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闇に響く声  作者: まきの・えり


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 エミリーはマイケルと共に、地下室に連れて行かれた。

 トミーは機嫌が悪かった。エミリーの持っていた銃で、繰り返し繰り返し、エミリーを殴った。エミリーの歯は折れ、頬は切れ、口からは血が流れていた。ジミーの死体はどこにもなかった。しかし、彼の流した真新しい血の跡が残っていて、エミリーの血と混じり合った。

「やめろ」とマイケルが叫んでいた。

「殴るなら、僕を殴れ。抵抗もできない女の人を殴るなんて、恥を知れ」

「殺しても飽き足らない。この私に向かって、銃を撃った」

「空砲だったのが、残念だわ」

 顔中から血を流しながら、エミリーは微笑んだ。

 トミーは、エミリーの長く伸びた髪をつかむと、マイケルの方を向いた。

「どうして欲しい? 君の好きなように始末してやる。焼くか、ノコギリで引くか、このまま、ねじり殺すか。殴り殺すか。好きな方法を選べ、マイケル。それとも、君がエミリーの代わりになるか」

「マダムを放してください」とマイケルが言った。

「責任は、僕にある。こうなるまで、あなたの本性に僕は気づかなかった。あなたの外見や態度に騙されていた。僕が愚かだったばかりに、トゥエインやコニー、マダムにまで危害が及んだ。原因は、僕にある。好きなようにしてください」

 トミーは、エミリーの方を見た。

「醜い顔だ。あちこちで肉が裂け、血にまみれている。マイケル、この手をみろ。すり切れて、昔の面影もない。この足を見ろ。変色し変形しかけている。醜い女だ。君のような美しい男が、こんな女を気にかける必要はない。

 君が望めば、ありとあらゆる富と名声は、すべて君のものだ。何度も君を裏切った女だ。君と私を。つかの間の快楽と虚栄のために、愛する夫と恋人を裏切り続けてきた。こんな女こそ、十字架にかけられるべきなんだ。

 あと一度だけ、この醜い女を殴らせてくれ。君の手は、わずらわせない。それで、この女の罪を許そう。私には忠実な部下がいる。彼らは粗暴だ。彼らにまかせれば、君は肉を剥がれ、骨を削られ、太陽にさらされ、凍てついた海に震えるだろう。二人で、エミリーを罰しよう。彼女にとっては、当然の報いだ。殴られて、無罪放免。私は二度と、彼女を思い出すまい。あとは彼女の自由だ。

 ほんの一度、彼女を殴ろう。それで、終わりだ」

 エミリーは微笑んだ。

「取引成立よ、トミー。一度と言わず、好きなだけ殴るといいわ。あなたの気が済むまで。マイケルには関係がないわ。トゥエインやコニーまで巻き込まないで。これは、私達夫婦の問題よ。自分のしたことを後悔したりしないわ。何度でも、あなたを撃ってやるわ。あなたの心臓とあなたの頭を狙って、何度でも」

