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闇に響く声  作者: まきの・えり


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7/13

       7

 深夜にもかかわらず、大勢のファン達が空港に詰めかけていた。

「マイケール!」

「マイケール!」

 熱い声援が、あちこちから飛んでいた。

 マイケルは、ファン達に手を振りながら、飛行機のタラップを登って行った。

「眠っておけよ、マイケル」とトミーが言った。

「着いたら、すぐに記者会見だ。この後は、いつ眠れるかわからない」

「はい、ミスター・ビクスン」

 トミーは、エミリーを大切な宝物であるかのように扱っていた。トミーは、マイケルの視線を意識していた。

 マイケルは、エミリーの元気そうな様子を見て、安心した。

 エミリーは、まったく優雅に歩いた。傷は化膿しかけていたのだ。まだ、完全に痛みが取れているわけではなかった。優雅に歩き、優雅に微笑んでいた。マイケルにも、他のスタッフに向けるのとまったく同じ優しい微笑みを見せた。

「マダム、すっかりいいようですね。安心しました」

「ええ、ありがとう、マイケル。心配かけてごめんなさい」

 エミリーの表情から、好意以上の感情を読み取ることは不可能だった。

 マイケルは、窓の外の暗い夜の広がりを見つめていた。

 眠ることなどできなかった。

『あれは、一時の夢だったのか』

 エミリー・ビクスン。ミスター・ビクスンの貞淑な妻。はかなげに見えて、芯の強い女性。心にあふれるほどの愛を持っている。その愛は、ミスター・ビクスンのためのものなのか。

 エミリーの存在は、そもそもの初めから、マイケルの憧れであり、苦しみだった。視線は、つい、彼女を追ってしまう。

 幸福そうに見えて、そのくせ、ひどく孤独にも見える。感情をまったく表さないかと思えば、マイケルが困惑するほどの情熱を示す。

 そして、それらは全て、彼女の夫に向かうものだ。自分の立ち入るところなど、どこにもなかった。

 マイケルは、歌の中に、彼女を縫い込んだ。歌だけが、彼女に届く。歌っている時だけ、マイケルは、彼女と共にいた。

 トーマス・ビクスンは、ひどく機嫌が良かった。すべてが順調に進んでいた。すべて、予定通りだ。

 マイケルの映画出演。

 トゥエインの成長。

 そして、美しいエミリー。

 触れれば壊れてしまいそうだ。デリケートな彼女の表情。危うい綱渡りをしているのだ。エミリーの心も身体も、緊張のきわみにある。苦悩と苦痛の極致だ。

「きれいだよ、ダーリン」とトミーは言った。

「そう? 嬉しいわ。優しいのね、トミー」

「君に優しくない男なんて、この世にはいないよ」

「そう? 本当かしら」

 トミーは、足の先で、エミリーの傷ついた方の足を蹴った。

「痛いわ、トミー。やっと治りかけているのよ」

「最高だね、ダーリン。顔一つ、ゆがめない。君は、最高にきれいだ」

「私を寝かせてくれないの?」

「もちろんだよ、ハニー。君と愛を語るのに、これ以上最適な場所はないよ」

「変わった趣味ね。私は、窓の外が見たいわ」

「何も見えないよ。見えるのは、君の顔だけだ。ナルシスでも、君を見れば、自分を恋するようなバカな真似はできなかっただろうに」

「どうしたの、トミー。ひどく優しいわ」

「最高の気分だね。何もかも順調だ」

「そう? おめでとう。でも、私には関係がないわ」

「美しいエミリー、そう自分を卑下するもんじゃない。君の出番は、これからだよ」

「何を企んでいるの?」

「これは、人聞きの悪い。君達の夢をかなえてあげようとしているのに」

「夢なんかないわ。何も」

「自分で気づかないだけだよ。私が教えてあげよう。トゥエインのことも、じっくり教えてあげるよ。ハハハ、君は、トゥエインの話が好きじゃないようだね。じゃあ、一つだけ。トゥエインは、まさに、二十歳の君だ。最高にきれいで、最高に優雅だ。ナイーブで、愛情深い」

「そう? 随分な情熱ね」

「妬ける?」

「胸がつぶれそうよ。だから、もう言わないでね。紳士でしょう? 今夜は」

「最後に、もう一つだけ。ひどく初々しい花嫁だ。あのトゥエイン・ランバートは」

 エミリーは、トミーから顔をそむけた。トミーは、エミリーの心の弱い部分を徹底的に攻撃する。決して、容赦はしなかった。

「戦わずして、敗れるつもりか? ミセス・ビクスン」

「ええ、必要なら。愛しているわ、トミー。マイケルは、トゥエインにあげるわ」

「よし、ご褒美に、キスしてあげよう」

「誰かが見るわ」

「かまわないさ。愛する者同士だ。それに、もう夜も更けている。皆、眠ってるよ」

「優しくしてね」

 トミーは、エミリーの細いあごを片手で支えた。エミリーの唇は、溶けてしまいそうに柔らかだ。エミリーの身体が逃げないように、トミーは、空いている手を、彼女の腰にまわした。

 濃厚なフレンチ・キスだ。思った通り、エミリーは逃れようともがいた。そのうち、彼女は、いつものように身体の力を失った。彼女の舌が、トミーに答えていた。

 トミーは、エミリーの頬にキスすると、彼女を離した。

「ひどいわ」とエミリーが言った。

「優しかったはずだ」

 エミリーの頬が、ばら色に輝いていた。いつもは、透き通るような象牙色だ。

「ここが家なら良かった」とトミーは言った。

「まだまだ続きがある」

 トミーは、エミリーの髪に指を差し入れた。エミリーの瞳が、濡れて輝いていた。

「ダーリン、君の魅力は、悪魔のようだ」

「悪魔は、あなたよ。私を、私以外の何かに変えた」

 トミーは、エミリーの耳に、自分の今の気持ちをささやき続けた。トミーの熱い息が、エミリーの耳を覆う。エミリーの身体が、小刻みに震えていた。

「やめて、トミー。お願いよ。座っていられなくなるわ」

 トミーは、やめなかった。彼女の指をもてあそび、彼女の頸に唇をはわせた。そして、ささやき続ける。ついに、エミリーは、両手で自分の口をおさえた。叫んでしまいそうだった。

 トミーは、満足そうに、エミリーを見ていた。

 飛行機が着陸した時には、エミリーは、自分がどこを歩いているのか、わからない状態になっていた。トミーは笑いながら、彼女を支えていた。

「先にホテルに連れて行くよ。どうやら、飛行機に酔ったらしい。マイケル、インタビューは、リチャードにまかせておけばいい。君は、思ったことだけを話すんだ。私が先にチェックインしておくから、後から、彼と来るといい。彼がうまく、ファンの群れをまいてくれるだろう」


