恋心との決着
クリストファー殿下と別れて、ふたたび船に乗り込むと、リラが私を訪ねてきた。
ちょうど、ティーセットの配膳が終わったあとのことだった。
「申し訳ありませんでした。謝って、許されることだとは思いません」
彼女は、立ったまま深く頭を下げた。
その手は、真っ白になるほどスカートを掴み、指先は細かに震えている。
私は、そんな彼女を見て言った。
「座って」
「ですが」
「ジュリアンに言ったこと、聞いていたでしょう?あなたは操られていただけ。悪くないわ」
「ですが……!!」
リラは顔を上げた。
その顔は酷く苦しげで──琥珀色の瞳は潤んでいる。だけど、泣いてはいなかった。
「いいのよ、リラ。あなたが苦しむ必要はない。とはいえ──それでは、あなたの気も収まらないでしょうし」
私は、ソファから立ち上がると、彼女の手を取ってソファに座らせる。私の、隣に。
「お嬢様……」
「ジュリアンのせいで、あなたが苦しむのは腹が立つわ。本来、異能というのは、ひとを救うためにあるものなのに……。彼はそれを悪用し、あなたに罪の意識を植え付けた。それは許されることじゃない」
「…………」
リラはまつ毛を伏せた。
眉間に深く皺を刻み、苦悩しているのがよく分かる。
「だからね」
「ですが、お嬢様。……申し訳ありません、発言をお許しください」
リラは私の言葉を遮った。
本来なら許されないことだけど、それでも言いたいことがあるのだろう。
リラは、くちびるを震わせながら私に言った。
「ザイガー子爵令息……彼の言うことは正しいのです」
「どういうこと?」
尋ねると、彼女は静かに、淡々と話し出した。まるで、罪を告白するように。懺悔するように。
「私は、お嬢様にこころからの忠誠を誓っていなかったのです。だから、あの男に操られ、利用されてしまった」
「リラ」
そうではないと、そう言おうとしたのだけど、彼女は首を横に振った。
「私をクビにしてください」
「……それで、あなたはどうするの」
「分かりません。……ですが、私は、お嬢様の想い人に恋をしてしまいました。それは決して許されることではない。その時点で、私は侍女失格だったのです」
そこで、ついにリラは涙を零した。
瞬きもせず、彼女は静かに泣いた。
「申し訳、ありません。お嬢様……。私は、お嬢様がお小さい時から……見て、いたのに……」
次第に、嗚咽を漏らすようになった彼女の背を、私は撫でた。
とんとん、と叩き、軽く抱き寄せる。
「ねえ、リラ?」
「……はい」
酷い涙声だ。
記憶を失ったままの私だったら、きっとどうすればいいか分からなかっただろう。
なにせ、その時の私にはリラとの記憶も何も無いのだから。
だけど今の私は覚えている。
眠れない夜、彼女は私にホットミルクを作ってくれた。
昼間、庭で駆け回って遊ぶ私を慌てて追いかけて、パラソルを差してくれた。
眠れない夜、『みんなには内緒ですよ』と言って、もうそんな歳ではないのに絵本の読み聞かせをして、寝かしつけてくれたことだってある。
彼女は、私にとって姉のような存在だったのだ。
「ひとのこころは、思い通りにはならないわ。それはあなたのこころもそう。あなたが、リュカに惹かれた。それは何もおかしなことでは無いし……」
そこで言葉を区切ってから、私は少し言い出し辛かったものの、何とか言いきった。
「それに……以前の私のリュカへの態度は、たしかに酷いものだった。その時からあなたがリュカを好きだったなら……許せないと思うでしょうね。急に何?調子がいいわよ、って」
「そんなことはありません!そのようなことは……!」
リラが急に顔を上げた。
泣いたからだろう。顔は、酷い有様だった。
いつもキッチリと化粧を施している彼女の珍しい素顔に、私は笑みをこぼす。
そして、彼女の目尻に触れて涙の雫を拭う。
「そう思っていいのよ。人間だもの。そう思うのはとうぜんのことだし、私も調子いいなって思うし……」
だんだん歯切れ悪くなる私を、リラは真っ直ぐ見つめた。
未だ、涙に濡れている琥珀色の瞳が、私をしっかりと捉えている。
「いいえ。お嬢様。私は、お嬢様がツァーベル公爵令息をお好きになられて……良かった、と思ったのです。あの方は、お嬢様をずっと見ていましたから……」
「そうなの?」
リュカが、以前から私を見ていた。
その言葉に私は戸惑った。
ずっとっていつから……?
