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闇に響く声  作者: まきの・えり


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6/13

       6

 マイケル・ランバートの全米ツアーが始まった。

 ツアー直前にリリースされた二枚のシングルとアルバムの歌は、マイケルのツアーの期間中、ヒット・チャートを独走し続けていた。各地で異常な熱狂が巻き起こった。


『ピッツバーグのコンサートーーファン数百人将棋倒し。負傷者多数』

『アトランタは大混乱ーーマイケルファン大暴れ。コンサート会場陥没』

『バーミンガムに白夜ーーオールナイト・コンサート』

『メイコンのコンサートーーPTA・YMCAの要請により中止』

『私もマイケルを聴いているーー各界名士百人の告白』

 新聞・ラジオ・テレビは、連日、繰り返し繰り返し、マイケルのニュースを流し続けた。

「ファンは大好きです。ただし殺到さえしなかったら」

 マイケルは、テレビのインタビューに答えて、そう語った。彼の行くところ、どこでも、ファンの洪水だった。

「もう死んでもいい。マイケルに会えたんだもの」

「とにかく、彼は最高だ。何もかも忘れさせてくれる」

 ファン達は、熱っぽく、マイケルの魅力について語っていた。

「彼は、私達の代わりに歌ってくれる。とにかく、彼みたいなのは、初めてだ」


『マイケル・ランバート入院。過労か』

 確かに、マイケルは働き過ぎでした。毎月、延べにして二十都市で、三十回以上のコンサート。

 身体を壊さない方が不思議でした。

「どう? 気分は」

「ううん、よくわからない」とマイケルは答えました。

「どうしてあんなに騒ぐんだろう。何か特別のことをしているみたいに」

 マイケルは、病院のベッドに横たわっていました。新聞記事の伝えたように、『過労』だったのです。

「トミーに話すわ。あなたを働かせすぎるって」

 マイケルは、私の顔を見て微笑みました。

「何でもありませんよ、マダム」

「エミリーって呼びなさい。他のスタッフと同じように」

「エミリー? 何だか変だな。ずっと、マダムって呼んでいたから」

「トミーが、映画の話を進めているわ」

 マイケルは、顔を曇らせました。

「僕は歌手なんです。俳優じゃない」

「でも、トミーは、あなたを映画に出演させたがっているわ」

「演技は嫌いなんです」

 そう言ったきり、マイケルは口を閉ざしました。

 朝の日差しが傾いていき、昼になり、夜になりました。私は帰り支度を始めていました。

「演技は嫌いなんです。いつも見ていたから」

「いつも?」

 私は手を止めました。マイケルが自分の過去について話すのは、初めてでした。

「ええ、いつも。両親は、売れない俳優でした。舞台よりも実生活で演技する役者でした。いつも演技していましたよ。何もないテーブルで、食事の真似をする両親を見て育ちました。お陰で、僕は滅多に実際の食事を与えられませんでしたが。

 僕は、両親を愛していましたが、両親の目には僕は映っていないようでした。二人だけの世界を作っていたのです。ライバルというより、敵同士に見えました。そのうち、どれが演技で、どれが本当の自分かわからなくなった。それだけです。

 母は、浴びるようにアルコールを飲んで死にました。

 父は、そんな母を罵倒し続けました。唯一の観客である、僕に向かって。

『落伍者だ。未熟者。自分の演技の不完全さに、愛想がつきたか』

 父と母とを、ただ愛していた僕には、父の気持ちが痛いほどわかりました。

 母の死を、本当に嘆いてはいても、それをどう表現していいのかわからなかったのです。

『これから、人生最後にして、最高の演技を見見せてやる』

 父は、もだえ苦しみ、のたうち回って、死にました。毒をあおっていたのです」


「もういいわ。もう聞きたくない」

 私は、彼の悲しみを恐れました。彼の感情は、私を苦しめました。

「変ですね。誰にも話すつもりはなかった。これは、僕の個人的な出来事です。誰とも共有することはできないと思っていた。

 演技は嫌いです。理屈では、割り切れない。

 僕は、自分以外のものに、なりたくはない。何者にもなるつもりはなかった。

 歌も嫌いだ。

 父と母は、多分、僕の成功を喜んだでしょう。そうでなければ、そうでなければ、僕は、決して、歌ったりしなかった……」

 私は、彼の頭を、胸に抱きました。

 彼の悲しみは、私の悲しみでもあったのです。彼は、手放しで泣いていました。

 彼の弱さは、私には驚きでした。彼には与えられるばかりでした。

 彼の歌は、私に多くのものを与え、私の魂を救ってくれました。肉体はこの世に縛られていても、心は自由だと教えてくれたのです。彼の歌には、不思議に人の心を開放する力がありました。

