曇り空と、制服の向こうの君
『曇り空と、制服の向こうの君』
序章:曇天と、後悔と懺悔
小さいころからマイペースで変わり者と言われ、相手の心情を読むことは得意だが自分の感情を表に出すのは苦手で表情が乏しく、何を考えているかわからない子とよく言われた。思春期になってもあたりまえに人付き合いは苦手で、恋愛などしたためしはない。女の子に興味はあったが、いつも愛情・恋愛というものに接するとどう対応してよいかわからず、とりあえず逃げて遠ざけた。それでもときおり胸の奥に灯るほのかな、愛だの恋だのという目に見えない曖昧模糊な感情の帰結は、当然のようにいつもむやみに自分や他人の心を傷つけた。
その日は朝から高速道路を走る車を運転していた。車は快調に走り、天気は曇り空だったが気分がよかったのでラジオから流れる流行り曲に合わせて「麦わらの~」などと口ずさんでいた。ふいに雨が降ってきたが、それほど強くない雨だった。車のワイパーが作動しフロントガラスの雨を弾き飛ばす。ラジオから流れる音楽が変わり、ケツメイシの「涙」が流れだす。この曲を聴くと、よくこの曲を聴いていた青春時代を思い出す。無知で無気力だった中学生時代の思い出は後悔と懺悔、未熟で自己保身しか考えていなかった自分への嫌悪感に満ちている。
さびのリズムに乗ってセンチメンタルな歌詞が流れだすと気だるい今日の空模様と相まって、過去の感情にどんどんと同化していき、自分が今さっきまでどんな感情でいたのかを思い出すことが困難になっていた。 あれは中学3年生の夏、生まれて初めてラブレターをもらったその日は、今日と同じように気だるい、やけに熱く湿った日だった。
第一章:ハンギョドンのラブレター
当時流行っていた「ハンギョドン」というキャラクターのかわいらしい封筒が家の郵便ポストに無造作に入っていた。宛名は自分のフルネームが書いてありハートのシールで封がしてある。どこからどう見てもラブレターそのものが届けられていた。発見したのが自分で本当に良かったとそのとき思ったのをよく覚えている。母や弟妹にみつかっていたらと思うと背筋が冷たくなった。裏面の差出人のところに「1年3組 小山 さち」と書かれていた。中学1年生ということは2歳下の後輩。
名前は全く覚えがなく、全く知らない女の子だ。ドキドキしながら封に貼ってあるシールを剥がし封筒とおなじ「ハンギョドン」の便せんにびっしりと女の子らしい丸文字で書いてある手紙の内容を おそるおそる目で追った。
「お手紙ありがとうございます」から始まったこの手紙の内容は最初から意味が分からなかった。
「お手紙ありがとうございます」?いぶかしげに読み進めて気づいたのだが、この手紙は先に彼女に届いた「好意を持っている」「シャープペンシルを交換したい」と書いてあるボクが送った手紙に対する返事となっているらしく、彼女が好意をもたれてうれしいこと、前からボクのことを知っていること、シャープペンシルを交換してもよいことが赤裸々に綴られていた。ボクは年賀状以外に手紙を送ったこともなく、まったく身に覚えもない内容にしばし呆然とした。
この娘は、なにか盛大に勘違いをしているのではないか?別人と間違えているのではないか?と思い、
慌てて返事を書こうとしたが便せん、封筒などという洒落たものは持っていなかった。
どういうわけかわからないけど、とにかくこの勘違いもしくは人違いの現状はまずいと思い、急いで自転車に乗り、近所の文房具屋に急いだ。
店に入ると顔見知りの店主が「いらっしゃい」と声をかけてくる。「どうも」と適当に返事をして できるかぎり固い印象のレターセットを探した。無難な罫線のみの便せん、白い無地の封筒のレターセットを見つけレジにいる店主に出すと、「あれ、レターセットなんて買うの? 好きな子にラブレターでも書くのかい?」と店主の軽い冗談。ボクは顔が真っ赤になるのを感じた。動揺を出さないようにするのに必死で「そ、そそ ぞんなわけないじゃん」と返すのが精いっぱいだった。
