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どんぐりの命  作者: 夙の三郎
3/3

茂平の最期


幾多の凄惨な戦いを生き延びた。

貴族、戦国武将、商人、盗賊… どんな階層の人間であろうとも、表沙汰に出来ない依頼を金銭づくで請け負う異能集団である忍者が存在していた。

しかし、彼らに抗いがたい変化を強いたのは時代の流れだった。

急速に一握りの権力者による支配体制が確立し始めると裏方となる忍者に対する見方や接し方がその場限りから直雇いへと変化していってしまい、本来は良くも悪くも自由な存在だった筈の彼ら彼女らが、有力者の見えざる武器として飼われる位置へ座点を移した事で安定は得たものの、本来の意味での切磋は消滅してゆき、やがては無用の長物となってしまう… その "とば口" に立つ男の話である。














茂平の齢は七十を幾つか越えた。

現在とは違って当時では高齢の部類に属し、忍びの者としては峠を完全に過ぎた崖っぷちに瀕した存在と謂えるだろう。

先々代の棟梁に拾われて以来、酷烈な訓練を経て数々の実戦をくぐり抜けてきたが恨みはない。

彼の目に映る世の中というのは『そういうモノ』で成り立っており、成長につれて寧ろ反論する材料が決定的に不足しているように思えてならなかったのだ。

彼なりに仕事には真摯に打ち込んで来たし、時代の彩となるような大仕事などには無縁であったが甲斐は充分に感じていた。

(自分の器ぐらい心得とるわい… )

任務の上で屠った敵が彼に齎したのは『喰うに困らない』事のみだが、それが唯一の誇りであり存在理由である事が茂平の全てであったとも言えたし現実的な答えでもあった。


しかし… そう、しかしである。

如何に人外な生き方だろうと、それによって齎された細やかな安定が続くと人間の心はどうしても未だ見ぬ《次》を夢見てしまう。

これは実に危険だ。

気付かれないように近付き、他人の首を後から掻き切るような人間が一度夢を見てしまうと行動の全てに迷いが生じてしまい、それが手足の動きを微妙に狂わせる… とても皮肉な事だったが人を一人殺すごとに茂平は "人間" へと変貌していたのだ。

斬られ、刺され、首を絞められ絶命していった人間たちの苦悶の表情が両眼に刷り込まれるごとに何かが茂平に訴えかけていたのだが、今はまだ分からない。

それを求めるかのように、任務が終わる(この頃には戦闘が想定される現場へは派遣されなくなっている)と足は自然に遊郭へと向いていた。

勿論、太夫クラスを相方に出来る身分ではなく散茶(さんちゃ)と喚ばれる値の安い女たちが精々だったが、ほんの一時とはいえ彼女らと語り、酒を酌み交わし、抱く事で自分の奥に眠るひどく歪で硬い何かが外へ飛び出そうとしているのを実感していた。

(何やこれは… )

産まれて初めてとも謂える感情に動揺は隠せなかったが、そういう有象無象な男たちを知る女たちは余計な事を何も言わずに茂平を迎え入れてくれた。

しかし、それを幸いに坂の上から石が転がるように茂平の遊郭通いは日増しに度を越していく。

任務に差し支える為、普段は控えていた酒量が赤い大門をくぐるごとに増える一方となり、遂には昼日中からチビチビと "盗み酒" する始末となっていた。

自分に起こった心と体の変化を認識しないという現場忍者にあるまじき失態を放置したまま過ぎた数ヵ月後、指先が軽く震えて筆を落としたり、何度も呼ばれているのに返事が遅れたりと衰えが表面下した事を上役は見逃がさなかった。

管理者から見れば答えは一つしかないし、代替わりした棟梁は元から茂平と何の接点もない。

「明日から琵琶湖の門番しとけ」

京の都へと注がれる大事な水源の番人とはいえ、これ以上の上積みは考えられない歳の茂平にとってこれは流刑に等しい。

《天下分け目》らしい大きな戦さの後は世の中の景色まで変わってしまったのだ。

『天子様(天皇)が "てっぺん" 』の気概を捨ててはいないが、それを感情のない顔で見送る自分に愕然としてしまう。

(儂は老いぼれた… )