 自分では気づかずに、彼は、多くの人々の魂を救いつつありました。

「マイケル、マイケル、あなたには、神様がついているわ」

 私は、思わず、そう言いました。彼は、低く笑いました。

「神様は、何もしてくれなかった。何も。あなたや、ミスター・ビクスン以上のことは、何も」

「だめよ、マイケル。そんな風に言っては。神様は、必ず、あなたを守ってくださるわ」

「今日のあなたは、何だか変だ」とマイケルは言いました。

「ミスターは、あなたにとって、神以上の存在だと思っていました」

「ええ。トミーは、自分のことを、そう考えているわ。でも、それは、間違ったことよ。誰も、神以上の存在に、なることはできない」

「僕にとって、ミスターは、神以上の存在です。命よりも大切なものを、僕に与えてくれた。

 歌と、そして、生きる喜びを」

 私は、絶望的な気持ちで、マイケルを見ました。トミーの獲物を。美しい犠牲者を。

「トミーを信じちゃ、だめ。神様を信じるのよ、マイケル」

 マイケルが、微笑みました。

「神を信じているんですね、エミリー。父も母も神を信じていました。僕も信じていました。でも、両親が絶望のうちに死んだ時、僕の神も死んだのです」

「私がお母さんの代わりよ、マイケル。お父さんの代わりよ。私も神を見失っていた。それを思い出させたのは、あなたの歌よ。

 あなたは、心のどこかに、まだ神様を隠している。

 あなたの歌は、神と共にある。私は、それを感じるのよ」

 幸せな笑顔でした。

「あなたがそう言うなら、神は、僕の歌と共にいるのでしょう。あなたは、僕を変えていく」

「あなたの方よ、私を変えていくのは」

 私達は、しばらくの間、黙ってお互いを見つめていました。


 マイケルの話は、エミリー・ビクスンの心に焼きついた。何とか、マイケルの望みをかなえてやりたい。トミーに気づかれないように。

「トミー、マイケルは歌手ね。俳優には向かないわ」

 さりげなく言ったはずだったが、トミーはかえって興味を抱いた。エミリーの熱意に。

「ハニー、マイケルにとっては、大変なチャンスだ。彼の両親は、売れない役者だった。ちょうど、昔の君のように。

 だから、マイケルは、両親の夢と君の夢を実現できる立場なんだ。理由は何だい、ハニー、あの坊やが映画をいやがる」

 エミリーは、トミーに話したことを後悔した。トミーは何でも知っているのだ。

「彼がいやがっているわけじゃないの、私がそう思うのよ。映画出演は、彼にとって、マイナスイメージになるわ。彼は、あくまで、歌手なのよ」

「わかったよ、ハニー。そんなことだと思ったよ。両親のせいなんだね」

 エミリーは、トミーから顔をそむけた。

「なるほど、そういうことか。両親の死は、彼にそれほど影響を及ぼしているのか。さすがの私も知らなかったよ。相変わらず、すご腕だね、君は」

 トミーは、嬉しそうに笑った。また一つ楽しみが増えたのだ。彼は、頭の中でゆっくりと、様々な計画について、思いを巡らせていた。

「今度、ミス・トゥエイン・ライトに会わせてあげよう。君もきっと驚くよ。二十歳の君にそっくりだ。野心といい、美貌といい、実際、我が目を疑ったよ。大変な魅力だ」

「それで?」とエミリーはたずねた。自分の役目は、もう終わったのだろうか。

「彼女には、君の代役をつとめてもらう」

「わかったわ、すぐに荷物をまとめるわ」

「早まるな」とトミーは、エミリーの腕をつかんだ。

「君は、永遠に、ここにいるんだ。生きては、ここから出られない。それを覚えておくんだな。

 トゥエインは、マイケルの係だ。マイケルと結婚し、マイケルの子供を産むんだ」

 エミリーは、驚いて、夫を見た。

「何を馬鹿なことを。そんなことは、あなたが決めることじゃないわ。神様の決めることよ」

「ことばに気をつけるんだな、エミリー。まだ覚えていないようだな。ここでは、私が神なんだということを。私が、すべてを決定する。マイケルやお前やトゥエインの愛も生活も、そして、死ですら、すべて、私が決めるんだ。お前達の人生は、私のものなんだよ、ハニー」

「あなたは頭が変なのよ。そうよ、ずっと狂っているのよ。私、知っているわ。あなたが、ビクスン家の本当の跡継ぎじゃないってこと」

 エミリーの頬が続けざまに鳴った。

「ことばに気をつけろ。ヤツラと同じようになりたいのか。そんなことは、今の私にとっては何の問題にもならない。どこに生まれてこようが、誰の子供であろうが、私は、私として、この世に生まれてきたんだ。恐れるものなんか、何もない。

 過去の歴史さえ、私は変えることができる。未来を決定するのは、もっと容易なことだ。このトーマス・ビクスンにとってはね」

「いつか、神様が、あなたを罰するわ、きっとよ」

「私が神だ、と言っただろう」

 トーマス・ビクスンは、黙って、手にしていた葉巻を、エミリーの腕に押しつけた。彼は、冷静さを失っていた。普段は、人目につく個所を傷つけることは控えていた。

 肉の焦げる臭いが、辺りに漂った。エミリーは、何ごともなかったかのように、表情を変えなかった。

 トミーは、しばらくの間、エミリーの腕を眺めていた。

「そでの長い服に着替えておけ」

 トミーは、エミリーに背を向けると、家の中に入って行った。

 エミリーは、無感動な表情のまま立っていた。涙だけが、生きているかのように、頬を流れていた。

 春の日差しが、この敷地内を照らしている。だが、その穏やかな日差しも、春の暖かさも、エミリーの心の中にまで入ってくることはなかった。


 マイケル・ランバートは、トミーを驚かせた。彼は、頑強に、映画出演を断り続けたのだ。

「すみません、ミスター・ビクスン。どうしても、映画はいやなんです」

「契約書を読んだことはあるかね、マイケル」

「いいえ」

「君は、ビクスン・プロと三本の映画契約を結んでいる。契約に違反するつもりなのかね」

「契約のことは知りませんでした。知っていたら、そんな契約はしなかったでしょう」

「エミリーから聞いたよ、君のご両親のことは。亡くなった両親の夢を実現することにもなるんじゃないか? それに、どうやって違約金を払うつもりだ? 監獄に入るつもりなのかい? 以前の生活に戻りたいのか」

