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第五話




 蒼汰が気づくと、夜になっていた。窓の外も、照明の点いていない部屋も真っ暗だった。いつの間にか、気を失うみたいに眠っていたのだ。

 意識を取り戻して、身体を起こす。そのまま耳を澄ませると、階下で物音がした。複数の物音で、特にキッチンから食器を扱うカチャカチャという音が聞こえる。恐らくは、母親が夕食の準備をする音。


 緋影一家は、両親が共働きである。同じ会社に務める二人は、ほぼ同時刻に帰宅する。つまり、母がいるということは父も帰っていることになる。

 今日は終業日であった為、学校からは通知簿を持って帰ってきている。これを両親に見せねばならない。蒼汰は荷物から通知簿だけを手に、一階へと降りる。


「おかえり、父さん。母さんも」

 リビングに入って、まず蒼汰は挨拶をした。

「おう、蒼汰。ただいま」

 母の分も合わせて、父が挨拶を返した。母は夕食の準備で手が離せない様子。返事をする余裕も無いようだった。


「通知簿、持ってきたよ」

「おう。……それより蒼汰。晩飯の前に話がある」

「話? なに?」

「まずは母さんのやることが終わってからだ。ちょっと待て」

 父の言葉の意味が分からず、蒼汰は首を傾げる。何よりも、声色からして少し怒っているようにも聞こえた。


 何にせよ、今は待つしか無かった。母の料理が完成するまで、ぼんやりとリビングに座って待つ。普段なら妹もリビングに居るはずだったが、なぜかこの日は居なかった。

 部屋にでもこもっているのだろう、と予測する蒼汰。


やがて夕食の準備が終わり、母もまたキッチンからリビングに足を運んだ。

「ただいま、蒼汰」

「うん。おかえり母さん」

 普段どおりの挨拶を交わす。だが、なぜか母親までもが僅かに怒りを帯びる声色をしていた。


 父と母。そして息子。三人がリビングのソファに座り、向かい合う。

「蒼汰。まずは言わせてもらうが、父さんと母さんは怒っている」

「……どうして?」

「遥ちゃんと喧嘩しただろう?」

 ――何故、そんな話になるのか。蒼汰にはまるで理解できなかった。


「今日な、帰ってきた時に玄関先で遥ちゃんと会ったぞ。目を真っ赤に腫らしててな。どうしたのか、って訊いたら。なんでも無いって言っていたよ。どう見てもそんなはずがないし、それならうちに来る理由がない。それで、蒼汰と何かあったのか、と聞いたらな」

「蒼汰は何にも悪くないから、って。遥ちゃん、何回も念押ししてきたのよ」

「その上で、教えてくれたよ。蒼汰、お前遥ちゃんと遊ぶ約束すっぽかしたんだってな?」

 父と母は、玄関先で起こった出来事について説明した。


 つまり、こうだ。

 玄関先で泣いていたらしい遥と会った。

 その原因が蒼汰にあると推測した。そして話を聞いた結果、泣かせた原因が実際に蒼汰にあると分かった。

 だから、蒼汰が悪い。

 シンプルな、当然の結論だ。


 だが、蒼汰にも言い分があった。

 遊びに行く約束なんてしていない。告白するために呼び出しただけだ。

 そして……告白する以前に、遥には嫌われていると分かった。だから、合わせる顔が無くて逃げ出しただけだ。

 そう、説明したかった。


 しかし、蒼汰が口を開くより先に両親が揃って責め続ける。

「あのなあ蒼汰。別に喧嘩しちゃいかんってわけじゃない。父さんも、母さんと喧嘩することはある。でもな、女の子を泣かせておいて、しかも謝らないってのは意地が悪すぎるだろう。男として恥ずかしいぞ、それは」

 分かる。蒼汰にも、父の言い分は理解できる。だが違うのだ。自分は確かに男として恥ずかしいかもしれない。しかし、そもそも遥にとって自分はそんなに大きな存在じゃなかったんだ。

 と――言い訳したくとも、喉が緊張のあまり震えて声も出ない。


「本当に蒼汰ったら……小さい時とまるで変わらないんだから」


 母のその言葉が、トドメとなった。


「どうせまた下らないことで意地張って、遥ちゃんを困らせてるんでしょう。とっとと謝ってきなさい。ちゃんと仲直りしてくるまで、ご飯は抜きだからね」


 ――気がつくと、蒼汰は震えて、涙を流していた。俯いているせいで、長い前髪が邪魔になっているせいで。両親は気付いていなかったが、蒼汰は泣いていた。

 この時、息子が泣いているということに二人が気付いていれば。未来は少しでも、変わっていたのかもしれない。


 だが……タイミングも、運も悪かった。この日の蒼汰には、最早両親の誤解を解こうとする元気も気力も残っていなかった。

 ただ言われるがままに打ちのめされることしかできなかった。



 思えば、と蒼汰。思えば、昔からそうだった。

 昔から自分は、天才的な妹や幼馴染と比べられていた。出来が悪かった。そんな蒼汰を、いつも両親は慰めた。

 その代わり……期待されなくなった。悪意なく、ただ事実として。妹やお隣の娘さんに出来ることを、息子は出来ない。それは当たり前のことだった。だから、出来なくても仕方ない、という前提から全てが始まるようになった。蒼汰は失敗をする。そこから話が始まるようになった。


