第1話(前半) 舞台
夜。
降っていたはずの雨が止んでいた。
橘天音は、人気のない学区裏の通学路に立っていた。
灯りはある。人影はない。
――そして、空気が“反響しなくなる”瞬間が、そこにあった。
「……また、出たのね」
彼女の声は、誰に向けたものでもない。
けれど確かに、何かがそれに“応えようとした”。
次の瞬間、空間が“歪む”。
壁に染み付いた怒声。
歩道に落ちた独り言。
スマホにだけ吐かれた後悔。
――それらが、**澱**として沈殿し、まとまって“現れた”。
形は曖昧だった。
人型ではない。虫のようでも獣のようでもない。
ただ、“感情の濁り”が物理に触れた結果、そこに立ち上がっている。
天音は、目を細める。
内心、吐き気に似たものを感じながら、笑顔を貼りつけた。
「うん、大丈夫。いつものこと。私がやらなくちゃ……“いい子”なんだから」
足元に薄く魔法陣が展開される。
“橘天音”という少女の“仮面”が、戦闘態勢へと移行していく。
「――演じ切るわ、最後まで」
能力:仮面
現実を、他人の認識を、そして自分自身の感情すら演技で塗りつぶす魔法。
“澱”は動く。
それは感情そのものであり、意思ではない。
だが、“天音の仮面”が一瞬だけ剥がれそうになった瞬間――
「……っ、やめなさいよ。
私を、私のままで、壊さないで……!」
“澱”は共鳴していた。
それが、この街の感情の澱である以上、
天音の中にも確かにあったもの――
「演じなければ価値がない」という痛み。
その感情が、敵の中にあった。
天音の足が、止まった。
演技が乱れる。仮面が揺れる。
“澱”が押し寄せる。
ぐにゃりと歪んだ空気が、身体に刺さる。
そのときだった。
「静かにして」
遠くから聞こえた、その一言。
まるで、世界そのものを“消す”ような声音。
熱も、音も、感情すらも――一瞬だけ“無”になった。
“澱”が、空気ごと断ち切られるように“崩れた”。
天音が、目を見開く。
「え……?」
そこに、ひとりの少女が立っていた。
白いワンピース。濡れた髪。目だけが異様に、暗い。
水無瀬結花。
彼女はまだ、何も語らない。
ただ、“澱”を“消去”した少女として、その場に現れた。