「もし、必要なら」

 マイケルの頑固さは、特筆にあたいした。

「ファンを失望させるつもりか。君のファンは、君の映画を待ち望んでいる。コンサートに来られないファンでも、映画を見ることはできるだろう。ファンあってのマイケル・ランバートだ。ファンの期待を裏切るな。プロダクションにとっても、大きな損失だ。もう、宣伝も始めている。ことは、君一人の問題ではない。プロダクションも、社会的信用を失うだろう。君は、私の顔に泥をぬるつもりなのか」

『私をここまで怒らせた人間が、今までいただろうか」

 トーマス・ビクスンは、頭にきていた。

 ビクスン帝国の帝王。

 ビクスンの名前を聞いただけで、新人歌手など卒倒してしまったものだ。足の指でもなめかねない様子で、ビクスンの前にひざまずいたものだ。まして、自分の命令に反抗する物など、今まで一人としていなかったのだ。腹の虫がおさまらない。

「申し訳ありません、ミスター・ビクスン。どんな制裁でも受けるつもりです」

「わかったよ、マイケル」

 トミーは、穏やかに微笑んだ。

「君の気持ちを少しも考えず、私は、自分とプロダクションのことばかり考えていた。私の方こそ、申し訳ない。今、英国のプロモーターから、ツアーの打診が来ている。映画の件は後回しにしよう。それまでには、君の気持ちも変わるかもしれない。私が納得しても、今まで準備を進めてきたスタッフの気持ちはおさまらないだろうからね」

 マイケルが事務所を出た後、トミーは無意識のうちに、鉛筆を片手でねじ折っていた。いつの間にか、机の上には、折れた鉛筆の山ができていた。トミーは、同じ敷地内の自宅に向かった。

 エミリー・ビクスンは、自宅の居間でくつろいで、マイケルのレコードを聴いていた。トミーが帰ってくる時間だった。トミーは、後ろからエミリーに近づいた。

「ハニー、君の天使は、どうしても映画には出たくないとわがままを言うんだ」

「そう? 本人がいやだと言うなら、仕方がないわね」

 トミーは、黙ってエミリーの後ろ姿を眺めている。不安にかられて、エミリーは後ろを振り返った。

 青白い顔をしたトミーが立っていた。

「どうしても、映画に出演させてやる」

 エミリーの顔も蒼白になった。

「トミー」エミリーは、トミーのそばに行き、腕をつかんだ。

「大丈夫よ、安心して。私が彼を説得するわ」

「そんな必要は、ない」

 夫を怒らせてはならない。マイケルは、夫を怒らせてしまった。

「トミー、トミー、何を考えているの?」

「マイケルが、出演を承知できる状況だよ」

「彼を傷つけるつもり? 彼は、大事な商品よ。商品に腹を立てるなんて、あなたらしくないわ。バカな真似はしないでしょう?」

「もちろんだよ、ダーリン。大事なマイケルに傷なんかつけるものか。私が考えているのは、もっと効果的な方法だよ」

 エミリーは、一歩後ろに下がった。彼女は、夫が怖かった。

「私に話をさせて。マイケルは……」

 トミーは、エミリーのことばを聞いてはいなかった。

「美しいエミリー」とトミーは、地の底から聞こえてくるような声で言った。

「マイケルは、君を熱愛している」

「何を言ってるの? 私は、彼の母親代わりよ」

「美しく優しい、マイケルのお母さんか。貞淑で子供思いのマダム・ビクスン」

 トミーは、低く笑った。

「君は、ビル・ブライトは好きかい?」

「ビル? ええ。いい人だわ」

「それを聞いて、安心したよ。ビルが部屋で、君の来るのを待っている」

「そう? でも、なぜ?」

 足音を立てずに、何人かのトミーの部下が、部屋の中に入ってきていた。忠実な部下ばかりだ。

「どうする? 君にまかせるよ。自分の足で寝室まで歩いて行くか、それとも、誰かに運ばせようか」

 エミリーの顔から血の気がひいた。

「何を考えているの、トミー」

「君と同じことだよ、ハニー。あまりビルを待たせたくないんだ。後で、私も行く」

「本気じゃないんでしょう?」

「私は、いつでも本気だよ、ハニー」

 トミーのちょっとした合図で、周りの男達はエミリーに近づいてきた。

「わかったわ、トミー。自分で歩いて行くわ」

「いい子だ、ハニー。ジミーが君をドアまで送って行くよ」

 ジミー・ランダルは、まだ十五歳の少年だ。エミリーにピタリと寄り添うと、寝室までエスコートして行った。

「ありがとう、ジミー」

 ジミーは何も言わず、エミリーに背を向けると、階段をおりていった。

 エミリーは、深く息を吸い込むと、ドアを開けた。

 部屋の中は、薄暗かった。誰かがベッドに腰をおろしているのが、ぼんやり見えた。

「ビルなの?」

「ええ、マダム。ボスの命令何です。自分で脱ぎますか? それとも、手伝いましょうか」

 トミーは今まで、エミリーを他の男にまかせたことはなかった。エミリーは、微かなめまいを感じた。

「ビル、あなたとは長い付き合いだわ。こんなバカなことはやめましょう。こんなことで、あなたとの友情を壊したくないわ。それに、私を抱けば、あなたは、きっと、処分されるわ」

