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闇に響く声  作者: まきの・えり


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 エミリーは長く家を空けていた。トゥエインの出産前は、ほとんどトゥエインの家に泊まり込んでいた。家に帰ると、トミーが家の前で待っていた。珍しいことだ。

「お帰り、ダーリン。待ちかねたよ。君のいない我が家は、まるで廃墟のようだ。家が生気を失っていた。暗い牢獄みたいなもんだ。太陽が再び地平線に姿を現しただよ、美しいエミリー。また一段ときれいになったね」

「ありがとう、トミー。優しいのね。寝不足でひどい顔をしているのに。可愛い赤ちゃんよ、女の子なの。名前は、もう知っているわね。ほんとに、天使みたいに笑うの。一人で微笑むのよ。まだ、何にもわからないのに」

「きれいだよ、エミリー。君がそんなに子供が好きだとは知らなかった」

「私もよ、トミー。赤ちゃんがあんなに可愛いなんて、思ってもみなかったわ。抱くのが怖かったわ、あんまり小さいんですもの」

「そうかい、ハニー。で、誰に似ている?」

「瞳と髪がマイケルに。顔立ちと口はトゥエインに」

「私には、どこが似ていた?」

 エミリーはトミーを見た。驚きのあまり、目を見開いて、ことばが出て来なかった。

「聞こえなかったようだね、エミリー。コニーは、私にそっくりだったんじゃないのかね」

「何を……」エミリーは口ごもった。

「何を馬鹿なことを」

 トミーは、ゾッとするような声で笑っていた。彼は待っていたのだ。マイケルとトゥエインの赤ちゃんの誕生を。ずっと、ずっと、待っていたのだった。

「君には、ほとほと感心したよ、エミリー。もっと取り乱すものだと思っていた。二人の家庭を破壊するほどにね。君の美しい献身的な愛情は、すべての女の鏡だ。君は、私の誇りだ。君のお陰で、マイケルとトゥエインの幸福は、最高に高まっている。わからないね、お前だけは」

「私は彼らの味方よ。私は、幸福の味方なのよ」

「長い期間だったね、エミリー。私にしては珍しく、時間をかけたものだ。

 最高のシチューだ。良い材料を精選し、形を整え、下準備に時間をかけて、長い長い時間を費やして、じっくり煮込んだんだ。トーマス・ビクスン特製の最高級シチューだ。さて、味はどうだろう。スパイスもきかせてある。特製のエミリースパイス。やっと、仕上げの時が来た」

「あなたを殺してやるわ、トミー。あなたが彼らの幸福の邪魔をするつもりなら、あなたを殺して、私も死ぬわ」

「美しい心中というわけかい? 願い下げだね。残念ながら、君に殺されるような私じゃない。それに、君には私を殺せない。汝、殺すなかれ。一つには、愚かな信仰心のために。そして、もう一つ。君は私を、残念なことに、愛しているんだ。君は、私の奴隷だ。永遠にね」

「愛は死んだわ。いつの間にか消えて無くなってしまっていたわ。もう、かけらも残ってはいない。幸福も、平和も、安らぎも。大切なものは、皆、死んでしまったわ。だから、私は自分には持てない幸福を守りたいのよ」

「驚いたね。博愛の心に燃えるエミリー・ビクスン。汝の敵を愛せよ。右の頬を打たれれば、左の頬を差し出す。おお、エミリー、我と我が心に、問うてみよ」

「ふざけないで、トミー。私は、本気よ」

「君には、幸福へのパスポートをあげよう。ミスター・ビクスンは、かつての愛人と自分の娘を取り戻し、夫人は、夫の不実を涙ながらにマイケルに訴える。

 愛するエミリー。マイケルは、自分の隠された感情に気づく。

 おお、エミリー、僕が愛していたのは、あなただけだったんだ。

 君が望むなら、その幸福は、君のものだ。自分の心をよく覗いてみるんだ、エミリー。君の不幸の原因を。

 イエス、とお言い。残りの人生を、無駄に過ごさないように」

「悪魔みたいに頭がいいのね、トミー。悪魔に手を貸すつもりはないわ。彼らは、私の夢なのよ。生きる希望なの。あなたには、そんな気持ちはわからないでしょう? 彼らは、すべての良いものを持っている。誰にも奪うことはできないのよ。身体を縛り、建物を壊し、肉体を滅ぼすことはできても、心を殺すことはできないのよ、トミー。

