その2 間違っている!
お兄さんが家にやってきた。一応それなりに集中して勉強をしてみたがどこか上の空なのは自覚がある。
その様子にお兄さんが気付かないはずがなかった。
「大丈夫? 顔色あんまりよくないけど」
「えっ、あ、ああ。ごめんなさい。大丈夫」
「少し休憩しようか」
微笑んでくれるお兄さん。いつもならそれだけで元気になれるのに、今は全くと言っていいほどテンションは上がらない。
「あのさ、お兄さん」
私は怖々と聞いてみることにした。
「最近ね、少し痩せたんだよ」
「うん……そうみたいだね」
「ちょっと可愛くなったかな?」
そう尋ねるとお兄さんは苦笑する。
それを見て可愛くなんかなっていないことにはっきりと気付いた。戸津が言っていたことは嘘ではなかったんだ。
「ね、優奈ちゃん。ちゃんと食べてる? お母さんも心配してたよ?」
「食べて、ます」
「そう……」
お兄さんは依然と口元に笑みを浮かべながら、静かに呟く。
「今日はもう疲れちゃったし、また来週にしようか。ね?」
「うん……」
そうして今日の勉強は早めに終え、お兄さんを玄関で見送った。扉が閉まるとまたぼんやりとした頭で階段に足をかけ二階の自室へと向かう。途中でお母さんに夕飯はどうするのかと尋ねられたが、なんて答えたのかはっきり覚えていない。
何が間違っているの?
ベッドに腰掛けて自問自答してみるが、回らない頭では何も答えを見つけることはできなかった。
ただ一つだけ、お兄さんと話してわかったことがある。
私の努力は認められなかった。
これが悲しみで、悔しさで、そして自分自身への嫌悪感だった。
◆
「食え」
戸津がそう言って私の机の上にコンビニの袋をがさりと置いた。
代わりにテーブルに置いてあったゼリーは戸津に取られてしまった。
「何? これ?」
「飯だよ。奢りだから食え」
半透明のビニール袋。その中におにぎりが一つと、チキンサラダが一つ入っているのがわかった。
「いらない」
私がそう言うと戸津はおもむろに自分の席から椅子を引っ張り出してくる。私と春ちゃんが向かい合って食べているその横に彼は椅子をつけそこに座り込んだ。
「食うまでどかねえ」
「やだよ」
「食え」
「やだ」
「いいから食え」
戸津は袋を漁り、私の目の前におにぎりとチキンサラダを並べる。
一体なんのつもりだ。
私が戸津を睨むと、戸津も睨み返してくる。それを見て春ちゃんがいずらそうにそわそわして、私と戸津を交互に見ているのはわかった。だけど私のダイエットの邪魔をする彼に私だって簡単に折れるつもりはない。
「邪魔しないでよ」
「どいてほしいんだろ」
飽くまでもどいてほしいなら食えと言う。なら私がどくまでだ。
そう思って立ち上がると、今度は戸津が腕を掴む。
「ここで食え」
「やめてよ。なんで命令されないといけないの」
私が腕を振り払おうとした矢先だった。思わぬ言葉が彼の口から洩れる。
「痩せたいんだろ」
え?
「痩せたいならちゃんと食え。話はそれからだ」
一体何を言ってるの?
そりゃ食べながらちゃんと痩せていく方が体にいいに決まってる。でもそれができないからこうして苦しんでるんじゃない。
「俺はダイエット詳しくないから少し調べたんだ。どうしてもやりたいっていうなら、それなりに食え。話はそれからだ」
「いや。おにぎりなんて太る」
それを聞いて戸津はどこからか印刷してきたインターネットのページを私に開いて見せる。それからおにぎりのページを開いて指をさした。
「どうしても食いたくねえっていうなら程々の糖質制限と運動をすりゃいい。炭水化物は制限中でも一日百グラムまでならいいんだってよ。おにぎりに含まれる炭水化物はざっと五十グラムだ。根野菜にもドレッシングにも糖質は入ってる。それを考えるとそれでも一日一つは問題なく食っていい計算になる」
そういうと今度は紙を一枚めくり次のページを開いた。
「肉は食っていい。肉は重要なタンパク源だし、多すぎなければ脂質はそんなに問題にならねえ。特に赤身や鶏のササミは腹持ちもいいし脂肪も少なくてダイエットにもってこいだ。ダイエット中はタンパク質が少なくなるから、肉以外にも積極的に豆腐や納豆などの大豆製品や魚は食べろ。高タンパクだし、脂質に関しては肉より良い。タンパク質だけは減らすな。炭水化物を全く取らないのもダメだ。太りやすくなる体質ができるうえに、脳の栄養は糖質だけだからな。お前だってここの高校にいるんだ。成績落としたくねえだろ」
それだけ言って彼の栄養プレゼンは終わる。ふうと、一息つくと何やら言いにくそうにもごもごと口ごもった。
「あのな、あとは運動なんだが。体重が重いやつの無理な運動は関節や心臓に負荷がかかるんだってよ。よくねえって話だ。でも散歩程度なら問題ない。本格的な運動や筋トレは少し痩せて体が動くようになってからでいい。だから、その……」
ここまで調べてきた戸津に少なからず驚いていた私であったが、彼はもっと思わぬ一言を放つ。
「地元が一緒なんだ。お前がサボらないように一緒に散歩いってやる」
我が耳を疑った。
嫌いな奴と散歩?
一緒に?
明らかに動揺する私の表情を見てか、慌てて付け加えるように彼は言う。
「ずっとじゃねえ、お前が痩せるまでだ。俺は細川を痩せさせてやる。知ってんぞ。時々お前が無理に走ってるのは」
見られていた、という恥ずかしさで更に動揺した。目を泳がせてどうしようかと真っ白の頭の中をフル回転させる。
確かに戸津がいうことには無理がない。そのうえ理論に叶っているし一人なら続かないダイエットも助っ人がいればできるのかもしれない。だけど、それがよりにもよってこいつなんて。
それでも私には時間がない。あと一年で痩せて自分に自信を持って、先生に告白をしないといけない。
背に腹は変えられなかった。
私が戸津を見ると、彼は「乗るか、乗らないか」と私に尋ねてきた。
この一年我慢すれば人生を変えられるのかもしれない。
戸津の質問には答えずに私は黙って机の上のおにぎりに手をやった。
ぴりぴりと薄い袋をはがしていく。そして久方ぶりのお米に口をやった。一口、二口、三口……それからしばらく咀嚼し、飲み込んだ。
「……おいしい」
ぼそりと呟いたそれを聞いて、何故か春ちゃんが満面の笑みになった。
「ほら、サラダも!」
そう言って戸津が買ってきたサラダの蓋をあけてドレッシングをかける春ちゃん。
そのやりとりを見ていた戸津がおもむろに立ち上がる。
「俺はお前を痩せさせて自信をつけさせてやる。俺はそれで過去の行いを払拭する。交渉成立だ」
そう言って椅子を自分の席に戻した。
「あ、そうだ。散歩は今日の俺の部活が終わったあとからな。雨の日は休みにしよう。まずは無理なく継続することだ。それと連絡先も交換しようぜ」
「わ、わかった……」
私は言われるがままに連絡先を交換すると、まるで大きなことを成し遂げたかのように彼はガッツポーズをした。
「頑張ろうな! 細川!」
何故だか、彼の笑顔は爽やかだった。