 ビル・ブライトは、微かなためらいを見せた。動揺しているのは明らかだった。

「だから、ビル……」

 部屋が急に明るくなった。トミーが入口に立っていた。

「これは、これは。ちょうどいいところに来合わせたものだ。遠慮はいらないよ、ビル。君の命は保証する。好きな方法でいい。マダムを喜ばせてやってくれ。これは、私の命令だ。マダムを思い通りにできなかったら、君の人生もそれまでだ」

 ビルが近づいてくるまで、トミーは、エミリーをつかまえていた。トミーは、荷物か何かのように、ビルの腕にエミリーを預けた。

「私は、いやよ、トミー」

 エミリーは、夫に哀願した。今から起ころうとしていることが、非現実的に思えた。

 ビルは軽々とエミリーを抱えていた。トミーの部下の中でも、力の強い大きな男だ。

 エミリーをベッドにおろすと、無表情に彼女の衣服をはぎ始めた。エミリーの身体の自由は、完全に奪われていた。動かせるのは、頭だけ。エミリーは、左右に頭を振った。

「これは、見ものだ」

 トミーは、ベッドサイドの椅子に、ゆっくり腰を落ち着けた。

「私のエミリーが、私以外の男に、一体どんな反応を示すのか。ビル、遠慮はいらない。思う存分可愛がってやってくれ。彼女は、私で慣れている。多少手荒に扱っても大丈夫だ。腕の一本も折ってやってくれ。可愛いマイケルが、慌てて映画に出られるようにね」

「イエッサー」

 ビルは夢中で、エミリーの全身に舌を這わせていた。エミリーは、屈辱に全身が震えるのを感じていた。

「舌を噛んで、死んでやる。思い通りになんか、なるものですか」

「これは、おもしろい。もし、ビルの手から逃れられたら、マイケルの映画を諦めてもいい」

「本当なの?」

「約束しよう。しかし、その時には、ビルの命はない」

「卑怯だわ」

「そうは思わないね。フィフティ・フィフティの勝負じゃないか」

 ビルの腕に力が加わった。彼は、エミリーを抑え込み、舌を動かし続けていた。トミーは、かたわらから、エミリーの敏感な部分をビルに指図している。エミリーは、ついに声をあげ、全身の力を抜いた。ビルは、にやりと笑った。

「諦めたようですね、マダム。おとなしくしていれば、乱暴はしませんよ」

 ビルは、エミリーの脚を大きく広げ、ちらりとトミーの方を見た。トミーは、黙ってうなずいた。

 ビルが自分の衣服をとろうと力を緩めた瞬間、エミリーはビルを押しのけた。ベッドから飛び降り、ドアに向かって走った。ドアには鍵がかかっている。

 ビルが片手でズボンを押さえたまま、エミリーを追ってくる。エミリーは、ビルの傍らをくぐり抜けると、もう一つのドアに向かった。

 トーマス・ビクスンが立ち上がった。彼は、片手でエミリーを止めた。

「何するの、トミー?」

 トミーは、空いている方の手で、エミリーを殴った。

「何をしているんだ、ビル。命令に背くつもりか」

 トミーは、ビルの腕の中に、エミリーを投げ入れた。

「約束が違うわ、トミー」

「約束? 何の約束だ?」

 ビルは、トミーを見習って、数回、エミリーを殴った。

「今度逃げたら、殺してやる」

 ビルは、逆上して叫んだ。彼は、半ば気を失っているエミリーの足を再び開いた。

「もういい、ビル。そこまでだ」とトミーが言い、ビルは悄然として立ち上がった。

「心配するな、ビル。お前の勝ちだ。さあ、もう行け」


 二人きりになると、トミーは優しくエミリーの髪をなでた。

「随分ひどく殴ってくれたものだ。当分、パーティーも開けない。マイケルは、さぞ驚くことだろう」

「助けてくれたの? なぜ?」

「さあ、なぜかな。君を、まだ、愛しているからかな? 少なくとも、ビルに君を抱かせる気には、なれなかった」

「マイケルなら、いいのね?」

「さあ、どうかな。一度、我を忘れてみたいものだ。服を着て、ベッドに入れ。マイケルを呼んでくる」

「ひどい顔をしているわ」

「演出効果満点じゃないか。メイキャップや演技では、これほどの効果は出せない。

 君は、マイケルの映画出演に反対していた。気の短いスタッフが、私のために、君をこんな目にあわせてしまった。これは、私の落ち度だよ、ダーリン。私だって、嫌がるマイケルを映画になんか出したくない。彼が、自分から出たいと言えば、話は別だけどね」

