椅子から立てない
その椅子に座った私は、もう立てなくなった。
これはひとむかし前に流行った「人をダメにする」超絶リラクゼーション的な椅子ではない。座り心地はいたって普通。座面にはクッション性の低い布、背もたれは低め。パイプ椅子よりは少しだけマシな一人がけ用の椅子。
でもなぜか、立てない。それだけは確かだった。
まるで催眠術師に「あなたの脚だけ力が抜けます」と暗示をかけられたように、腰から下が他人のものみたいに沈んでいる。試しに拳を握ると、指の関節が白く浮いた。手には力が入る。足もばたつく。けれど、“踏ん張る”という一点だけがどうしてもできなかった。
肩を前に出そうとすると、何か硬いものにがちりとつかえた。胸の前で金属がこすれるような、かすかな音がした。まさか……と思い腹部を見ると、腰にはシートベルトが閉まっていた。
「なんだ、これのせいか」
そう思ってバックルを外した。しかし立てない。むしろ、立とうとした瞬間に脚の奥がかすかに震え、力があっという間に吸い取られていく。
「どうしてシートベルトなんて?」
疑問がひとつ増えたと同時に、記憶がふっと戻った。この椅子は──飛行機の座席だ。
周囲を見渡した途端、呼吸が止まった。
雲が高速に“昇って”いた。いや、違う。景色ではなく私が落ちている。
気づいた瞬間、耳の奥の膜がぱんと破れそうに詰まり、胃袋が背骨に貼りつくように引き上げられた。肋骨の一本一本が内側から浮く。
理解が、突然“降りてきた”。
地面は、すぐそこ。
私は衝撃に備えて全身を固めた。力を入れることだけは、なぜかできる。目をつぶり、息の通り道を細くして祈る。
──次の瞬間、
世界がゴム玉のように弾んだ。
ぐわん……ぐわん……。
身体が空と地上を行き来し、視界が上下に裏返る。血が喉元まで逆流してくるような吐き気に耐えながら、ほんの少し目を開けた。視界は斜めに歪み、空が海のようにうねっていた。
「お疲れさまでした。今、外しますね。そのまま座っていてください」
声が遠くで揺れている。
私は椅子に座ったまま行う、逆バンジーのアトラクションに乗っていたのだ。どこかで限界を越えて、意識を落としてしまったらしい。
係の人が近づいてくる。
何か言いかけた唇が止まった。喉がひくりと動き、顔色がさっと青ざめる。視線が、私の腰のあたりに釘付けになった。
「えっ……ちょっと……」
震えた声が空気に溶けた。
私は自分の身体に目を落とした。
そして理解した。
シートベルトが、外れている。
──私は座ったまま、立てなかった。