追い討ちをかけるように権力をほぼ手中とした徳川家が初代家康から二代目の秀忠となり数年、ますます庶民には暮らしやすい、しかし茂平のような男とっては死刑に相当する時代が到来してしまったのだ。

茂平は必死の気組みで直訴して御所(天皇の邸宅、これが呼び名になる事もある)の門番に改めて取り立てもらったが、上役の嘲りと無関心をよそに本人は至って切実だった。

(もう、ここしか儂の居場所が無い… )

何がどう転がろうが老犬一匹では話にならないのは判りきっているが、何かにしがみ付かないと立っていられない実感が確かにある。

今や茂平は限界だった。



そして、繋ぎ=指令が数年ぶりに何の前触れもなく来た。

時は慶長十八年(1613年)

ここまで虚仮と化した状態にとても自分の事とは思えず、返事=鳩を出したら応えが亥の刻(午後十時の前後二時間ほど)にやってきた。

茂平が生活してる長屋、その細い通りから猫の鳴き声がするので襖を開けてみると闇に紛れて黒猫がこちらに向かって歩いてきたが、茂平と目が合うと部屋の中にまで入ってきた。どうやら "両者" は旧知の仲らしい。

「随分と藪から棒やな。」

まるで人間相手にするかのように茂平は話しかける。

「ふふ… 蛇かも知らんぞ。」

「ほたえな(ふざけるな)。で、何の話や?」

勿論、相手は猫を介し姿を隠して会話しているのだが、こういう趣向を凝らした場合は任務の重要度が高く、それだけで茂平の心は少し小躍りしていたのだが、それを見抜かれるのが嫌でぶっきらぼうな態度で接するも、そうした機微を無視して猫は事務的に話を続ける。

「大坂(現代の大阪)へ行って若君(豊臣秀頼)に張りついとけ。」

「 …何の為や?」

「銭が欲しゅうないんか?」

いつの間にか猫の足元、畳の上に仕事以外では見た事のない大金が置かれていた。

(なんやと… !? )

誰の依頼かは知らぬが、どう見ても茂平が一年で得る金額を遥かに上回っていた。

それに、そんな明白に "餌" としか見れない金額を提示されても胡散臭さこそあれ、何がしかの正当性などは微塵も感じられない。

だが、そうと判ってはいても、それを断る気概など、とうの昔に失せている。

積まれた銭百貫(現代の価値で換算すると約一千万円)あれば花扇を… 一度揚げてみたかった芸姑の顔が脳裏をよぎる。

(久々に行くか… それに豊臣やったら天子様へも顔向けできるし、かまへんやろ)

これは秀吉が生前に関白(官職での最高位で民間出身としては秀吉が初となる)となるべく、禁裏(天皇および、その周辺)に対してべらぼうな金銀をバラ撒いて "火の台所" を鎮火した事への個人的な解釈だったのだが、その何の効力もない言い訳を頭の中で想い描きながら、茂平は最も大事な質問をし忘れた事に気付かずにいた。

『なんで儂や?』と…
















数日後の朝、茂平は使い商人の列に紛れて大坂城へ入ったが、潜入する事に関して加齢は寧ろ好都合と謂えた。

小さな体格の茂平なら怪しまれる可能性はかなり低いし、何より無表情な顔は人の目に映っても記憶には残りにくい。

よほどの猜疑心がなければ…

奇妙なまでに浪人者で溢れ返る城内で暗くなるまで素知らぬ顔して雑務をこなし、夕げ(夕食)の後に廁へ行ったそのまま姿を消した。

消えた先は別の商人の物置小屋で、茂平は三日ほど前に同じやり口で先に半分だけ道具を運び入れており、今日のと併せて仕事に掛かる手筈となっている。

だが、忍び装束に着がえる頃から一つの疑問が頭から離れなかった。

(なんで誰(護衛)も おらんのや?)