「汚いやり方ね。でも、マイケルは負けないわ」

 トミーは、エミリーの口の中をのぞきこんだ。

「これくらいじゃ、うなることもできないね。君は、痛みを我慢しすぎるんだよ、エミリー」

 トミーは、エミリーの全身を眺めまわした。腕には、まだ火傷の跡が残っていた。

「美しい腕だ。誤って焼いてしまった。この腕を、ついでに折ってしまおうか。本当に乱暴なスタッフだ。しかし、骨折は、治るのに時間がかかりすぎる。

 爪をはいでしまおうか。それとも、この美しい腕に、プラチナの針を通そうか。金の糸で幾重にも縫い上げよう。しかし、君の奇麗な腕を、これ以上、傷つけたくはない。

 足なら、人の目には触れない。しかし、歩くのに困るだろう。もっとも、君のことだ。人魚姫のように、痛みに耐えて、優雅に歩いて見せるかもしれない。

 震えているんだね、エミリー。君でも、怖いことはあるわけだ。

 足の裏の皮をはいであげよう。奇麗に、ほんのわずかだけ。

 マスタードがいいかな。それとも、ペパーか。早くよくなるように。

 大丈夫、麻酔を打ってあげるよ。ただし、マイケルが来る頃には、切れるやつを。

 時間を正確に、はかっておこう。タイミングがずれれば、劇的効果は、半減するからね」

 エミリーは、顔をそむけていた。痛みは感じなかった。トミーは楽しそうに、注射器やメスを扱っていた。彼は、手早く包帯を巻いた。

「どうだい? 医者も顔負けだろう? 可愛いエミリー、少しお休み。麻酔の切れた頃に、大きな声を出せるように」

「あなたは、悪魔ね」とエミリーは言った。

「私の夫は悪魔だと、大声で叫んであげる」

「可愛いエミリー。その元気が続くことを祈っているよ」

 トミーは、エミリーの枕もとに座り、彼女が眠るまで、髪をなでていた。疲労とトミーの麻酔のせいで、エミリーは、眠りの世界に旅立った。


「………私の責任だ」

 トミーの声が聞こえていた。

「まさか、こんなことになるとは……」

 エミリーは、目を覚ました。悪寒がした。マイケルの心配そうな顔が、彼女の目に飛び込んできた。

「マダム……」マイケルは、声を詰まらせた。

「なんてひどい……僕のせいだ」

 完全に、トミーのペースだった。マイケルは、震える手で、エミリーの頬に触れた。

「バカね、何でもないわよ……」

 笑おうとする顔が凍りついた。

 トミーの時間は正確だった。激しい痛みが、エミリーの足もとから上ってきていた。

「マダム?」

 マイケルの顔は、蒼白だった。エミリーは、マイケルに微笑んだ。痛みを抑えこんだのだ。

「エミリー、大丈夫か?」とトミーが言った。

「大丈夫よ、平気だわ」とエミリーは答えた。

「君は、痛みを我慢しすぎる。汗をかいている」

 トミーは、エミリーを胸に抱くと、自分が傷つけた個所を、思いきりつかんだ。

 傷には、マスタードにペパー。そして、ほどよいマッサージ。

 エミリーの頭が後ろにのけぞり、喉から悲鳴がもれた。

「エミリー、しっかりしろ」

 悪魔の行為だ。エミリーが完全に気を失うまで、トミーは、彼女の傷をいたぶり続けた。気絶したエミリーを、トミーはベッドに戻した。

「ああ……」

 マイケルは、両手で顔を覆った。

「マダムが、死んでしまう……」

「大丈夫だよ。少し興奮しているだけだ。君が、気にすることはない。エミリーは、君の映画出演には反対だったんだ。これで、彼女も自分の間違いに気づくだろう。敷地内でこんな目にあえば、安全なところなんて、どこにもないんだ。私がずっと彼女についているから、君は、安心しているがいいよ」

「ミスター・ビクスン」とマイケルは言った。

 トミーは、内心の笑いを隠すのに、苦労させられていた。

「もしよければ、僕を映画に使ってください。僕のせいで、マダムにまで被害が……」

 トミーは、マイケルを抱擁した。まだ成熟しきっていない、柔らかな肉体を。

「いいんだよ、マイケル。君が気にすることは何もないんだ」

「お願いします。ご期待にそえるかどうかは、わかりませんけど」

「わかったよ、マイケル。もう行きたまえ」

 マイケルの姿が見えなくなると、トミーの喉がクックッと鳴った。自分の手腕に、ひどく満足していた。腹の底から、笑いがこみ上げてくる。

 トミーは、両手で腹をおさえながら、いつまでも一人で笑っていた。


 マイケルは、レコーディングやラジオ、テレビの出演の合間をぬって、エミリーのもとに通った。花をキャンディーの箱を持って。

 顔の腫れは、徐々に引いていったが、エミリーの足の傷はなかなか治らなかった。

「いいのよ、マイケル。あなたが気にすることはないわ。こんなことは、しょっちゅうなのよ」

 そして、それは、本当のことだった。トミーは、エミリーを傷つけるのが、本当に好きだった。精神的に、そして、肉体的に。

「でも、こんなひどいことを。マダムを殴るなんて」

「平気だって言ったでしょう? あなたの映画の方が気の毒よ。結局、出演させられることになったわ」

「僕の方が頼んだんです。でも、いやなことは、いやだと言いますよ」

「トミーに、『ノー』と言ったのは、多分、あなたが初めてよ」

「なぜ? ミスター・ビクスンは、あんなに紳士なのに」

「フフフ」とエミリーは、笑った。マイケルには、トミーの魔法が通じない。

「ステキよ、マイケル。撮影は、いつから?」

「今、英国からツアーの打診がきているそうです。ミスターは、ひどく乗り気です。決まれば、映画の方は、後回しになるでしょう。僕は、この国から外に出たことがないから、ぜひ、行ってみたいんです」

