予譲
ウソ歴史
実在する個人、団体等とは一切関係ありません。
近年、出版不況により作家の存亡が危ぶまれる中、作家と読者との新しい繋がりを模索する動きが活発になりつつある。
その一つに投げ銭がある。作品や作家の人間性に惚れ、次回作に期待を寄せて活動資金を供与するのだ。
私は投げ銭が話題にのぼるたび、ある一人の男を思い出す。
次回作への資金の供与。つまり作者に金銭を……予め譲る。そう、予譲である。
予譲。中国、戦国時代の晋の刺客。
「士は己を知る者の為に死す」とは彼の名言であり、座右の銘とする者もきっと多いことだろう。
ある時、智伯という晋の有力者が同じく晋の趙襄子の城を攻める。攻勢にありながらも離反策により敗死する。
その智伯に予譲は仕えていた。
危機を脱した趙襄子は智伯の頭蓋骨を漆塗りの酒盃に仕立て、見世物とした。
亡き主君の弔いか、辱めへの報復か、予譲は仇討ちを決意する。
某日、趙襄子の館に潜伏するもいわば敵陣、分が悪かったのか事を為せずに捕らえられた。
しかし罰せられるどころか忠義者だと感心されて咎められることはかった。
害意は露見した、策も無しに再度挑んでも勝算はない。
予譲は物乞いに身をやつし、仇討ちの機会を窺がった。一瞬でもいい、趙襄子の不意を衝くためならと、その身を痩せるに汚れるに任せた。
誰かが言った。服従した振りをすればいい、騙し討ちならイチコロだろうにと。
しかし予譲は己を貫いた。
そのひた向きさ、ついつい応援したくなるのが人情という物だ。
私は街で見かけた予譲に幾ばくかの金銭を恵み、熱く声を掛けた。
「君ならできる!」
このやり取りを不審に思う者が居た。彼こそが趙襄子、予譲がつけ狙う当人である。
彼は予譲を驚きの眼で二度見した。風貌から人相まで記憶の男とは大違いだ。しかしながら隠し通せぬ殺気により、目の前の男が予譲だと見抜いた。
予譲はその場で捕らえられた。
趙襄子は訊ねる。
「お前は主を失う事三度目のはず。なのに何故私だけを仇とする。解せぬ話だ」
「それは智伯様だけが私を認めてくださったから、言わば真の主だからです」
「あくまで忠義に殉じるのだな。まだ私を狙う気なら、もはや情けは掛けられない」
「この期に及んで命乞いはしません……。されど、もし厚かましい願いが許されるなら」
(予譲の鋭い眼光に私の背筋が凍った)
「なんだ」と趙襄子が広量を見せた。
「今お召しの物、その衣を与えていただき、それを斬りつけることで智伯様の無念を晴らしたいのです」
言い終えぬ内から趙襄子の従者が無礼だと騒ぎ立てる中、趙襄子は脱いだ衣を側近に届けさせた。
予譲は衣に幾度か斬りつけ、間を置かず自ら命を絶った。
私の応援が一つの悲劇を生んだのかもしれない。しかし同時に一つの作品が残った。
予譲、彼は刺客道に生涯を賭した。さすれば、今、私が所有するボロ同然の衣。これはもはやピカソのハンカチ、濱田庄司の大皿に等しい。