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マイケルの新居は、小さなお城のようだった。ビクスン夫妻が二人に贈ったものだ。
住宅は白一色に仕上げられていた。広い庭園が家を取り囲んでいた。召使の宿舎もあり、内部には近代的設備が完備していた。
「ありがとうございます。こんなに良くしていただいて」
マイケルとトゥエインは、大喜びだった。
「何人子供が生まれても、これで大丈夫」
トミーのことばに、トゥエインはたじろいだ。彼女は妊娠していた。
エミリーの胸を不安がよぎった。トミーは、ひどく機嫌が良かった。召使、コック、下働きの男達、全てがトミーの部下だった。エミリーの不安は強まった。
「おめでたじゃないのか、トゥエイン」
トミーは、無遠慮にトゥエインの腹部を眺めた。
「ええ」トゥエインの顔は蒼白だった。
「ええ、そうなんです、ミスター・ビクスン」
マイケルが、幸せそうな表情で答えた。瞳が輝いていた。
「まあ、おめでとう、トゥエイン」
エミリーは、トゥエインの手を握った。
「ありがとう、マダム」
マイケルは、穏やかな表情でエミリーを見た。一瞬、エミリーの胸が痛んだ。
マイケルは、遠いところに行ってしまっていた。彼はもう、エミリーをではなく、トゥエインと生まれてくる子供を愛していた。
「何でもエミリーに相談するといい。彼女は、君たちの母親代わりなんだから」とトミーが言った。
「そうよ。私にできることなら、何でもお役に立つわ」
「ありがとう、マダム」
マイケルが言った。彼は、穏やかな表情でエミリーを見ていた。トゥエインもエミリーを見ていた。
美しく情熱的なマイケルの花嫁。エミリーは微かに身震いした。すべてが、トミーの計画通りだった。
『お守りください、神様。他には何も望みません。マイケルと彼の愛する者を、どうかお守りください』
「君には感心するね」とトミーが言った。
「表情一つ変えない。君は、私の誇りだ、エミリー。君は、日に日にきれいになっていく。何が、君を美しく彩るのか。マイケルのためなのか、彼の子供のためなのか、それとも、この哀れな夫のためなのか。 色あせたトゥエイン。輝くミセス・ビクスン。トゥエインは君に嫉妬した。それが、このトーマス・ビクスンのためか、それとも、優しくハンサムなマイケルのためなのか、自分でもわからないんだよ、愚かなトゥエインには」
「トミー、一生に一つだけのお願いよ。二人には何もしないでね」
「君の美しさは、時々、この私をさえゾッとさせる。奇麗な少年以上に」
「そう? マイケル以上に?」
「答える必要を感じないね。時には、マイケル以上だと言っておこう」
「光栄だわ。とても嬉しいわ」
「トゥエインは醜悪だ。何の興味もない。身体に子供を宿した女ほど、醜い存在はない」
「そう? 羨ましいわ、私には。私は子供を産めないんだから」
「驚いたね。マダムのことばとも思えない。それが私との結婚の条件だったことを忘れないでくれ」
「ええ、そうよ。あなたを愛していたから」
「過去形で話すんだね。君にとっては、もう過去の話になっているんだ」
「そうじゃないわ。今でもあなたを愛している。でも、愛せなくなるかもしれないわ」
「君が私を愛しているとは、初耳だ。君は私を憎んでいるかと思っていたよ」
「憎んでもいたわ。でも、もういいの」
「きれいだよ、エミリー。今にも、溶けて消えてしまいそうだ」
「消えてしまいたいわ。夏に降る雪のように、生まれると同時に消えていきたい」
トミーは結婚以来初めて、ノーマルな夫に徹していた。穏やかで優しく、エミリーを愛しているように見えた。
「愛しているよ、エミリー」
トミーは優しくエミリーを抱きしめた。
「どうしたの、トミー? 最近のあなたは、変よ。まるで、私を愛しているみたい」
「ずっと愛しているよ、エミリー。自分でも気づかずに。マイケルとトゥエインの結婚が私を変えたのかもしれない」