 エミリーは目を閉じた。これで、すべてが終わる。トミーの怒りが、全身の震えが、彼女の髪をつかんでいる手を通して伝わってきていた。

「待ってくれ、ミスター・ビクスン」とマイケルが言った。トミーの手が空中で止まった。

「僕は、取引には応じない。あなたと僕の取引のはずだ」

「その通りだよ、マイケル」

 怒りのあまり、トミーの声は地を這うようにかすれていた。

「私と君との間の取引だ。決めるのは、君だ」

「マダムを放して、僕を殺せ」

「マイケル、マイケル、邪魔をしないで」とエミリーは叫んだ。目に涙が浮かんでいた。

「最後のチャンスを台なしにしないで。私は命が惜しいのよ。殴られるぐらい何でもないの。トミーをこれ以上興奮させないで」

「本当に最低の女だな」とマイケルは言った。

「この期に及んで、命乞いか。ミスター・ビクスン、殴るだけで、手が汚れる。早く、この醜い女を追い払ってください」

「わかったよ、マイケル」とトミーは言った。

「美しい愛情は、常に悲劇の源だ。エミリーを押さえろ」

「ミスター!」とマイケルが叫んだ。

 トミーは、今まで抑えていた怒りを爆発させるかのように、手にした銃で、思い切りエミリーを殴った。歯と肉片が飛び、エミリーはその場に倒れた。

「気づかせろ」とトミーは部下に命じた。

「卑怯者!」とマイケルは叫んだ。彼は、数人の男に押さえつけられていた。

 エミリーが息をふきかえした。

「終わりね、トミー」

 ことばと一緒に、彼女は口から血を吐き出した。

「よく見ておくんだ、エミリー。お前の言動の結果を」

 トミーはマイケルに向かった。

「トミー!」エミリーが叫んだ。

「約束よ、約束したわ」

「これは、マイケルとの取引なんだよ、ハニー。彼が望んだことだ」

「だめよ、マイケルを傷つけないで!」

「可愛いエミリー、安心しておいで。マイケルの美貌に傷をつけるつもりはないから」

「トミー!」

 トミーは、マイケルの上に馬乗りになった。トミーの部下達がマイケルの手足を押さえつけている。

 トミーが何をするつもりなのか、誰にもわからなかった。

 トミーは、マイケルの頬に触れ、髪に触れ、しばらくの間、愛しげにマイケルを見つめていた。

「殺すなら、早く殺せ」

 トミーは、マイケルの口をこじ開け、手にしたスポイトを彼の喉に差し込んだ。

 その瞬間、マイケルの周りの男達が四方に飛び、マイケルは喉を押さえて、のたうち回っていた。辺りには、肉の焦げるにおいが漂った。

 エミリーは叫び声をあげ、そのまま意識を失った。


 日時も曜日もわからなかった。エミリーは暗闇の中で、目を開けていた。長い夢を見ていたような気がする。とっさに、自分の身体に触れてみた。衣服を身につけている。口の中がザラザラしていた。顔と頭が痛い。

 うめき声が聞こえていた。エミリーは、現実に戻った。

「マイケル? 返事はいらないわ。待って。そばに行くわ」

 肉の焼けるにおいが、まだ漂っている。では、あれは、夢ではなかったのだ。エミリーは手探りで進んだ。手が、マイケルの身体に触れた。彼女はその身体を知っていた。懐かしい感触だ。

「マイケル、生きているのね」

 マイケルは、声にならない叫びをあげていた。

「黙って、マイケル。声を出さないで。何とかここから抜け出すのよ。立って、マイケル。肩につかまるのよ。そうよ、うまいわ」

 エミリーは、マイケルを抱えた。トミー達は、どこに行ったのだろう。自分がしっかりしなければ、マイケルを助けることはできない。おそるおそる階段を上った。トミーの部屋にも屋敷の中にも、誰一人いなかった。鍵もかけずに、皆、どこに消えたのだろう。

 エミリーは、マイケルの家に電話をかけた。誰も出ない。トゥエインは、どこにいるのだろう。

 もう一度受話器を握り、主治医の家に電話をかけた。

「エミリー・ビクスンです、ドクター」

「エミリー? どうしたんだね、こんな時間に」

 時計を見ると、真夜中を過ぎていた。

「すみません。急病人なんです。マイケル・ランバート邸です。喉の病気だと思うんです。お願いです、ドクター。診てください」

「わかった。ほかならぬマダムの頼みだ。すぐ行くよ」

 エミリーは、車のキーを探した。マイケルは半分意識がなかった。彼を車に乗せると、マイケルの家に向かって出発した。門の前には、まだ何人かのファンがいたが、エミリーの車には、関心を払わなかった。彼らは、家に帰るところだった。

 ガードマンが門を開けてくれた。

 マイケルを寝室に寝かせ、エミリーは医師の来るのを待った。

 主治医のドクター・ネルスンは、エミリーの顔を見て驚いた。

「エミリー、往診の理由はそれかい? また、トミーの仕業なのか?」

 エミリーは微笑んだ。

「私じゃないのよ、ドクター。私の顔は気にしないで」

「あちこち怪我してるじゃないか。私からトミーに言うよ。母親が死んでから、あの子は本当に変わってしまった。おとなしくて可愛い少年だったのに」

「そうなの? ドクター」

「そうさ。生まれた時から知っているからね」

 ドクター・ネルソンは、マイケルの喉を診て、首を振った。

「私の手にはおえないよ。喉が焼き切れている。何を飲み込んだんだね? 硫酸か硝酸か。彼は、歌手だね」

 エミリーは、ドクターを別の部屋に連れて行った。マイケルは眠っていたが、彼のいる前で話したくなかった。

「言いにくいことだが、もう、歌は諦めるしかないだろう。手術をして訓練すれば、ある程度の声、自分の意思を伝える声は抱出るようになるだろうが、歌となると話は別だ。声帯が焼けただれている。歌どころか、悪くすると、一生声のない生活を送ることになるだろう」

「治してください、ドクター。専門医に紹介してください」

「無理だよ、エミリー。私がもう少し若ければ、あなたのために、望みのない嘘を並べたかもしれない。紹介状は書くが、あまり希望は持たない方がいい。あなたから話しにくければ、私が本人に話そう」