 予想以上の歓迎ぶりでした。

 マイケルの歌は、海を越えて、ヨーロッパにも届いていたのです。

 私は、トミーに肩を抱かれて、ホテルの部屋に案内されました。ホテルの最上階はすべて、マイケルのツアーグループのために、解放されていました。

 最上階への階段や、最上階に通じるエレベーターの前には、大勢のガードマンがいて、用のない者の立ち入りを厳しくチェックしていました。

 トミーは、スタッフと挨拶や打ち合わせをすませると、私を一番端にあるダブルルームに導きました。

 ドアに鍵をかけ、私をベッドの上に放り投げると、彼は、じっと私を眺めました。

「妖婦・エミリー」と彼は言いました。

「トーマス・ビクスンを夢中にさせ、マイケル・ランバートを誘惑する」

「そんなことはしないわ。私は、貞淑な女よ」

 自分が、トミーを誘っているのがわかりました。トミーは、私の方に近づき、飛行機の中と同じキスをしました。私の衣服には触れずに、考えられる限りの愛撫を、私に加えました。そして、彼は、私から離れたのです。

「なぜ? トミー」

「食欲が、わかない。誘われれば、逃げたくなる。それが、男だ。君には、まだわからないようだね。醜悪だ、エミリー。自制が足りない。

 さて、私はでかけてこよう。ドレスアップして、マイケルを迎えてやれ。精一杯チャーミングに。

 ドレス類は用意してある。すべて、トゥエイン向けだ。同じ物を着て、私の妻が、マイケルの花嫁よりチャーミングなところを見せてくれ」

「着ないわ、そんなドレス」

「じゃ、旅行着一枚で過ごすんだね」

 トミーは、部屋から出て行ってしまいました。

 自分がひどい顔をしているのがわかりました。

 置き去りにされた女。

 愛人と比較されなければならない妻。

 ありとあらゆる醜い部分を露出させているエミリー・ビクスン。

 その日は、一人きりの夜でした。夜更けにノックの音が聞こえました。息を切らせてドアに向かいました。ドアを開ける前に、しばらく呼吸を整えました。

「飲み物をお持ちしました、マダム」

 よく訓練されたボーイが、無表情に立っていました。

「飲み物なんか、頼まないわ」

「ミスター・ビクスンからのご注文です」

「そう? そうなの?」

「伝言を頼まれています。『よい夜を』とのことです」

 部屋の中で、アルコールと向かい合いました。お酒とは、長い付き合いでした。マイケルの歌に触れて以来、アルコールに以前ほどの友情を感じることはなくなっていました。

 私は、しばらく眺めた末に、『よい夜を』のブランデーを洗面所に流しました。

「さよなら、ブランデー」


 トミーは、明け方近くになって、部屋に戻ってきました。彼は笑いながら、眠っていた私の頬にキスしました。

「いい自制心だ。マイケルは、君にまかせるよ。ひどく神経質になっている。彼は、コンサートとインタビュー以外には、ホテルから一歩も出ることはできないだろう。

 物凄い熱狂だ。ファン達は、気違いじみている。ホテルの外に出るのは、彼にとって危険だ。ホテルの周囲は、ファン達で埋まっている。ガードマンの数は、マイケルの到着以降、三倍に増やされ、警官も出動している。