「本気で言っているの、トミー?」
トミーは黙って、エミリーを寝室に運んだ。
「怖いわ、トミー。いつものあなたじゃない」
「愛しているよ、エミリー。どうして、今まで、君への愛に気がつかなかったんだろう」
初めてのことだった。トミーが黙ってエミリーを抱いたのは。罵倒もなく、苦痛も与えずに。
トミーは、優しくエミリーにキスをした。
「トミー、愛しているわ」とエミリーは叫んだ。彼女の目から涙が流れた。
待ち望んでいた日が、ついにやってきた。
「トミー」
「エミリー」
トミーは、初めてエミリーに接するように、穏やかで優しかった。
「おお、トミー」
トミーの優しさは、奇妙に、マイケルとの一夜を思い出させた。
一切の技巧を用いず、彼は、若い男のように性急だった。その上、トミーは、エミリーの肉体を知り尽くしていた。彼女の眼は、すぐに虹色にかすみ始めていた。喉の奥から声がもれた。自制がきかなかった。
トミーの前に、初めて自分をさらした。深い快楽に全身を沈めた。緊張無しに、初めてトミーに抱かれたのだ。エミリーは、あらゆる快楽を与えられていた。何もかもを忘れさせるほど、トミーの動きは性急だった。
「おお、トミー」とエミリーは叫んだ。
そして。
「ああ、マイケル」と彼女は、叫んでいた。
トミーが大声で笑っていた。
「それが、聞きたかったんだよ、ダーリン。私は、マイケルに似ていたかね。想像通りのようだね、夜のマイケルは。私の妻を盗んだ男は。私の恋人を奪った男は。この世で最も美しい男は」
トミーは、いかにも、おかしくてたまらないという風に笑った。
「大変な仕事だったよ、マイケルを演じるというのは。疲れたよ、実際。でも、君は、きっと幸せだったことだろう。私に愛されているのではないかなどと考えて。
結婚以来、初めての幸せ。
ワッハッハッハッ。こいつは愉快だ。図星だったようだね。でも、安心したよ。
君のマイケルへの感情に変化がないことを確認できて。内心心配してたところだ。もしかすると、マイケルを諦めたんではないかと。
マイケルも自分をだましている。トゥエインを愛しているなどと思い込んで。
トゥエインにも、自分の本当の気持ちに気づかせてやらなければならない。
多忙だよ、ミスター・ビクスンは。人々の幻想を醒ましてやらなければならないんだから」
「あなたを愛しているの、トミー」とエミリーは言った。
「これが真実よ。マイケルなんか愛したこともないわ。私達には私達の、彼らには彼らの人生があるのよ。トミー、お願い。私を愛していると言って。私は、あなたを満足させるわ。何をしてもいいわ」
「自惚れるな、マダム・ビクスン。君にはもう飽きてしまったよ。することは全てし尽くした。さっきのマイケルの名前で、楽しみは全て終わった。あといくつかの仕事をしてもらったら、行きたがっていた所に行かせてやるよ。永遠のやすらぎの里へ」
「行きたいわ、今。行かせて。今、行かせて」
トミーは、エミリーの髪をつかんだ。
「美しい女だ。お前以上の女には、もう出会うこともないだろう。お前が醜く年を取る姿など見たくもない」
「私もそんな姿を、あなたに見られたくないわ」
トミーは、エミリーの頸に、片手を置いた。
「細い頸だ。片手で充分だ。少し力を加えれば、ポキリと折れてしまいそうだ」
トミーは、自分の指に力を入れた。エミリーは抵抗しなかった。彼女の喉元で、血管が脈を打っていた。彼女は苦しさに口を開いた。トミーは、エミリーの口を、自分の唇で塞いだ。
激しい喜びが彼を満たしていた。エミリーの身体がけいれんを始めていた。トミーは、自分を抑えた。
「まだだ」と彼は言った。
彼は、エミリーの頸から、自分の指を外した。
「なぜ?」エミリーは泣きながら尋ねた。
「なぜやめるの。もう一息じゃないの」
彼女の声は喉のところで詰まり、かすれていた。うまく声にならなかった。
「もう少しで挑発に乗るところだ」とトミーは言った。
「愛するエミリー。君のいない世界なんて、考えることもできない。君がいなくなれば、この世は闇に閉ざされる」