一大名に堕したとはいえ故・太閤秀吉が遺した天下の名城であり、息子の秀頼とその母である淀様・茶々は健在だ。

徳川家が征夷大将軍の位に就いたからといって朝廷には少なからず尽力した豊臣家はまだまだ磐石… そんな庶民と変わらない知識しか持ち併せていなかった茂平にとって陰の護衛が皆無という事態は全く理解できなかったが、秀頼の寝所の屋根裏に辿り着き、そこが本当に無人である事を確認すると納得できないながら受け入れざるを得なかった。

(そこまでか⁉︎ 淀様の忍び嫌いは有名やったが、まさかこれほどとは! )

自身の身の上を棚に上げて、本気で秀頼の将来が心配になってきた。

(不用心にも程があるで… )

居もしない孫に対するような想いに心を掻きむしられた瞬間、(うなじ)の辺りに静電気が微かに起こった。

「 !? 」

覇気は死んで久しいが、辛うじて生き残っている忍びの感性が《異物》の接近を察知していたのだ。

背後に感じる微かな気配… まるで幽霊のようなそれは屋根を支える柱の向こう側で "瓶に溜まった水" の如く鎮座していた。

だが、そこは茂平が今しがた通ったばかりの場所で、当たり前だがその時は絶対に誰も居なかった筈なのだ。

なんと相手は茂平を一旦やり過ごし、構造上 "どん詰まり" となる目的地で行き場のない状況を労せず作りだした上で近付いてきたのだ!

(なんで分からんかったんや… )

自分への蔑みと相手への恐怖が津波のように心へ沁み渡ってくる。

どこの誰かは判らないが、相手は相当の手錬れ(熟達者)で、少なくとも老いた自分より数段上なのは疑いようがなかった。

いつか戦いの中で死ぬであろう事は覚悟していたのだが、それをすかされ続けた数年後の… まさか豊臣の若殿の寝所上とは!

茂平の身体が緊張で強ばるのを見計ったように相手が先に動いた。

人差し指を自分、茂平、そして上へ

「 !? 」

外へ出ろというのか?

確かにここでは場所が悪い…






天守閣の屋根瓦で対峙してみると、改めて相手が自分より遥かに術の達者なのが理解させられた。

立ち姿は力みも弛みもなく、隙など微塵も感じられない。その上、背丈は六尺(180cm)を優に越えているというのに、その細すぎる体躯と異常に長い手足は毒蜘蛛か何かを連想させ無言の迫力に充ちていた。

笑っているのか泣いているのか理解できない不思議な表情は固まったままでいて、それが恐怖を駄目押ししている。

(一息で殺られるな… )

茂平の心は絶対的な恐怖を回避する為、無意識に過去の記憶を探ってみたが、思い出と呼べるような欠片は一つも浮かんでこない。

そして訓練は勿論の事、とらやよねですら緊張を緩和させる役には立たないと判った時に、あんまり無さ過ぎて茂平は可笑しくなってしまい、ついクスリと洩らし笑いした。

(気負っていた老犬が…?)

相手は茂平の笑いに意表を突かれたようで、態度を明らかに変えてきた。

「お前、どこから頼まれての仕事や?」

「… 」

「言う訳ないか… ほな何しに来たんや? 秀頼様に害なす為か?」

「 …儂は見張れと言われただけや。」

相手との予想される技量差を考えて、ひとまず嘘はつかないでおこうと決めた。

「? で、見張ってどないする !? 」

「儂ゃ其処まで知らん」

さっきまでとは違い、少し居丈高になりつつあった相手は放射していた殺気を薄めたかと思うと『ふぅーっ』と息を吐き胡座をかいた。

茂平を見据えて数瞬、考えた上で一つの答えを導き出したらしい。

「見張れと言われただけなんか?」

「そや」

こうなってくると茂平としては流石に面白くないが、相手を無駄に刺激する訳にもいかず、鸚鵡(おおむ)に徹っする事にしてこの場を凌ごうと目論見たが、早々にその出鼻は挫かれた。