「私が話します。それから、ドクター、このことは誰にも言わないでください、特に、夫には」

「わかったよ。どうせ、トミーの絡んだ話なんだろう。あの子が病気で死にかけた時、私は、随分悩んだものだ。しかし、医者というのは裁判官ではない。病人を助けることが仕事なんだ。残念なことにね」

「私も残念です、ドクター」

「あれは、頭のいい子だ。法律も医学も味方につけている。私にはよくわからないが、政治や経済も、あの子の味方らしい。時々、死亡診断書を書きながら、神は死んだのか、と思う時がある」

「ドクター、トミーの知らない病院がいいんです。是非、紹介状を書いてください。夜が明けるとすぐに、車を走らせます。マイケルのファン達が集ってくる前に」

「いいとも。お安い御用だ。いいドクターを知ってるよ。咽喉科の専門だ。そこでなら、声を取り戻すことくらいできるだろう」

「ありがとう、ドクター。あなたは、ずっと親切でしたわ」

「実際、何度も呼ばれたものだ。先代のミスター・ビクスンの代からの主治医なんだよ。あなたもよく怪我をした。火傷に骨折、ノイローゼもあった。奇麗な歯がなくなっているね。明日になれば、もっと顔が腫れてくるよ。見える傷だけでも、薬をつけておいてあげよう。治りが随分違う。顔のこの傷なんか、このままだと一生、あとが残る。あなたのような綺麗な人を、よくここまで傷つけられるものだ。前から言おうと思っていたんだが、長い髪もやめたほうがいい。あなたは短い髪もきっと似合うよ」

「ありがとう、ドクター。髪は切りますわ。短い方が好きなんです」

「そうしなさい。引っ張られたら、危険きわまりない。綺麗な髪でもったいないが、背に腹は代えられないよ、エミリー」

「夜が明けてきましたわ。もう出かけなくては」

「気をつけて。私がもう少し若ければ、お供したいところだけどね」

「お気持ちだけで充分ですわ。ご恩は忘れません」

 エミリーは、マイケルを車に乗せると、遠くの町に向かって出発した。そろそろマイケルのファン達が集ってくる時間だった。


「あれで、よかったのかね」とドクター・ネルスンはたずねた。

「上等です」とトミーは答えた。

「ドクター・ハザウェイというのは、本当に口の固い男なんでしょうね」

「保証するよ。私は、口の固い人間としか付き合わない主義でね」

「私も同じですよ、ドクター・ネルスン。あなたには随分お世話になっている。礼を言いますよ」

「お互い様だよ、トミー。私も君には随分助けられている」

「ところで、マイケルの喉は、見立て通りなんですか?」

「無理だね、歌うのは。残念な話だ。私は、実は彼の歌のファンでね。レコードも持っている」

「私も実は、彼の熱烈なファンだったんですよ。残念なことです。しかし、よく効きましたよ、先生の薬は。ぜひ、調合の仕方を教えて欲しいものですね」

「餅は餅屋だよ、トミー。病気や薬のことなら、私にまかせておけばいい。ドクター・ホートンはどうかね、私が死んだ後は? うちの息子は能無しでね。固いだけが取り柄の男だ。ドクター・ホートンに頼んでおくよ。君には借りもある。きっと力になってくれるだろう」

