26 帰省
馬車に揺られ窓から眺めるのは見慣れた風景。フローレス伯爵領に着いたのだ。前方に屋敷が見えてきた。バクバクと騒ぐ心臓を深呼吸で宥める。
屋敷に着くと少ない荷物を御者に運び入れてもらう。出迎えてくれたのはメイドのマリアだった。
「お帰りなさいませ、カメリアお嬢様」
「ただいま、マリア」
マリアの顔を見るとほっと心が落ち着いた。
「アイリスとアーサーは変わりないかしら。元気にしている?」
「はい。今はグリフィス様の講義を受けていらっしゃいます」
「良かった。グリフィス先生もいらしているのね」
――お帰りになる前に顔を見られると嬉しいのだけれど。
「それと、お嬢様。旦那様がお呼びです」
「……。分かったわ。荷解きをしたらすぐ向かうと伝えてくれる?」
「かしこまりました」
マリアに申し付けて自室に戻る。少ない荷物はすぐに片付いた。イーデン様から話は伝わっているのだろう。きっと色々と尾ひれをつけて。
「お父様、カメリアです」
「入れ」
ドアをノックすると中からお父様の低く冷たい声がした。
「失礼します」
「お前はどこまで家名に泥を塗る気だ? 自分の程度を知れ。つけあがるなよ、お前に価値などない。お前が存在するだけでセシリアを苦しめているということを忘れるな」
お父様の青い瞳が私を突き刺す。声が、言葉が私を貫いていく。セシリアとはお母様の名前だ。私を産んだことで心を病んでしまった、悲劇の伯爵夫人。
「承知いたしました、お父様」
目を逸らさなかった。私を憎む父親の瞳を真っ直ぐに見返した。恐れはなかった。私の中で何かが弾けたのだ。この人に愛されようと努力するのは、やめる。私はこの人を愛せない。この人の愛など要らない。そう思うと、目の前で自分に嫌悪感をむき出しにしている男はもう、怖くなくなった。
私が怯まないことが意外だったのか眉間の皺を一層深くして、お父様は手を振った。
「話は以上だ、戻れ」
「はい。失礼します」
廊下には心配そうな顔をしたマリアが控えていた。彼女にニコリと微笑むと、目を丸くしてそれから涙ぐんだ。
「どうしたのマリア、どこか具合でも悪いの?」
慌てて駆け寄るとマリアはフルフルと頭を振った。
「いいえ、お嬢様。違うのです。お嬢様がお強くなられて、マリアは嬉しいのです」
そう言ったマリアの頬を涙が流れる。マリアの涙に胸がいっぱいになった。
「ありがとう、マリア」
私はもう、心無い言葉に惑わされない。目の前で涙を流すマリアは、私を想ってくれている。私のことを大事に想ってくれている人を、私は愛したい。血のつながりなど重要ではない。親だって子を愛するとは限らないのだから。私は自分の心に従って、大切な人たちを愛していけばいい。マリアの涙を拭いながら思った。
「お姉様! おかえりなさい!」
「おかえりなさい!」
二人の天使が私に飛び込んできた。
「ただいま、アイリス、アーサー」
よろめきつつも受け止め、二人をぎゅっと抱きしめる。
「姉様、僕グリフィス先生に褒められたのですよ! 詩を書くのが上手だって!」
8歳になったアーサーは得意げに頬を紅潮させて私を見上げる。その姿が愛おしくて頭を撫でる。
「凄いのね、アーサー。そんな才能があったの?」
「アーサーばかりずるいわ! お姉様、私も前より上手に刺繍できるようになったんですよ!」
張り合うように主張するアイリスが可愛らしくて笑ってしまう。
「そうなの? あとで見せてくれると嬉しいわ」
そんな私達の姿をグリフィス先生が微笑まし気に見守っていた。
「おかえり、カメリア。随分成長したようだな」
グリフィス先生の深い青色の瞳が細められる。何もかもを見透かしてしまうような先生の瞳が懐かしい。
「ただいま戻りました。先生。学園は面白い人が沢山いらっしゃって、毎日良い刺激を貰っています」
「そのようだな。強く、逞しくなった。良い変化だ」
嬉しそうに笑うと、先生の大きな手は私の頭を撫でた。
「今度、土産話でも聞かせてくれ」
「はい、是非」
先生はそう言ってお帰りになられた。
「姉様、僕の書いた詩読んでください!」
私に抱き着いたアーサーの青くてくりくりした瞳が私を見つめている。
――なんて可愛いの、私の弟。
「私の刺繍も見てください! 今部屋から持ってきます!」
アイリスはそう言って駆け出した。その背中に呼びかける。
「走ると危ないわ。私は待っているから急がなくても平気よ」
二人に慕ってもらえることが嬉しくて仕方がない。姉様、姉様と私を呼ぶ声が愛おしくてたまらなく幸せだ。
「少し背が伸びたわね、アーサー」
「はい! 野菜も残さずに食べられるのですよ。でもアイリス姉様はまだニンジンが食べられないのです」
耳打ちするように小声で教えてくれる。
「あら、そうなの? それではアイリスの身長は今に抜いてしまうわね」
ニシシと笑うアーサーにつられて頬が緩む。アーサーの金色の髪に指を通す。
――きっとすぐに私の背も追い抜くのね。
成長したアーサーを見て感慨深く思う。彼が生まれる前、私は恐れていた。生まれてくる兄弟を愛せるか。自分はこの子の不幸を願っているのではないかと。
「姉様?」
微笑みながら髪を撫でる私を、アーサーは不思議そうに見つめる。
「姉様はアーサーのことが大好きよ」
心配なかった。私は両親の愛を一身に受けてすくすくと育つ、弟のことを愛している。私を姉と慕ってくれるこの子のことを愛している。アーサーの成長を喜び、彼の幸せを願っている。
「僕も! 姉様のことが大好きです」
天使のように笑うアーサーを見て、あの頃の自分が成仏したような気がした。
――カメリア、あなたが恐れることは何もなかったのよ。私の弟はこんなにも可愛くて愛おしいもの。
思い悩み泣いている昔の自分に、小さなカメリアに向けて心の中で囁いた。
私は確実に変わってきている。昔の自分を慰められる日が来るとは、恐怖でしかなかったお父様を見限る日が来るとは思わなかった。これからもきっと、思いもよらない進化を遂げることができる。
愛おしい弟の笑顔を両手で包みながらそう思った。