家に帰り机に座って返事を懸命に考えた。オレが送ったとされている手紙に全く身に覚えがないこと、君のことを顔も名前も全く知らないこと、シャープペンシルを交換する趣味は全くないこと、たぶん別人と間違えているのではないか?と思うことなどを極力事務的に冷たい印象で書いて、勘違いを正す、人助けだと自分に言い聞かせて、後輩の女の子に手紙を送るという羞恥に満ちた行動を正当化しつつ
、これ以上その彼女の勘違いが手遅れにならないよう祈って、誰にも見つからないように手紙をポストに投函した。
第二章:芋掘りの真実と、憧れの理由
それからは気が気じゃなかった。返事が送られて来るのではないかと思い、その手紙を家族に先に発見されるのを心底恐れたボクは、学校から帰ってすぐにポストの中のチラシや封筒をチェックするのが日課となっていた。
一週間ほど経過し、その日もポストをチェックしたが、中にはなにも入っていなかった。ほっとした半面、冷たく突き放すように手紙を書いたし、勘違いで別人なんだから、もう返事は送ってこないかもしれないなと一抹の寂しさを胸に抱きつつ、玄関ドアを開けた。台所に立って夕飯の支度をしていた母親がふりかえりながら「おかえりー」という。
さらに母はなぜか上機嫌にこっちを見ながらニヤニヤと近寄ってきた。反抗期まっさかりのボクは 「なんなん キモい ウザい」と冷酷に告げて自分の部屋に向かおうとした刹那、母親の右手に見覚えのある紙片が握られているのが目に入った。
その紙片の青緑の丸みを帯びたキャラクターが見えた瞬間、頭から血の気が引くのがわかる。そのときのボクの圧倒的に真っ青な狼狽顔をみながら、勝ち誇ったような顔をした母親が言った。「最近 毎日ポストを気にして様子がおかしいと思っていたら、この女の子からの手紙を待っていたのかい ウヒヒ」と下卑た笑いを浮かべた。
これまでの人生で一番頭に血が上ったんじゃないかと思うくらい顔を真っ赤にしながら、手紙を奪い取って部屋に逃げ込んだ。こんなに急激に青から赤に、血が下がったり上ったりしたら、爆発して死んでしまうのではないかと思った。気持ちを落ち着けようとベッドに横になり頭を抱えてうずくまった「身構えているときは、死神は来ないものだ」というアムロの言葉が脳裏に浮かぶ。
どうして最悪の事態を予想するといつもその通りのことが起きるんだ。と理不尽な世の中に絶望し慟哭したが、同時に少しうれしい気持ちが浮かんだのが自分でも意外でとまどった。手の中で少し熱を帯びるくらいに握りしめた手紙を、まだ少し高揚しながら見てみる。前回と同じくかわいらしいハートのシールで封がしてある。期待と不安交じりの気持ちでおそるおそるシールを剥がして開いた。
同じ便せんに同じ丸文字で書かれていたのは 謝罪だった。
丁寧な謝罪のあとに書いてあったのは、最初に彼女が受け取ったボクからの手紙は彼女の友達がボクになりすまして書いたウソの手紙だったとのこと。そして彼女が小学校4年生のときに小学校の行事「若草タイム」という全校生徒参加の芋掘り会のとき、同じ班で班長だったボクのことを知っていたこと。そのときに芋を植える作業をていねいに教えてくれたこと。他の人はいやいややっていたが班長はがんばって作業をしていたので、自分の班の芋が他の班より多く大きく育ち、表彰されて褒められたことが印象に残っていて憧れがあったこと。その後、女友達と気になる異性の話をしていた時に名前を挙げてしまったことが書いてあった。