 私は、他のスタッフに、折角の旅行を楽しませてやりたい。

 君にまかせるよ、エミリー。英国でのマイケルの成功も失敗も、すべて君にかかっている」

「私もヨーロッパを見たいわ、トミー」

 トミーは笑いました。

「子供みたいなことを言うんじゃない。マイケルのお守りは、君にしかできないよ。まだ、トゥエインは、マイケルの前に現れていないのだから」

「トゥエインの代わりね」

「そうだ。トゥエインの代わりだ」


 マイケルは、実際、イライラしていました。

「エミリーを置いていくよ、マイケル。君が外に出るのは危険だ。用があったら、何でもエミリーに言ってくれればいい」

 トミー達がいなくなり、ホテルの最上階に、マイケルと二人で取り残されました。最初のコンサートの前日です。

「落ち着きなさい、マイケル。誰もあなたを食べたりしないわ」

『トミー以外は』ということばを、私は飲み込みました。

「怖いんです、マダム、人々の熱狂が。自分があの熱狂に応えられるとは思えない」

 美しい天使が、不安におののいていました。

「同じじゃないの、アメリカと」

 マイケルは、微笑みました。

「そうですね。マダムの言う通りです」

「じゃ、何も怖いものなんか、ないわ」

 マイケルが私に手を伸ばしたので、私は、一瞬、身構えました。

「怖がっているのは、マダムの方だ。ゴミですよ。髪の毛にゴミが。何を怖がっているんです」

 私はマイケルが髪に触れるのを、身体の震える思いで待っていました。自分でも、自分の気持ちが理解できませんでした。

「静かね。外の騒ぎが嘘みたい」

「せっかくイギリスに来たのに?」

「そうよ。ずるいわ、トミー達ばかり」

「ごめんなさい、マダム」

「いいのよ」私は微笑みました。

「あなたの歌を聴きに来たんだから」

「突然、緊張させないでください」

 マイケルといると、心が和むのを感じました。ヨーロッパになど何の興味もないことにも。

「初めてね、完全に二人きりなんて」

 私は、二人きりの時間を与えてくれたトミーに感謝すらしました。

「僕が怖いんですか。さっきから震えている」

 それは本当でした。彼を眺めていると、自分が自分自身に返っていくように思えました。弱く傷つきやすい自分自身に。

 私は、彼に触れてみたいと思っていました。彼の髪に、彼の頬に、彼の額に、彼の唇に。

 しかし、彼は、聖なる者のように、私の前に存在していました。自分の汚れた手が、彼を汚すことを恐れました。

 平和なひと時でした。苦痛も孤独もない。

「トランプでもしましょうか」

「じゃ、占ってあげる、あなたの未来を」

「僕の未来よりも、あなたの未来が知りたいな」

「そう? 私の未来? あるのかしら、そんなものが」

 私は一枚のカードを隠しました。

 マイケルといると、自分にも明るい未来が待っているような気がしていたのです。

 マイケルは、私の手の中のカードを取り上げました。

「ハートのクイーン?」

「ハートのクイーンは嫌いなの」

「あなたの恋がたき?」

 手が震えました。まだ見ぬトゥエイン・ライトの声が聞こえてくるようでした。

『愛しているわ、マイケル』

 マイケルの花嫁。まさか。前日までのあらゆる感情が一度に押し寄せてきました。

 辺りの景色が歪んで見えました。目の前に、白い光のかたまりが、チラチラ揺らめいています。頭から血の気が引いていきました。貧血の症状でした。

『醜態をさらすな、エミリー。自分を抑えろ。微笑むんだ。何でもない顔をしろ』

 トミーの声が頭の中でこだましていました。

「マダム、気分が悪いんじゃないですか」

「平気よ。何でもないわ」

 私は微笑みました。魅力的に。その瞬間、頭の中が空白になりました。

「マダム」

 マイケルが私を抱きとめたのを感じました。彼の身体に触れた瞬間に、すべての緊張がほぐれてしまいました。自制がききませんでした。

「気分が悪いの。気分が、悪い」

「すぐ、医者を呼びます」

「いやよ。お医者さんは嫌いなの。抱いていて、マイケル。すぐに治るから。しばらくでいいの。このまま、抱いていて」

 マイケルの胸は厚く、暖かでした。彼は私の背中をなで、髪をなで、私の汗を拭いていました。彼の瞳は、吸い込まれそうになるぐらい、深いブルー。

「エミリー」

 マイケルは、強く私を抱きしめました。髪に、額にキスしました。マイケルは、光り輝く者のように見えました。彼は、激情にとらわれたかのように、私の唇を探しました。

 彼は目を閉じ、私も、目を閉じました。

 彼の唇が、私の唇に、触れました。

 目の前で、光線がスパークしたと感じました。電気に触れたように、私はショックを受けました。

 夢から覚めたように、私達は、顔を見合わせて笑いました。

「痛かったわ」と私は言いました。「まるで、小さなカミナリね」

「神様の妨害電波」と彼は言いました。

「おかしな神様。きっと、嫉妬したのよ」

「あなたと僕に?」

「ええ、あなたと私に」

 私は、マイケルの目をみつめました。

「もう一度、試してみて」

「ノー、マダム」と彼は言いました。

「もう、そんな気には、なれない」

「さっきはそんな気になったの? ねえ、なぜ?」

「ええ、マダム。その通りです。これ以上、僕を苦しめないで」

「苦しんでいるの? なぜ? 私のせいなの?」

 マイケルは、その深いブルーの瞳で、私を見つめました。

「あなたは、ミスターを愛している」

「そうなのよ」と私は答えました。胸が痛みました。

「これは、ほんの遊びなの。そんな顔をしないで、マイケル。私は、あなたの歌が好きなの。あなたの歌のファンなのよ。ファンとして、あなたを愛している。ファンとして、あなたのキスが欲しいのよ。キスして、マイケル。あなたの熱烈なファンに」

「ダメだ、マダム。あなたは、僕を苦しめる」

「嬉しいわ。私のために苦しんでくれて。愛してるわ、マイケル。キスして」

 思った通り、ノックもなしに、トミーが部屋に入ってきました。

「お邪魔だったようだね、ダーリン」とトミーは言いました。

「とんでもない、ミスター・ビクスン」

 トミーは、黙って、私に近づきました。彼は、思いきり、私を殴りました。

「売女め」

 トミーは、もう一度、大げさに手を振り上げました。マイケルは、トミーの手を止めました。彼の顔は、蒼白でした。

「誤解です、ミスター・ビクスン」

 トミーは、マイケルの肩を抱きました。

「君には何の責任もない。私は、君を誘惑したこの女のことを言っているんだ」

「マイケル、これは夫婦の問題なの。自分の部屋に戻ってちょうだい」

 私は、はっきりした声で言いました。トミーの趣味に、マイケルを付き合わせるつもりはありませんでした。

「君は、もっと、女の扱い方をマスターすべきだね。こんな女が言い寄ってきた時には、こうしてやればいいんだ」

 トミーは片手で私の髪をつかみ、空いている手で、私を殴りました。彼は本気でした。

「お願いです、ミスター。やめてください」

 マイケルの声は、悲痛でした。彼は、トミーから私を奪うと、自分の後ろにかばいました。

「いつも、こんなにひどく、マダムを殴るんですか。あの怪我も、あなたがさせたものなんですか」

 トミーは、笑いました。

「マイケル、なかなか察しがいいじゃないか。この女は、私の頭痛の種だ。生まれつきの淫売女なんだよ。誰とでも寝たがるんだ。その度に、この騒ぎさ。

 君も、この女と寝たからって、何も気にすることはない。隙さえあれば、俳優や歌手、うちのスタッフとでも、情事を楽しんでいるんだ。

 あいにく、私は彼女を愛している。別れることなんか、できないんだ。それを知っているから、ますます、こいつは増長する。こんな気持ちは、君にはわからないだろうね。一人の女に惚れ込んだ、哀れな男の話だよ」

「わかります、ミスター・ビクスン」

 マイケルは、私の方を向くと、軽く、私の頬を打ちました。

「あなたの頬より、ミスターの心の方が痛い」

 そう言うと、マイケルは、私に背を向けて、歩み去りました。

 私は、自分の頬を押さえました。トミーに打たれた何十倍も痛かったのです。マイケルは、私の心まで一緒に打ったのでした。

「劇的だったね」とトミーは言いました。

「失意のマイケル。これで、彼の歌には、一層の磨きがかかるだろう。君の手腕には、いつも感心させられる。哀れなマダム・ビクスン。女神の座から、一瞬にして、淫売の座に転落だ」

 私は、答えませんでした。ベッドに身体を伸ばして、寝そべりました。微かに、マイケルの匂いが残っていました。

「落ちた偶像、エミリー・ビクスン。君があんまり感動していないのは、残念なことだね」

「もう落ちて、壊れてしまった。あなたとマイケルに、壊されたの」

「まだまだ、これからが、本番だ。壊れたかけらを貼り合わせるんだ」

「もう、何も怖くない」

「最大の難関は、マイケルだ。私にとっても、君にとっても。決して、思い通りには動かない。彼を大統領に育て上げる、という手もある。かいらいだよ、私の。無理ではないが、彼は、言うことを利かないだろう」

「想像力が随分豊かなのね。作家になれば、成功したわ」

「力のない連中の集まりだよ。現実的じゃない。私には、現実を動かす力がある。自分の思い通りにね」

「剣は、ペンよりも強しね。力が正義。さしずめ、私は、弱肉の象徴ね。王様の奴隷、聖なる淫売。マグダラのマリア。皆が、私を、石で打つ」

「いいアイディアだ」

「え?」

「いずれ、使わせてもらうよ。受難のマリア様。聖なる乙女」

「いや。疲れているの」

 トミーは、大声で笑いました。

「うぬぼれるな。自分の顔を、鏡で見てみろ。当分、ここに閉じこもって暮らすんだね」

 何も考えないことにしました。顔の腫れは、なかなか引きませんでした。醜く腫れた顔を、飽かずに眺めました。色々な角度から点検しては、満足を覚えました。

 醜い状態は、心を平静にするのに役立ちます。美の維持は、間断ない緊張を意味していました。臨時の休暇をもらったように、私は自分の醜さを、一人、異郷で楽しんでいました。

