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短編大作選

心の瞳、瞳の心

「おはよう、ヒトミちゃん」

「あっ、おはようございます。ココロさん」

「少し遅れちゃって、ゴメンな」

「私は、全然大丈夫ですよ。寝坊ですか?」

「違うよ。ヒトミちゃんの家には、何回も来てるのに。ちょっと、迷っちゃったんだよ」


「ココロさんは、方向音痴ですもんね?」

「そうかな。そんなことより、早く行かないと遅れるぞ!」

「痛いです。もっと、優しく扱ってくださいよ」

「あっ。ごめんごめん」


 突然、握られた。強く引っ張られた。私の右手には、程よい痛みがあった。そして、ココロさんの左手のあたたかさが、伝わってきた。


 四年前に、初めて聞いた。そして、惚れてしまった、その声。優しさが滲み出ていた。ココロさんの心のように、透き通った声だった。それに今日も、うっとりしている。


 玄関に置いてある、バニラの香りの芳香剤。甘ったるさはあるが、心地よい香りだった。ココロさんの髪の、シャンプーの微かな香りも、素晴らしい。それらが、混ざったいい香りが、まだ鼻に残っていた。


 口が寂しくなった。包装を豪快に破り、キャンディーを口に入れた。舐め始めると、ミントの味がした。口の中がスーッとなった。清涼感と爽快感が、並走で広がっていった。




 ココロさんは、一から指導してくれた。恋がどんなものなのか、ほとんど知らなかった私に。ずっと、ココロさんと一緒に笑って過ごせたら、幸せなのに。そう思っていた。


 でも、告白に踏み切れなかった。それは、ココロさんとの間に、格差を感じたから。ふたりの、身長ほどの格差を。そんな時に、愛の言葉を投げ掛けられた。不意うちだった。


 愛の言葉で、私の心臓は暴れ馬になった。そのことを、今でもしっかりと覚えている。




「私たちが今いるところは、どこですか?」

「迷路のような、住宅街だけど」

「私を連れて行きたいところって、住宅街の中にあるんですか?」

「ち、違うよ。住宅街は、そこに行くまでにある、中間地点でね」


「ココロさん。もしかして、迷いました?」

「そうかもね」

「もう。どうするんですか?」

「何とかなるよ。ヒトミちゃんが、驚くようなことを用意してるから。楽しみにしていてよ」

「着くか不安ですけど、とても楽しみにしていますね」




 微量のなま暖かい風しか、吹いていない。強い日差しで、全身がとても熱い。汗が、全ての皮膚を流れた。何度も何度も、流れていくのが分かった。


 夏らしいセミの鳴き声。大好きな、ココロさんの喋り声。その二つの癒しのサウンドが、見事に合わさった。化学反応が起きていて、耳が心地良かった。


 時々、自動車が通る。車の排気ガスなどの、嫌なニオイ。それに、負けないくらいの香りがした。強くて甘い、くちなしの花の香りだ。それが、私をいい気分にさせてくれた。


 ココロさんが、持ってきた水筒を取り出す。そして、私に渡してきた。身体に電気が走るくらい、冷たい。スポーツドリンクの、少しの甘味と、ちょうどいいしょっぱさで、舌が喜んでいた。元気になれた。




 私はまだ、見たことがない。ココロさんのカッコいい顔を。生まれてから、一度も。これからも、無いだろう。ココロさんのカッコいい顔を、見ることは。


 私は5歳の時。突然、真っ暗になった。視界は、黒く塗りつぶされた。光を、ほぼ全て、失ってしまったのだ。


 でも、ネガティブにならず、前向きに生きてきた。女性に人気のある、ココロさんに出会って、恋をするまでは。




「今は、何が見えていますか?」

「綺麗な青空だよ」

「今、いるところですよ。聞きたかったのは」

「ああ、そっちね」

「分かりますよね」


「でもね。ヒトミちゃんに見せたいくらいの、雲ひとつない青空なんだよ。本当に綺麗な、青空なんだけどな」

「そんなに綺麗なんですか?」

「まあ、ヒトミちゃんよりは、綺麗ではないけどね」

「そういうのは、いらないです。そんなことより、ここはどこなんですか?」


「何もない場所だよ」

「また、迷ってないですよね?」

「あっあっ、うん」

「絶対、迷ってますね」

「迷ってないよ。すぐ着くと思うよ」

「あっあって言ったときは、必ず迷ってますけど」

「あー、そうなんだね」




 足の裏には、デコボコした感触。私の右手には、小刻みな震えが伝わってきた。右手は、ココロさんの左手と繋いでいる。焦りなのか、意地なのか。ずっと、振動が来ていた。


 少し強めの、風が鳴る。風で木が、揺れる音も聞こえる。遠くでは、沢山の人の喋り声がする。足音が変化した。地面に足を降ろす度に、大きな音が鳴る。砂利の音が、他のほとんどを掻き消した。