そして今回「なりすまし手紙」を受け取った彼女は舞い上がってしまい、すぐに返事を書いてボクに返送してしまった。友達としてはその手紙をもらったら相談されるだろうから、そのときにネタバラシしようと思っていたらしい。きっと軽い気持ちでふざけて手紙を送ったのだろう。
結局、ボクの返事をみてびっくりして友達に相談したところ、そんなにひとりで突っ走るとは思っていなくてと謝られたとのことだった。
小学校行事の「若草タイム・芋掘り」。たしか、縦割りで上の学年が下の学年を導く、どうでもいいような交流行事だった。6年生は強制的に班長をやらされただけで、別に立候補したわけでも、やる気に満ちていたわけでもない。覚えているのはただ一つ。秋に収穫した芋は自分の班のものになる。家が貧乏だった僕は、たくさんのジャガ芋が欲しくて、皆が嫌がる施肥や草取りを本気でやった。そのせいか、僕らの班は収穫量で3位に入り、表彰されたのだった。
まさか、あのときの貧乏性が、時を超えてこんな形でラブレターを運んでくるとは。3年以上前の、たかが芋掘り。しばらく考えてみたが、同じ班だったという彼女のことは、ぜんぜんまったく覚えていなかった。笑
しかし学校行事でいっしょになっただけの関係で来た手紙・・・少しは疑問に思え!と思った。
とりあえずここまで読んでいきなりわけわからん手紙が来た謎とシャーペン集め趣味の誤解が解けたのでよかったが、まだ少し熱い手の中には便せんが2枚残っていて、何考えているかわからない表情の「ハンギョドン」がこちらを覗いていた。
この2通目のラブレターは、謝罪のターンが終わり、ここから予期せぬ方向へ怒涛の展開を見せはじめるのだ。意を決して手紙の続きを読み進める。
彼女の友達がいたずらで送った「なりすました手紙」には、差出人の住所が入ってなかったため、彼女の同級生にいたボクと同姓のボクのいとこに、住所を教えてもらったとのこと。そのときにどんな人か聞いてみたがイメージ通りだった。
ボクにどんなイメージ持ってるのかわからないがこの彼女、へんに行動力があるせいで友達のいたずらに気づかずに、直接オレのところまでいきなり手紙送って来ちゃったんだろうな。
これ、完全にいとこはオレがラブレター送ったと思っているのではないか?そのへんも早く事情を説明しないと親戚中で話題になってしまう。
そして彼女は今回、ボクが送った返事の手紙を読んで、その文章や書いてある字、内容が真摯に対応してあったことに感銘を受け、ますます好きになってしまいました。今度、会ってシャープペンシルを交換したいと長々と綴られていた。
あの無機質で事務的な手紙と文章でどこをどうしたらますます好きになるん?と訳が分からなかった
3年前に芋の植え方を教えただけなのに?いろいろ考えてもわからず、正直かなり引いた。
いや、違うか。もしかすると彼女は僕が書いた冷たい文字の隙間から、僕の臆病さを見抜いたのかもしれない。僕の見られたくなかった部分を、彼女に掬い上げられてしまったような気がした。
正直怖かった。もう面倒だ。関わるのはもう嫌だと思った。
――どうせ、この夏が過ぎれば彼女の熱も冷めていくだろう。恋に恋する乙女ってやつだ。
僕はそう結論づけ、「彼女が勝手に作り上げた幻想が、時間の経過とともに勝手に壊れていくのを待つ」という、ひどくズルい手段を選ぶことにした。それが、僕の、精一杯の逃避だった。
手紙にあった「シャープペンシルを交換して使う」は女子の間では、好きな人と結ばれるおまじないとして実際に流行っているらしい。
手紙を読んだ後、人生で初めてかなり不気味だが一方的に一途な好意を向けられて少しうれしい感情が湧いてくることが意外だった。同時にまだ見ぬ彼女はどんな人なのか知りたくなっていたが、その日の夕食時に母親がニヤケ面をしながら、今までなんの女っ気もなかったボクに、ラブレターが届いたことを嬉々として家族に話す姿にあきれ、淡い気持ちはすべてふっとんでしまった。