 二週間はあっという間に過ぎて行きました。

 マイケルのコンサートは、素晴らしい成功でした。トミーの言った通り、彼の歌には、ますます磨きがかかっていきました。

 私はテレビに映るマイケルを、毎日眺めて過ごしました。マイケルとお酒が、孤独な私の友でした。


 最後の晩、トミーがやってきました。彼はあれ以来、毎晩、お酒と同じ伝言『よい夜を』を、ボーイに届けさせていました。

「久しぶりね、ダーリン。私を忘れて、アメリカに帰ってしまったかと思っていたわ」

 トミーは何も言わずに、私の顔を調べていました。

「メイキャップで隠せるな。マダム、マイケルのコンサートに、ご招待しましょう」

「行かないわ」と私は言いました。

 お酒の力も手伝って、投げやりな気分でした。

 トミーが私を忘れて国に帰ってくれることを、一心に祈っていました。

「まったく自堕落な女だ。一時間だけ待ってやる。早く用意をすませるんだ。二度と、マイケルのショウは見せないぞ」

「何もいらない。何も見たくない」

 トミーは、何本かの空のボトルを見つけました。

「いい身分だね、ハニー。マイケル登場以来、アルコールとは縁が切れたと思っていたよ」

「『よい夜を』ありがとう、トミー」

「君の自制心を試したのさ。三日と続かなかったようだね」

「ええ、トミー。三日と続かなかったわ」

「まったくステキな自制心だ。飲んでもいいが、酔いを表に出すな。せいぜい、美しく着飾るんだな。ショウの後には、パーティーがある。各国の大使や大臣も出席する。醜態は、許さんぞ」

「マイケルは?」

「それが、心配か。もちろん、マイケルが主賓だよ、ダーリン。マイケルに醜い姿は見せたくないだろう」

「ツアーは、成功ね」

「半分は、君のお陰だ。マイケルの歌は、悲しくなるほど素晴らしい。ありとあらゆる感情が、歌にこめられている。愛、希望、夢、そして、失意に絶望。

 今までで最高のマイケルだ。君にも、ぜひ見せてやりたい」

「わかったわ。飾り立てるわ、妖婦のように」

「君は、物分かりがいい。濃い化粧がいいね。その美しい瞳を強調して、深紅のルージュを引くんだ」

 鏡の中の私が変わっていきます。目を強調すると、顔の腫れは気にならなくなりました。ドレスは身体にピッタリでした。トミーの見立ては、いつも正確です。シルバーラメの入ったダークグレイのドレスです。胸と背中が大きくカットされ、ウエストはできる限りしぼってありました。

 私は、髪を高く結い上げました。ヘアードレッサーを煩わせなくても、私の手先は器用でした。

「驚いたね」とトミーが言いました。

「妖婦というより、君は妖精のように見える。触れるのが怖いくらいだ」

 彼は満足そうに私を見回すと、私の肩にコートをかけました。

「車を待たせている。マイケルはもう会場だ。毎日命がけで、ホテルを出発しているよ。何台もおとりの車を使ってね。リチャードは慣れたもんだ。帰りは悠々と帰ってくる。ファン達が、他の車を追いかけている間に」

 ひどい交通渋滞でした。パトカーが私達の車を先導してくれました。大勢の警官が、何重にもバリケードを築いて、ファンの群れをさばいていました。ショウが始まるまで、マイケルに会うことはできませんでした。熱気のせいで、気分が悪くなりました。

 私達は、二階のボックス型に作られた席に腰を下ろしました。


 場内が暗くなると、異様な静けさが辺りを覆っていました。目に見えない熱気と興奮が渦巻き、じっと出口をうかがっているのです。

 ライトがいっせいにステージを照らしました。

 私も、思わず身を乗り出しました。

 行き場を失っていた全てのエネルギーが、ステージに現れたマイケルに向かって殺到していました。まるで、ロケットの発射です。全員が立ち上がって、叫んでいました。

 今夜が、最後のショウだったのです。

「マイケール!」

「マイケール!」

 マイケルは、ひどく大きく見えました。彼は、歓声に驚いたように、ステージの中央で立ち止まりました。彼は場内を見回し、大きな微笑みを浮かべました。

 彼は、私の方に手を振りました。二回座席にいた全員が手を振り、マイケルの名前を叫んでいました。

「マダム、マイケルに手を振ってやれ。彼は、一番に君を見つけたんだ」とトミーが言いました。

「怖いわ、トミー。いつものマイケルじゃない」

「これが、いつものマイケルさ。君が知らないだけだ」

 マイケルが歌い始めると、場内は水をうったかのように静まり返りました。

 彼の歌は、広い会場全体をおおい、人々はとりつかれているように、彼だけを見つめていました。

 私も彼を見ていました。何も考えることなどできなかったのです。夢がそのまま現実になったように感じていました。

「ほら、女王陛下もいらしてる」とトミーが言いました。

「プリンスにプリンセス。あれは映画女優のカトリーヌ・アドリューだ。マイケルと彼女のゴシップを、と思ったが、まったく石みたいなぼうやだ。ロマンスとは程遠い会談に終わった。彼女の熱烈なラブコールに、『イエス、マダム』『ノー、マダム』で答えたんだ、最初から最後までね。最高の見ものだったよ、彼女の顔は」

 私は、トミーの言うことをほとんど聞いていませんでした。マイケルに完全に魂を奪われていたのです。

「トミー、『淋しい夜には』よ」

 トミーは、私の手を握りました。

「フィナーレだ。ショウも終わりだ。君がこれほど熱狂的なファンだとは、知らなかったよ。今夜は、ラストナイトだ」

 私は、泣いていました。トミーがハンカチを渡すまで、自分が泣いていることにも気がつきませんでした。会場内の大勢のファンと一緒に、私は自分の心が涙で浄化されていくのを感じていました。

 マイケルがステージを去り、警官隊の制止を押し切ったファン達がステージに殺到しても、涙は止まりませんでした。

「エミリー」トミーの声で、我に返りました。

「せっかくの化粧が台無しだ」

 トミーは、私を抱きかかえて、会場の上にあるホテルのほうに向かいました。マイケルのコンサートでは、珍しくない光景のようでした。そこここで、婦人達がハンカチで顔をおおっていました。