 あなたの力は、形あるものに及ぼす力にすぎない。魂は、自由だわ。愛は、決して、死なない。

 あなたにできるのは、せいぜい、汚い中傷で人の心を傷つけるくらいのことよ。そして、気に入らなければ、殺すのね。怖くないわ、あなたなんて。

 肉体が滅びれば、あなたには何も残ってはいない。ただの死体しか。

 私やマイケルやトゥエインの想いは、肉体が滅びても、生きていくわ。いつまでも、誰かの心の中で、同じ想いとなって」

 トミーは、エミリーの腕をつかんだ。怒りが、彼の全身を震わせていた。

 自分の奴隷、自分のおもちゃ、自分のペットが、今、彼に反旗をひるがえしていた。殺してもあきたらない。

 ある意味で、彼女を愛していただけに、エミリーの反抗は、彼の存在全体を揺るがせていた。

「お前はいったい、何様のつもりだ。誰に、ものを言っているんだ」

「トーマス・ビクスンよ、私の夫の。私は、ミセス・ビクスン。あなたの弱みをすべて握っているわ。ミスター・ビクスンとビクスン帝国の秘密をすべて」

 トミーは、恐ろしい目で、エミリーを見た。

「お前は、自分が今、何を言ったのか、分かっていないようだな。

 お前は、自分とマイケルの死刑執行の書類に、サインしたのだ。

 お前次第では、まだマイケルに生きる望みは残っていた。毒婦エミリーの奴隷となり、恥辱にまみれて生きていく。それが、唯一の生きる道だったのだ。

 無知なお前に、教えてやろう。

 愛や信頼が、音立てて崩れることを。一瞬にして、幸福が不幸に変わることを。肉体と共に、心も滅びることを。

 そして、私が、肉体の滅びた後までも、永遠に生き続けることを。

 滅びるのは、お前達だ。ミスター・ビクスンではない。

 お前に、地獄の苦しみを味あわせてやろう。目の前で、愛する者達を苦しめてやる。生まれて来なければ良かった、と思わせてやる」

「もう、充分、思っているわ。神が、あなたを作りたもうたことを、残念に思うわ」

「愚かなことを。私が、神だ。お前達の神の無力さを思い知るがいい。

 私が生まれると同時に、お前達の神は、私の前にひれ伏し、煙のように消えて行ったのだ」

「あなたのお母様は、優しくて、信心深い方だったと聞いているわ」

「忌まわしい女だ。私が、みずから処刑した。父を裏切り、私を産んだ。女の胎内からなど、生まれたくはなかった。虚しい仮りの住み家だ。

 お前は、あの女に似ている。口では、神への愛を唱え、心は神を裏切っている。

 この世の醜いものは、すべて女の作ったものだ」

「あなたもそうよ、トミー」

「私は、私自らが作った。君に見せてやろう、エミリー。あの女の死んだところを。

 あの女が、肉体の苦しみに負け、ついには、神を呪いながら、死んだ場所を」


 トミーの部下達が、二人の周りに集まってきていた。トミーは、顎で彼らを追い払った。彼は、エミリーの腕をつかんだまま、家の中に入って行った。

 トミーの寝室の奥には、地下に降りる階段があった。少年達が入ったまま、二度と帰って来ない、トミーの寝室。エミリーは、まだ一度も、彼の部屋の奥を覗いたことが無かった。

 自分の番が来た、とエミリーは思った。

「さっきの元気は、どうしたんだ、エミリー」

 トミーは笑った。

「こんなところで、お母さまを?」

 嫌なにおいが鼻をついた。湿った地下室のにおい。そして、多くの使者達のにおい。

 冷たいコンクリートの床。あるのは、金属製のベッドだけ。

「震えているんだね、エミリー。やけにおとなしいじゃないか」

「トミー、長く苦しめないでね」

「可愛いことを言うじゃないか。まだ、殺しはしないよ」

「なぜなの? 覚悟はできているわ」

「そんな覚悟は、すぐに後悔に変わる、すぐにね」

「私をどうするつもり?」

「死ぬまで、ここに閉じ込めてやる。そして、お前の目の前で、トゥエインを犯し、マイケルの喉をかき切ってやる。どうした、エミリー。神に救いを求めないのか、このトーマス・ビクスンに。