「何から何までありがとうございます。気の弱いことを言わず、もっと長生きなさってください。それはそうと、コンスタンスのことはわかりましたか、ドクター」

「ああ、わかったよ、トミー。コンスタンスの父親は……」

 そこに、トゥエインが、しびれを切らせてやってきた。

「こんなところにいたの? ひどいわ、トミー。ずっと待たすなんて」

「これは、麗しのトゥエイン。ちょっとドクターと話があってね」

「何も言わずに三時間も待たすなんて……」

 トミーは、何も言わずにトゥエインを殴った。

「ことばに気をつけろ」

「ごめんなさい、トミー」

 ドクター・ネルスンは首を振った。

「まだまだ、くたばる訳にはいかないね。トゥエイン、忠告だが、長い髪はやめておいた方がいいよ。転んだり、火がついたり、危険きわまりない」

「シャラップ、ドクター。私は長い髪が好きなんだ。他人の嗜好に口をはさまないで欲しいもんですな」

「やれやれ。もう、今日は往診はごめんだよ」

 ドクター・ネルスンはあくびをすると、診察カバンを抱えて、自分の車に向かった。

「トミー、まだ怒ってるの?」トゥエインが甘えた声を出した。

「私にさわるな!」とトミーは怒鳴った。

「コニーはどうしたんだ」

「さあ、ナースが連れて行ったわ」

 トミーは、もう一度、トゥエインを殴った。

「連れ戻せ」

「だって、トミー、こんな時間よ。まだ寝ているわ」

 トミーは、もう一度、手を振り上げた。

「わかったわ、トミー。行って来るから、機嫌を直してね」

 トミーは、トゥエインが出かけると、一人でマイケルの家の中を歩き回った。トゥエインの無神経さには、本当に腹が立った。コニーのことも、彼の頭を悩ませていた。

 コニーは、マイケルにそっくりだった。

「マイケルは、もう歌えない」

 トミーは、一人でつぶやいた。

「もう、あの歌は、二度と聞けないんだ」

 マイケルの喉を焼いた瞬間を思い出した。全身に戦慄が走る。少しでも手際が悪ければ、マイケルの顔まで焼いてしまったかもしれないのだ。

 マイケルの喉をこじ開け、声帯の部分に液を流した。ちょうど声帯の部分にだ。

 マイケルの喉の焼けるにおい。彼は、凄い力で、押さえていた男達を振り飛ばした。

 マイケルのもがき苦しむ様子。

 何度思い返しても、トミーの全身は、ゾクゾクする喜びに満たされた。エミリーは、叫び声をあげて、気を失った。

『哀れな恋人達。最後には、すべてを失うのだ。最後には、すべてを』

 トミーは、考えるのをやめた。いつも、そこで思考が止まるのだった。

 マイケルとエミリーのいなくなった世界。

 トミーの想像力は、灰色の茫漠とした風景を現出させるのだ。いやな風景だった。殺風景で、何の喜びもない。考える意欲がわかなかった。

 生まれて初めて、胸の中にぽっかりと大きな穴があいているのに、気がついた。


 エミリーは暗い気持ちで、医師の説明を聞いていた。手術によって、マイケルは、声を取り戻すことができる。しかし、その声は、以前のマイケルの声ではなかった。

「まあ、音の一種だと思ってもらえばいいでしょう。充分、意思を通じさせることが可能です。根気のいる訓練です。忍耐と強い意志の力が必要です。練習を怠れば、一生声のない生活を送らなければならないでしょう」

 マイケルは手術に同意した。

『声を取り戻すこと』が『歌える』ことだと思い込んでいた。

『エミリー、無事でよかった』とだけ、マイケルは書いた。彼は、トゥエインのことも、コニーのこともたずねなかった。エミリーの胸は痛んだ。

 マイケルは、声と一緒に、愛する家族まで失うのだろうか。トゥエインはどこにいるのだろう。そして、コニーは。

 エミリーは、マイケルの病室に戻る前、何度も自分に言い聞かせていた。

『私が、しっかりしなければいけない』

 そして、しっかりした足取りで、病室に戻った。

 マイケルは、エミリーの顔を見て微笑み、エミリーも微笑み返した。

『ドクターの話は何だったの?』とマイケルは書いた。

『僕の退院は、いつ?』

「退院は未定よ、マイケル。手術の結果次第よ」

『僕の声……』と書きかけて、マイケルはペンを置いた。彼は、不安そうに、エミリーの顔を見た。

「練習すれば、声が出せるようになるわ」

 エミリーは、マイケルの頭を胸に抱いた。

「でも、少し声が変わるかの知れない」

『もう、歌えないの?』

 エミリーはうなずいた。マイケルは、顔をそむけた。歌と一緒に、すべての良いもの、美しいものが、自分から去っていくように思えた。

『僕は、すべてを失った。死んだ方がよかった』

「私がいるわ、マイケル。トゥエインもコニーもあなたを愛しているわ」

『僕を、一人にして』

「いやよ、マイケル。一人になんかできないわ」

 マイケルは、エミリーの手を取って、それに自分の顔を押しあてた。マイケルは、泣いていた。エミリーは、黙ってマイケルを見つめていた。

『ごめんなさい、エミリー』とマイケルは書いた。

『無事に生きているだけでも感謝しなければならないのに。でも、死んだほうが、あなたと一緒に死んでいた方が、幸せだったのかもしれない』

「一緒に死んでもよかったの、マイケル」

『あなたのこと以外、何も考えられなかった』

「私もよ」

『一緒にいてくれる? どこにも行かない?』

「ええ。あなたが私を必要とする限り。あなた達を守ると神様に約束したの。でも、約束を守れなかったわ」

『泣かないで。あなたが泣いてはいけない。僕には、どうしてあげることもできないんだから。もう、あなたのために歌うこともできない。何もできない。歌と一緒に死んでいればよかった』

「だめよ、マイケル。生きるのよ。私達が生きていくことを、神様が望んでいる。あなたは、声を取り戻すのよ。そして、声さえあれば、きっと歌えるようになるわ。あなたのあの綺麗な声は、もう戻ってはこないかもしれない。でも、あなたの歌は、決して死なないわ。あなたが生きている限り、あなたは歌い続けることができる。