「マイケルが車で帰っていくわ!」

 誰かが叫びました。大勢の人々が声のする方に殺到していました。私は、トミーの顔を見ました。トミーは、黙って首を振りました。

「マイケルは、もうパーティー会場に行っている。あれは、おとりだ」

 化粧室で顔を直しました。ひどい顔をしていました。目だけが異様に輝き、まさに妖婦の顔でした。

 トミーは私が出て行くと、腕を差し出しました。私は彼と一緒にエレベーターに乗り込みました。厳しい身分チェックが行われていました。


 会場になっている広いホールには、もう多くの人が集まっていました。皆、一様に着飾っています。

 マイケルは中央の台の上に立たされて、新聞記者の質問に答えていました。撮影は許可されていないようでした。

「まったく、世にも珍しい怪獣かなにかのような扱いだ」

 トミーが怒ったように言いました。

「あなたの案なんでしょう?」

「その通り。我らがマイケルに怪我でもさせられては大変だからね。さあ、天使を救出に行こう」

 マイケルは、記者と護衛に取り囲まれていました。

「マイケル、降りて来いよ」とトミーが下から呼びました。

「降りたいんですけど、降ろしてもらえないんです、ミスター・ビクスン」

 皆がトミーの方を向きました。

「はじめまして、ミスター・ビクスン。お噂はかねがね。お会いできて光栄です」

「これは、T&Wのミスター・レイン」

 トミーが取り囲まれているうちに、私はマイケルに手を差しのべました。

「どうなることかと思いました」

 マイケルは、下に降りてくると、ため息をつきました。

 トミーの周りでは、各界名士の紹介が続いていました。マイケルに名を借りた社交の場でした。トミーの陰の力が発揮されるのは、こういう場面においてなのでしょう。

「素晴らしいステージだったわ、マイケル」

「ありがとうございます、マダム」

 マイケルの視線は、矢のように私を射抜きました。彼は今までに会ったことのないハンサムな青年のように見えました。私は、微かな身震いを感じました。マイケルと私とは、ぎこちなく、とりとめのない会話をつづけていました。

「ミスター・ランバート、これにサインを」

 美しい女性が、マイケルに薄いハンカチを差し出しました。

「ええ、マダム」

 彼は愛想よく、ハンカチに苦労しながらサインしていました。

「最高のショウでしたわ。それが言いたかったのです」

「光栄です、マダム」

 トミーが、近づいてきました。

「マイケル、こちらは、ミセス・アンダースン。我が国の大使夫人だ。ダンスのお相手をさせてもらっては、どうかね」

「まあ、そんな」と夫人は頬を染めました。

 マイケルは、彼女をリードして行きました。会場内は照明がおとされ、バンドがムードミュージックを演奏していました。トミーの演出はいつも完璧でした。

「エミリー、こちらは、ミスター・アンダースン」

「美しいマダム、ぜひお相手を」

 トミーは大使に何事かをささやき、大使は肩をすくめました。

 マイケルは軽やかに踊っていました。彼にダンスのできることを、私は知りませんでした。見ているだけで、心地よい躍動感に揺り動かされます。最高の踊り手でした。彼の相手は何度も変わっていました。

 トミーは、大使夫人の相手をしています。

「彼にご執心のようですね、マダム」

 大使のことばで、自分がマイケルを目で追っていることに気がつきました。

「うちの家内も、マイケルに関しては、気がふれたような感じですよ」

 大使も踊りのパートナーとしては、最上の部類に属していました。

「ダンスがお上手ですわ、大使」

「トミーにはかないませんよ。彼から頼まれていることがあるんです」

「まあ、何でしょう?」

「マイケルのことです」

「マイケルの?」

「ここでは、まずいですね」

 大使はさりげなく、踊りながら出口の方に私を導いていきました。ボーイが隠れた出口のところに立っていました。大使は私を抱きかかえるようにして、ボーイの後に続きました。誰かの企みを感じました。

「私、戻りますわ」

 決定的事態を避けようとして、私は彼に言いました。

「ミスター・ビクスンから聞きましたよ」

 大使は、ねばりつくような目で、私を見ていました。

「中で話しましょう」

 強い力でした。ボーイは無表情に、小さな部屋のドアを閉めました。

「お話を伺いますわ、ミスター・アンダースン」

 私は、静かに、言いました。トミーの話なら、おおよその見当がつきました。

「お話が先ですわ」

 私は、キスしようとする大使を押しのけました。

「ここまで来て、私に恥をかかせるつもりですか、マダム。それともトミーの言うように恥ずかしがり屋なだけなのか。安心なさい。あなたのことは、誰にも話さない。トミーと私とは義兄弟と言ってもいい間柄でね。あなたの特殊な趣味についても、よく知っています」

「私より、よく知ってらっしゃるようですわね」

「トミーの心痛は大変なものです。あなたが国家的英雄ともいえるマイケルを、ダメにするのではないか、と」

 気分が悪くなりました。

「私は、あなたの奥様と同じ、マイケルの歌のファンですわ。気をつけた方がよろしくてよ、大使。あなたは、トミーの冗談を真に受けていらっしゃる。そして、試されてもいるんですのよ。親友の妻を寝とる男かどうか。これ以後、信用していい男かどうか」

 大使が慌てているのがわかりました。思惑が外れたのです。

「それは、ひどい。私は、ただ、親切心から……」

「その親切心のお陰で、色々な方が失脚なさったわ。トミーはいつも、こうして人柄を調べるんですの。彼には、敵も多い。そのかわり、彼の味方は決して彼を裏切らないんです。おわかりになりまして、大使」

