第9話 壊れかけたその日、あたしは毒になった
中学の夏だった。
蝉の声は濁っていて、風はぬるかった。
台所からガラスの割れる音が聞こえた。
その次に、金属の音。
その次に――母親の、叫ぶような嗚咽。
しずくは、部屋の中でじっとしていた。
呼吸を潜めて、音を数えるように。
それが、自分の身を守る唯一の方法だった。
(また始まった……)
“母”は、壊れかけたラジオのように毎日を繰り返していた。
誰かを責めて、泣いて、寝て、そして朝になったら忘れる。
暴力の中に愛があると信じられたのは、小学生までだった。
その日も同じだったはずだった。
ただ、いつもと違ったのは、“父の写真”が破られたことだった。
何年も前に出ていったきりの男の顔。
母親は、それを泣きながら破った。
しずくは、それを拾おうとした。
ただ、それだけで、
彼女は平手を飛ばした。
世界が、揺れた。
視界が、赤くなった。
「なんであんたがあの人の味方すんのよ!」
違う。
ちがうのに。
でも、言葉は出なかった。
壁に背中をぶつけ、頭が鳴った。
目の前が、ぐらぐらしていた。
(もう、だめかもしれない)
逃げ場はなかった。
学校も、同じだった。
言い返せば面倒が増え、黙れば舐められた。
誰も、自分のことなんて見てなかった。
母も、クラスも、先生も。
だから、しずくは――“人間”をやめたかった。
そのときだった。
空気が、沈んだ。
まるで時間が止まったかのような“間”。
台所の音も、外の蝉も、母の泣き声も、すべてが引き裂かれた。
足元から、黒い霧のようなものが滲んだ。
重たい空気の中に、それが立っていた。
「――限界を超えたか」
声はなかった。けれど、言葉は聞こえた。
心の底で、何かが“繋がった”感触。
「ならば、お前に毒をやろう」
しずくの手に、黒い傘が現れた。
まるでずっと前からそこにあったかのように、馴染んでいた。
部屋の景色が戻ったとき、
母親の顔が変わっていた。
何も見えないような目で、ただしずくを見ていた。
怯えていた。
その瞬間、しずくははじめて笑った。
「……こっちが、正しいでしょ?」
それが花鷹しずくの“始まり”。
毒をまとうことで、世界に反撃できるようになった。
でもそれは、“希望”ではなかった。
しずくにとっての魔法は、
人を遠ざけるための牙であり、
自分を壊さないための皮膚だった。