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過去作品・短編

If you……

作者: 八雲 辰毘古

 普段は付けているイヤホーンを、今晩だけは外してみた。途端、静寂が幕を下ろす。あまりに素早い変化だったので、ぼくは背筋を凍らせた。これが孤独の触感なのか、と驚きが込み上げてくる。

 頬を火照らす宴会の余韻は、歩き続けているうちに冷めてしまった。もはやそこには夜しかなく、そして夜はこれから深まるばかりだった。

 建物の影から、ひと気のない川沿いの通りに出る。

 見上げると満月が煌々と照っていた。川沿いに咲き乱れる桜は、月光を浴びて仄かに紅を差し、幽かな微風に花びらを乗せて、別れの挨拶を述べていた。通りには人影が見えず、胸をそっと撫でるような水の調べだけが、絶え間なく響いて余情を醸し出している。

 ぼくは夜風に吹かれながら、そういう詩のような表現を次から次へと考えていった。少し酔っているのかな、と自分でも思う。センチになり過ぎている。酔い醒ましに、水を買おう。そう思い立ち、通りを過ぎたところにあるコンビニに足を運んだ。

 店が近くなったところで、自動ドアが開いた。「ちょっと里菜!」女性の声がする。その声が追い掛けたのは、駆けて出てきた女の子。ビニール袋をぶら下げ、脇目も振らず走った挙げ句、ぼくの膝にぶつかった。「いたーい……」ビニール袋をわしゃわしゃと鳴らし、袖で鼻をこすりながら女の子はまだ愛敬の残る幼顔で見上げる。そして「えへへ」と誤魔化すように笑った。その笑い方には見覚えがあった。

 あとから声の主がやって来る。店の明かりが逆光になっているせいで、顔がよく見えない。「こら、里菜。まずは先に謝りなさい」彼女は掌で女の子の額を軽く触って、叱る。

「はーい」とちょっぴり不満を交えた声で言うと、ぼくに向かって「おじさん、ごめんなさい」ぺこりと擬音をつけたくなるようなお辞儀をする。あとを追うように、彼女もぼくに「うちの子がすみません」と謝った。ところが顔を上げたあと、彼女は小首を傾げ、口元に手を当てながら「あれ……もしかして、黎人くん?」と言う。

「ん?」

 少し角度を反らし、逆光を避けるとそこには高校のもと同級生の顔があった。ぼくは思わず目を見開く。

「えっと……香織……?」

「わぁ、黎ちゃん私のこと憶えてくれてたんだ!」彼女はにぱっと笑う。その笑い方が高校時代と全然変わらなくて、ぼくはドギマギした。意図的に目をそらす。

「そ、そりゃあ憶えているさ。同じ部活だったわけだしさ」

「文芸部ね。懐かしいねー」と彼女は、いつのまにかぼくのズボンの裾を掴む子供を引っ張って止めさせる。子供は不満を隠そうともしないが、彼女は首を振った。「……あれから何年経ったの?」

「俺が来月三十になるから、もう十二年経つんじゃないかな」

「十二年! いやあ、時が経つのは早いねぇ……」

「どこのおばさんだよ」

「あははっ」軽やかに笑う。「とりあえず、立ち話もなんだから、どこか屋内に行こうよ。あ、うちとか来る?」

「いや、お邪魔するのは悪いでしょ……」

「ううん、いいの。昨日から旦那タイの方に出張してるし。家もそれほど遠いわけじゃないんだ。来なよ来なよ。だって十二年振りだよ? 積もる話もたくさんあるでしょうに」

「まあないわけじゃないんだけど」と、ぼくは遠くを見ながら言った。果たしてそれほど話せる中身のある人生を、送ってきただろうか。「ろくなもんじゃないぞ」

「いいんだよ、さあさあ立ち話もなんだ。さっさと私について行きなさーい!」

「お、おう」

 ぼくは思わずフッと微笑みを零す。彼女は目ざとくそれを見咎めた。

「なにかおかしいところ、あった?」

「いや、全然変わってないなって。その、自分のノリで全部持って行っちゃうところとかさ」

 不意を突かれたように、彼女はきょとんとする。それから転げ落ちるように笑った。

「ねーえ」女の子がぼくらの顔を交互に見ながら、足元で「おじさんってお母さんの知りあいなのー?」と訊く。

「うん、そうだよ。黎ちゃ……小鳥遊くんはね。お母さんの昔の友だちなの」

「えー?」と手を口元に当てて、意味深なニヤニヤとした笑みを浮かべながら、「もしかして、おじさんはお母さんと付き合ってたのー?」

 彼女は力を抜いたように微笑んだ。「ざんねん。お母さん、小鳥遊くんと付き合ったことはないんだ。『友だち』だったんだよ」と諭すように言う。そしてぼくの方を振り向くと、「ね、そうだったよね?」

