざか)

               武田(たけだ) 嵐(らん)癸(よう)




 唯(ただ)椿(つばき)の阪(ざか)を上る。

名に深い意味は無い

唯(ただ)、

紅(こう)一(いっ)點(てん)の椿(つばき)阪(ざか)で存在(あ)るからだ。

曀(くも)の兒(こ)が散り、

地平線を越え、

大海原に光と為って

耀かんばかりの阿波藍の様な

春景を左手に眺め、

時(とき)偶(たま)に掌を伸ばして摑めないかと

態(わざ)とらしく確かめると。

袖を絞った、風を通し難(がた)い紬(つむぎ)の装いで来たのが

駄目だったのだろう、

装いの中は

軽く蒸し、

滴(あせ)が滲んで、剝ぎ取って襦袢を露わにするのも構わず、

脱いで遣りたい程

氣の良いものでは無い。

此の手に摑める処

摑める処と、

掌を辿らせると、脚許の薄い緑の圡地を過ぎて

此の阪の右手。

石垣側の、

赤く

咲き盛る

椿の幾つもが

花冠を

深緑(ふかみどり)から

堕とし、花片(はなびら)と混じえたもので

出来た、

褪せた色の、細く長い花絨毯のみである。

触れはしない。

踏みも愚問。

 未だ踏まれていない椿の花冠に、

人翳千里は遠く

純心に歩んで好いと見受けて存在(い)られる

処が胸弾む故である。

だから

嬉しきかな。

右手は大層、斯(こ)うである。

其の花の頂き、見上げる程。

阪沿いに椿を競り出させた民家の、

鐵炮(てつはう)から守る為の様な

大きさの、

印字打ちには到底使えない石(いわ)を積み上げた

石垣のみが続き、

忘れた頃に路地裏への出入口が現れるのだ。

俥は恐ろしくて進めない幅の狭い

崖の阪。

人は往き摺り遇える。

路地裏から

一瞬飛び出せば眞っ逆様、

下に茂みは存在(あ)ろうけれども………

吹く潮風の音(ね)が、退(ず)さる下駄を撫でる。

だが

椿目掛けて息を吸うのは、

潮と椿の花翳に香(か)汲(ぐ)むのと同義。

温かな芳しい香(か)が、はな、を突き抜けて脳漿に馴染むのである。

 ……堕ちた椿の花冠と花片(はなびら)で出来た

細長い花絨毯の径(みち)。

  夙(つと)に

堕ちた。

褪せた色の椿の花翳に、

此の径(みち)の樣(さま)に

其の花の妖精の、

被れない冠を想った縡(こと)がある。

 天鵞絨(びろぉど)色の、つん〝り、とした夢帳(ろぉぶ)に

黄支子(きくちなし)色の髪は流れ星の様。

其れは一束(ひとたば)一束の認められぬ

淡さ。

そして紅赫(あか)らめた

冠が、載ろうとしているが

まるで、

巻き掛けの鉢巻が

額に張り軌(ひ)いている様にも、

襷掛けを用いて、脊に翅の如く紅赫(あか)を余らせて

結んだかの様でもある…………

芳しさに呑まれ、

今も己の先で舞う、

脚長蜂の様に

惹き附けるものを有しているのに。

黒子の靣(めん)隠しの様に、

前髪を正方狀に伸ばして

更に髪の端を

指で抓(つま)引(び)いて

表情(かお)を

隠そうと迄(まで)しているのだ。

 然(さ)れども、

其の后(うち)冠は褪せて

精緻な花の輪郭も暗く失せ

堕ちて往くのだ――

と云うのに

椿の妖精には

一切の、

不の感情を覚えないのである。

秘(ひ)疑(ぎ)怒(ど)睨(げい)と縡(こと)葉(ば)を作って呟いたのは

何時の縡だったろうか?

 ………何を其処迄

怒りに睨む弁柄の虎まで心に飼って

極めて

吼えさせては、

椿を

妖精へと擬人化させて

捉え、

固執するのかと

ふと

思う、った縡は確かに有るが………

邊(あた)りを見直せばそう、

逞(たくま)しい菫(すみれ)や、綿を飛ばした后(あと)の蒲公英(たんぽぽ)、

仏(ほとけ)ノ坐(ざ)も涌いているのだ………

だが

今は唯(ただ)、椿である椿なのだ。



 ―――もう恥ずかしくて

一旦駄目だわ。

誰かに伝わるだろうかしら果たして。

殊更、


『文學少女』と云う訳でも無いの、だけれど。


女学校の帰り掛けに

書店の軒先で捲った雑誌草子の

『骨(こつ)拾い』と云う題に魅入って、

ご覧の通りに膓(はらわた)へ干渉されて、

縡葉に出来そうな

お氣に入りの処で

独り。

万年筆を走らせる様に

膓(はらわた)から聲を

圧縮して。

呟いて仕舞ったのだわ…………

脚長蜂の舞う音(ね)の中で

紺の帆水兵服(せぇらぁ)、

腰許で后(うし)ろ手に組み乍(なが)ら…………

絡んだ指の間も

滴(あせ)で

蒸(む)しんで来たみたいもう幾ら刻限を過ぎたのかしら…………

 ―――『十六歳の日記』………

讀(よ)んだ后(あと)に呟けば

とく、

語彙の拙さが露呈して此の作品を書かれた

先生に申し訳が立たず

途中から

恥ずかしくて

表情(かお)が赫(あか)く濡れる―――

はぁ…―――

眼頭(めがしら)が

熱くて口が綻んで仕舞うわ………

今日の未熟な感情には潮の香(か)纏う…………

 私の想う、

紅赫(あか)らんだ冠の

載らない

椿の

妖精さん貴女には

今の私の様に感情が涌かないのだろうかしら?

私は貴女の冠と

同じく

赫く頬を濡らしたわ、ほら。

指で押さえた

顳顬(こめかみ)も滴(あせ)で濡れて……

斯(こ)う為れるのはそう、

私、

最期まで此の阪に来るからよ

唯、椿。

貴女の堕とす冠の阪、

貴女が堕とす迄

咲き誇る

椿の花翳の阪を。

上る度、

貴女が一齣(こま)一齣(こま)変わるのが

判るのだから。

唯(ただ)、椿(つばき)の阪(ざか)の頂で

貴女の見返りの微笑みを視て


死にたいのだわ―――


氣附けば夕莫(ゆうばく)、

私は

大人しい脚(あし)長蜂(ながばち)潮音(しおね)に舞う。

芳しく美しき椿よ。

だからこそ睨む。

幾度も幾花翳も

褪せても紅赫(あか)く、失せても侘び寂びの掌ほどに残る

花冠の翳を

臆せず見よ椿の妖精。

黄支子(きくちなし)色の髪端を光らせて冠の環に潜らせた儘に

して擱き乍ら捨て置いて

靣(つら)を隠す其の

芳しき椿の香(か)、汲めば


生き慣れたくない、


と云う英氣が少女(おとめ)には漲(みなぎ)って来る。


勿体無き未だ輝ける素晴らしき縡よ此の冠は。

斯(こ)う少女(おとめ)に


睨まれた椿。

澄ました表情(かお)捨て、


芳しく返し睨み咲(ざ)け。


さぁ…――!



                終



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