 彼は、慌てて衣服を整えると、私をせかしました。

「早く、マダム。私が紳士であったと、トミーの前でおっしゃってくださいよ」

「私は、言いませんわ。恥をかかされたのは、私ですもの。ご自分でお話しになるといいわ」

「早く。早く戻りましょう」

 会場の入り口の前で、大使はハンカチで額の汗を拭いました。彼は私の腕をつかみ、音楽と微かな照明の中に入って行きました。

 トミーが効果的に現れ、大使は卒倒寸前でした。マイケルが、トミーの腕を押さえていました。トミーは、身体を震わせて見せました。

「随分、手がこんでいるのね」と私は言いました。

「マダム、一曲踊りましょう」

 マイケルが、私とトミーの間に割って入りました。

「私は、大使と話がある」

 大使はまるで罪人のように、トミーの後について行きました。

「マダム、やり過ぎです」とマイケルは言いました。彼の胸に抱かれると、自分の心がひどく弱くなっているのに気がつきました。

「ミスター・ビクスンの身にもなってあげてください。いったい、どういうつもりなんですか」

「黙って、マイケル。踊る時は、黙っていて」

 マイケルはしばらくの間、黙って私を抱いて踊っていました。彼の怒りがダンスに表れていました。彼はテンポを速め、私を乱暴に振り回しました。

「目が回るわ、マイケル」

「目が回ればいいんです。大使との情事はどうだったんです。スリルがありましたか、自分の夫の鼻先で」

「最高のスリルでしょうね」

「本気で言っているんですか。ミスター・ビクスンは、あなたとのラストナイトを、楽しみに待っていたのに」

「まるで、悪魔のように」

「本当に、悪魔の行為です」

「マイケル、私、帰るわ。何だか気分が悪いの」

 アルコールと極度の興奮の後遺症でした。マイケルのことばと、ダンスのせいもあったのかもしれません。

「マダム、悪いことのしすぎです。ここで休んで。ミスターを呼んできます」

「マイケル、いいの。トミーには言わないで」

 しかしマイケルは、忠実な部下のように、トミーを呼びに走りました。隅のソファで、私は最後の力で、まっすぐに座っていました。

「大使から、すべては聞いたよ」

 トミーは、冷ややかな目で私を見下ろしていました。

「それで気分が悪いのか。悪徳の限りを尽くして.酒に男か。顔も見たくない。ここが家なら、殴り殺しているところだ。ここに火がないのが残念だ。焼き殺してやりたい。私は、ここの後片付けに残る。大使の問題もある。彼には罪はない。お前の甘言に乗せられただけだ」

「トミー、言うことはそれだけなの? 私は帰るわ」

 立ち上がろうとしましたが、身体が動きませんでした。

「何という醜態だ。立って、普通に帰らないと、この場で殺してやる」

「僕が、一緒に帰ります」

 マイケルが言いました。トミーは、ホッとした表情をマイケルに見せました。

「そうしてくれ。これ以上、この女の顔を見たくない。ホテルの柱にでも縛りつけておいてくれ。もう覚悟は決まった。この女を殺して、私も死ぬ」

「落ち着いてください、ミスター」

「早く連れて帰ってくれ。これは、スキャンダルだ。スキャンダルを帳消しにする方法は、一つしかない」

 マイケルと私は、同時にトミーの顔を見ました。トミーは悲しそうな様子で、遠くを見つめていました。

「帰りましょう、マイケル。スキャンダルはスキャンダルだわ」

 トミーは、ゾッとする目で、私を見ました。

「マイケルと少しだけ話がある」

「だめよ、マイケル。話なんかないわ」

 私は、ソファの背に頭を倒しました。マイケルは、離れたところで、トミーの話を聞いていました。

 もう夜が更けて、数えるほどしか人がいませんでした。マイケルは、トミーにうなずいていました。


「帰りましょう、マダム」

 マイケルは私を支えると、黙って歩き始めました。

「速いですか、マダム。疲れたら言ってください。休みながら歩きましょう。ミスター・ビクスンが車を待たせています。ホテルの裏口から帰りましょう」

「優しいのね、マイケル」

 マイケルは答えませんでした。

 車の中でも、彼は私を抱きかかえていました。彼の腕の中は、安全でした。私は、ウトウトとまどろんでいました。

「顔を隠してください。ホテルの近くです。まだファンが集まっています」

 運転手の声で、目が覚めました。マイケルは、まだ私を同じ姿勢で抱いていました。

 ファン達は、自分達のマイケルが、かたわらを通っているとも知らずに、ホテルの最上階を見上げていました。ラストナイトでした。明日には、マイケルはアメリカに帰ってしまうのです。

「マイケル、手を振ってあげて」

 マイケルは、私を見ました。

「いいですよ、マダム。あなたが望むなら」

 ファンの喜びは、私の喜びでもあったのです。

「車を止めて」とマイケルは言いました。

 彼は、窓を開け、ファン達に手を振りました。ファン達は、しばらくの間、呆然としてマイケルを見ていました。あっという間に、車は人垣に埋まってしまいました。

「マイケル、マイケル、、マイケル」

 大騒ぎになりました。ホテルから大勢のガードマンが飛んで来ました。彼らは車の周りの人垣を押しのけて、やっと車を駐車場に導きました。

「でも、ファンにはいいお土産でしたよ。毎日ああやって、上を見ていたんですから」

 運転手が私達の降りる前に言いました。

「ついでに、私の娘にもサインしてやってくれませんか。あなたの大変なファンなんです。この仕事のことは、娘にも話していません。きっと喜ぶと思うんです。娘はチケットを買うことができなかったらしいから」

「言ってくれれば、良かったのに」とマイケルは言いました。そして、自分のタイを外すと、その裏にサインをしました。

「いいんですか?」

「娘さんに、よろしく」

「優しいのね、マイケル」

 彼は、黙って、私を抱きあげました。

「思ったより軽いんですね、マダム」

「だって、心が無いんですもの」

「ふざけると、落としますよ」

 嬉しさに、泣き出してしまいそうでした。

 私は、両手をマイケルの首にまわしました。エレベーターの前には、ガードマンがいました。最上階までは直通です。エレベーターの中では、二人きりでした。

「キスして、マイケル」

 マイケルは、悲しそうな目で、私を見ました。

「もう着きますよ、マダム」

 彼は、黙って、私をダブルルームのベッドに寝かせました。

「ゆっくりお休みなさい、マダム。眠るまで、そばにいてあげますから。気分は良くなりましたか」

「ええ、大丈夫よ。ありがとう、マイケル」

 彼は、じっと、私を見ていました。離れた目でした。

「キスして、マイケル。誰も来ないわ」

「からかわないでください。少しは真面目になったらどうなんです。僕だって、あなたを八つ裂きにしてやりたい気持ちですよ」

「そんな仕事は、トミーにまかせておけばいいわ」

「全然反省してないんですね。ミスター・ビクスンは、あなたのために、大使と話をつけるつもりだ」

「彼とは、何もなかったわ。きっと仲良く乾杯でもしている頃よ」

「あなたが殴られるなんて、考えただけで、気が狂いそうになる」

「平気よ。平気だって言ったでしょう。何でもないわ」

「ミスターの気持ちが痛いくらいに分かる。僕だって、殴るようになるかもしれない」

 私の気分は、マイケルのことばに左右されることに、気がつきました。気分がひどく悪かったのです。

「大丈夫ですか、マダム。ひどい汗だ」

「お休みなさい、マイケル。自分の部屋に帰りなさい」

「そんな、マダム。どんな具合なんです?」

「お願い、マイケル。一人にしておいて。こんなところ、見られたくないの」

「キスでも何でも、してあげますよ」

「出て行って。お願い。気持ちが悪いの。吐き気がするの」

「何か持って来ます。それとも、洗面所まで連れて行ってあげる」

「後生よ、マイケル。どこかに行って」

 私は、手放しで泣いていました。吐物でシーツが汚れ、悪臭を放っていました。マイケルは、手早くシーツを処理し、私の顔をきれいに拭いてくれました。

「泣かないで、マダム。何でもないんだから」

 マイケルは、いつも、私を甘えさせました。彼は私の背中を撫でていました。

「もう大丈夫ですか、マダム。あなたが普通の人間だと分かって、安心しましたよ。魔女か何かかと思っていましたから」

「魔女なら良かった。私は、ただの女よ。トミーの奴隷。トミーの壊れかけた玩具。もう、神様にも見放されているわ」

「自分の言ったことを、忘れたんですか、エミリー。神様は、僕達と共にいると、教えてくれたじゃありませんか。あなたのような美しい人を、見放すような神様がいるもんですか」