 癒されるような、緑林のニオイがする。ストレスや疲労を、薄くしてくれた。それが、段々と変わってきた。人の熱気混じりの、湿ったニオイになった。




 早めに着いた。ココロさんの、手の湿り具合で分かる。その場に、止まった。再び引っ張られて、足を動かした。甘い香りがした。


 ココロさんに勧められて、サルビアの花の蜜を吸った。ほんのり甘かった。今までに感じたことのない、好きな味だった。


「ちょっといなくなるけど、待っていてね」

「はい。ここはどこですか?」

「盛り上がる場所だよ」

「下から何か、出てくるとかですか」

「芝生は、盛り上がらないよ。イエーイの方ね」

「そっちですか」

「ずっと見てるからね。ずっとずっと」




 ココロさんとの出会い。それは、家の近くを歩いていた時のことだ。交通量が多く、いつも慎重に歩いている。杖を使い、横断歩道を渡ろうとした。その時、私を後ろから抱えて、止めてくれた。


 右折車が曲がってきたのだ。白線の上に、私がいるのに。車から、必死で守ってくれた。それが、嬉しかった。偶然にも、同じ大学に通う学生だった。それを知ったとき、また笑顔になった。


 ココロさんの優しさに惹かれた。でも、私は可愛くない。それに、目が見えない。誰とも、自然に接することができない。相手が、不自然になるから。


 それから毎回、迎えに来てくれた。大学に行く前に、必ず。ひとつ上の先輩だ。それだけで、階段5段分くらいの差を感じた。


 何で告白されたのか。何で私を好きになったのか。未だに、理解に苦しんでいる。敬語も抜けなければ、目が見えなくなった話もしてない。


 普通の人として、接してくれている。障害の話を避けている。特に、そんな様子はない。だから、私がココロさんを好きになる。そこには、沢山の理由があった。




 私から、ココロさんが離れて数分。マイクを通った、大きな声が聞こえてきた。ココロさんの声だった。


「今から歌うのは、ある人のために作った曲です。ある人を想い、ある人に心を向けて作りました」


 汗も流れてはいた。だが、汗ではない液体がすごい。目から皮膚を伝って、流れ落ちる。少しだけひんやり、冷たく感じた。


 私のための曲を、ココロさんが作って歌ってくれる。そのことに、瞳が耐えきれなくなった。だから、流してしまった。


「盛り上がっていこう?」

「イェーイ」

「もっと盛り上がろうね」

「ウォー」

「聞いてください『瞳』」


 歌い出した。一度も歌っているのを、聞いたことがなかった。だが、喋る声以上に優しくて、甘い声。綺麗な裏声も、素敵だった。ずっと、聞き惚れてしまった。


 期待していた以上のサプライズに、満足した。私は、微笑んでいた。ココロさんが、こちらを見ているのかは不明。だけど、好きだよという顔をしてみた。


「愛してるよー」


 曲の間奏。そこで、ココロさんはそう叫ぶ。また、フッと沸いた。雨が降ってきた。ぽつりぽつりと、手の甲に落ちる。熱狂する人々の汗のニオイ。そこに、独特なカビ臭さが合わさった。そんな、何とも言えないニオイがした。


 目は見えない。だけど、ココロさんがステージに立っている。その姿を、細部までしっかりと想像していた。きちんと頭の中で、形に出来ている。


「聞いてくれてありがとう」


 感謝にも取れる、曲の内容。私だと分かるヒロイン。それに、涙が止まらない。涙の塩分の、ほどよいしょっぱさが、口中に広がっていった。




 雨は止んだ。そんな時、ココロさんが私のところに戻ってきた。しっかりと、手を握ってくれた。涙は、止んでいなかった。


「ヒトミちゃんに、言いたいことがあるんだよね」

「何ですか?」

「ぼ、僕と結婚してください!」


「えっ・・・・・・あっ・・・・・・」

「ダメかな?」

「わ、わ、私には、その。私とココロさんでは、差がありすぎます」

「そんなことないよ」


「私は目が見えないんですよ」

「ヒトミちゃんには、心の瞳がある。普通の人と変わらないよ」

「・・・・・・あ、はい。・・・・・・わ、分かりました」

「結婚してくれる?」

「はい」




 恋というものが、私の心の弱さを生み出した。生み出してしまった。一回も弱音を、吐いたことのない私。なのに、弱音を吐いてしまった。それは、ココロさんのことを、本当に愛していたからだ。


 これからは、弱音を吐かずに生きていこうと思っている。私には、『心の瞳』という、最強の瞳があるのだから。今、私の心の瞳には、幸せそうなココロさんが、ハッキリと映っている。

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