唯椿睨阪(ただつばきにらみざか)
唯椿睨阪
武田 嵐癸
唯椿の阪を上る。
名に深い意味は無い
唯、
紅一點の椿阪で存在るからだ。
曀の兒が散り、
地平線を越え、
大海原に光と為って
耀かんばかりの阿波藍の様な
春景を左手に眺め、
時偶に掌を伸ばして摑めないかと
態とらしく確かめると。
袖を絞った、風を通し難い紬の装いで来たのが
駄目だったのだろう、
装いの中は
軽く蒸し、
滴が滲んで、剝ぎ取って襦袢を露わにするのも構わず、
脱いで遣りたい程
氣の良いものでは無い。
此の手に摑める処
摑める処と、
掌を辿らせると、脚許の薄い緑の圡地を過ぎて
此の阪の右手。
石垣側の、
赤く
咲き盛る
椿の幾つもが
花冠を
深緑から
堕とし、花片と混じえたもので
出来た、
褪せた色の、細く長い花絨毯のみである。
触れはしない。
踏みも愚問。
未だ踏まれていない椿の花冠に、
人翳千里は遠く
純心に歩んで好いと見受けて存在られる
処が胸弾む故である。
だから
嬉しきかな。
右手は大層、斯うである。
其の花の頂き、見上げる程。
阪沿いに椿を競り出させた民家の、
鐵炮から守る為の様な
大きさの、
印字打ちには到底使えない石を積み上げた
石垣のみが続き、
忘れた頃に路地裏への出入口が現れるのだ。
俥は恐ろしくて進めない幅の狭い
崖の阪。
人は往き摺り遇える。
路地裏から
一瞬飛び出せば眞っ逆様、
下に茂みは存在ろうけれども………
吹く潮風の音が、退さる下駄を撫でる。
だが
椿目掛けて息を吸うのは、
潮と椿の花翳に香汲むのと同義。
温かな芳しい香が、はな、を突き抜けて脳漿に馴染むのである。
……堕ちた椿の花冠と花片で出来た
細長い花絨毯の径。
夙に
堕ちた。
褪せた色の椿の花翳に、
此の径の樣に
其の花の妖精の、
被れない冠を想った縡がある。
天鵞絨色の、つん〝り、とした夢帳に
黄支子色の髪は流れ星の様。
其れは一束一束の認められぬ
淡さ。
そして紅赫らめた
冠が、載ろうとしているが
まるで、
巻き掛けの鉢巻が
額に張り軌いている様にも、
襷掛けを用いて、脊に翅の如く紅赫を余らせて
結んだかの様でもある…………
芳しさに呑まれ、
今も己の先で舞う、
脚長蜂の様に
惹き附けるものを有しているのに。
黒子の靣隠しの様に、
前髪を正方狀に伸ばして
更に髪の端を
指で抓引いて
表情を
隠そうと迄しているのだ。
然れども、
其の后冠は褪せて
精緻な花の輪郭も暗く失せ
堕ちて往くのだ――
と云うのに
椿の妖精には
一切の、
不の感情を覚えないのである。
秘疑怒睨と縡葉を作って呟いたのは
何時の縡だったろうか?
………何を其処迄
怒りに睨む弁柄の虎まで心に飼って
極めて
吼えさせては、
椿を
妖精へと擬人化させて
捉え、
固執するのかと
ふと
思う、った縡は確かに有るが………
邊りを見直せばそう、
逞しい菫や、綿を飛ばした后の蒲公英、
仏ノ坐も涌いているのだ………
だが
今は唯、椿である椿なのだ。
―――もう恥ずかしくて
一旦駄目だわ。
誰かに伝わるだろうかしら果たして。
殊更、
『文學少女』と云う訳でも無いの、だけれど。
女学校の帰り掛けに
書店の軒先で捲った雑誌草子の
『骨拾い』と云う題に魅入って、
ご覧の通りに膓へ干渉されて、
縡葉に出来そうな
お氣に入りの処で
独り。
万年筆を走らせる様に
膓から聲を
圧縮して。
呟いて仕舞ったのだわ…………
脚長蜂の舞う音の中で
紺の帆水兵服、
腰許で后ろ手に組み乍ら…………
絡んだ指の間も
滴で
蒸しんで来たみたいもう幾ら刻限を過ぎたのかしら…………
―――『十六歳の日記』………
讀んだ后に呟けば
とく、
語彙の拙さが露呈して此の作品を書かれた
先生に申し訳が立たず
途中から
恥ずかしくて
表情が赫く濡れる―――
はぁ…―――
眼頭が
熱くて口が綻んで仕舞うわ………
今日の未熟な感情には潮の香纏う…………
私の想う、
紅赫らんだ冠の
載らない
椿の
妖精さん貴女には
今の私の様に感情が涌かないのだろうかしら?
私は貴女の冠と
同じく
赫く頬を濡らしたわ、ほら。
指で押さえた
顳顬も滴で濡れて……
斯う為れるのはそう、
私、
最期まで此の阪に来るからよ
唯、椿。
貴女の堕とす冠の阪、
貴女が堕とす迄
咲き誇る
椿の花翳の阪を。
上る度、
貴女が一齣一齣変わるのが
判るのだから。
唯、椿の阪の頂で
貴女の見返りの微笑みを視て
死にたいのだわ―――
氣附けば夕莫、
私は
大人しい脚長蜂潮音に舞う。
芳しく美しき椿よ。
だからこそ睨む。
幾度も幾花翳も
褪せても紅赫く、失せても侘び寂びの掌ほどに残る
花冠の翳を
臆せず見よ椿の妖精。
黄支子色の髪端を光らせて冠の環に潜らせた儘に
して擱き乍ら捨て置いて
靣を隠す其の
芳しき椿の香、汲めば
生き慣れたくない、
と云う英氣が少女には漲って来る。
勿体無き未だ輝ける素晴らしき縡よ此の冠は。
斯う少女に
睨まれた椿。
澄ました表情捨て、
芳しく返し睨み咲け。
さぁ…――!
終