「お前、多分ダシに使われとるぞ。」

「なんやて !? 」

「考えてみぃ。秀頼様の寝所で誰とも判らん忍びの死体が転がったら… 世間はどない思うやろな。」

徳川秀忠が二代将軍職を継いだ今、豊臣家の存続は微妙なモノとなっていた。

実際に豊臣家は《関ヶ原》で溢れた浪人たちを日々城内へと招き入れている為に先代家康と秀頼が二条城で平和厘に会談した事実など吹き飛ばしてしまっている。

手前勝手に『秀頼が幼かったから家康が征夷大将軍に就任しても、数年経てば自分たちに廻してくれる』と考えていた権力が息子の秀忠へと世襲された…

その衝撃は "誰かの思惑" に誘われるように暴発へと収斂しようとしていたのだ。


目の前の男の話と潜入後に茂平が見た浪人集団、それと護衛の居ない現実は容易に "誰かの思惑" を達成させる炸裂弾そのものだと謂えた。

残るは導火線だが…

「儂が《大坂の終わり》になるんか !? 」

「そういうこっちゃ。まぁそれは困るさかい、おとなしゅー帰ってもらうけどな。」

「… 」

帰れば指令に背いたとして罰っせられるのは確実だが、かといって目の前の相手に敵う道理など金輪際ない。

だから、これは最初から目論まれていた策略だったのだ!

茂平は既に諦めていた。

下腹がそれを証明するかのように激しく収縮し始めていたが、命を諦めた事で五感が研ぎ澄まされて心に粘りが出て来た。

しかも相手は茂平が年老いた使い捨てで、自分が少し『ビビらせた』ら意気消沈した根性なしだと決めつけて油断し始めており、その気配が濃厚に伝わってきている。

(今なら… )

何故だか初めて殺した弥太郎の泣き顔が頭に浮かんだが、それを頭の隅へ追いやると自分を奮い起たせるような言葉をスラリと吐いてみせた。

「おとなしゅー帰らんかったら、どないなるんや?」

「 !? 」

これは全く理解できない。

相手は茂平が互いの戦闘力の計算も出来ないほど呆けているのかと逆に戸惑い始めた。

(しゃらくさいわ! せやけど "まとも" はアカン… となると… )

「あんさんが恐ろしゅーて、なんや腹が痛ぁなってきたわ。」

言うなり帯をほどいて下着衣を脱ぐと、有無を言わせずその場で脱糞した。

余りの暴挙に呆気にとられた相手は侵入者たる茂平を場合によっては殺すつもりでいたが、前代未聞の行為に及ばれた事で(たが)が外れたように狼狽え、かつ怒りに震えた。

「こ、こら!何さらす !! ここ、どこやと思とるんじゃ !? 」

「せやけど出るモンしゃーないやんけ。それか糞ひった老いぼれの死体を天守閣に晒してみるか !? 」

言うなり笑いが弾けた。

尻を出した自分の姿を想像したら更に込み上げてくる可笑しさがあり、産まれて始めてかも知れない痛快な気持ちに包まれた。

(こんな楽しい事があるんや… )

任務中に笑うのは殆どが演技であり、それ以外では花街ですら本気で笑った事のない自分が不思議でならなかったが、抑えようのない感情の暴走を止める方法は見つからなかったし止める気もなかった。

「ん?糞したわええけど尻拭くモンあらへんな… あんさん持っとらへんか?」

「 …舐めるなっ‼︎」

度を越した野放図さで我に帰った男はまだ何か言いかけたが、顔に暖かく湿った臭い汚物を投げ付けられて継ぐべき言葉を遮られた。

「老いぼれ‼︎」

顔を拭うと茂平は既に視界から忽然と消えている。

慌てて天守閣の端へ行き下を覗くと庭の池が小さく波打ち、それを引き起こしたであろう着衣が酒に酔ったように浮いていた。

そして、その男はやはり術の達者だった。

天狗か猿かと見まがう速さで池の縁にまで降り立つと辺りを血眼になって捜し回っていたが、目当ての茂平が見つからず相当に苛立っているようで、このまま遭遇すれば阿修羅の如く襲いかかってくるだろう。

天守閣の庇の裏側で蓑虫のようにぶら下がってる茂平は男が城外へ走り去るのを確認すると、汚れた尻を懐紙で拭いそれを屋根瓦の隙間にねじ込むと、なんと秀頼の寝所上へ戻った。

豊臣家の未来を担う若者の無事を確認すると心の中で別れの挨拶を送ると予め別の場所に用意していた小袖に着替え、また場所を替えてそこで明け方前まで寝た。

そして、また何食わぬ顔で雑務をゆるりとこなし、帰りは来た時と同じように出入り商人の列に加わり城外へと出ていった。

来る時とは違って周りの人間たちと普通の会話をしている自分が不思議だったが、心の中ではあの術の達者がどこかに居ないかと心配でならなかった。

しかし、よく考えれば昼間に城の中や近くで襲われる可能性はかなり低いし、こちらは寧ろ人波に紛れて逃げやすい。

(んな訳あらへんわな… )

