9 手紙
イーデン様との婚約が決まって、私の生活は一変した。
まず、社交界で私の存在がセンセーショナルに取り上げられた。今まで私の存在は公にされていなかったため、フローレス伯爵家の娘はアイリスだけだと思っていた貴族の方々が多かったのだ。それから両親に似ておらず、今まで存在を半ば隠されていたことから世間の向ける目は好奇に満ちたもの。そのことで母が体調を崩されたそうなのだ。身重の体でこの状況は思わしくない。そして、私にとってもこの状況は良くないものであった。
「不義の子」の噂はあっという間に広がってしまい。母の体調が崩れたのは私のせいだと、父の私への嫌悪感が強くなってしまった。
だが、それよりも何よりも私の心を抉ったのは、クラーク侯爵家への出入りを禁じられたこと。
「婚約者がいるのに他家へ頻繁に出入りするのは心証が悪い。その代わりにミラー伯爵家へと出向きマナーや家のことを学んできなさい」
父は私の顔を見ることもなく言い放った。
心が壊れる音が聞こえた。
「はい、お父様」
自分の目の焦点が合っていないことが自分でもわかる。
頭が真っ白になる。
――もう、クラーク様と講義が受けられないということ? もう、クラーク様とお話しできないということ?
「カメリア様? 大丈夫ですか?」
自室に戻る途中、マリアが気遣わしげに声を掛けてくれる。
「えぇ、大丈夫よ。ありがとう、マリア」
自室に戻ると、全身の力が抜けて床にへたり込んでしまった。
「どうしよう……。クラーク様が味方になってくれるから、頑張れると思ったのに。もう会ってはならないなんて。……でも、そうよね。私はもう、イーデン様の婚約者なのだもの。しっかり、役目を果たさなければいけないわ」
本当はとっくに心は折れてしまった。私はまた、自分の感情を鈍らせる。苦しくない、辛くない、怖くない、寂しくない。――何も、感じない。
そうすれば、痛くないことを知っているから。
これがただのその場しのぎだってことも、分かっている。痛みを感じなければ「強い」ということではない、ということも。
けれど、今の私にはこれが精一杯。自分の心を守るためには、感情を鈍らせて心を消してしまうしかない。
――グリフィス先生の講義はこれまで通り週に一度受けられるのだし。学園に入学すればまた沢山勉強ができる。それまでに婚約者としての勉強を済ませてしまえばいいのだわ。
あと5年が途方もなく遠く感じられる。
――それまでに、イーデン様とも良好な関係を築かなくてはならないわよね。課題は山積みだわ。
これまでグリフィス先生に出されたどんな問題より難しい。けれど、解法はきっとあるはず。幸か不幸か時間はたっぷりある。気長に解いていこう。
――前に、進むのよカメリア。きっと悪いことばかりじゃないわ。
深く長く息を吐いて、立ち上がる。
よぎる不安を振り払うように、ノートを開いてこれからやるべきことを書き連ねた。
「カメリア、婚約おめでとう」
グリフィス先生はおめでたいなんて少しも思っていない苦い顔をしている。
「ありがとうございます。先生、顔に出てますよ」
「……お前の道は険しいものになるが」
グリフィス先生が苦い顔のまま話し出した。
「突き進みなさい。お前にはそれができる。そして、その道にいるのは決して一人ではないということを忘れるな」
グリフィス先生は懐から手紙を出した。
「これは?」
「お前の同士だ。ともに歩く仲間はお前が思っているよりきっと多い。支え支えられて私達は進むのだ。そうやって私達は強くなっていくのだ、カメリア」
手紙の送り主の名はサイラス・クラーク。
「クラーク様……?」
「そうだ。お前も手紙を書きなさい。私が届けよう」
グリフィス先生は私の頭に手を置いて微笑んだ。
「良いの、ですか……?」
「あぁ。カメリアは思い悩みすぎるからな。話し相手は多いほうが良いだろう」
そう言って悪戯っぽく笑った。
「ありがとうございます、先生。私、今なら何でもできそうなくらい嬉しいです」
「そりゃあ良かった。さあ、部屋に戻ろうか。授業を始めるぞ」
先生に促され、部屋に入る。アイリスがぼんやりと窓の外を眺めていた。
「待たせたな、アイリス」
「いいえ、二人でなんのお話をしていたのですか?」
アイリスの青い瞳が好奇心に満ちている。
「お姉さま、とても嬉しそうな顔をしているわ」
「ちょっと勇気を貰ってきたの」
「なんです、それ?」
アイリスはきょとんと首をかしげる。
「ほれ、二人とも。授業を始めるぞ」
グリフィス先生の声でアイリスは姿勢を正した。
――良かった、深く聞かれなくて。
アイリスはとてもいい子だ。純粋無垢で、天真爛漫なフローレス家の天使。年相応な無邪気さのあるアイリスに手紙のことを話したらきっと、お父様に話してしまうだろうから。若干心苦しくはあるけれど、黙っていたほうが良いだろう。
ノートに挟んだ手紙の存在が私の心を温めた。
自室に戻ってノートから手紙を取り出す。ふっと軽く息を吐いて手紙を開いた。
『カメリア・フローレス殿
グリフィス先生のご厚意で君に手紙を書いている。
まずは、婚約おめでとう、と言うべきなのだろう。婚約者のイーデン・ミラーのことは知る仲ではないが、フローレス、君のことは知っているつもりだ。君はきっとどんな状況でも、どれだけ心が挫けようとも自分の在るべき姿勢を崩さない。とても聡明で誠実な人だということを私は知っている。そして、自分からは決して助けを求めないということも、知っている。フローレス、君は私が思うより、そして君自身が思っているより強い人だ。その強さは君自身が苦しみながら勝ち得たものだ。きっとこれからも君は、君自身の力で強くなっていくのだろう。私はそんな君を心から尊敬している。ただ、願わくば君の進む道に私の存在があればと思う。私を頼らなくても良いのだ。ただ、君が一人ではないということを忘れないでほしい。私はいつでもフローレスの幸せを願っている。――サイラス・クラーク』
クラーク様の文字は丁寧で少し堅くて、彼の性格をよく表していた。文字を見るだけであの無表情な顔が簡単に浮かび上がる。いつも落ち着いていて穏やかな声が聞こえてくる。
クラーク様の手紙を木箱にしまう。これは「宝物」だ。私を知ってくれている人がいる。私を同士だと思ってくれている人がいる。
――私は一人ではない。