 お前はここにいて、お前の愛する者達が地獄に落ちて行くのを、黙って見ているだけだ」

「トミー、いいことを教えてあげる。私、一度炎に焼かれてみたかったの。私、最後まで、声を立てないわ。約束する。だから、私を焼き殺してちょうだい、今すぐに」

「なかなか魅力的な申し出だが、今は遠慮しておこう」

「お願いよ、トミー。今殺して欲しいの」

「愛する者達の苦しみを、見たくないと言うわけか。さっきの大層なことばは、一体どこに消えたんだい? もっと自分のことばに自信を持つんだ、エミリー。肉体が滅んでも、魂が生き続けることを、私にも教えてくれないか」

「死ぬわ、自分で」

「そうはさせない。君には、全てを見届ける責任がある。自分のことばの後始末だ。今、楽にさせる訳にはいかないよ」

「トゥエインに約束したの、私がコニーの面倒をみるって。二人がハネムーンに行く間。あなたにマイケルの休暇を頼んで、私がナースと、コニーをみているって」

「泣くことはないよ、エミリー。コニーは、私が面倒をみてやるよ。私の娘。大きくなれば、母親に似て、さぞ美人になることだろう。もし、マイケルに似ていれば、私の花嫁にしてやろう。

 私が、コニーを、育てるよ、自分の思い通りにね」

「神様!」

「いつまで、続くか」

 トミーは、エミリーをコンクリートの床の上に、押し倒した。彼女に後ろを向かせると、トミーは彼女の衣服を裂き始めた。彼の口には、満足の笑みが浮かんでいた。楽しい作業だった。

 最後のエミリー。

 彼女の衣服を下着まで残らず裂いてしまうと、トミーはエミリーの顔を眺めた。

「美しい女だ。最高の肉体だ。理想のプロポーションだ。これを失わなければならないのか。

 おかしなことだ。お前を気に入っていた。ある意味で、愛していたと言ってもいい。残念なことだ。非常に残念だ。

 目も鼻も口も、顔も手も脚も、何もかも気に入っていた。お前の心さえ、嫌いではなかった。

 これが、最後だ、エミリー。最後の愛の交歓だ。この冷たい床の上で、一度お前の身体を冷やしてやりたいと思って来た。お前をあの金属のベッドに縛りつけ、一日眺めて暮らしたいとも」

 トミーはエミリーの口に、手を差し入れた。一瞬のことだった。エミリーはもがき、トミーの指から血が流れた。

「悪い歯だ。しかし、舌を嚙み切るには、力が足りなかったようだね。そう逆上するな。最後の快楽を与えてやろうと言うんだ」

 トミーは、エミリーの口の中に,裂いた衣類の一部を詰めた。

「あとで、悪い歯は、外してあげよう。それとも、ずっと口を縛っておこうか。これでは、キスもできないね。純粋な快楽とは言い難い。待っておいで、いい薬がある。君の身体から、力を抜いてあげよう」

 トミーはエミリーの口から布を取り出すと、彼女の口の中に、何かをスプレーした。

「これで、一時間は大丈夫だ。手軽な麻酔さ」

 トミーはエミリーの唇にキスをした。麻酔薬の味がした。

 彼は、エミリーの髪を解いた。長く真っ直ぐな髪が広がった。彼は髪をつかみ、エミリーをうつぶせにした。エミリーの身体を眺めながら、彼女の中に入って行った。エミリーは彼を迎え入れていた。彼は、思い切りエミリーを攻めた。

「これでも声をあげないね。しかし、時間の問題だ。身体の方が正直だ。もう音を上げている。呼吸が早くなってきた。君の忍耐力を崩すのは、私の喜びの一つだった。フフフ、もう耐えられない。ハハハハハ、泣き叫べ。腕をねじり、身体中に歯と爪の跡をつけてやる。望み通り、少しずつ炎で焼いてやろう、少しずつ」

 エミリーは意識を失っていた。気がつくと、全裸のまま、ベッドに縛りつけられていた。両手、両足を大きく広げ、口には細いロープが巻かれていた。身体のあちこちが痛んだ。

「気がついたかね、エミリー」

 トミーが再び姿を現した。

「いい眺めだ」とトミーは言った。エミリーは身をよじらせようとしたが、指の一本も動かすことができなかった。声も出せなかった。トミーはエミリーに近づくと、手のひらで身体中を撫でた。エミリーの身体に戦慄が走った。