集団が京橋口に差しかかる頃には茂平の姿は商人の一団から消えていた。





そして、茂平はそのまま逐電(逃亡)した。

帰れば消される危険があったし、何よりもあの組織に戻るという事に本気で嫌気が差していたのだ。

任務を "しくじった" ばかりか、放棄して逃げた者は秘密保持の為に追われ消される… 今回は豊臣秀頼が標的(?)だった事で彼の人生に於いてトップクラスの依頼だったから、その機密性は断トツだ。

(どっちにしろ消されるんなら自分から消えたるわ!儂を何やと思っとるんじゃ!)

野放図な笑いは茂平の心の奥底で眠ったままでいた普通の人間の喜怒哀楽の全てを呼び醒まし、それに基づく新たな価値判断を引き出していたらしい。

極限状況で強敵を目の前にして排泄した物理的な快感が引き金となって齎された大きな悦びはもはや止めようの無い原動力となって茂平を突き動かす。

(ざまぁみさらせ !! )

人生に於ける全てに対し快哉を叫けぶ老いぼれ一匹、特に何の宛てもなかったのだが、大和の山麓を少し越えた間道の小さな茶屋で一服していると少しずつ行き先が見えてきた。

(旅なんかした事なかったな… )

どうせなら "普通の人間みたいに" 一度は天下の富士を拝んでみるか?


足は自然と東へ向かった。

















箱根の関所を越えた山中の峠道を歩く、その頃から(うなじ)辺りがヒリヒリし始めた事で茂平は漸く気を引き締めだした。

思い過ごしかも知れないが、何となく自分の周りに人が集まってきてる気がする。

見渡すと自分と同じような旅姿の人間ばかりで特に異常はないが、経験から来る危機意識が "何か" を告げていたのだ。

商人体の男、荷車を押す老夫婦、素浪人、若い娘の二人連れ、藩士風の集団…

茂平は背負っていた風呂敷を肩から外し、脇道に逸れると木の陰に座って煙管(きせる=パイプ状の喫煙具)をくゆらせた。

(ぼちぼちやな… )

ここまで来れば、目的地は誰が考えても江戸あるいは手前の清水や藤枝しか考えられない。だから必ず町へ出る前に追手は仕留めに来る筈だ。

しかも山中なら人目も少ないから仕掛け場所に事欠かない。

(粘り勝負か… )

僅かに力みを抜き、神経を研ぐが人が見れば旅に疲れた老人態だった。

「坊は未だか?」

老夫婦の会話が聞くとはなしに耳を障る。

そういえば自分にだって子供や孫ぐらい居たって不思議じゃない歳なのだが、この異形と謂える人生に悔いはない。

荒れ果てた痩せ地を往くような思いの連続だった人生は、今や揺り籠の記憶とも呼べる懐かしさで茂平を包む。そんな事を考えてると過去の様々な出来事が脳裏をよぎるが、やはり "アレ" 以外は何一つ面白い事など浮かんでこなかった。

(天守閣は傑作やったな!)

我ながら上出来だったと思う。

あんなに若く、しかも術の達者と対峙して逃げおうせた記憶は茂平に僅かながらの気力を取り戻しせしめた。

(まだ、ちびぃーとやれるんと違うか !? )

らしくない冗談めいた思考すら自然に湧き起こる始末だ。


「じぃじー、ばぁばー」

どこかで道草でも喰ってたであろう、その孫らしき子供が荷車の老夫婦に後から駈け寄ったのだが、小さな頭をはたかれ叱られる様は周りの失笑を買っていた。

しかし懲りない子供は先へ再び走り出してしまい、また叱責される恐れを自ら招く。

若い娘たちは何が可笑しいのか途切れる事なく笑い続けていて、この峠道をまるで通夜のような暗さから遠ざけているようだ。

足の遅い老夫婦以外は既に場を離れいたのだが、二人が押す荷車が音を立て近付いて来た。そして茂平の前を通過しようとした正にその時、菰(こも=イネ科の多年草 "マコモ" を編んで作った筵/むしろ)を掛けた荷台から何かが飛んで来た。

茂平はそれを見もせずに、ただ感じたまま座っていた木の根元から頭上の枝へと跳躍して逃がれた。

(吹き矢か!)