トミーは、ゾッとするような声で笑った。
「君には、まだ使い道がある。君でなければ、できない仕事がね」
「何を企んでいるの、トミー」
「何も。今のところは、何も」
「いつまで? 今のところって、いつまで?」
「さあね、いつまでかな。後のお楽しみだ。楽しみにしているがいい」
マイケルのコンサートツアーの間、エミリーがトゥエインを世話することになった。トミーが決めたのだ。
「あのぼうやにも困ったもんだ。トゥエインのことが心配で、ツアーには行きたくないと言うんだ。君が行ってやれば、マイケルも安心して仕事ができるだろう。ミセス・ビクスン、マイケルの親代わりとしての務めだ。行ってくれるだろう、エミリー」
「いいわ。でも、何も企んでいないでしょうね」
トミーは肩をすくめて見せた。
「純粋にプロダクションのためだよ。それと、マイケルのね。彼は、ビクスンプロにとって、最も収益をあげる商品だ。彼の家庭の事情も、事業の一環だよ。他意はないさ」
エミリーをマイケルは喜んで迎えた。彼の感情が、もう過去のものになっていることを、エミリーは思い知った。
「マダム、トゥエインは普通の身体じゃないんです。お願いします。心配でたまらないんです」
「安心して。私がついているわ、マイケル」
トゥエインは、寝室で、ツアーに出るマイケルを見送った。
「行ってしまうのね、マイケル」
「すぐに帰って来るよ、トゥエイン。仕事なんだ」
「私より仕事が大事なのね」
マイケルは、じっとトゥエインを見た。トゥエインは自分のことばを恥じた。
「ごめんなさい、マイケル。私って、わがままね。ずっとあなたと、いたいだけなのよ。身体に気をつけて。毎日、あなたのことを考えながら眠るわ」
「トゥエイン、もう少し待っていて。休みが取れるから。毎日、電話するよ。決して忘れない」
「行って、マイケル。見送らないわ」
マイケルは、トゥエインにキスをした。愛する者に、この世で一番大切な者に。
エミリーは、顔をそむけた。自分の決心にもかかわらず、胸が痛むのを止めることはできなかった。
「ミスター・ビクスンの命令なんですって?」
トゥエインは、エミリーを歓迎する気にはなれなかった。
「どういうつもりですの?」
「マイケルの仕事のためです。夫は、順調に仕事を進めたいだけなんです」
「随分、冷血なのね」とトゥエインは言った。
「私は、マイケルにそばにいて欲しいわ」
「マイケルも、そう言っていたわ。あなたを愛しているのね」
「ええ、そうなの」とトゥエインは、誇らし気にエミリーを見た。
「彼は、私を、愛しているの。私と片時も離れたくなかったのよ。それを引き離すなんて、随分ひどい仕打ちだと思うわ、ミスター・ビクスン」
「幸せそうね、トゥエイン」
エミリーは、トゥエインに微笑んだ。エミリーには、トゥエインが心からマイケルを愛していることがわかった。
「少しも幸せじゃないわ」とトゥエインは言った。
「なぜなの?」
「わからないの、ミセス・ビクスン? あなたって、鈍感なのね」
「そう? ごめんなさい」
「何もかも、あなたのせいよ」
トゥエインは、両手で顔を覆った。
「よく平気でいられるわね。知っているんでしょう? 私とトミーのことを」
「過ぎたことだわ。誰も知らないわ」
「あなたは、知っているわ。知っていて、夫の命令だと言って、昔の愛人の家に、よく平気で来られるわね。金持ちって、冷血動物の集まりなのね。あなたは平気でも、私は平気じゃないわ。あなたを見る度に、マイケルや自分の過去を考えてしまう。見たくないわ、あなたの顔なんて。あなたには、他人の気持ちなんて、わからないんでしょう? 優雅でぜいたくな生活をしているうちに、人間らしい感情がどこかに行ってしまうんだわ。
マイケルの気持ちまで信じられなくなるわ。なぜ、あなたを家に入れるの? なぜ、平気で、あなたに私をまかせるの? なぜなの? なぜ?」
「それはもう、私を愛していないからよ」