母親も口止めしないと、よからぬ噂に信ぴょう性を与えてしまう。
第三章:シャープペンシルの決意
中学3年生の夏はいやがおうにも翌年の受験へ向かって走り出し、過去の成績、現在のテスト結果、将来の希望の3つでいびつな三角形を形成し、その質と形によって、なかば強引に自分の将来をすりあわせられていく。いままでどんな夢も描けていた自分は、様々な方面からレッテルを貼られ、そのレッテルに縛られながら、自分の意志とは関係のない色をつけられた地図を渡される。
夢と現実を突きつけられながらも、その地図にしるしをつけたり道を書いたりしながら、打算と妥協のなかで無常に時は流れ、年明けの受験、そしてすべては自分の努力、勉強へと収束していく。
あの衝撃的なラブレター事件があったことも、日常という名の濁流に流されて、薄れてきていた夏休み前日のこと、僕は、解放感という名の高揚を感じながら下校していた。友達と校門前で別れ、一人で家に向かって歩いていると公園の前の電柱のところで女子中学生が2人きゃっきゃっとはしゃいでいるのが見えた。ああ、あの浮かれようはまだ受験のプレッシャーのない後輩だな、なんて、少しだけ羨ましい気持ちで横を通り過ぎようとすると、1人が「あ、あの」と声をかけてきた。
うん!?
中学生は、なかなかしらない先輩に声かけられない学年間に絶妙な壁があるはずだけど、なんか困ったことでもあったのか?と思って「なに?」と極力優し気な、でも優しすぎない声で返答した。
「村山先輩ですよね 小山です」
その名前を聞いた瞬間にああ、ついにきちゃったかと思った。この娘の行動力ならおれの住所から下校経路で待ち伏せするくらいは余裕だろうなとどこかで納得していた。
「ああ、どうも・・」と、ぎこちない大人の挨拶をすると、はにかんだ笑顔をみせた小山さんは、まだぶかぶかの制服、肩くらいまでのショートカットの髪、丸眼鏡、丸顔、ひとことで表せば「ちびまるこちゃん」に出てきた「たまちゃん」からおさげ髪をとったような女の子だった。
「手紙、すみません。この子がなりすまし手紙を書いた友達でいっしょに謝りに来ました」と笑顔で伝えてきた。となりの子はぴょこんと頭を下げて「すいませんでした」とあやまった。「ああ、そんなに気にしてないからいいよ」と伝え、「じゃあ」といって離れようとすると小山さんが「あの、シャープペンシル・・・」とばつが悪そうな顔を向けてきたので、ああそういえば、この子おれとシャーペン交換したいんだったと思い出した。その顔があまりにも切実で あまりにもまだ小さい子供にみえて、ここで無碍に断るのはなんか、人生で間違った選択をするような気がした。
「今は使ってるやつしかもってないから、また今度でいい?」と伝えると、「あ、本当は今、先輩が使っているやつがいいんですが・・・」と言ってきたので「ああ、それでもいいけど、今渡すとオレが使うやつがなくなっちゃうからさ」とどうでもいいいいわけをした。
「わかりました じゃあ明日とりに行ってもいいですか?」と曇りのないキラキラした目で言われ、「ああ・・うん だいじょうぶ」とあきらめ半分の、でもどこかで安堵した顔で回答した。「やった!」と喜ぶ小山さんと友達を見送って、ボクはひとりで家に帰った。
僕の夢と現実とレッテルだらけの地図に、彼女は勝手に、一つ、小さなピンクの印をつけた気がした。
家に帰り、カンペンケースの中をみると正月に受験用に買った、一番手になじむ黒い製図用シャープペンシルが2本入ってる。お年玉で買ったそのシャーペンは数年前から同じものを使っており、愛用していたが1本1000円もする、当時のボクにとっては高級品だった。