リラは、そんな私に笑みを浮かべた。
「はい。……私が何か言うのは差し出がましいかと思い、黙っておりましたが……あの方はずっと、お嬢様を見ていらっしゃいましたよ。その瞳は、何より雄弁なのです。いつも、あの方はお嬢様を目で追っていた」
「…………そ、そう」
何と言えばいいか分からず、視線を逸らし、曖昧に答えた。
(そうだったの!?リュカが……私を!?)
見ていた、のだろうか?
全く記憶にない。
そう思って──ハッと理解した。
今まで私は、なるべくリュカを視界に入れないようにしてきた。
だから、彼の視線に気づかなかったのだ。
羞恥で頬がじりじりと熱を持っていく。
そんな私を、リラは優しい目で見つめていた。
だけどすぐに彼女はまつ毛を伏せて、また言った。
「いずれ、主人の夫となられる方にこのような感情を持っているなど、侍女として相応しくありません。ですから、お嬢様」
「これからも私の傍で仕えていてちょうだい」
「…………は、え?」
リラは頷こうとして、だけど驚いたように目を見開いた。
私は、彼女の両手を取って、言う。
力強く、彼女に私の言葉が伝わるように、しっかりとその目を見ながら。
「あのね、リラ。私が言うのもなんだけど……失恋で、ひとは死なないわ。恋は、ひとを強くするものでなければならないと、私はジュリアンの件で強く思ったの」
恋愛の失敗も、それは人生において大きな経験となる。
そうでなければならない、と思った。
失敗したらそこで終了なんて、あまりにも寂しすぎる。
人生はもっと広くて、様々な可能性があるものだと思うから。
だから、どうか諦めないで欲しいと、そう思った。
リラの瞳は、戸惑いに揺れていた。
「……自分を弱くさせる、あるいは辛くさせる恋なんて、さっさと忘れて次に行った方がいいと、私は思うの。私が言いたいことはね……リュカのことを、しばらく忘れられないのだとしても。それで全てを諦めるなんてあまりにも虚しすぎるし、悲しすぎる、ということよ。あなたには……それを乗り越えて欲しい」
そこまで言ってから、私はまつ毛を伏せた。
「……酷なことを言ってる自覚はあるの。もしあなたが、私とリュカを近くで見るのが辛いなら強要はできないし、仕方の無いことだと思うけど──」
「そ、そんなことは……!私は、お嬢様をお慕いしております。幼い頃から見てきたのです。おふたりが想いが通じて、嬉しいことは確かなのです。私が……私が、今後もお仕えするなど、そんなこと、許されるのでしょうか」
「私が許す、と言っているのよ」
言ってから、私はリラの目を見つめた。
異能制御装身具はつけたままだ。
私は、意図してそれを外さなかった。
「……信じているから。あなたのこと」
だから、リラには今後も私に仕えてほしいと思っている。
侍女をして欲しいと──そう思っている。
信じているから。
リラはまた、泣きそうな顔になった。
☆
また半月かけてセレグラに到着した。
船着き場に着いてそうそう、私はある報告を受けることになる。
「リュカが撃たれた……!?」
私がセレグラを発って一週間ほど経過した頃。
リュカはボレル邸に向かったらしい。そこで、彼は襲撃に遭った、とのことだった。




