第3話 声の届かない場所で
夕暮れ。
西区・市立綾ノ峰中学校の放課後は、風の音がよく通る。
教室にはもう誰もいなかった。
斜めにずれた机の列。黒板に薄く残った数式。
掃除の済んだ床に、足音が薄く響いていた。
水無瀬結花は、無言で教室を出た。
誰の目も気にせず、誰にも気づかれないように歩く。
呼び止められることも、避けられることもなかった。
校門を出てすぐの場所で、またすれ違った。
花鷹しずく。
派手な髪色。葦原中の制服。
この校舎の生徒ではない。
けれど、しずくはときどきこの綾ノ峰中に入り浸っていた。
理由はなかった。退屈しのぎのつもりかもしれないし、ただの逃避かもしれなかった。
結花の姿を目にして、しずくは少しだけ眉をひそめた。
今日もまた、同じように、同じ時間に、同じ顔がここを通る。
誰とも喋らず、まるで誰もいない場所を歩くような足取り。
(なんか、気持ち悪い)
そう思いながら、しずくはスマホをポケットに押し込んだ。
「……よく、来るよね、ここに」
声をかけても、結花は反応しない。
振り返らず、まっすぐ歩き続けた。
しずくは、それを見送る。
「ねえ、聞こえてる?」
返事はない。
そのまま校舎の裏手へと進んでいく。
「……感じ悪」
しずくは舌打ちした。
そして、なんとなくその背を見送りながら、フェンス沿いに歩き出す。
そこには、もう一人の少女がいた。
遠野澪音。
綾ノ峰中に在籍しているが、教室での存在感は限りなく薄い。
出席簿に名前はあるが、いつからいるのか誰も覚えていない。
彼女は校舎裏のフェンスのそばに立ち、じっと空を見ていた。
気配は風と同じくらい希薄で、そこにいるのかどうかも定かではない。
そして、結花の歩く方向を目で追った。
何も言わない。
呼び止めることもない。
ただ、なぜか似たものを見ている気がした。
風が一度だけ止んだ。
空気の奥で、ぴしりと音が割れたような感覚が走った。
結花の足が止まった。
しずくは思わず空を仰いだ。
澪音のまぶたが、少しだけ細くなった。
見えない何かが、遠くで“生まれかけていた”。
澱――
その名もまだ与えられていない存在。
けれど彼女たちは、それを知っていた。
空気の重さ。温度の歪み。耳鳴りのような沈黙。
それは、何かが“否定された”ときにしか起きない現象だった。