 しかし、子供の頃の蒼汰はそれが嫌だった。自分も妹や幼馴染のように、期待されたかった。だから張り合って、努力して、懸命に頑張って――それでも二人の女の子には勝てなくて。仕方ないこととして、当然のこととして両親に処理される。慰めの言葉など、求めていないのに。欲しくもない優しさで包まれて息苦しくなる。


 野球を始めてみたりもした。女の子には出来ないことだから。父の一番好きなスポーツだから。野球でプロになると言えば、きっと期待してくれると思ったから。

 だが、結果は同じだった。両親は、蒼汰がプロになるとも、そもそも野球部で活躍するとも思っていなかった。

 プロになりたい、と宣言したときもそうだった。父は『やれるだけやってみなさい』と言って、決して成し遂げられないことを前提に話を始めた。母は『もしプロになれなくたって、人生はいくらでも選択肢があるから、どうにかなるのよ』と言って、蒼汰が将来転げ落ちることを、すでに事実として確定していた。


 そうして、別に好きでもない野球の道を、プロになりたいと言ってしまったがために進むことになった。夢を追いかけるなら、本気でなければいけない。そんな両親の呪縛だけは背中にのしかかって。けれどやはり、プロになれるとは思ってもらえなくて。

 だからせめて、文武両道。立派な学生として見直されたいと思った。勉強も部活も頑張った。部長、つまり野球部のキャプテンにも任命された。

 しかしやはり、蒼汰は失敗する。その前提から話は始まるのだ。どうせ甲子園に出場などできない、チームを引っ張ることなど出来ない。そう思われながらも『やれるだけやってみなさい』と努力は課せられる。


 いつも。いつもいつも。

 そうやって、蒼汰は努力することだけは期待されていた。


 今だって――遥という天才が正しくて。自分の言い分なんか存在するはずがなくて。謝罪し、遥を肯定し、自分がへりくだることを求められている。

 それが、蒼汰はたまらなく悔しかった。


 まさか、そうだったなんて。

 幼馴染や妹と同じように。

 両親まで――自分の価値を認めてくれないだなんて。

 自分という意思の存在を、認めてくれないとは思っていなかった。


 蒼汰は確かに否定された。今この場所で。全ての理由も根拠も言い分も捻じ伏せられ、遥への謝罪と責任を取ることだけ求められている。

 そこに蒼汰が味わった悲しみ、苦しみが介在する余地は無く。蒼汰という個人が『悪くない』可能性など考慮されておらず。

 やはり蒼汰は失敗する。そこから話は始まっており。


 そんな奴だと……失敗する存在として、一周回って期待されていると知ってしまった。


 じゃあ、もうそれでいいや。

 蒼汰は『諦めた』。


 両親に期待されることも。自分にだって価値があるかもしれないという可能性も。努力することも、言葉を交わして分かり合うことも。

 何もかも『諦めて』しまった。


 どうせ最初から存在もしなければ、手に入らないものだったのだから。

 だから――悲しくて、涙は溢れてしまったけれども。

 それでも蒼汰は、産まれて初めて『両親の期待に応える』ことにした。


 絶対に『謝らない』。緋影蒼汰は失敗をするから。

 だから『ご飯も食べない』。緋影蒼汰は何も望まれていないから。

 そして『もう話もしない』。緋影蒼汰は何一つ手に入れられないのだから。



 ……静かに。本当に静かに、ゆらゆら、ふらふらと立ち上がった蒼汰。

「ど、どうした蒼汰?」

 様子がおかしい。それに親としての二人が気付いた頃には、もう遅かった。

 取り返しがつかないぐらいまで、蒼汰は『諦めて』しまった。


 だから応えない。

 まるで死体、ゾンビにでもなったような足取りでリビングから離れる。二階へ、自分の部屋へと引き篭もる。

「ちょっと、蒼汰!? これから晩ごはんよ!?」


 いいよ。もう俺は謝らないから。

 死ぬまで『ご飯は抜き』だ。


 そんな言葉は、結局蒼汰の口からは出なかった。

 何を言ったところで、そこに意味など存在しない。何も生まれない。何も変化しない。

 だから黙って、蒼汰は二階に向かう。両親は、ついに決定的に、蒼汰という存在を理解できなくなってしまう。

「おい、蒼汰ッ!!」


 父の怒鳴り声さえ、最早蒼汰には響かない。

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