 あなたの歌を特別なものにしていたのは、声じゃなかったわ。心よ。愛する者への想いよ。それがある限り、あなたの歌は、滅びることはない。

 歌は、あなたと共にあり、そして、神と共にある。私は信じるわ。神様を、そして、あなたを」

 マイケルの瞳が輝いた。エミリーは、マイケルに見惚れていた。彼の身体から、再び、光が放射し始めているようだった。

「あなたは人間じゃないみたい。光の精だわ。トミーには、永遠にあなたを滅ぼすことはできない。私は、それが嬉しいの。あなたがトミーから自由だということが」

『あなたは? あなたは、まだ自由ではないの?』

「わからないわ、マイケル。ずっと縛られていたから。まだ、彼が怖い。彼が、私の愛する人に……」

『どうしたの?』

 エミリーは、マイケルに微笑んだ。愛する者、マイケル、トゥエイン、そして、コニー。

 すべてが、トミーの思い通りになっていく。自分は無力だ。トミーは、この病院を突き止めることができるだろうか。多分、できるだろう。彼は、マイケルから声と家族を奪った。

 残っているのは、私達の命だけ。愛は奪えない。彼に奪うことができるのは、あとは、命だけだ。

「もう怖くないわ、マイケル。私達は、いずれは死ぬわ。それが少し早くなるだけ」

『怖くない?』

「ええ、怖くない。トミーは、今まで私を怖がらせすぎたわ。その報いよ。もう彼に奪えるものなんか、何もないんですもの」

 マイケルの手術は、成功した。ドクター・ネルスンの紹介してくれた、ドクター・ハザウェイは、咽喉外科の専門医だった。

「あとは、自宅で静養すればいいでしょう。ドクター・ネルスンにも連絡を取ってあります。機能回復訓練には、根気が必要です。専門家を派遣しましょう。薬を飲むことを忘れないように。それと、決められた以上には、声を使わないように。声帯が回復したわけじゃない。食道からの空気を利用しての発声ですから」

 マイケルは、平静な表情で、医師の説明を聞いていた。エミリーの方が、胸の潰れる思いを味わっていた。平気で残酷なことを告げるドクター・ハザウェイに、殺意に似た感情さえ抱いた。

 エミリーは、マイケルと共に車に乗り込み、病院を後にした。医療費も法外な金額だった。エミリーが切った小切手は、トミーの口座から支払われる。これから先の医療費も、生活費も。

 エミリーには口座がなく、マイケルにも蓄えというものがなかった。マイケルの稼ぎ出した巨額の富、預金、信託、証券類は、すべてトミーが管理していた。


 ドクター・ハザウェイの診療所の窓から、トーマス・ビクスンは、エミリーとマイケルが車に乗り込むのを見送っていた。

「やあ、お待たせしました、ミスター・ビクスン」

 ドクター・ハザウェイが姿を現した。

「我らがマイケルの喉の具合はどうなんです?」

「少し、良心の呵責を感じているところです。声帯は、おっしゃるように除去しました。喉頭が薬品でただれていただけで、片方の声帯は無事だったんです。手術で回復できたでしょう」