「敏感な身体だ。目も手も楽しませてくれる」

 トミーはエミリーの手足を思い切り引っ張った。ベッドがきしんだ音を立てた。

「大丈夫のようだな。しっかり縛りつけてある。君には、水や空気のようなイメージがある。どこからでも抜け出してしまいそうな。

 多くの男に、君を提供してきた。私には、君の美しさと素晴らしさを、より多くの人に知ってもらう義務がある。毎日違う男に、食事を運ばせよう。君の美しさに素通りする男は、私に言いつけてくれ。君の目の前で、美に鈍感なその目をえぐり出してやる。鼻をそぎ落とし、口を埋め、その手足を切り刻んでやろう。この場所は、君のために男達の屍で埋まることだろう。君だけが生きて、彼らの最期を見届けるんだ。死者のオートメーション工場だ。

 君と私の天国は、男達の地獄に変わる。たくさんの思い出を胸に抱いて、君は天国に旅立つのだ。

 良い旅を、マダム。私は、自分のシチューの味をみてくる。心配しなくても、結果は教えてあげるよ。いつか、ね」

 エミリーは不自由な姿勢に耐えていた。

 トミーの言った通り、色々な男が、彼女に食事を与えた。男達は、優しかった。皆、悲しい目をしていた。トミーの忠実な部下達だ。エミリーの運命を本能的に知っていたのだ。

「痛くありませんか、マダム」

 最初の男は、エミリーの手足の痛みを気づかいながら、彼女の身体に入ってきた。無理な姿勢だった。彼が動く度に、エミリーは、のけぞった。苦しかったのだ。その痛みは、トミーの与える苦痛と違っていた。

 エミリーから離れると、男はエミリーの涙を拭いた。

「すみません、マダム。ミスターの命令なんです」

 彼はエミリーの口からロープを外すと、持って来た器具で、エミリーの口を広げて固定した。彼は、慣れた手つきで器具を扱っていた。片手で彼女の頭を押さえ、気味の悪い振動音を立てる器械で、彼女の歯を削った。エミリーは目を閉じた。歯を通して身体中の神経に、振動が伝わった。

「これで、あなたの舌は安全です」

 最後に、エミリーの歯を指で撫でると、男は彼女の口から器具を外した。彼は冷たい視線で、エミリーの顔を見回した。トミーのような視線だった。

「笑ってみて」と男は言った。

「笑えないわ」とエミリーは答えた。男は微笑んだ。

「そうですね。でも、あなたの美貌には何の変りもない。安心しました」

 エミリーは、再び一人で取り残された。

『神様、早く苦痛のないところへ、あなたの御もとへ。マイケルとトゥエインとコニーをお守りください』

 エミリーは、トミーの考えを追っていた。彼は、トゥエインに近づくつもりだ。どうやって?

 トゥエインはマイケルを愛している。トミーの付け入る隙はない。エミリーは、トミーの笑いを思い出した。

『コニー』

 コニーの名前で、トミーはトゥエインに近づくのだ。トゥエインはトミーに勝てるだろうか。

『トゥエインはマイケルを愛している。マイケルに、トミーとの過去を知られたくないんだわ』

 すべては、コニーに帰っていく。

『可愛いコニー。マイケルとトゥエインの娘』

「マダム、お食事です」

「いらないわ」

「食べないと、口をこじ開けて、無理にでも押し込みますよ」

 まるで身動きのできない病人だった。食べさせられ、排泄させられ、セックスを与えられる。苦痛と屈辱が何度も通り過ぎていく。手と足は感覚がマヒしていた。背中の痛みも感じなくなった。生きながら、じわじわと一部分ずつ死んでいくのだ。

