婚約は解消します、当然です
裏の日記……。
もしそういったものがあるのだとしても、それをなぜ、王子殿下が知っているのだろう。
彼のエスコートを受けながらお兄様の元に戻ると、お兄様に怪訝な顔をされた。
「なにか思い出したのか?」
私はよっぽど変な顔をしていたらしい。
咄嗟に笑みを貼り付けて、お兄様に答えた。
「いいえ。私と王子殿下は親しかったのですか?」
「うーん?いや、そこまで親密ではなかったはずだよ。時々、夜会でこうして踊ることはあったが……。王子殿下は俺の学友なんだ」
なるほど。私の予想通りである。
お兄様と親交があるからこそその縁で、私も彼と話す機会があったのだろう。
とはいえ、裏の日記。
裏の日記……ね。
まずは、探してみるべきよね。
自室にあるのかしら。
そんなことを考えていると、お兄様が誰かに声をかけた。
その声に、思考の沼から引き戻される。
「あ、リュカ!こっちだ。お前も来てたんだな」
リュカ……?
記憶が無いので当たり前なのだけど、耳慣れない名前に顔を上げる。
そこには、冷たい印象を覚える銀髪の男性がいた。どこか気難しそうというか、人嫌いそうな、そんな雰囲気の男性だ。
歳は、私とそう変わらないだろう。
また、お兄様のご学友かしら。
そう思って失礼にならない程度に彼を窺っていると、不意にその彼と目が合った。
瞳は、濃い灰青。
髪も、灰味の強い、暗い色合いで、冷え冷えとしたオーラのあるひとだ。
彼のオーラは間違いなく青とか水色とか、そういう寒色系に違いない。
淑女の礼を執ると、驚きを含んだような声が聞こえてきた。
「記憶が無いのはほんとうなんだ」
顔を上げると、リュカ、と呼ばれたひとはじっと私を見つめていた。
確かめるような、探りを入れるような、あまり居心地のいい視線ではない。
何なのだ、このひとは……。
一体私とはどういう関係だったのかしら……。
「て、ことは。ジュリアンへの気持ちももう無いんだ?」
「え?」
「おい、リュカ。妹は事故に遭ったばっかりなんだ。少しは気を遣えよ」
お兄様の咎める声を聞きながらも、私は瞬きを繰り返す。
リュカは、好戦的に私を見つめたあと──にこり、と笑った。
途端、それまで彼がまとっていた刺々しい雰囲気が霧散して、好青年のように見えた。
慈しみすら感じる優しい眼差しだ。
先程までの冷たさも、他者を寄せ付けさせないような雰囲気もない。
私は混乱した。
「あなたは?」
「挨拶が遅れてしまったね。今のきみには記憶が無いというのに。俺の名前は、リュカ・ツァーベル。きみと、そこにいるきみの兄、ヘンリーの幼馴染だよ」
「幼馴染……」
「ちなみに、リュカは五大公爵家のひとつであるツァーベル公爵家の嫡男だ。お前とは……その」
そこで、なぜかお兄様が言い淀む。
不思議に思ってお兄様を見上げると、その言葉の続きを引き継いだのは、私の前のリュカだった。
「きみは俺を嫌っていた。仲も、良くなかったな」
そう、言われましても。
記憶のない私としては困惑するばかりだ。
だけど、このまま無言というのも気まずい。
考え抜いた末、私は彼に尋ねることにした。
「あなたは?」
「え」
「リュカ様は、私のことを嫌っておられましたの?」
彼の話では、私たちは犬猿の仲だったようだ。
だけど、リュカはどうだったのだろう。
そう思って問うと、彼は目を見開いた。まさか、そんなことを聞かれるとは思っていなかった、と言わんばかりに。
それから、困惑したように視線を逸らし──言い淀む。
「いや、俺は……」
歯切れが悪い。
もしそうなのだとしても、本人を目の前にしては言い難いのかもしれない。
そんなことを考えた時、ハッとリュカがなにかに気がついたように遠方に視線を向けた。
「きみの婚約者、あそこにいるけど」
「え……」
リュカの言葉通り、ダンスホールには私の婚約者であるジュリアン様が。
一緒に踊っている女性は誰だ。
知らずして、険しい顔つきになってしまったらしい。呆れたようなため息が近くから感じた。
「前は、ああいうの慣れっこだって言わんばかりだったけど、さすがに今は違うんだね」
「慣れっこですか?」
聞き捨てならない。
何だ、それは。
そう思って尋ねると、リュカは肩を竦めて答えた。
「きみは、見る目がないって話だよ。よりによってあいつ……義妹好きで金遣いが荒くてスマートさにも欠ける。あの男の何がいいのか俺には全く分からないな」
「リュカ……」
お兄様が諌めるように彼の名を呼んだ。
しかし、ジュリアン様を庇わない様子を見るに、お兄様も同じ意見なのだろう。
それを聞いた私は、めまいを感じた。
(何だって私は、あんな男が好きだったのよ……)
ダメ男好き?
それとも面食いだったのかしら……。
記憶を失う前の自分に会えるのなら、その胸元をガクガク揺さぶって理由を問いただすことができるのに。
疲労を感じてため息を吐くと、ふと視線を感じた。
顔を上げると、リュカが私を見ていた。
まさか、今もジュリアン様を好きでいると思われたらたまらない。
私は、キッパリと言った。
「今の私はジュリアン様をお慕いしておりません。婚約も解消を考えております」
「え、そうなのか?」
お兄様の意外そうな声とともに、リュカが驚いたように目を見開いた。
それから満足そうに──いや、不敵に?笑った。
「ふぅん、いいと思う。俺は賛成。あんなに良いようにされてずっと好きでいる方がおかしいと俺は常々思ってた。きみは、そんな彼が好きだったみたいだけど」
棘のある言葉だが、確かにその通りなので何も言えない。
私は、この機会にずっと気になっていたことを彼に尋ねた。
「……ジュリアン様との婚約は、私から求めたものだと聞きました。本当ですか?」