嫌がらせと裏の日記
その後すぐ、私は従僕に命じ、婚約者の報告書を持ってきてもらった。一緒に、貴族図鑑も持ってきてもらった。
私は、まず従僕が持ってきた報告書に目を通した。
【ジュリアン・ザイガー。
二十歳。子爵家の嫡男。兄弟はおらず、義妹のみ】
え、え~~~~??
子爵家なの!?
ジュリアン様、子爵家のご令息なの!?
それなのに、公爵家の娘である私にあの態度!?
私は気が遠くなった。
報告書を、そのまま読み進めていく。
そこに書かれていた文章を読み進め、私なりに解釈していく。
「……ふむ。つまり顔が整っているだけあって、女にそれはもう、とにかく好かれている。まあ、予想通りね」
はい次、と報告書をめくった。
だけど彼が相手をするのは高位貴族家だけであり、そこから選ばれたのが私、シャーロット・シェーンシュティット……。
いや、選ばれたのは私、というよりシェーンシュティット家、と言うべきね。
私は報告書をパッタン、と閉じた。
明後日は王城での夜会である。
右も左も人間関係がわからないが、とにかく行くしかない。
お兄様もフォローするって言ってくれているし、記憶が無いからといつまでも引きこもっているわけにはいかない。
私には、お兄様がいる。
シェーンシュティット公爵家の嫡男でもあるお兄様は、事故当時、仕事で不在だったらしい。
事故発生から一週間が経過した頃。
イノシシのように玄関ホールに突撃した男がいた。
それがお兄様だ。
最初私は賊でも入り込んだのかと身構えたが、そのひとは私と同じ黒の髪、桃色の瞳をしていた。
それに、お父様と顔立ちが似ていたので、あら、もしかして……と思ったところで。
お兄様は突然、私を抱きしめてきた。
それも、力の限り。
あの時は、あまりに強く抱きしめられたために圧死するかと思ったわ……。
圧死の恐怖と物理的な苦しみで魂が飛びかけていた私を、助けてくれたのは、コートを受け取るために控えていた執事だ。
そうして私は、おいおいと号泣するお兄様と再会した。
(……私は、家族に愛されている)
だからこそ、不思議なのよね。
いくら私がのぼせ上がっていたとして。
私をまったく大事にしていない男が私の婚約者であることに。
その思いをそのまま日記に綴れば、今日はもう眠るだけだ。
私はベッドに入り込んだ。
☆
翌々日。
夜会の日が訪れた。
しかし!!
婚約者の迎えがないのである。
玄関ホールで仁王立ちする私を見て、恐る恐る、といった様子でお兄様が声をかけてきた。
「シャーロット。ジュリアン卿は……?」
「知りませんわ。来ないですわね」
もう時間がかなり押している。
お兄様の様子では、いつもは迎えに来ていたようだし、来ないのは珍しいらしい。
確かに、エスコートの約束とかそういうのは取り付けてなかったけども!!
それでも、婚約者でしょう!?それなら夜会でのエスコートはマナーじゃなくて!?
その時私は、はっと思い出した。
もしかして──。
(必ず後悔する、ってこのこと??)
だとしたらなんてみみっちい……いや、女々しい男なんだ!!
私は憤慨しながら、お兄様の手を借りて馬車に乗り込んだ。
こんな子供のような嫌がらせをする男性とは、やはり一緒になどなりたくない。私はその思いを強くした。
☆
王城の夜会は豪勢で、煌びやかだ。
誰ひとり覚えていないので、私はお兄様と会場の端に寄っていた。
お兄様は付き合いもあるだろうに、私に付き合ってくれている。
妹思いのいいお兄様だ。
「あのご令嬢は、クラーラ伯爵家の三女、フェリス嬢だ。お前とは仲が良かった。あとで話してみなさい」
お兄様に密かに紹介してもらっていると、ふと、会場がざわめいた。
ざわめきの正体に視線を向ければ、そこには金の髪をした青年が。
まだ、その名は教えられていないが、よほどの高位貴族なのだろうと察した。
周囲の視線が集まっているし、彼から距離を取りつつもみなが話しかけてもらいたそうにしている。
つまり、自身から声をかけることが出来ないほど位が高い、ということだ。
それにあれは王族の正装──。
そこまで考えた時。
ぴたりと、そのひとは私を見ると、こちらに向かって歩いてきた。
そのまま、彼は私の前で足を止める。
「階段から落ちた……と聞いていたんだけど、良かった。元気そうだね、シャーロット嬢」
「えー……と」
誰だろう、このひと。
困惑する私に代わり、お兄様が答えた。
「殿下、シャーロットは……」
殿下、やはり、王族!!
お兄様が、声を潜めて私の現状を簡単に説明する。
殿下、と呼ばれた男性はお兄様から説明を受けると、その青の瞳を憂鬱そうに翳らせた。
「そうか……。だけど、目立つ怪我はなかったようで、何よりだ。あなたの普段の行いが良いからだね」
彼は私を見て、にこり、微笑みを浮かべた。
私は彼の様子に、呆気に取られていた。
流石、王子様。
ずいぶんと様になる……。
ふと、そのひとは私に手を伸ばした。
「お手をどうぞ、ご令嬢?一曲、いかがかな」
「私で、よろしいのですか?」
「あなたがいいんだ。不都合がないなら、手を取って欲しいな」
彼が茶目っ気を見せて笑った。
彼の醸し出す雰囲気がそうさせるのか、親しみやすさを感じた。
きっと、意図してやっているのだろう。
私の気を軽くさせるために。
お兄様とも親しそうだし、私とも恐らく親交があったのだろう。
ひとまず、この手を拒む理由はなかった。
私も、微笑みを返して彼に答える。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ダンスホールに誘われて、音楽が流れ始めた。
記憶が無いので少し不安だったが、体は覚えているようで自然に足を動かすことが出来た。それにホッと安心する。
間違えても彼の足を踏むことだけはできない。
精神を尖らせながら細心の注意を払ってステップを踏んでいると、彼が話を切り出した。
「今のあなたは、どこまで覚えているの?」
どこまで、とは。
顔を上げると、彼は物憂げに──心配するように私を見ている。
そういえば、私は彼の名前すら知らない。名前を尋ねるのは無礼に当たるだろうか。
後でお兄様に聞こう。
「全部、ですわね」
「全部?」
「はい。何も覚えておりません。婚約者のことも、友人のことも、何もかも覚えておりません」
「婚約者……というと、ザイガー卿のことか」
「ご存知なのですか?」
「……そう。あなたはそれも、忘れてしまったんだね」
彼は悩むようにそう言った。
どこか意味深な殿下の様子に注意を引かれつつも、私は彼のエスコートに従ってくるりとターンを決めた。
彼に腰を支えられ距離が近づく。
その時、彼は小声で言った。
「日記は見つけた?」
「日記……?」
「あなたは、日記をつけていた。表の日記と、裏の日記」
表の日記──それは、ライティングデスクに置かれていたものだろうか。
だとすると、裏の日記……は?
困惑して、彼を見つめた時。
音楽が止まった。
ダンスの時間が終わったのだ。