第一話
新連載を始めます。
既に連載中の作品とは別で、こちらの作品も書いていきたいと思っています。
二本同時連載なので、片方だけで見れば更新頻度が落ちてしまいますが、どうかよろしくお願いいたします。
夏の日の朝。冷房も稼働していないじりじりと暑い部屋で、青年の意識は泥から浮かぶように覚醒した。
「――お兄ちゃん」
青年を呼ぶ声が聞こえる。だが、青年は覚醒しない。惰眠を貪る、という願いの為に。何より――声の主の呼ぶとおり起き上がるのは、屈辱的だったから。
「起きてよ、お兄ちゃん……」
まるで謝罪するような、震えた声。これ以上騒がれると、それはそれで不都合でもある。惰眠の魅力。枕元に置いた時計の示す時刻。これらも合わせ鑑みて――青年は起床した。
彼の名は、緋影蒼汰。平凡な、ごく一般的な青年である。
「お、お兄ちゃん」
「うるさいな、黙れよ」
家族仲が、極端に悪いことを除けば、だが。
蒼汰を呼び起こす声の主、妹の緋影千里は泣きそうな顔でうつむく。「……ごめんなさい」と呟き立ち尽くす。
だが蒼汰は、その謝罪を受け取らない。ただ、邪魔なものを見るような視線を向ける。
「謝れなんて言った覚えは無い。黙れっつったんだよ」
「……っ!」
蒼汰への謝意さえ受け取ってもらえず。千里は一滴の涙を落としながらも、要求どおりに黙って引く。部屋を離れ、兄の前から姿を消す。
これでいい。と、蒼汰は考えていた。こんな奴らを、大切に扱う必要はない。十分にお互い様なんだ、と考えた。
そして蒼汰は服を着替え、学生服に袖を通す。今日は一学期の終業日であり、明日から当分は袖を通さなくても良い学生服。そこに感慨は無い。喜びも、悲しみも、何も。ただ、虚しいだけの思いが蒼汰の心を梳く。
学生服姿で、蒼汰は自分の部屋を出た。部屋のある二階から階段を下り、ダイニングとリビングの前を通る。
「――蒼汰、朝ごはんは?」
朝食の席に着いていた、母が蒼汰に呼びかけた。だが、蒼汰は返事もしない。そもそも、朝食の席に蒼汰の分の食事は無かった。そもそも、蒼汰が母の料理を決して食べない、ということを理解しているからだ。
誰も、最早蒼汰の為の食事を用意しない。それがこの家の、家族の、緋影一家の常識であった。
蒼汰は黙って玄関に向かい、靴を履く。とっととコンビニにでも向かい、朝食代わりのおにぎりと、昼食用の何かを買わねばならない。家族と無駄口を叩く気にはなれなかった。
何より――今更善人ぶって、心配しているような態度をとられても、不愉快なだけだった。
蒼汰は、両親を信用しない。
妹のことも信用していない。
家族だけでない、誰一人として――蒼汰は、対話する価値が無いと考えていた。
靴を履いたところで、思い出す。そういえば――昨日買ったバナナの余りを冷蔵庫に入れていたな、と。
靴を脱いで、引き返す。家族の一切を無視して、冷蔵庫からバナナを取り出す。
「おい、蒼汰」
父が、硬い声で呼ぶ。だが蒼汰は相手にもしない。無視するだけだ。
「……いいかげんにしろッ!」
怒鳴り声が響く。しかしやはり、蒼汰は無視した。
「お前が住んでるこの家も、使っている冷蔵庫を動かす電気代も、父さんと母さんが働いて稼いだお金を払っているんだぞ。そういう態度をとっていいと、本気で思っているのか!? どうなんだ!」
「……じゃあ電気代ぐらいは払うって、前から言ってるだろ」
まとわりつくような父の怒りに、ついに蒼汰は答えを返した。
「そういう問題じゃない! お前は子供だ、親の世話になっている恩を忘れるな、と言っているんだよッ!!」
だが、父の怒りは収まらない。
「――じゃあ、殺せよ」
蒼汰は――憎悪に染まった目で父を睨んだ。
「そんなに恩返しも出来ない息子が邪魔だっていうなら、殺せよ。電気代も、宿賃も取る必要無くなるぞ」
「……ッ!! 親に向かって何だ、その口の聞き方は!」
「俺はあんたらを親だと思ってない」
それを最後の言葉にして、蒼汰はその場を離れる。
「おい蒼汰、話はまだ途中だろうがッ!!」
呼び止められるが、構わない。最初から――自分など、家族ですらないのだから。上辺だけで怒鳴られても、叱られても、意味は無い。
そう考えている蒼汰の目には、憎悪の炎が燃えていた。映るもの全てを、自分までも焼き尽くしてしまいたいと願うほどの憎悪が。
「――はぁ、生まれてこなきゃ良かった」
誰に言うでも無く、蒼汰の口を衝いて言葉が出た。
その、あまりにも悲観的な言葉に、父は言葉を失った。不安げに見守るだけだった母は、涙を流し、嗚咽を漏らして泣き崩れる。その背中を擦って、慰める妹の千里。
それでいい。その三人で十分だ。完結してるじゃないか。
なんで――俺なんか生んだんだよ。家族に入れようとするんだよ。近づけば、邪魔者扱いするくせに。ゴミ扱いするくせに。
蒼汰は、自分でもどうにも出来ない怒りを燃やしながら、家を出た。たった一本のバナナを朝食代わりにしながら。