『トゥエイン、負けちゃだめよ。無事でいて、マイケル。コニーを守って、アン。私の選んだ最高のナース』


 誰かが、枕元で泣いていた。エミリーの頬に水滴が落ちた。

「誰?」

 相手は黙って立ち去ろうとしていた。

「ジミー? ジミーなの?」

 ジミーは十五歳の少年だった。トミーに見込まれている一人だ。

「何もしないと、トミーに殺されるわ。私はかまわないのよ、もう慣れたから」

「マダム」

 ジミーはエミリーの顔を見て、声を上げて泣いた。

「こんな、ひどい」

「いいのよ。優しいのね。優しいと、トミーのところでは、生きていけないのよ。自分を守りなさい」

「手と足から血が。ここからも、ここからも」

「大丈夫よ。もう何も感じないわ。さあ抱いて、自分のためよ」

 ジミーは泣きながら、エミリーの身体に入ったが、彼には続けることができなかった。

「待っていて、マダム。ロープを切ってあげる」

「バカなことはやめなさい、ジミー。私は自分で、何とかできるわ。それより、お水を一口」

 ジミーは口移しで、エミリーに水を飲ませた。

 エミリー・ビクスンは、初めて会って以来、彼の憧れだった。ミスター・ビクスンを恐れ、敬い、愛しながらも、マダムに対する思慕の情は、それとはまた違ったものだった。

「やめて、ジミー。よけい痛くなるわ」

 ジミーは何とか、エミリーを縛っているロープを緩めようとしていた。

「ナイフがないと、切れない」

「ジミー、見つかったら殺されるわ。あなたが殺されるところなんか、見たくないのよ」

「でも、このままでは、マダムが死んでしまう」

「ジミー、優しい気持ちがあるなら、あなたのベルトを貸してちょうだい。私にはもう何もできない。祈ることしか。祈りは四方の壁に跳ね返る。トミーの言った通りだわ。このままいれば、いつか神を呪うでしょう。その前に、静かに眠りたい。あなたのベルトを首に巻き、ベッドの一部に結び付けて。あなたは、そのまま行けばいい。罪の意識に悩むことはないわ。いずれは殺されるのよ。少し時間が早くなるだけ。あなたの知らない間に、私は静かに眠ることができるのよ」

 ジミーは、自分のベルトを手に持った。簡単な仕事だった。それで、マダムの苦痛がなくなるのだ。

「早く、ジミー」

 彼はエミリーの首にベルトを巻きつけた。彼は、再び泣いた。

「僕にはできない」

「できるわ、ジミー。泣かずにやるのよ」

「マダム、今は無理だけど、もう少し待っていてください。僕も、どうせ長くは生きられない。向いていないんです、僕には。ミスターに気に入られ続ける自信がない。どうせ死ぬのなら、マダムを助けるために死んだ方がいい」

「ありがとう、ジミー。待っているわ。逃げることが出来たら、あなたも一緒よ。ここに置いてはいけないわ」

 ジミーはエミリーの頬にキスをした。彼の表情からは少年らしさが抜け、一人前の男のように見えた。

「それまで、無事でいてください、マダム」とジミーは言った。

 エミリーはじっと天井を見ていた。微かな希望が、胸に宿っていた。彼女は、心の中でジミーに謝った。彼との会話の途中から、自分がジミーの心を操っているのがわかっていた。彼は、トミーの部下で居続けるには、心が優しすぎた。


 何日目かに、ジミーが再び姿を現した。

 彼は、落ち着いた足取りで、エミリーのそばまで来た。黙ってナイフを取り出すと、彼女のロープを切った。まず両足を、ついで両手を。エミリーは、しばらく動くことができずにいた。ジミーはエミリーを抱き起こした。