「私も行きたいわ。あなたの歌を、よその国で、聴いてみたい」

「同じですよ、どこで聞いても」

 マイケルは、照れて、横を向いた。彼の横顔は、美しいラインを描き、完璧な形をしていた。

 エミリーは、思わず見惚れた。彼女は、人差し指で、彼の横顔のラインを空に描いた。

 マイケルは、不思議そうに、彼女の動作を見ていた。

「画家でないのが残念だわ」とエミリーが言った。

「私が画家なら、きっと素晴らしいポートレイトが描けたわ」

 マイケルは、おかしそうに笑った。彼は、自分の美貌に気づいていなかった。

「僕も画家なら、きっと、あなたを描きますよ。あなたの美しさ、優しさ、そして、神への敬虔さを。でも、僕には、絵の才能はない。だから、歌で、あなたを描くんです」

 言ってしまってから、マイケルは、困惑した表情を見せた。

『マイケルは、君を熱愛している』

 トミーの声が、エミリーの耳もとで、こだましていた。エミリーの胸が痛んだ。

「あなたが早くよくなるように、毎日、お祈りしています」とマイケルが言った。

「神様に?」

「ええ。おかしいでしょう? 最近の僕は、神の忠実なしもべです。一旦仲良くなると、そう悪い気持ちではなくなりました。朝夕の祈りが欠かせなくなり、心が落ち着くようになりました。すべて、あなたのお陰です」

「神様が、いつまでも、あなたをお守りくださることを」

 マイケルは、エミリーの額に、優しくキスをした。エミリーは、発作的にマイケルの手をつかんで、自分の方に引き寄せた。

「マイケル」

 マイケルは、エミリーを抱きしめた。二人は、しばらくの間、じっとそのままでいた。

 幸せだった。時間が永遠に止まってしまえばいい。マイケルは、両手で、エミリーの顔をはさんだ。

「もっと早く生まれてきたかった。もっと早く、誰よりも先に、あなたに会いたかった。

 あなたが恩人の妻でなく、敵の妻なら、よかったのに。なぜ、あなたは、これほど美しく優しいのか。なぜ、あなたといて、幸せなのか。なぜ、あなたは、僕の前に現れたのか。あなたの怪我をさえ、僕は、神に感謝しそうになる。ごめんなさい、マダム。言っても仕方のないことなのに。あなたは、僕を苦しめる」

「マイケル、私と一緒に逃げて」

 エミリーは、思わず叫んだ。マイケルは、驚いて、エミリーを見た。

「冗談よ、マイケル。忘れてちょうだい。あなたが、あんまりステキだったから。私はトミーから離れることなんかできないのよ。トミーは私の全てだわ。私は、トミーのために生まれてきて、トミーのために死んでいく。きっと、傷のせいね。疲れているんだわ。さよなら、マイケル。もう、眠るわ」

 マイケルには、エミリーの気持ちが理解できなかった。彼は、傷心のまま、エミリーのもとを離れた。


「疲れたよ、ハニー」

 トミーが姿を現した。彼は、いつになく上機嫌だった。

「君の元気な顔を見ることができて、本当に嬉しいよ、ハニー。あの醜い顔は、見る気もしなかったからね。やっと、トゥエイン・ライトの面接が終わったよ。まったくチャーミングなお嬢さんだ。聞きたいかい?」

「私には、関係がないわ」

「忘れてはいけないよ。君には関係なくても、私達のマイケルには、おおいに関係があるんだから」

「まだ、そんなことを言っているの?」

「君には、何から何まで、知っておいて欲しいんだよ。最高だよ、トゥエインは。マイケルにとっても、私と君にとっても」


 トゥエイン・ライトは、おずおずと、トミーの前に進み出た。

「どうぞ、ミス・トゥエイン・ライト。気分はどう?」

「胸がドキドキしています。お会いできて光栄です、ミスター・ビクスン」

「君は、きっと、いい女優になれるよ。私にはわかる。君を一目見て、そう思った。これでも、大勢の俳優を見てきているからね」

「まあ、光栄です。私なんか、やっとオーディションにパスしたばかりなのに」

「君の前途は、非情に明るい。もっともそれは、君の気持ちしだいだけどね。私の言う意味が、わかるかね、トゥエイン」

「ええ、わかるつもりです」

「君は利口だね。私の思った通りだ」


 トミーの話を聞きながら、エミリー・ビクスンは、昔の自分を思い出していた。トゥエインの姿が、かつての自分の姿に、オーバーラップする。

 田舎出の野心に燃えた女優の卵。大女優になるためなら、多少の犠牲もやむを得ないと考えていた若い日。覚悟を決めて、有名なプロデューサーの前に立った。

「いい子だ、エミリー」とトミーは、紳士的に微笑んだ。

 魅力のある男性だった。全身から、目に見えないエネルギーが、四方八方に放射されているように思えた。

 エミリーは、自分が無力な存在であることを感じていた。一目で、トーマス・ビクスンに惹きつけられていた。

「キスの経験は?」

エミリーは、ショックを受けた。予想しなかった質問だ。

「ありません」彼女は、とっさに答えた。

 トミーは、黙って、エミリーを見ていた。怖かった。何もかも、見透かされているように思えた。

「一度だけ……いいえ、二度……」

「正確には?」トミーは考える時間を与えなかった。

「わ、わかりません」

「ペッティングの経験は? どこまで、いった?」

「それは……」

「男と寝たことは? エクスタシーに達したことは?」

「ああ……わかりません」

 トミーは、笑った。エミリーは、自分がどこにいるのかさえ、わからなくなっていた。

「君は、まだ、男性を知らないね」とトミーは笑いながら言った。

「ええ」とエミリーは、無意識に答えていた。

「そんな暇はありませんでした。働かなければならなかったんです。誘われたことは、何度かあります。でも、誘いに応じる暇も、ドレスもなかったんです」

「いい子だ」とトミーは言った。

「可愛い上に、正直だ。顔を上げろ。下を向くな。そうだ。君は女優だ。過去は、脱ぎ捨てるんだ。古い服を脱ぎ捨てるように。そうだ、服は脱ぎ捨てるんだ。裸に帰るんだ。生まれたままの姿を私に見せてくれ。いいぞ、エミリー。その調子だ。顔を高く上げるんだ。顔をゆがめるな。それでも、女優か。とんだ大根だ。