「それで、声は?」

「声は出せます、訓練次第ですが」

「出せるのか!」

「まあ、出せるとは言っても、げっぷのようなものです。もう一つの方法は、気管からの空気を利用して、風のような音を出すこと」

「バカな。なぜ完全に声を奪わなかった」

「ミスター・ビクスン、私は医者です」

「もう少しで忘れるところでした、ドクター。げっぷや風を残す方が、歌手にとっては残酷でしょう」

「人間としては、便利なものです」

「なるほど。人間としてね。あなたとは気が合いそうですな、ドクター。建物が老朽化している。建て替えてはいかがですか?」

「それより私は、総合病院の経営の方に興味があります」

「いいでしょう、ただし共同経営で」

「さっそく優秀な人材を集めましょう」

「そちらの方は、おまかせしますよ、ドクター」

 ドクター・ハザウェイは、トミーの手をしっかりと握った。

「あと一ヶ月」とドクターは、あえぎながら言った。

 トミーは黙って、ニヤリと笑った。

 あと一ヶ月。

 それで、すべてが、終わる。


 マイケルの家の前には、大勢のファンが詰めかけていた。

「マイケル!」

 車は、たちまちのうちに、ファン達に取り囲まれた。マイケルは、車の窓を開けた。彼の喉には、包帯が巻かれている。ファン達は泣いていた。

「マイケル、歌えないって本当なの? 嘘なんでしょう? また歌ってくれるわね」

 マイケルはうなずき、ファンの間に歓声が上がった。マイケルは彼らに手を振った。ガードマンが、車を門の中に入れた。

「毒婦!」

 聞きなれたことばが、エミリーの耳に飛び込んできた。懐かしい響きだ。ファン達からは、エミリーに対する敵意が伝わって来た。

『怖くないわ、何も』

 トゥエインがマイケルを出迎えた。彼女もエミリーを憎んでいた。ナースがコニーを連れてきた。

「コニー、まあコニー」

 エミリーは微笑んだ。何もかも、以前の通りだ。

「コニーに触らないで!」とトゥエインが叫んだ。

「お別れを言うために待っていたのよ」

「待って、トゥエイン。マイケルを寝室に連れて行くわ。退院したばかりなの。休ませてあげて」

「いいわよ」とトゥエインが言った。

「お休みなさい、マイケル。あとでお別れにいくわ」

 マイケルは、うなずいた。彼は、コニーの頬に触れた。コニーが笑い、マイケルは、しばらくコニーを見つめていた。エミリーは、マイケルを寝室まで連れて行った。薬を飲むと、マイケルは目を閉じた。

「お休みなさい、マイケル」

 エミリーは、マイケルの頬にキスすると、トゥエインのところに戻った。

「アンは?」

 見たことのないナースがコニーを抱いていた。ばら色の頬のアンはどうしたのだろう。

「アンは、くびにしたわ」とトゥエインが言った。

「トミーを怒らせたのよ。コニーを自分の家に連れて帰ったの」

「トゥエイン、今までどこにいたの? ずっと電話していたのよ」

 トゥエインは、低い声で笑った。

「どこにいたかですって? トミーと一緒に決まってるじゃないの」

「どうしたっていうの、トゥエイン」

「演技がお上手ね、エミリー・ビクスン。それにしても、ひどい顔」

「ええ、ひどい顔でしょう? 歯が三本も折れてしまったから。この傷もひどいでしょう? もう消えないわ」

「あきれたわ、平気なのね」

「歯もほとんど削られてるの。食べるのに不自由だわ。髪も切ったわ、邪魔だから」

「別人みたいよ、あなた」

「別人になったのよ。私自身に戻ったの」

「相変わらず、自信たっぷりなのね。感想はどう? 二つの家庭を破壊した」

「率直に話し合いましょう、トゥエイン。まだ間に合うかもしれない。あなたとマイケルとコニーのためよ」

「冷静なのね、相変わらず。でも、もうだまされないわ。今さら何を話すの? 私は、トミーに言われて、マイケルにお別れを言いにきただけよ」

「トミーは知っているのね、マイケルが今日帰ることを」

「彼は何でも知っているわ。あなたとマイケルの行動は。当り前じゃないの、まだ自分の妻なんだから」

「まだ?」

「そうよ、今のところは。あなたと離婚するわ。そんな目でみないでよ。それしかないじゃないの、私とコニーを守るためには。

 マイケルは、ずっと帰って来なかった。あなたもいない。何度目かの電話に、トミーが出たの。それだけよ。マイケルとあなたのことは、全部聞いたわ。ひどい話ね。すっかりだまされていた、あなたにも、マイケルにも。

 トミーが言ったわ。あなたがマイケルを誘惑したんだって。何が妹のようなトゥエインよ。バカにしないでね。私の幸せ、私の全てを滅茶苦茶にした。あなたなんて大嫌いよ、エミリー・ビクスン。

 近寄る人を皆不幸にする。マイケルは、どう? 声を失い、家族を失った。私もよ。コニーもよ。一生、父親をパパと呼べないわ。私、トミーの子供だと言ってやったのよ」

「トゥエイン、落ち着いて。あなたは、トミーにだまされているのよ。彼と一緒にいたら、不幸になるだけよ。マイケルとコニーを守れるのは、あなただけなのよ」

「マイケルには、あなたがいるわ、愛するエミリーが。それに、愛するマイケルと離れられるの? 家庭を捨ててまで、愛した男と」

「マイケルのためなら。マイケルとあなたとコニーのためなら」

「だまされないわ、そんな顔をしても。結局は、遊びだったのね。声を失ったマイケルを平気で捨てて、トミーのところに戻れるのね」

「ええ。もし必要なら」

「あきれるわね、あなたには。相手にできないわ。私はマイケルにお別れを言って来るわ。トミーが待っているのよ」

「だめよ、トゥエイン、トミーのところに戻っては。不幸になるわ、私のように。彼は女性では満足できないのよ。殺されてしまうわ、トゥエイン。コニーもよ」

 トゥエインは低く笑った。

「トミーが男色家だとでも言うつもりなの? もう少し、ましな嘘はないの? 彼を愛しているとか、彼に未練があるとか。本当に、毒婦とはよく言ったものね。散々情事を楽しんでおいて。でも、あなたの夫も、もうあなたを許さないわ。慰謝料ははずむそうよ。本来なら、私とトミーがもらうはずなのに。