 今まで静まっていた痛みが一時に襲ってくる。

「マダム?」

「大丈夫よ、ジミー。ありがとう」

 ジミーは手早く、エミリーの傷の手当てをした。

「これを着て、マダム。手に入れるのに苦労しました」

 ジミーは初めて笑った。奇麗な少年だった。彼は、まだうまく動けないエミリーを手伝って服を着せた。下着を取り出す時、彼は少し赤くなった。

「忘れていました。どうやって着せればいいのか、わからなくて」

「いらないわ、そんなもの」とエミリーは言った。

「それだけ身につけさせて。まさか、パンティなしでいるわけにはいかない。でも、今までのことを思えば、なくても平気よ」

 サイズはエミリーに合っていた。

「ピッタリだわ。よくわかったわね」

「そりゃあ、僕にもわかりますよ」と彼は口ごもった。

「ありがとう、ジミー。一緒に行きましょう」

「行ってください、マダム。僕なら大丈夫」

 「だめよ。残っていては殺されるわ」

 ジミーは淋しそうに笑った。

「覚悟はできているんです。マダム、キスしてかまいませんか?」

「え? ええ、いいわよ」

 ジミーはエミリーに近づき、エミリーは彼の肩に両手をかけた。ジミーが身をかがめ、エミリーは、彼のまだ幼さの残る唇にキスをした。

「私を守って、ジミー。一緒に行ってくれるでしょう?」

「無理です、マダム。僕は、ミスターから逃げることはできない。ミスターを裏切ってしまったんです」

「ジミー、何をするの」

 エミリーは叫んだ。一瞬のことだった。彼女はジミーに駆け寄った。エミリーを愛した心優しい少年は、自分の喉を切って、死んでいくところだった。

「なんてバカなことを。なんてバカな」

 少年の喉から噴き出す血が、エミリーの手を染め、服を染めた。

 エミリーは声を出さずに泣いた。自分が殺したのだ。まだ若く、未来のある若者を。

「さよなら、ジミー。また会いましょう。いつか天国で。神様が、あなたを天国に入れないなら、一緒に地獄に行きましょう」


 エミリーは、足音を忍ばせて階段を上がって行った。トミーの寝室への出口を開けた時、自分の運命もこれまでかと思った。話し声が聞こえていたのだ。マイケルの声のように思えた。

『でも、まさか、なぜマイケルが?』

 トミーの寝室には、誰もいなかった。話し声は、書斎から聞こえていた。

「マダムに会わせてください」

 マイケルの声だった。エミリーは神に祈りながら、二階への階段を上っていた。自分の寝室に入ると、服を着替え、手と顔を洗った。

 サイドテーブルの引き出しには、まだダイヤつきのデリンジャーが入っていた。

 エミリーは、神に感謝した。これで、間に合うかもしれない。

 上った時と同じように、エミリーは足音を忍ばせて、階段を下りた。書斎に近づきと、話し声が大きくなった。書斎のドアが、おあつらえむきに細く開いているいるのがわかった。

「説明してください、ミスター・ビクスン。これはどういうことなんです」

「さあね。私には何のことかわからないね」トミーが答えていた。

「マダムは、どこです。マダムに会わせてください。直接マダムから話を聞きます」

「私はここよ、マイケル」

 エミリーはドアを開けると、姿を見せた。片手は、ポケットの中の拳銃を握りしめていた。

「ひさしぶりだね、ハニー。どこに、くもがくれしていたんだい? マイケルがずっと君を探していたんだ」

 トミーは、エミリーに微笑んだ。彼女のタイミングを心得た登場の仕方に、ひどく満足していた。彼はどんな時でも、劇的効果の信奉者だった。

「君の書いた手紙のことで、マイケルが話があるらしい。君が現れてくれて助かったよ」

 マイケルは、不思議そうにエミリーを見た。

「何かあったのですか、マダム。顔色が悪い」

 エミリーは髪を長くたらし、この世のものではないかのように、ドアで身体をささえて立っていた。

「私は、手紙なんか書かないわ」とエミリーは言った。彼女の手には、まだジミーの血の跡が残っていた。エミリーは、ポケットのピストルを握る手に力を入れていた。失敗は許されない。うまく指が動いてくれるだろうか。

 マイケルは、エミリーに手紙を差し出した。エミリーは片手でそれを受け取った。

 内容は、想像がついていた。


「親愛なるマイケル

 この手紙を書くにあたっては、随分悩みました。一つにはあなたのために、もう一つにはコニーのために。そして、私はトゥエインをずっと妹のように考えてきました。

 トゥエインを愛し、信頼していただけに、私の苦しみと悲しみは、いかばかりのものだったでしょう。どうぞ、お察しください。

 トゥエインと夫との密かな関係は、あなたとの結婚前からずっと続いていたのです。そのことを、夫から告白され、そして、重大な秘密を打ち明けられました。

 コンスタンスは、夫の子供だということを。

 ひどいショックでした。私は子供を持てない身体です。夫が許さなかったのです。その夫に子供が。それも、妹のようなトゥエインに。

 その瞬間、私は自分の本当の気持ちに気がつきました。自分がずっと、あなたを愛していたということに。

 あなたへの永遠の愛を胸に抱いて、私は遠くに旅立ちます。どうしても、トゥエインを許すことができません。一時は、夫と彼女を殺して、自分も死のうとまで思いました。でも、今では、すべては神のおぼしめしなのだと考えるようになりました。あとは追わないで。

                         永遠の愛に死ぬエミリー   』


 エミリーはトミーをにらんだ。

「悪魔」と彼女は言った。

「大した想像力ね。誰でも私が書いたものだと思うわ。マイケル、気の狂った男の妄想よ。ただの中傷だわ。信じたりしなかったでしょう?」

「ええ、マダム」とマイケルは言った。しかし、彼の顔から不安の影が消えたわけではなかった。

「私から説明しよう、マイケル」とトミーが言った。

「エミリーの演技は、実にひどい。もとは売れない女優だったんだ。私の教えた基本を、少しも理解できていない。こういうことなんだよ、マイケル。長い物語だ。しかし、これが話というものだ。