 泣くな。涙なんか、何の役にも立たない。泣くにも、やりかたというものがある。

 笑え。歯を見せるな。自分を魅力的に見せるんだ。

 違う。こびを売るな。それじゃあ、淫売婦だ。

 君に魅力を感じなければ、私は、君を抱くことができない」

 エミリーは、自分では何も考えられなくなっていた。ただただ、自分の前に、高い山のように君臨している男の歓心を買おうとしていた。催眠術にかけられた操り人形のように、顔中を涙とはなで、ぐちゃぐちゃにしながら、トミーに愛されることだけを、一心に願っていた。

 長い時間の末に、ようやくトミーがエミリーの身体を征服した時、あまりの喜びに、気が違いそうだった。痛みなど感じている余裕はなかった。そんな状態ではなかったのだ。

 まさに、夢見心地。やっと悲願がかなったのだ。あのトーマス・ビクスンが、自分を気に入ってくれたのだ。

 その後の生まれて初めての充足感と快感が、以後、エミリーをトーマス・ビクスンに縛りつけることになった。その時には、まだ、彼がエミリーだけでは決して満足できないことを知ってはいなかった。

 幸せが、ずっと未来を照らしているように感じていたものだ。


 トミーは、満足そうに笑っていた。

「どうだい、私の手際は?」

「ごめんなさい。お話をよく聞いていなかったわ」

「嘘を言っても、ちゃんと顔に書いてある。他の人間はごまかせても、私の目をあざむくことはできない」

 トミーは、背骨の折れるほど、エミリーを強く抱いた。

「私にはお見通しだ。君の心の状態も、君の身体の状態も」

「あなたにも間違いはあるわ。私は、平気よ」

 エミリーは真っすぐに、トミーの目を見た。トミーも表情を変えずに、彼女の身体をおさえた。彼は、慣れた手つきで、エミリーの身体の中に、指をはわせた。トミーは笑い、エミリーは、顔をそむけた。

「嘘をつくな、エミリー。君の身体の方が正直だ」

 トミーは、歯を見せて笑った。

「残念だが、今日はお預けだ、ダーリン。あのトゥエインには、すっかり疲れさせられた。私を疲れさせた女は、君以外には、彼女だけだ。

 顔をゆがめるな、エミリー。嫉妬は、女を醜く見せる。私は、醜いものには、我慢できないんだ」

「トミー、トミー、もう苦しむのは、いや」

「君らしくないね。まるで、そこら辺りにいる女のようだ。当分、君の相手はできない。マイケルの花嫁を完璧に仕上げることで、手が一杯なんだ。君も今のうちに、マイケルとの逢瀬を、じゅうぶん楽しんでおくんだね。映画が始まれば、彼はトゥエインのものになる」

「トミー、いっそ、私を殺して」

「そこまで面倒はみられない。死にたければ、自分で死ぬんだね。君の寝室のサイドテーブルの中には、ダイヤつきのデリンジャーが入っている。私からの結婚プレゼントだ」

「私が自分で死ぬのを待っているの?」

「愛するエミリーを、そう簡単に死なせはしないさ。ゆっくりと、時間をかけて。まだ美しいうちに。楽しみに待っているがいい、その時が来るのを」

「トーマス・ビクスンの死刑執行ってわけね。でも、一人では死なないわ」

「その時は、あの美しい天使と一緒に葬ってやるよ」

「マイケルより、あなたがいいわ」

「可愛いエミリー。では、君に、マイケルの死刑執行を命じよう」

「私は、彼を守るわ」

「ハハハ。ミセス・ビクスンを味方につけたマイケル・ランバートに栄光あれ。どこまで彼を守れるか、期待しているよ。くれぐれも、途中で投げ出さないように。今度のツアーには、君も連れて行ってあげよう。マイケル・ランバート、初のヨーロッパツアーだ。予定は二週間」

「マイケルのヨーロッパツアーね」

 エミリーは、夢見るように、瞳を輝かせた。トミーは、不思議な優しさで、彼女を見ていた。

「まるで、子供だね、エミリー。君の瞳を輝かせるのは、マイケルなのか、ヨーロッパなのか。二週間というのは、色々な計画にはちょうどいい時期だ。だが、その前に、トゥエインの仕上げが残っている」


 トゥエイン・ライトは、かつてのエミリーのように、トーマス・ビクスンに夢中だった。

 朝起きてから、夜ベッドに入るまで、トミーのことが頭を離れなかった。彼は、トゥエインの夢の中にまで現れた。何とか、彼に気に入られたかった。トミーの言う通りの化粧、身のこなし、衣服のセンス。彼の好む笑顔。髪は染めた。彼の好むダークブラウンに。話し方にも歩き方にも、神経を使った。