少し迷って安いシャープペンシルを買って渡そうかと考えたが「まあいっか」と声に出し、明日小山さんが取りに来たら、これを渡そうと腹をくくった。新しいものを買うのもお金がかかるし、使っているやつが欲しいと言ってたし。
貧乏人はいつでも自分を削らなければ、人にものも与えられない。・・・なんて妙に切実なことを考えていた。
明日からは夏休みだが、はたして小山さんはいつ来るのだろうか。両親は仕事なので大丈夫だが弟妹には気をつけねばならん。と考えながら、明日制服ではなく私服を見られることに気づき、また新たな悩みを抱えた。よそ行きの服など持っていないため、悩んだところでどうなるものでもない。本日2度目の「まあいっか」と腹をくくって、今も着ている灰色のスウェット上下で出迎えることを決意する。
翌日は朝から快晴だった。いない両親に代って食パンを焼き、トランス脂肪酸をたっぷり塗りたくって弟妹に食べさせ、自分も朝食を食べていたところ、「ピンポーン!」とチャイムが鳴る。
は、はやい。まだ朝10:00だ。ぽかんとする弟妹を制し、玄関のドアをおそるおそる開けると髪にリボンをつけ、白い花柄のワンピースに赤い鞄をたすき掛けに下げた小山さんが立っていた。
「おはようございます!」という小山さんはまぶしい微笑みを湛えていて、ぶかぶかの制服を着ているときよりも少し大人びてみえた。「ああ、おはよー」弟妹に少し外に出ることを伝え、人目をはばかりながら近所の公園に向かう。家の近くにある公園は少し小さめでボール遊びもできないため、 少し行ったところにある大きな公園に、この辺のこどもたちは集まる。僕たちが向かうのは、誰もいない方の、誰も使っていない、小さな、静かな公園だ。
小さな公園のベンチに並んで腰をおろし、まず何を話したらいいかわからない。もじもじしてもカッコ悪いと思い、勢いで「はい。これ約束のシャーペンね」とまだ緊張の色が見える小山さんに渡す。
「あ、ありがとうございます!こっちが私のシャーペンです!」と小山さんはとまどいながらボクからシャーペンを受け取り、小さい袋を渡してくる。あ、忘れていたけど交換だから、ボクももらうんだったといまさらながら思い出した。受け取ったシャープペンシルは装飾こそないが白とピンクの色で一目で女の子用とわかるようなものだった。
内心「これはやばい。多分手にはなじまないし、ともだちにもみせられんから普段は使えん」と思ったが、女の子から気持ちをこめてもらったものだし、嬉しい思いも湧いてきて、「ありがとう 今年受験だからお守りだと思って大事にするよ」と伝えた。すると小山さんは真っ赤になって下を向いてしまった。あれ、思ったよりもいいこと言っちゃった?と、あとから反芻してみると、ああ、まるで恋人のようなセリフだった!と思いだし、自分も赤くなって下を向いてしまった。
小山さんは「わ、わたしも先輩のシャーペン大事にします!」と顔をあげ、もう嘘偽りのない真剣な顔で伝えてきた。僕は、その純粋な目を直視することができず、 照れ隠しで「そのシャーペンが一番手になじんで使いやすかったので使ってるやつだけど、ほんとは製図用なんだよ」と、どうでもいいことを早口で伝えた。
しきりに感心する小山さんをみながら、中学校の先生や授業の話、小学校のときの芋掘りの話などとりとめのない話をした。
小山さんは思ったよりも話好きな女の子で、人見知りで言葉足らずなボクはだいぶ助けられ、まるで、僕の話し足りない部分を、彼女の言葉が埋めてくれるみたいで、心地の良い、でもどこか不安定な時間が過ぎていった。