「トミーに何を頼まれたの? 私を見張っているように? 同じ部屋で、朝まで?」

「ミスターは、ただ……」

「ただ? 色情狂のエミリーを抱いてやれと?」

「なぜ、泣くんです、エミリー。その通りじゃないんですか? 僕は、あなたを抱きません」

「身体が、汚れるの?」

「………あなたを愛しているから。愛していなければ、ミスターの申し出に喜んだことでしょう。あなたは僕に抱かれたことにすればいい。ミスター・ビクスンは、それで満足できるでしょう。僕は、明日の朝早く、あなたに会いに……」

「マイケル?」

「あなたを憎もうとしました。あなたを軽蔑しようと。あなたへの想いを少しでも減らそうと。魔女だ、悪魔だ、淫売だと……それなのに、あなたを見ると、そんな考えはどこかに消えてしまう。あなたと共に、神がいます、と思ってしまう」

「本当? マイケル。もし本当なら、嬉しいわ。私にも、まだ生きる希望が残されている。私を信じて、マイケル。私は悪い女かもしれないけれど、トミーがあなたに思わせているほど邪悪じゃないのよ。

 私は、まだ、トミー以外の男性を知らない。彼が、ただ一人の男なの。彼は、あなたに私を抱かせたいのよ」

「なぜ? 自分の愛する者を」

「彼は、私なんか、愛したこともないのよ。愛していたのは、いつも私の方だわ。ずっと、愛されたいと願ってきたのに。私では、彼を満足させることはできないの」

「なぜ。あなたに愛されたら……」

「現実は、夢とは違う。思い通りにはならないのよ」

 私は、唇を嚙みました。マイケルといると、ちょっとしたことで心が動揺するのです。トミーの時に抑えている感情が、すべて顕れてしまうのです。

「あなたは、美しすぎる」

「違うわ、マイケル。とても醜いの。とても……」

「愛している、エミリー。神がいるなら、僕を罰すればいい。悪魔がいるなら、僕を地獄へ連れて行けばいい。自分の気持ちを抑えることなんか、僕にはできない。地獄へでも、どこへでも、あなたと行きましょう。ミスターに殺されても、何も言えない」

 マイケルは、私の髪をつかみました。髪は乱れ、私の顔の周囲に広がりました。私の身体も、彼に向って広がっていきました。まるで、髪の毛のように。

 マイケルは、ためらうことなく、私に唇を合わせました。気の遠くなるような思い。

 私は、目を閉じました。

「エミリー」

 彼は、私の名を呼んでいました。私の身体は、彼に添って、弓のようにしないます。

 彼の唇は、私の全てを飲み込んでしまうように、私を別の世界に連れて行きました。孤独も悲しみも、苦痛もない世界へ。

「マイケル、愛してるわ。きっと、初めて会った時から」

「エミリー」

 私は、マイケルを待っていました。彼が全ての煩いを私の中に入ってくるのを。

 マイケルは、性急でした。トミーの時に抑えていた感覚が、全て姿を現しました。

 私の身体は彼をとらえ、決して離すまいとしているようでした。二人の身体が一体となり、同じ喜びを共有しようとしていました。

 私は、マイケルの喜びを。マイケルは、私の喜びを。

「いい、エミリー?」

 私は、うなづきました。手足のすみずみに、暖かい感覚が波のように広がっていくのを感じていました。快楽の本当の意味がわかりました。

 マイケルは、私から離れると、私の横に身を横たえました。彼は、私の方を向き、私に唇を重ねました。残っていた快感が、私の身体の中で、うごめきました。

「可愛い人」とマイケルは言いました。

「僕の恋人」

「死んでしまいたい」と私は言いました。

「今死んだら、幸せのまま、死ねる」

「僕が、あなたを守る」

「嬉しいわ、マイケル。そう思ってくれるだけで充分よ。私は、あなたの方が心配なのに」

「ミスター・ビクスン?」

「ええ。あなたの思っているような意味ではなく。彼はあなたを滅茶苦茶にするわ。私を滅茶苦茶にした以上に。それが、怖い。殴られたり、殺されることは、怖くはないの」

「あなたを、幸せにしてあげたい」

「もう、充分幸せだわ。怖いくらいに。きっとこれが、一生で最後の幸せなんだわ」

「何を、悲しいことを」

 マイケルは、再び、私を愛しました。

 彼を通して、優しさや愛、神や幸福といったものが、私の中に流れ込んできました。苦痛は、どこにもありませんでした。

 彼は、ただ、私の喜びのために存在していたのです。私を愛し、快楽を通して、私の存在を確かめていたのです。私は、彼の肩に顔をうずめて、あまりの喜びに涙を流していました。

 マイケルの肉体は、若く揺るぎなく、直進的で攻撃的でした。彼は、すぐに、同時に何ヵ所かを攻めることを覚えました。彼が動くたびに、新しい喜びが生まれる。手から胸から、そして、脚から。それらの喜びは、反発し合い、共鳴し合って、一つの大きな波に飲まれていく。自分がどこにもいなくなるまで、その波は、うねり続けるのでした。

 一瞬、目の前が、ばら色に輝いて見える。硬直の後には、柔らかな弛緩が待っていました。残っている喜びをすべてかき集め、ゆっくりと地上に戻って行くのでした。身体中から、血の気が引いていくのがわかりました。

 マイケルは、放心したように、私を見つめていました。私は彼の手を取って、自分の頬に当てました。自分が、見知らぬ者のように見えました。

 マイケルの手、マイケルの身体だけが、自分に親しいものでした。彼の何もかもが愛おしく感じられました。私は、彼の両腕を胸に抱えました。何かにつかまっていないと、自分の身体がどこかに流れ出してしまいそうだったのです。