 君も知っているだろうが、私は、妻の不実に苦しみ続けていた。そんな時、トゥエインに出会ったんだ。君にはわかるだろう? 彼女は若き日のエミリーにうり二つだ。私はトゥエインを愛し、彼女も私を愛した。

 私は子供が欲しかった。しかし、プロポーションが崩れるという理由で、妻は子供を作ってはくれなかったんだよ、マイケル。

 そのうちに、君とトゥエインは、恋愛し結婚した。私は心から、トゥエインの幸せを願っていた。コニーのことなんか、言うつもりもなかったんだ。

 それを、この悪魔のような女は、どこからか秘密をかぎつけ、君に手紙を書いたんだ。本当にひどい女だ。他人の幸福が我慢できないんだ。

 私は、トゥエインを心から愛している。トゥエインもそうだ。

 私は、トゥエインとコニーのために、この女をずっと地下室に閉じ込めておいたんだ。これ以上、私の愛する者達を苦しめないように。

 いつの間にか抜け出して、そんな手紙を書いている。悪魔のような女だよ、エミリーは。本物の悪魔でさえ、彼女には尻尾をまいて逃げ出すだろうよ。

 私は、トゥエインを愛しているんだよ、トゥエインとコニーを」

 トミーは手元にあった機械のスイッチを押した。部屋中に機械的な音声が流れた。

「これは、昨日のトゥエインだ。彼女は家にはいなかったはずだ」

「トミー」

 機械の音に混じって、聞き覚えのある声が聞こえていた。

「愛しているわ、トミー。あなただけね、本当に私を愛してくれるのは。愛を見誤っていたの、ごめんなさい、トミー。頭がどうかしてたんだわ、エミリーを信じるなんて。コニーは、あなたの子供よ。マイケルの子供なんかじゃない。愛していたわ、マイケルを。信じていたわ、エミリーを。でも、もういいの。私には、あなたとコニーがいるんですもの。ああ、トミー、やめて。頭が破裂しそう、あまりの快感に。これ以上はやめて。気が変になりそうよ……」

 後は物音だけだった。音声は不鮮明だった。

 マイケルは、蒼白な顔で立っていた。

「トゥエイン」とマイケルはつぶやいた。

「しっかりするのよ、マイケル」とエミリーが言った。

「トミーが企んだことよ」

「ありがとう、マダム。悪魔の正体が見えました」

 マイケルは一歩踏み出すと、思いもかけぬ素早さで、トミーの顔面にアッパーを食わせた。トミーには、かわす間がなかった。

「それは、トゥエインの分だ」とマイケルが叫んだ。トミーの唇が切れ、トミーは手の甲で口を拭った。

 マイケルは、もう一度トミーを殴った。トミーは、椅子の後ろにひっくり返った。思いがけない攻撃に、トミーはうろたえていた。

「それは、マダムの分だ」とマイケルは言った。

 トミーの部下達が集って来た。

「乱暴だね、マイケル。生まれがわかるよ」

 トミーの部下達がマイケルを押さえこんだ。

「彼を放すのよ」とエミリーは言った。

 彼女の手には、デリンジャーが握られていた。

「マイケルを放さないと、撃つわよ」

 トミーの部下達は、マイケルを放して後ろに下がった。

「エミリー、危ないものは、私に渡すんだ」とトミーが言った。トミーは、エミリーに近づいていた。

「トミー、バカな真似はやめて。私は、本気よ。本当に、撃つわよ」 

 トミーは、笑った。

「君に、私は撃てないよ、エミリー」

「やめて、トミー。本当に撃つわ」

 トミーは、エミリーに近づいた。

「トミー!」

 エミリーは叫んだ。同時に、引き金を引いた。銃声が聞こえた。

 トミーは胸のほこりを払うと、エミリーのところまで歩き、彼女の手から銃を奪った。彼は、銃身でエミリーを殴った。

「お前の手の届くところに、実弾の入った銃を、置いておくと思うのか」

 トミーは、二度、三度とエミリーを殴った。

「ミスター・ビクスンを撃つとは、いい度胸をしているよ。誉めてやろう、エミリー。しかし、君の命もこれまでだ。連れていけ」とトミーは部下に命じた。

「いつものところへ」






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