 マイケルは、あなたにあげるわ。この家も、執事もメイドも全部つけて。もともと、あなたの男だったんですものね。私が、トミーの女だったように。これで、いいのよ」

「トゥエイン」

 エミリーはトゥエインを抱擁し、トゥエインは、それを振りほどいた。

「やめて、安っぽい芝居は。トミーが言ってたわ、子供ができなかったのは、あなたのせいだって。私は、トミーのために、何人でも子供を産むわ。一度失った幸せを取り戻すのよ」

「何を言っても無駄ののようね。あなたは、すっかりトミーに洗脳されている。以前の私と同じね。よく覚えておくのよ、トゥエイン、私の身体の傷を。みんな見せてあげるわ」

「やめてよ。あなたの裸になんか興味がないわ。トミーが、そんなひどいことするもんですか。時々殴るだけよ、時々……」

「約束して、トゥエイン。コニーを守るのよ。何かあった時には、アンに預けるのよ、いいわね。あなたの幸せを祈っているわ」

 トゥエインは返事をせずに、マイケルの寝室に向かった。何かが心の中でうごめいている。何だろう、この気持ちは。

 マイケルは、眠っていた。トゥエインは、彼を見つめた。幸せだった日々が、目の前を通り過ぎていく。優しいマイケル。愛しいマイケル。心からトゥエインを愛してくれたマイケル。

 トゥエインは、手のひらで涙をぬぐった。すべては過ぎてしまったことだった。

「マイケル……」

 低い声で、彼の名前を呼んだ。マイケルが、目を開けた。

『トゥエイン』というように、彼の唇が動いた。トゥエインは、マイケルの手を取ると、自分の胸に抱いた。

「お別れよ、マイケル。あとは、エミリーにまかせたわ。あなたも、その方がいいんでしょう?」

 マイケルは、微かに唇を震わせた。

「コニー?」トゥエインはたずねた。

「一緒に連れて行くわ。時々は、連れて来るわ」

 自分がなぜそんなことを言ったのか、トゥエインにはわからなかった。マイケルのそばには、まだ愛の名残があった。

「元気でね、マイケル。おかしいわね、涙が出て来るわ。まるで、もう会えないみたいに。早くよくなってね。さよなら、マイケル」

 トゥエインは、マイケルに背を向けた。自分がまだマイケルを愛していることに気がついた。が、もう後戻りはできなかった。

 トミーが待っていた。新しいミセス・ビクスンと彼の娘のコンスタンスを。

「さよなら、エミリー」

「ええ、トゥエイン、元気でね。コニー、さようなら」

 エミリーは、トゥエインとコニーの後を、いつまでも見送っていた。


『マイケル・ランバート、再起不能か?』

 エミリーは、書斎に積み上げられている新聞や雑誌に目を通していた。トミーの行動がわかってきた。

 エミリーが地下室で過ごしていた期間、マイケルはツアーに出ていた。彼も、ある意味で幽閉されていたのだ。トミーは予定通り、トゥエインに近づいた。連絡を絶っているマイケル。エミリーの不在。産後で精神状態の不安定なトゥエイン。

 ツアーから戻ったマイケルは、トゥエインの不在を知り、差出人エミリーとある手紙を受け取る。

『ジミーのことも、トミーは計算していたんだわ』

 心の優しい少年。エミリーに思慕の情を抱いていた。彼なら必ずエミリーに同情する。サイズのピタリとあった洋服。ジミーは苦労して手に入れたと言っていたが、トミーが仕組んだことかもしれない。

『ジミーの死でさえも……」

 すべて、トミーの計画通りに運んでいたのだ。エミリーのデリンジャーの空砲。そして、マイケルの喉!