エミリーは、平静な声で、微笑みながら答えた。胸の中が、空っぽになったように感じていた。
「本当にそう思うの? それで平気なの? マイケルを愛していなかったの? ただの遊びだったの? トミーは、あなたがマイケルを愛していると言っていたわ」
「はっきりさせましょう、これからのために。マイケルを愛していたことは、認めるわ。でも、一時の気の迷いだったことに気がついたの。私は夫を愛しているわ。最初からずっと。彼のために、子供も諦めたわ。私はあなたのように、子供を産めないの」
「まあ、そんなこと……」
トゥエインの目から、エミリーに対する敵意が消えていた。
「あなたって、私のイメージと随分違うわ」
「そう?」
「もっと悪い女だと思っていたわ」
「あれは、トミーの作ったイメージなの。彼は、悪い女が好きなのよ」
「わかったわ、マイケルがあなたを愛した理由が」
「え?」
「あなたって、かわいそうな女なのね。夫のイメージだけで生きている。夫の命令で、子供も産めない。マイケルは、あなたに同情したのよ。あなたを、かわいそうに思ったんだわ。
誰にも本当には愛されない女。自分を表現できない女。囚われの女。世間からは悪女だと思われ、永遠に、幸せとは縁のない女。マイケルは優しいわ。哀れなあなたに同情したのよ」
エミリーは、微かな敵意をトゥエインに抱いた。トゥエインは、その率直さで、エミリーの心をズタズタに引き裂いた。
「一つだけ聞きたいの。あなたが生むのはマイケルの子供なの? それとも……」
トゥエインは顔色を変えた。
「思った通りだわ。それが一番知りたいのね。聖女のような顔をして、心の中では、そんなことばかり考えているのね。安心してちょうだい。私は、マイケルの子供を産むのよ。それ以外はないわ」
エミリーの瞳が輝いた。彼女はトゥエインを抱擁した。
「おめでとう、トゥエイン。心配だったの」
トゥエインは、驚いたようにエミリーを見た。
「本気で言っているのね? トミーの子供でなくて、安心したの?」
「ええ。本当に、心から安心したわ」
「トミーを本当に愛しているのね。私も安心したわ。ごめんなさい。一度だけあなたに謝るわ。
トミーを愛していたの。奥さんがいると知っていたのに。マイケルには、トミーのために近づいたのよ。でも、マイケルは、トミーと違っていた。
彼に愛されているとわかった時、トミーは、私なんか一度も愛したことはなかったんだと気がついたわ。きっと、彼はあなただけを愛していたのね。私は、あなたの身代わりだったんだわ。
マイケルは、トミーとのことを知らない。今となっては、トミーとのことが、マイケルのために恐ろしいの。知られたくないのよ、マイケルには。彼が、私の最初の男だと思っていて欲しいの。
彼は、私を聖母か何かのように考えているわ。彼の夢を壊したくないの。
彼は、一度、あなたに裏切られている。気にさわったら、ごめんなさい。私まで彼を裏切っていると思わせたくないのよ」
「大丈夫よ。安心なさい。誰も、あなた達の幸福を壊すことなんてできないわ」
エミリーはトゥエインの手を握った。口ではそう言ってみたが、エミリーもトミーが怖かった。彼の企みが。彼の心が。彼は不気味な雲のように、エミリーとトゥエイン、そして、マイケルの上に君臨していた。今までのところ、全てが彼の思惑通りに動いているのだ。
「あなたが、好きだわ」と突然トゥエインが言った。
「変ね、こんな気持ちになるなんて。思っていたことを全部言ってしまったせいかしら。それとも、あなたが思っていたのと違ったせいかしら。心が軽くなっているわ。私には兄弟がいないけど、いたら、あなたのようだったかもしれないわ。何だか、他人のように思えない。きっと、同じ人を愛したせいね」
「私もよ、トゥエイン。あなたが妹のように思える」
エミリーとトゥエインの間に、奇妙な情愛が通い始めていた。不思議な感情だった。同じ苦しみと、同じ愛情に身を焦がしたのだ。長い間行方のわからなかった姉妹の一人に出会ったように、お互いを親しいものに感じていた。