「そう、だな……」

 言葉を濁すように、頷いた。それを目ざとく見留めたのか、子供はいぶかしげな顔でぼくを見てる。ぼくは苦笑した。親子ともども目ざといところがよく似ている。

『友だち』……その言葉がぼくの胸の古傷を引っ掻いた。確かに高校時代、ぼくらは『友だち』だった。同じクラスになったことはないが、三年間ずっと同じ文芸部に所属し、好きな小説を語り合ったり、互いの書いた小説や詩を批評し合った。頻繁な言葉の遣り取りはあっただろうけど、たぶん、それだけだった。それを付き合っているとは、誰も言わないだろう。

 ぼくたちは歩き出した。彼女が前で、ぼくはそのあとに続く。

 道中はお互いに黙ったままだった。不思議なことに、喋ろうとしても何も出てこないのだ。十二年という歳月があまりにも長かったのか、それとも、言葉の接ぎ穂を見失ってしまったのか。どう切り出せばいいのかさっぱりわからず、ぼくは風に舞う桜の花びらばかり見つめていた。月光を反射する、散りゆく花は、あたかも過ぎ去った時の思い出を象徴しているように見えた。


 ある程度歩いていたら子供の足運びがおぼつかなくなってきた。彼女はそれを見て、子供を抱きかかえる。だっこされた途端、子供は寝入ってしまった。すやすやと寝息を立てる様子が、なんともいじらしくて可愛い。

 ぼくは思わず沈黙を破った。

「子供……できてたんだな」

「え? ああ、うん。里菜って言うんだ。もう四歳なの」

「そうか……」時の流れの速さを感じる。「たかが十二年、されど十二年なんだな」

「相変わらず気取ったことを言うねぇ、……ところで小説の方はどうなの? 『作家になるー』とか言ってたけど」

「さっぱりだよ」とぼくは苦笑いを貼り付ける。「新人賞には何度も落ちるし、一回だけ三次選考まで行けたけど、落ちちゃった」

「じゃあ、今は?」

「ん……パートとかアルバイトしながら、なんとか凌ぐように生きてるよ。実は今日もバイト先の同輩と集まって、飲んできた帰りなんだ」

「へぇ、そっかあ。黎ちゃんも黎ちゃんなりに大変だねー……でも夢に向かって生きてる。それはとっても凄いことだよ」

「ははっ」自嘲混じりの笑い声が出てしまう。「……ありがとう。でも正直な話、自分でも馬鹿な選択をしたと思ってる。大学のレベルも決して低くはなかったし、真面目に就活していればそれなりの安定が手に入ったとも思う。でも俺はそれを拒んだ」

「いいんじゃないかな。それもまた、一つの道だよ」

 と、ここでぼくらはマンションに着く。エントランスを通り抜け、手前の階段を登る。三階の廊下突き当たりの一室が、彼女の住んでいる家だった。ぼくは正直遠慮しようかと思ったが、彼女の押しの強さに負けて、渋々入った。

 彼女の家は割りとよく見かけるタイプの三LDKだった。玄関を入って左を見ると、リビングとダイニングキッチンが一つにまとまった大部屋がある。キッチンは対面式で、ダイニングとリビングがよく見渡せそうな造りだ。その一方リビングに置いてある液晶テレビは、ダイニングの席からは見えにくい位置に設けられている。

 子供を布団に寝かせ、戻ってきた彼女に、なぜそうなっているのかを尋ねてみた。すると「テレビを見ながら食事する子にはさせたくなかったんだ」と答えてくれた。独り暮らしには思いつかないことだった。

