【閑話】舞台の裏側
その日──ジュリアンは子爵邸の自室にいた。
彼は、腹立たしげに爪を噛むと、短く舌打ちをする。
「クソッ……アイツ、なんで死んでないんだよ……!!」
転落事故が起きた、というからてっきり死んだと思ったのに。まさか、怪我もないなどと。とことん悪運の強い女である。
しかし、記憶を失ったのは不幸中の幸いだ。
「過ぎたことは悔やんでも仕方ない。今することは……」
ジュリアンは、自身のライティングデスクまで向かった。机上には、チェス盤と駒が置かれている。
彼は、ポーンを手に取るとゆっくりと駒を進めた。
「……シャーロットが記憶を取り戻す前に、確実に殺す」
もうそれしか方法はない。
ジュリアンは淡々と呟いた。
ポーンの駒が、その先に置かれているビショップを弾き飛ばした。
トトトト、と軽やかな足音が聞こえる。
それにハッと我に返ったジュリアンが振り向くと同時、部屋に飛び込んできたのは。
「お兄様、ここにいたのね」
「ルアンナ、部屋に入る時はノックをしなさいと言っただろ」
「ごめんなさーい」
ルアンナは舌を出してジュリアンを見る。
ジュリアンは溜息を吐いて、彼女を促した。
「どうしたんだ?」
「ねえ、ねえ。お義姉様ったらどうしてしまったの?なぜ、あんな意地悪になっちゃったの?以前のお義姉様とはぜんぜん違う」
「シャーロットは、優しい仮面を貼り付けた嘘つきだった、ということだよ」
「……そうなの?」
ルアンナは零れ落ちんばかりに目を見開いた。
驚く彼女に、ジュリアンはさらに言った。
「ああ。嘘を吐いて搾取するあの神父様と同じだ」
ふたりの脳裏を、ひとりの男の姿が過ぎった。
ルアンナは、神父、という言葉に顔を歪めた。
「……どうしようもないクズっていうこと?」
「そうだよ。だからお前は、ひとりで彼女に近づいてはいけない。何をされるか分からないからな」
「お義姉様がそんなひとだったなんて……。良いひとだと思ったのに」
ルアンナは、先日見たシャーロットの姿を思い出す。
椿のように凛としたシャーロット。いつも穏やかに微笑んでいたシャーロット。
その彼女が、強い眼差しでルアンナたちを射抜いていた。
『あなたたちの言う優しいわたしというのは、あなたたちにとって都合のいい人間、という意味ですよね』
それはつまり、裏を返せばシャーロットは自分たちの望む姿を演じていた、ということ。
シャーロットは自分たちを騙していたのだ。
正直に接してはくれなかった。
本心は違うというのなら、なぜそれを言ってくれないのだろうか。
不満を言わなかったのはシャーロットなのに、それを察せなかったルアンナたちが悪いと彼女は言う。
ルアンナは貧民街で生まれた子だ。
幼少時に親に捨てられた彼女は、ある神父に拾われた。彼女は彼に感謝していた。
だけど、すぐに知ることになる。
その神父は、犯罪に手を染め私腹を肥やしていた人間だった。ルアンナのような貧民の子供を拾うのも、理由があったのだ。
その窮地を助けてくれたのが、ジュリアンだった。ジュリアンは、以前からルアンナを気にかけてくれていたのだ。
ルアンナは、ジュリアンが好きだ。
あたたかいベッドを教えてくれたし、あたたかい食事も食べさせてくれる。
子爵様はすこし、何を考えているのか分からなくて怖いけれど。
でも、ジュリアンといれば何があっても大丈夫だと思えるのだ。
「お兄様は、お義姉様と結婚するつもりなの?あんなに……意地悪なのに」
ルアンナにはよく分からない。
シャーロットがひとを欺いて、誠実に接してくれないひとなら。なぜ、彼女の義兄であるジュリアンは彼女と結婚しようとしているのだろう?
戸惑いを見せる彼女に、ジュリアンが笑った。
「決まっているだろう?愛してるからだよ」
「私じゃ……」
私じゃ、だめなの。
思わず口を衝いて出そうになった言葉を、呑み込む。ふたりは義理とはいえ兄妹だ。
神殿がそれは許さないだろう。
でも……。
(あんな意地悪な義姉が出来るのは、嫌だなぁ)
今のシャーロットは、ジュリアンとルアンナの関係を知らないのだろう。だから、見当違いの悋気を起こすのだ。正しくふたりの関係を知れば、シャーロットだって受け入れてくれるはずなのに……。
そう思ったルアンナは、決意した。
(知らないのなら、教えてあげなくちゃ)
ふたりの関係が元に戻ればそれでいいのだ。
シャーロットがジュリアンたちに嘘を吐いていたことを謝罪し、これからは誠実に接すると言ってくれるなら。それで。
(お兄様のために私……頑張るわ!)
ルアンナは決意を新たに、にこにこと微笑んだ。そんな彼女を見て、ジュリアンが首を傾げる。
「ご機嫌だな」
「ふふふふ。お兄様、早くお義姉様と仲直りができるといいわね」
ルアンナの言葉に、ジュリアンは一瞬虚を衝かれたように沈黙したあと──。
「そうだね。僕が、彼女を赦してあげなければね」
ルアンナと同じようににっこりと笑みを浮かべたのだった。