やがて話が途切れたとき、彼女は交換したばかりの黒いシャーペンを、手のひらで大事そうにつつみ、じっと見つめていた。その伏せられた横顔は、この公園に来たときよりずっと遠く、僕が知らない大人の哀愁をまとっているように見えた。
お昼が近くなり「さてお昼だし、そろそろ帰ろうか」といい公園出た。小山さんは別れ際に言った。「本当はもっと一緒にいたいんですが・・ 来年受験ですよね。頑張ってください!応援しています!」その真面目な横顔はほんのり愁いを帯びてちょっと赤く見え、昨日の下校時に感じた子供っぽいかわいらしさはなくなっていた。
少しドキッとした。
ボクはなんとか「・・・うん がんばるね」と返事をし、走り出した小山さんの後ろ姿に向けて手を振った。あの、白い花柄のワンピースが、僕の視界から完全に消えるまで。
第四章:ピンクのしるしと、冷たい予感
あの日以来、何度か学校帰りに小山さんと会い、小さなあの公園で僕たちはたくさんのどうでもいい話をした。その時間は日頃、受験のストレスにさらされている僕にとって、やすらぎとなり徐々に大事な時間となっていった。
初対面のときに子供だと思っていた小山さんは、読書家で3人姉妹の長女であり、そのせいかときどき僕よりも大人に見えることがあるくらい、しっかりとした女の子だった。時折見せる大人びた、でもどこか寂しそうな表情に、僕はドキドキさせられた。この感情が「恋」だと気づくのも時間の問題だった。
ある時、彼女はベンチから足を投げ出しながら、「あのね、先輩。私、『若草タイム』のとき、先輩が誰よりも一生懸命に芋をお世話しているのを見て、『きっとこの人は、自分が決めたことはちゃんとやり遂げる人なんだ』って思ったんです。」
そういいながら彼女はまっすぐ僕の目を見て笑った。それは曇りのない、純粋な賛辞だった。僕は胸の奥がぎゅっと詰まるのを感じた。彼女のいう「一生懸命」が、ただの「貧乏だから芋をたくさん欲しかった」という僕の動機とはあまりにもかけ離れていることに、僕は気づいていた。
僕は、たぶん彼女の作り上げた「理想の先輩」にはなれない。この瞬間の温かさは、僕が渡したシャーペンと同じで、いつか、僕の手元から消えてしまうものなのかもしれないと思った。それは、胸に刺さった小さな小さな棘のようで、少しづつでも確実に「終わり」の冷たい予感を周囲に毒のようににじませていた。
夏が過ぎ、秋に入ると乾いた風に乗って受験の足音が間近にせまり、講習や勉強会などで下校時間が不規則になることが多くなった。小山さんと下校時間が合わず会えない日が続いた。
今と違い連絡手段を持たない中学生の僕たちは、会いたい、一緒にいたいという気持ちを持ちつつもそれを具現化する方法を持たない。
だけど、思春期特有の思い込みで 時折、学校の廊下ですれ違うときに目が合う程度のコンタクトでも、お互いの思っていることがわかる気がした。それは、二人だけの、誰にもわからない秘密の言葉だった。
冬の足音が近づく晩秋の日、いつもの放課後の講習会で居残っていた教室から出た。廊下の先に、図書委員会が終わった後らしく、ハンギョドンの下敷きを胸に抱えた小山さんの姿があった。あっいた!という嬉しい気持ちが先に出てしまい、思わず手を振ってしまった。小山さんも満面の笑みで手を振り返してくれた。
それが、非常にまずかった・・・。
そのシーンをクラスメイトに観られており、受験のストレスにさらされている同級生たちは、息抜きとしてこの事件を嬉々として勝手に噂を流し、僕と小山さんは関係を追及され、1年生と3年男子の禁断のカップルとしてあっという間に学校中の噂になってしまった。