枝にしがみつき回転して樹上に立った瞬間、背中に激痛を感じ呻いた。

しかし反撃しようと体を反転させた時、茂平は痛みを忘れるほど驚いてしまった。

背中を刺したのは走り去った筈の子供だったのだ!

「お… お前!」

「とろいわ」

刺した短刀が引き抜かれたのを見ると刃の部分は青黒く、こんな老いぼれを始末するだけだというのに毒まで塗って念には念を入れていたのだ。それとも、余程に依頼主の神経を逆撫でしたのか?

そして、その子供は短刀を改めて心臓めがけて正面から深々と突き刺した。

「あんまり舐めた真似しとったらあかんぞ」

「お前…!」

「この老いぼれがっ」

子供… 間近で見てみると、どうやら見た目ほど幼くはないらしい相手は再び短刀を引き抜くと無造作に腹の辺りを複数回に渡って刺した。

そして茂平を街道とは逆の茂みへと蹴り落とし、自分も飛び降りると短刀に付いた血と毒を拭って布きれを巻いて仕舞う。

茂平に一瞥をくれて死が近いと判断したらしく、そのまま振り向いて去ろうとしたが、何かが気になったのか、踵を返して戻って来た。

「おい、お前なんで、あんなとこで糞ひったんじゃ?」

「お前… 」

「 …まぁええわ。お前の仕事は上手い事いっとったんや。余計な事さえやらんかったらな。」

「… 」

「黙って殺されときゃ良かったんや。それを糞たれやがって! 何の為にあんな "ぎょうさんの金" もろたんや!」

茂平は吐血し始めた。もう最期は近いらしく、その苦い味を飲み込むように最後っ屁を放とうと藻掻く。

「ざ… ざまぁみ… さ… 」

言い終わらない内に相手は茂平を茂みの奥深い斜面へと蹴り落とした。その力の込みようで "依頼主の怒り" が組織に対して崩壊しかねない程の大きなダメージを齎していた事が立証されたが、これで帳消しとなるのか?

そして、小さな刺客は今度こそ帰って来なかった。

(今日は腹が痛ぁならんかったな… )




谷底へ着く前に大きな木に引っ掛かり、茂平の体は転がるのを止めた。

流れる小川と木々が揺れる音に呼応していた鼓動が落ちつきを取り戻すのと入れ替わるように意識が途切れ始めている。

毒は全身に廻わっており身体の自由を完全に奪うが、一つ呼吸する毎に自分が確実に自由へと近付いている実感があった。

何にも縛られる事のない自由。生きる事さえ…

死への少し前、微睡むような時間の中で茂平は自身を受け止めた木の根元がひどく湾曲している事に気が付いた。

きつい斜面から生えたその樹木は陽の暗い部分を避けて明るい場所を求めるように、その身を途中から無理矢理に天へと曲げて伸びていたのだ。

(なんちゅー不細工な木や… )

その斜めに見える樹立ちに向けた思考が卒然と自分に重なり、それが最期の想いとなった。

(儂が歪んどるんや… 儂らが!)

動かなくなった茂平の姿は街道から窺えない位置で場所を変えず、まるで胎児が夢を見るような格好で朽ち果てた。

その表情は産まれた時と同様に何の感情も示さない能面のような顔で "斜めの樹" を野犬に喰われるまで見続けていたと謂う。




















大坂城の天守閣は清掃された為、茂平の痕跡は何処にも存在しなくなった。

身内も居ず、埋葬の手間も掛からなかった老人一人の記憶が人々の頭から離れるのに何程の日数が必要だったか、或いは "対峙した男" はどうだったろうか?

綺麗にされた屋根瓦だけが知っているのだろう。

その天守閣が近い将来に焼け落ちるのをまだ誰も知らない。

豊臣秀頼の母である淀様が自らの側近たちや徳川家の口車に乗って無駄に散財した記録は現代にまで伝えられているが、使途の大半は不明となっている。

織田信長の血を継ぐ誇り高い姫とその息子は何を思い、考え、行動したかは想像の域を出ないし、また在ったとしても全て灰塵と化してしまった。


そして、とば口は閉じられたのだ。



-完-


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