6 醜い心
グリフィス先生の元、クラーク様と勉強をし始めて一年が経ち、私カメリア・フローレスは8歳になった。
自立した女性になるべく、日々勉学に励んでいる。
そんな毎日の中、大きな変化があった。お母様が妊娠なさったのだ。冬に出産予定だという。アイリスは「お姉さん」になるのが嬉しいらしく張り切っている。次は男の子を、という雰囲気は漂いつつも屋敷の空気は祝福ムードだ。
私はなんとも言えない気持ちでいた。家族が増えることは喜ばしいことだと「理解」している。けれど私の心は正直だった。
――生まれてくる子は愛されるのかしら。アイリスのように。それとも私のように……。
私はどちらを望んでいるのか。出てきた答えにぞっとした。
――嫌だ。こんな私は、嫌だ。
自分の中の汚い部分を初めて知った。心も頭もぐちゃぐちゃになる。怖い。嫌だ。違う。私は、そんな酷いこと望んでない。
混乱した私は屋敷を飛び出した。門の外には出られないことは知っている。だから行く場所は決まっているのだ。
屋敷の裏にある植物園。ここは先代、つまりお祖父さまがご健在のころにお造りになったものだ。亡くなられてからは私しか出入りしないので、植物たちは好き放題伸び切っている。剪定の技術もないし、庭師にお願いする勇気もないので、私は水やりをしてひたすら成長させているのだ。
私の背よりも高い植物の陰に隠れてしゃがみ込む。
「私、最低だわ」
今まで、苦しいことは沢山あった。不安や不満も沢山あった。それでも、負の感情を誰かに向けたことは一度もない。いつだって原因は自分の中に探していたから。
けれど今日、初めて人を疎ましいと思った。これから生まれてくる、私の兄弟に。
「なぜ、アイリスのようになれないの。喜べないの。私、〈お姉さま〉なのに」
自分が醜くて情けなくて恥ずかしくて、涙が出た。
――こんな私は嫌いよ。
そうして「隠さなければ」と思った。生まれて初めて、大きな秘密を抱えている。誰にも、知られてはならない。知られれば、グリフィス先生もクラーク様もきっと失望するに違いない。あの二人に失望されたら、今度こそ私の心は壊れてしまう。
本日もクラーク侯爵邸の図書室で勉強をしている。ただ今日はグリフィス先生が別室でクラーク侯爵と新しい研究の打ち合わせを行っているため、ほとんど自習である。
「フローレス、何かあったのか」
クラーク侯爵邸の図書室でグリフィス先生から与えられた課題を解いていると、クラーク様が私の顔を覗いて尋ねた。この一年結構な頻度で顔を合わせていたため、クラーク様とは大分打ち解けたと思う。最近では、無表情なクラーク様の感情がなんとなくわかるようになってきた。その逆もまた然り。クラーク様も私の些細な変化に気付いてしまうのだ。
「何もないですよ?」
咄嗟にニコリと笑って返すも、クラーク様は納得しない。
「そんなはずはない。ほらここ、誤訳している」
クラーク様が指さした箇所に目を落とすと、確かに間違っている。
「それに」
黄みがかった緑の瞳が私を捉えた。
「フローレスはそんな風には笑わない」
「……っ」
繕った笑顔が引き攣っているのが自分でもわかった。
「話してはくれないか? 友人が困っていたら力になりたい。私では力不足だろうか?」
「そんなことは――! ……ないのですが」
言い淀む。クラーク様の心遣いが私の良心を締め付ける。
私は自己保身のために黙っているのだ。「嫌われたくない」という利己的な心で。
クラーク様の顔を見られなくて俯く。
――どんどん嫌な人間になっていくわ。
自分を守るためだけの嘘が、私を醜い人間にしていく。
「フローレス、顔を上げてくれないか」
クラーク様の静かな声が図書室に響く。
おずおずと顔を上げるとクラーク様と目が合った。
「私にフローレスの抱える問題を解決できるとは思わないが。少なくとも私の前では無理に笑わなくても良い。繕わなくても良いのだ」
「……はい」
私の顔はきっと歪んだ泣き顔だろう。泣くのを堪えた、とても人に見られていいものではない。
「それでいい。辛いときは辛いと言えば良い。泣きたいときは泣いたら良いのだ。我慢しすぎるのがフローレスの良くない癖だな」
そう言ってクラーク様は私の頭を撫でた。グリフィス先生に似てきたな、と思いながら堪えきれなくなった涙がはらりと落ちた。
「……私、クラーク様に失望されたくなくて」
ぽつりと出た言葉はあまりにも弱々しかった。
「私がフローリスに失望すると?」
クラーク様が不思議そうな顔をする。
「私、酷いことを考えてしまったのです」
唇が震える。
クラーク様は静かに私の言葉を待ってくれている。
「母が、妊娠したんです。皆、とても喜んで……でも私――」
自分がとんでもないことを口に出そうとしているとわかる。呼吸が浅くなっている。
「生まれてくる子が、私のように両親から愛されなければいいのにと、思ったのです……っ」
涙が溢れる。
――怖い。
この期に及んで私が恐れているのは、クラーク様に嫌われてしまわないかということ。そんな自分に嫌気がさす。
「フローレス」
クラーク様の声に肩がびくりと震えた。
「私は失望などしない」
クラーク様の声はいつもより強くて、怒りを孕んでいるようだ。
「クラーク様、怒っていらっしゃいますか……?」
不安げな私の顔を見て、クラーク様は何かを抑えるように眉間にしわを寄せて目を閉じる。
「フローレスにではない。君のご両親にだ」
そうして深く息を吐いた。
「今まで、ずっと一人で耐えていたのか」
クラーク様は長い睫毛を伏せて呟いた。
「そうか……我慢しすぎる癖もご両親の影響か」
今まで聞いたことのない、怒気に満ちた声に肩が震えた。
「すまない、フローレス。怖がらせてしまったな」
そう言うとクラーク様は深く息を吐いて軽く頭を振った。
「いえ、クラーク様に嫌われなくて、よかっ、た」
遅れてやってきた安堵が再び涙腺を決壊させる。
「嫌いになどなるものか。フローレス、君は何も悪くない」
クラーク様はポケットから取り出したハンカチで私の涙を拭いた。
――人前で泣くなんて、初めてだわ。
情けないし恥ずかしい。けれど、心は随分と軽くなった。