二人は意識して、過去の話は避けていたが、それ以外のことは何でも話し合うようになっていった。
「トゥエイン、元気? 赤ちゃんは?」
マイケルは家を空けている間、日課のように電話をかけてきた。
「もうすぐ帰れるよ、待っていて」
「愛してるわ、マイケル」
「僕もだよ、トゥエイン」
電話が切れた後も、トゥエインはしばらくの間、受話器を握りしめていた。マイケルの声の余韻を楽しんでいるのだ。電話を聞いていると、マイケルの声が容貌以上に魅力があることがよく分かった。暖かく、優しく、甘く,切なくなるほど美しい声だ。
「もうすぐ、マイケルが帰って来るわ」
トゥエインはエミリーに報告した。
「じゃ、もうすぐお役御免ってわけね」
「淋しくなるわ、エミリー」
「何を言っているの。マイケルがいるじゃないの。私は邪魔よ」
正直なところ、マイケルとトゥエインの幸福そうな様子は、エミリーを苦しめていた。二人の幸福を心から祈りながらも、内心の空漠感は、エミリーの意志の力でも拭うことができなかった。孤独だった。自分は抜け殻だとエミリーは感じた。トゥエインの言った通りだった。
かわいそうな女。誰からも本当には愛されない女。囚われの女。幸せとは、永遠に縁のない女。それが、エミリー・ビクスンだった。
「疲れているようだね、エミリー」とトミーが言った。
「どうだい? 新婚家庭は?」
「とても幸福よ。二人とも、赤ちゃんを楽しみにしているわ」
「もうすぐだね、トゥエインのお産は」
「ええ、そうよ。また手伝いに行くわ。ごめんなさい、何度も家を空けて」
トミーは、疑り深い目でエミリーを見ていた。
「君の存在は、永遠の謎だね。大した自制心だ。君は、トゥエインまで手なずけてしまったようだ。胸が痛まないのかね、エミリー。愛する男の子供を、君には永遠に手に入らないものを、他の女が手に入れるというのに」
「そんなことを考えていたの? あなただけを愛していると言ってるでしょう?」
「君はマゾヒストなのか、エミリー・ビクスン」
「さあ。考えたこともないわ。今の生活に満足しているの。私でも、誰かのお役に立てるんですもの」
「いつまでそんな可愛いことを言っていられるか、見ものだね、ハニー」
「忙しくなるわ、赤ちゃんが生まれると。その前に、ナースを選んでおかないと。優しくて子供好きな人がいいわ。大家族で育って、大勢の子供を知っている人。ばら色の頬をして、よく笑う。目に浮かぶようだわ」
「正気か、エミリー。本気で言っているのかい?」
「ええ。なぜ? おかしい?」
トミーはジッと黙ってエミリーを見ていた。楽しみが、一つ減った。しかし、新たな楽しみが加わった。プラスマイナスはゼロだ。
「楽しみだね、トゥエインの赤ちゃんが」
「ええ、本当に」
マイケルが慌てて帰って来た。ファン達は、マイケルの動きをよく知っていた。彼がツアーで留守の間は閑散としていた邸宅が、ファンの群れに囲まれていた。
今日のマイケルは、ファンの方に手を振らなかった。ガードマンに囲まれて、逃げるように屋敷の中に消えた。ファンの間から失望のため息がもれた。しかし、それはすぐに歓声に変わった。
「赤ちゃんが生まれたんだ」というささやきが、口から口に伝えられた。医者の車が人垣をかき分けて帰って行った。ファン達は、幸せな気分を抱えて家路についた。皆に報告しなければならなかった。
マイケルの顔は蒼白だった。予定より一ヶ月も早かったのだ。
「トゥエインは? マダム」
エミリーは微笑んだ。
「可愛い女の子よ、マイケル。トゥエインと赤ちゃんに会っていらっしゃい」
「無事なんですね」
マイケルは、その場に座り込んだ。
「まあ、マイケル。楽なお産だったのよ。お医者さんもいらないくらい。トゥエインは若くて健康ですもの」
「心配したんです。昨日は何ともなかったのに。何かあったんじゃないかと」
マイケルはエミリーの首に、両腕を投げかけた。不意のことで、エミリーはもう少しで卒倒するところだった。気が遠くなりそうだった。