「そうじゃない、トゥエイン。もっとゆっくり。穏やかな気分で。大きな声で笑うな。いつも、自分の顔を鏡で研究しろ。いつも、私に見られていることを意識するんだ。一瞬でも気を抜くな。一瞬の弛緩が、君の未来を狭めていく。常に、緊張して暮らせ。体重をコントロールしろ。欲望に負けるな。自分の欲望をコントロールできれば、他人の欲望を操ることができる。

 その時、君は、他の人間に君臨することができるんだ。

 トーマス・ビクスンも、君の魅力の奴隷にすぎない」

『自分の欲望を抑えることなんか、できないわ』とトゥエインは思った。

 トミーに会いたい気持ちを、どうして抑えることができるだろう。彼に会って、彼に愛されたかった。いつも、そばにいたい。いつも、一緒にいたい。

 トゥエインは、まだ見ぬトミーの妻に嫉妬していた。

 エミリー・ビクスン。トミーの奥さん。彼女が憎かった。

 トミーが現れた。彼女の安アパートに。彼が現れたとたん、薄汚れた部屋が、光を帯び始める。

 トミーは輝き、その光輝は、部屋中に広がるように思えた。

「トミー、トミー、どうして、ずっと来てくれなかったの? 淋しかったわ」

 トミーは、顔をしかめて、しがみついてくるトゥエインを押しのけた。

「感情をあらわにするな。来たとたんに、私を帰らせるつもりか。さりげなく、迎えるんだ。表情をおさえろ。歯を見せて笑うな、と言っておいただろう」

「ごめんなさい、トミー。来てくれて、本当に嬉しかったのよ」

「そう。それでいい。露骨なものは、醜い。私は、醜いものには、耐えられないんだ。支度をしろ、トゥエイン。どれでも好きなドレスを選ぶといい。今日一日、君をエスコートしよう。どこへ出しても恥ずかしくないレディーだということを、私に見せてくれ」

 安アパートには似つかわしくないドレス、宝石、コートに靴。

「まるで、シンデレラになったみたい」

「その笑顔を忘れるな。今の君は、最高にチャーミングだ。さあ、着替えて見せてくれ。忘れるな、私の視線を。私の好みを」

「決して忘れないわ、トミー。私の一番大切な人」

「きれいだよ、トゥエイン。私は、君を連れて行くのが、とても得意だ」

 トゥエインは、心持ちあごを上げ、鏡にうつる自分の姿を眺めた。

「それが、今の君だ。世界で最も美しい私の女王だ」

 トゥエインは、高慢な表情で、トミーを見た。

「ミセス・ビクスンより?」

 トミーは、トゥエインが思わず視線をそらしたほど、目に強い光をこめた。

「なぜ、目をそらした」

「だって、あなたが怖かったから。ごめんなさい、トミー、奥さんのことなんか言って」

「気弱になるな、トゥエイン。君には、エミリーにないものがある。それは、若さだ。

 確かに、エミリーは、君よりきれいで、洗練されている。しかし、どうあがいても、二十歳に戻ることはできない。二十歳の肉体に。二十歳の心に。彼女は、滅びゆく運命なのだ」

「やめて、トミー。何だか怖いわ」

「怖いことは何もないさ。君はエミリーになれても、エミリーは、君には戻れない」

 トゥエインにとって、夢のような一日は、過ぎていくのも早かった。人々がトゥエインを振り返って見る。しかし、トミー以外の人間の視線など、気にもならなかった。トゥエインの目には、トミーしか映ってはいない。トミーが喜べば、トゥエインも喜び、トミーが満足すれば、トゥエインも満足だった。

「きれいだよ、トゥエイン。君は、最高の女だ」

 トミーは、優しくトゥエインにささやき続ける。その度に、トゥエインは、ますます美しく成長していった。

 トゥエインは、生まれて初めて、劇場に足を踏み入れた。着飾った人々。しかし、誰も自分ほど美しくもなく、幸せでもないように思えた。

「完璧だよ、トゥエイン」

 トミーは、トゥエインの額に唇をふれた。まるで、女王の冠をいただいたように、トゥエインは有頂天になっていた。

「しばらく会えない」

 トミーのことばで、トゥエインは、幸福の絶頂から、不幸の谷底をのぞいたような気分になった。

 舞台の上では、トゥエインが名前だけ知っていたマージェリー・ブラウンが悲劇の王女を演じていた。

「それでは、あなたは」と悲劇の王女は叫んだ。「この私を捨てていくと言うのですか」

「今の私の気持ちです」とトゥエインは、感情を殺して言った。トミーに教えられた通りに。

「いい子だ」

 トミーは、満足そうに、トゥエインを見ていた。トゥエインは、声をあげずに涙を流していた。トミーは、トゥエインの髪を優しくなでた。

「完璧だ」再び、トミーは言った。

「私の見込んだ通りだよ、トゥエイン。私のエスコートは、ここで終わりだ。車を待たせてあるから、一人で帰りなさい。あと二週間で、また会える。それまで、私の教えたことを忘れるな」

「忘れることなんかできないわ、トミー。私がお芝居に夢中になっている間に、そっと帰ってね。私が取り乱す前に」

 トミーは、影のように去って行った。しかし、トゥエインには、彼がいつ席を立ったのかが、はっきりわかっていた。彼女は、トミーの言うように、自分を抑えた。

「私は、すべてを、失ってしまった」

 悲劇の王女は絶叫し、トゥエインは、他の観客に合わせて、薄いハンカチで顔をおおった。細い肩を震わせて、彼女は声を殺して泣いた。






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