次の日の帰り、友人と校門を出ると小山さんが待っていた。たぶん噂を気にして対策を相談したかったんだろうと思った。僕が近づくと友人たちに「あ、大好きな彼女がいるぞー お熱いですねー」と大声で冷やかされ、このままじゃ彼女もいじめられてしまうかもしれないという恐れと不満と羞恥心がピークに達したボクは「そんなんじゃない!」と大きな声で言ってしまった。
瞬間、大声で笑っていた友人たちの声が、潮が引くように一瞬で止んだ。代わりに聞こえたのは、ただ風が吹き抜ける音だけだった。
しまったと思ったが時すでに遅く。うつむいた小山さんの目元に、眼鏡を伝って落ちる、水滴のきらめきが見えた。 彼女は何も言わず、ただうつむいたまま、踵を返してアスファルトの上を逃げるように走り去ってしまった。僕の目の前には、ただ乾いた風の匂いだけが残っていた。
すぐにでも追いかけて、謝りたかったがこれ以上噂になりたくないというちっぽけな自尊心が邪魔をして、ボクはその場に立ち尽くすことしかできなかった。
最終章:希望の白と、青い空
どんなに後悔していても、どんなに寂しいと思っていても、無情にも時は万人に平等に流れる。
今年の冬は一層寒さが厳しく、吹き荒れる吹雪は心の中まで凍らせようとしているようだった。そして勝負の冬休みが到来し、勉強はますます忙しくなる。年明けには本番の受験が待っている。
あの日以来、小山さんと会う機会はなかった。学校ですれ違っても、もう目が合うこともない。お互いの考えていることがわかると思ったあの秘密の時間も、ただの、すれ違ったままの錯覚として時は過ぎていった。
それでもカンペンケースに入っている、お守りとしてもらった小山さんの白とピンクのシャーペンを見るたびに、ボクはせめて応援してくれていた志望校への合格だけは、届けたいと思い、がむしゃらに勉強に明け暮れた。それは、僕が彼女との関係で、唯一、守れると信じた約束だったのかもしれない。
受験の当日、答案用紙を前にしてひとつ息を吐いたボクは、自分の愛用していた黒い製図用シャーペンではなく、小山さんからもらった白とピンクのシャープペンシルに持ち替えて、試験に挑んだ。そのペンは、僕のちっぽけな自尊心と、彼女の純粋な願いを背負っていた。
合格発表の日、緊張しながら受験番号を探した僕は、自分の番号をそこに見つけ、安堵の気持ちが広がった。しかし一番に報告したい人はすでに隣にはいない。こぼれる涙を我慢するために僕は、何も答えない空向かってせいいっぱいの感謝を伝えた。
ほどなくして誰のためにするのか不明な感傷的なだけの卒業式が催され、志望校に合格した誇らしげな気持ちと、大事なものを自ら壊してしまった傷ついたこころを抱えながら、3年間いろいろなことを学んだ学校を後にし、校門から外に出る。
空はやっぱり青空で、思えば突拍子もない出会いだったが、確実にボクはキミのおかげで受験を乗り切れた。
あの夏よりも少し大人になったであろう傷だらけのこころをそっと胸にしまい、またあふれてくる涙をごまかすために、曖昧な未来しか見せてくれないどこまでも青い空を見上げた。
「先輩!おめでとうございます!」
聞き慣れた・・いや・・待ちわびたその言葉が聞こえた・・幻聴か?
滲む視界の先の校門の陰から、紺色の制服がはみ出していた。ちょっと大きめのぶかぶかの制服を着て、はにかんだ笑顔を浮かべながら小山さんが顔を出す。
「受験の邪魔になるかと思ってずっと会うの我慢してたんですよ先輩!第二ボタン、まさか誰かにあげちゃってないですよね 私にください!」
僕は声にならない嗚咽を漏らしながら、僕よりもふたまわりは小さな彼女の肩に額を押し付けていた。
こらえきれない涙をこぼしながら、謝るボクに、小山さんはいままでの時間を取り戻すかのように、そっと、ずっと、話しかけてくれる。
シャープペンシルは、僕の青春のお守りだったのかもしれない。だけど、彼女は、僕の「希望」だった。