 トミーがマイケルの喉を焼いた日の新聞に、マイケルの事故のニュースが載っていた。

 事故! その日の新聞が、すでに予報しているのだ、その夜のことを。

 病院には、テレビもラジオも置いてなかった。今にして思えば、新聞さえも。

『マイケル、コンサートをキャンセル』

『マイケル、再起不能か?』

『密かな療養生活』

『手術は成功! しかし、あの歌は、もう……』

 そして。

『マイケル退院! 自宅療養の日々』

『マイケル、コメントを拒否! マダム・ビクスンの黒い影……愛の再燃か?』

『傷心のトーマス・ビクスン。妻への涙の訴え』

『エミリー、今なら間に合う。マイケルを皆の手に返してくれ!』

『エミリー・ビクスン、マイケルの治療を拒否!』

『マイケルが声を失うまで』

 恐ろしい物語だった。

 マイケル・ランバートに執心していたエミリー・ビクスンは、密かにマイケルの声を奪う計画を立てた。彼を自分一人のものにしたかったのだ。数々の情事にもかかわらず、エミリーはマイケルを忘れることができなかった。幸せなマイケルの家庭を破壊したかった。家族の友人のように見せかけながら、エミリーは、マイケルの妻トゥエインを欺き、マイケルとの情事を続けていた。

 苦悩するマイケル。エミリーの独占欲は、とどまることを知らなかった。トゥエインとコニーからマイケルを奪うだけでは、飽き足らなかったのだ。

 運命の日がやってきた。

 エミリーは情事の後、マイケルにささやいた。世界中の人を熱狂させるあなたの喉が見たい。何も疑わないマイケルの喉に、エミリーは隠し持っていた硫酸を注ぎ込んだ。

 苦しむマイケル。エミリーは新聞社に『マイケルの事故』のニュースを流し、瀕死のマイケルを一昼夜放置した。

 手術後の適切な処置を拒否し、永遠にマイケルの声を奪ったのだ。


 エミリーは、微かなめまいを感じた。誰もがこの話を信じているのだ。エミリーは、ドクター・ネルスンに電話をかけた。少し待つと、聞き慣れたドクターの声が聞こえてきた。

「ドクター、エミリーです」

 沈黙があった。

「もう、私にできることは何もないよ、エミリー。私は、ビクスン家の主治医なんだ。見損なったよ、エミリー。それから、ドクター・ハザウェイから照会がきている。小切手が不渡りだった、ということだ。

トミーにこれ以上恥をかかせるのはやめるんだ、エミリー」

「ドクター、ドクター……」

 電話は切れていた。

 孤立していた。メイド、執事、下男、ガードマン、すべてトミーの部下達だ。マイケルの治療には、誰も来ていなかった。そうなのだ。エミリーが治療を拒否しているのだ。

 そうだ。新聞社に電話をかけよう。テレビ局やラジオ局、そして、マイケルのファン達に話をしよう。

 エミリーは再び電話に向かった。鈍い機械音が聞こえた後、無音になった。電話は不通だ。

 トミーの手が伸びてきている。エミリーは、部屋着のまま、外にかけ出そうとした。

「マダム」ガードマンが彼女を押しとどめた。

「外に出るのは、危険です。マイケルのファン達が、あなたを待ち構えています。中に押し入ろうとするファン達から、この家を守るために、警察が警備に当たっているぐらいです」

 エミリーは、マイケルの部屋に入った。マイケルは起きていた。起きて、窓の外を見ていた。

「何を騒いでいるの?」

 エミリーにだけ聞こえる声で、マイケルは話した。笛のような風のような声。

「毒婦エミリーから、マイケルを取り戻そうとしているんですって」

「また、毒婦になったの、エミリー?」

 マイケルが笑った。部屋中に、風が吹いたような笑い声だった。

「そうなの、マイケル。また、毒婦になったの。あなたの声を奪った悪魔のような毒婦。憎いエミリー」

「おいで」

 マイケルは、フランス窓を開けた。

「だめよ、マイケル。喉に悪いわ」

 警官ともみあっていたファン達は、マイケルの姿を見つけて、歓声をあげた。

「マイケール!」

 マイケルは手を振った。彼は、エミリーを自分の傍らに引き寄せると、皆に見えるように、彼女の頬にキスをした。

「やめて、マイケル!」

 ファン達が口々に叫んでいた。

「マイケルを返せ、エミリー・ビクスン!」

 マイケルは、何かを言おうとしていたが、声になっていなかった。ファン達は騒ぐのをやめ、マイケルを凝視していた。警官達もマイケルを見ていた。誰一人、声をあげなかった。

 マイケルの喉から、細い笛のような声が、風のように人々の間を吹き抜けた。

「アイ、ラブ、ユー……」

 女の子達は泣き出していた。今までに歌ったどの歌よりも、マイケルの声には、『想い』がこめられていた。その想いは、四方を駆け巡り、皆の心に届いた。

「愛してるわ、マイケル!」

「早く、よくなって!」

 マイケルは、ファンの一人一人にうなずいた。そして、エミリーを強く抱いた。

「アイ、ラブ、エミリー……」

 ファン達には、わかった。マイケルが、自分達を愛していること。そして、エミリー・ビクスンを愛していることが。









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