 漠然とした不安が胸をよぎりました。あまりに幸福すぎたのです。

 トミーの存在を感じました。どこかで、トミーが見ている。どこかで、トミーが聞いている。

「マイケル、私を強く抱いて。離さないで。しっかりつかまえていて」

 マイケルは、私を抱いたまま、朝まで眠っていました。

 トミーは、やって来ませんでした。


 朝の光が、部屋中を照らしていました。光は、マイケルの姿を、輝く天使のように見せていました。

 私は、彼の腕の中から抜け出すと、しばらくの間、ぼんやりと彼に見惚れていました。

 このまま彼を殺し、自分も死ぬのだと発作的に思いました。

 ノックの音が聞こえていました。

「エミリー」

 トミーでした。

「起きているんだろう?」

「ええ。でも、まだ着替えてないの」

「開けてくれ」

「だめよ。顔も洗ってないもの」

「知っているよ、マイケルがいることは。ここにいたら、かえって人目に付く。入れてくれ」

 マイケルは、うなずきました。彼は、何も見に着けていませんでした。私はためらいながら、ドアを開けました。

「おはよう、マイケル」

 トミーは、マイケルに軽く挨拶しました。

「おはようございます、ミスター・ビクスン」

 マイケルは、微笑んでいました。トミーは素早く、ボケッとカメラで、マイケルと私を写しました。何度も、何度も。

「美しい写真だ」とトミーは言いました。

「完璧な被写体だ。完璧そのものだ。ビューティフル、マイケル。ダーリン、君も最高だ」

 フィルムのある限り、トミーは、マイケルと私を写し続けました。罵倒され、殴られるより、精神的に参ってしまいました。トミーからは、とうとう、マイケルと私を責めることばは出ませんでした。彼は、不思議な上機嫌のままでした。

「ダーリン、今日の君は、本当に奇麗だ。愛してるよ、ハニー」

 私は、不安を感じました。

「一体、どうしたの、トミー」

「すまないが、急ぎの仕事があるんだ。君達より一つ早い便で帰るよ」

 マイケルは平静でした。私には、その理由がわかりませんでした。

 マイケルと私は、バンドの人達やスタッフと同じ飛行機でした。行きとは異なり、皆の私を見る目が違っていました。彼らは、私が話しかけると、申し合わせたように横を向きました。

 覚悟はできていました。しかし、マイケルに被害が及ぶことを、私は恐れていたのです。


「マイケール!」

「マイケール!」

 マイケルは、出かける時以上の熱狂的な歓迎を受けていました。彼は、今や、国家的英雄でした。

「マイケル、ヨーロッパの印象は?」

「向こうの女性を、どう思いました?」

「向こうの食べ物は?」

 すぐに、記者会見が行われました。私は車で自宅に向かいました。プロダクションの敷地の周りには、何重もの人垣ができていました。

「ミセス・ビクスン」

 新聞やテレビの記者が、車の周りに群がってきました。仕方なく、私は車を乗り捨てました。

「マイケルとのロマンスが噂されていますが」

 人垣の中から、石が飛び、私の顔をかすめました。

「マイケルをどう思っていますか」

 記者の列は、門の中に入るまで続きました。その間にも、いくつかの石が、私やレポーターに命中していました。

「コメントを、ミセス・ビクスン」

 被害がマイケルに及ぶことを、私は恐れていました。

「言うことはありません」

「噂を肯定なさるんですね」

 門の中から、トミーの部下達が飛び出してきて、私を抱えるようにして、敷地内に連れ込みました。

「ダーリン、待っていたよ」とトミーが言いました。

 彼は、自宅で何人かの記者に囲まれていました。

「助けてくれよ、ダーリン」とトミーは、肩をすくめて見せました。

 私は、顔に笑みを浮かべました。

「一体、何の騒ぎですの? 自分の家にも入れませんでしたわ」

「君とあのマイケル・ランバートとのスキャンダルのことだよ」

「あら、アメリカ大使じゃなかったんですか?」

 トミーは、表情を崩しませんでした。

「大変な騒ぎだよ、ハニー」

「見れば分かりますわ。私とマイケルが、どうしたんですの?」

「ミセス・ビクスン、スキャンダル専門誌の号外です」

 記者の一人が、有名なスキャンダル紙の号外を、私に差し出しました。

『毒婦エミリー、我らがマイケルを篭絡!

 ロンドンでの情熱の一夜!

 エミリーが、マイケルを誘惑するまで』

 何枚かの写真が、引き伸ばして使われていました。

 マイケルと私がダンスしている場面。

 私を抱きかかえているマイケル。

 そして、紙面の半分近くを、半裸のマイケルと私との写真が占めていました。

 マイケルは微かに微笑み、光線が彼を光り輝く者のように見せていました。

「美しい写真だわ」と私は言いました。喉が詰まりました。私は片手で、顔を覆ったのです。

「本当に美しい写真。有名なカメラマンが撮ったのよ。マイケルの写真が欲しいと言って」

「そのカメラマンは? マダム、新聞のカメラマンですか? 記事にあるような事実があったのですか?」

「もう、いい。帰ってくれたまえ」とトミーが言いました。

「私も、彼女に話がある」

「わかりました、ミスター・ビクスン。会見を許していただけて、感謝しています」

「あまりお役に立てなかったようだがね」

 記者達は、引き上げて行きました。

「マイケルは、知っていたのね」

 トミーは答えずに、じっと私を見ていました。

「君は、私の手を離れた」と彼は言いました。

「マイケルを愛しているね、ハニー」

「ええ」と私は答えました。

「彼を愛しているわ。彼は、私の男よ」

「かわいそうなマダム・ビクスン。愛する男を窮地に追い込む。君は、まだ私の妻だ。そのことを忘れるな。マイケルは、社会的に葬り去られるだろう」

「私に何をして欲しいの?」

「大使とのスキャンダルをもみ消すためには、マイケルとのスキャンダル。マイケルとのスキャンダルをもみ消すためには、新たなスキャンダルが必要だ。徹底して、毒婦の役をやり通すんだ、エミリー。マイケルが、自分の恋人は不実な女だと納得するまで」

「もう疲れたわ、トミー」

「この話は、君次第だ。君にご執心な男は何人でも知っている。誰がいい? リストは作ってある。気に入った男を選ぶといい」

「すべて予定通りというわけね。マイケルに会いたいわ」

「君の役目は、もう終わったんだ。今度はトゥエインの番だ。君によく似た美しい女性。マイケルのために、私が丁寧に育て上げた。

 二人とも、愛に飢えている。トゥエインは、私への愛に。そして、マイケルは、君への愛に。理想的な恋愛だ。二人は、明日出会う。まだ、お互いが何者であるか知らずに。

 私達は、最高のキューピッド役だよ、マダム。可愛いマイケルのために、新しい役をやりこなすんだ。最高の演技で。その前に、マイケルに愛された君を、哀れな夫に見せてくれないか、ハニー」

 私は、結局、トミーの奴隷でした。自分がトミーの思い通りになることは、とっくに分かっていたのです。トミーは、狂ったように私を攻め、そして、私は彼の与える快楽に喜びの涙を流すのでした。

「昨日の君は、最高だったよ、エミリー。さあ、他の男達も楽しませてやってくれ。昨日のように」

 トミーは、悪魔のような笑みを浮かべ、私は、自分がうなずいていることに気がつくのでした。






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