「ありがとう、マダム。あなたのお陰です」
「お礼はトゥエインに言うべきよ。あなたのために、可愛い赤ちゃんを産んだんですもの」
「あなたには、感謝のことばしか思い浮かばない」
「さあ、さあ、早く。トゥエインと赤ちゃんのところに」
マイケルは、跳ねるように二階に上がって行った。エミリーは、ゆっくりとその後を追った。胸の鼓動が治まらなかったのだ。
トゥエインは軽い興奮状態にあった。
「見て、見て、エミリー。コンスタンスの元気なこと。あんまり吸い付くので、おっぱいが痛いわ。暴れちゃダメ。これこれ、おっぱいが飲めませんよ、コニー」
マイケルは、あっけにとられて、トゥエインの様子を見ていた。
「お帰りなさい、マイケル。見て、コニーが眠るわ」
「トゥエイン、僕にも抱かせて」
「だめ、だめ。コニーに、バイキンがつくわ。手を洗ったの? それに、コニーは、もうお昼寝よ」
「すっかりお母さんだな。心配して慌てて帰って来たのに」
エミリーは、ナースに赤ちゃんを子供部屋に運ばせた。そして、そっと家路についた。後は、トゥエインとマイケルの時間だった。
トゥエインは、マイケルに両手を広げた。
「お帰りなさい、パパ」
マイケルは、おそるおそるトゥエインを抱いた。
「眠った方がいいよ、トゥエイン。君は、お産の後で興奮しているんだ。ありがとう、トゥエイン。可愛い赤ちゃんだ」
「それに、とても元気よ」
「とても元気な赤ちゃんだ」
「名前を呼んでよ。エミリーと二人で、ずっと考えていたのよ。コンスタンス。不変の幸福を祈ったの。エミリーはどこ? 彼女は、コニーのために、ステキなナースまで選んでくれたのよ。面接にすごい時間がかかったんですって。おかしいのよ、エミリーったら。ばら色の頬でないとだめなんですって。諦めかけた時に、イメージ通りの人が入ってきて、『あなたよ、あなたよ!』って思わず叫んだの。エミリーは、そのお陰でダイエットする以上に体重が減ったと言っていたわ。それから……」
「もうお休み、ママ。エミリーの妹。僕のことなんか少しも考えていなかっただろう」
トゥエインはマイケルの腕の中で眠っていた。幸せそうな寝顔だった。マイケルは愛情のこもった目で、トゥエインを見つめていた。情熱的で自我の強いトゥエイン。優しくて芯が強い。
マイケルは、今さらのように、トゥエインがミセス・ビクスンに似ていることに驚いた。いつも一緒にいるせいか、話し方まで似てきていた。それは、マイケルの心に、微かな痛みを呼び起こした。
マイケルはトゥエインを愛していた。この世で一番大切な者だ。穏やかで揺るぐことのない愛情だった。しかし、それはかつてエミリー・ビクスンに抱いた感情とは、まったく異質のものだ。自分を見失うほどの激しい熱情。多分、若さと未熟さゆえの激情だったのだ、と今のマイケルは考えていた。
過去に死んだ感情なのだ。古い傷がうずくように、時々胸が痛むのだ。
現実のエミリー・ビクスンに対しては、穏やかで優しい感情しか見当たらない。それが、トゥエインを見る度に、古い感情を思い出す。おかしなことだった。トゥエインに対して、かつてのエミリーに対するような感情を抱きつつあるのか。答えは、ノーだ。あれは、一度死に、二度と再び生まれることのできない気持ちだ。今の自分には、もう抱くことのできない思いだった。
エミリーは、屋敷のどこにもいなかった。
聖母のように、トゥエインとマイケルとコニーを愛しているエミリー。マイケルが帰宅すると、すぐに姿を消してしまう。影のように、一家を支えてくれていた。エミリーは、一切の感情とは無縁のように見えた。よく訓練されたメイドのように、存在が希薄だった。彼女からは、姉のような母のような雰囲気が伝わってくる。
まだ、彼女は自分を苦しめる、とマイケルは密かに思っていた。マイケルは考えることをやめた。
彼には、愛する家族がいた。愛するトゥエインと可愛いコニーが。