「もう、すっかりお母さんだ」

「何言ってんの。お腹が大きくなったときから、私はお母さんだったの」

「違いないや」

 彼女はキッチンの方に向かった。冷蔵庫を開け、その影からぼくの方を見遣って「ねえ、なにか飲む?」

「冷たい水だけで大丈夫だよ」

「えー、お酒飲まないの?」

「はしご酒はしない主義なんだよ」

「ふうん……」と彼女は眉を寄せる。「じゃあ私は飲むよ。ハイボール」と、缶を見せびらかした。


「でさー、旦那も旦那でね……」

 それから一時間。時計は夜の十時半を差していた。

 いつのまにかぼくは、彼女の愚痴を聞きながら相槌を打つばかりになっていた。そもそもぼくに積もる話なんてものはなく、結果的に母としての苦労を積んだ彼女の方が、語ることが多かったのだ。

 愚痴とともにノロケも聞くハメになった。馴れ初めは大学のサークルで、優しいところに惚れただの、初デートに遅刻して来ただの、持ち上げてるんだか貶しているんだかわからないことばかり、思いつくままに挙げていた。しかしこれだけは言えた。彼女は夫のことが好きだし、かつ同時に今の生活にも満足しているということだった。

「そっちは楽しそうじゃないか。ちょっと羨ましいな」

「そんなことないよお」と左手をひらひらと振りながら、「幼稚園の保護者会もあって、親同士の付き合いも楽じゃないしさあ……あ、また空っぽになっちった」

 彼女は右手で缶を握り潰した。すでに五本のアルミ缶ゴミができているが、構わずどんどん冷蔵庫から出して来る。ハイボール二缶に始まり、イカの燻製、枝豆、アサヒのビール三缶、そして今度は……

「じゃーん。ウイスキー」

「お前本当によく飲むな……」

「えへへ」

 ビンとグラスを両手に持って、彼女は笑う。酔っていてもその笑顔が全然変わってない。高校のころのままだ。

「変わらないな。ホント」

「んぅ? なにがあ?」

「俺も、お前も、あのころと全然変わってない」

 そのとき彼女はむすっと不機嫌そうな顔になると、急にぼくの額にデコピンをした。

「痛っ」

 彼女はため息を吐く。

「はぁーっ、辛気臭いこと言わないの! そんな簡単に人が変わるわけないじゃないの」と、そこで少し考える素振りをして「んー、三つ子の魂、百まで? て言うし、さ?」

「でも変わったこともあるさ。お前は結婚して子供できてるし、俺は……そうだな。俺は変わってないかもな。進歩もしてないけど……痛っ」

 またデコピンされた。

 彼女は腕を組んで、踏ん反り返るように背もたれに寄り掛かる。あたかも見下ろすように、「黎ちゃん変わったとするなら、自虐が増えた。高校んときは『ぼくは小説にこれこれが必要だと思う!』とか『良い作品は良いって言わないと不憫だ』て、いろいろ熱くてポジティヴなこと言ってたと思う。記憶が間違ってなければ? 私はそういう黎ちゃんの方が好き」

 ぼくは苦虫を噛み潰したような気分になった。

「夢を見ているあいだはまだいいさ。でもそれが本当に叶うかどうかは、また別のことなんだよ。何回も、何回も新人賞落ちてるうちに、自信がなくなってさ、『ひょっとすると、人生の道間違えたんじゃねーか』って、思うのはおかしいことじゃないだろ」

「うーん、うん。そうだ。確かにそうだねえ……」と彼女は船を漕ぐように頷いた。「でもね、私はたまーに思うんだ。あの時夢に一生懸命だった黎ちゃんに惚れてたらどうだろうってね」

「ハッ、からかうなよ」

「からかってないよお? そりゃ、まあ惚れてたってわけじゃないけどさあ、黎ちゃん私なんかと違って大胆で面白い作品たっくさん書くじゃない。きっと飽きない毎日だと思うよ? だって一緒にいるときは、とっても楽しかったんだから」とここでウイスキーの入ったグラスを傾けた。そしてグラスを置くと、「……まあ、今の黎ちゃん見てるといつか別れてそうだけど!」と付け足した。

「余計なお世話だ」

「あははっ」と彼女はカラッと笑う。しかしそのあとすぐ真顔になると、「ときどき思うんだ。私の初恋って、ひょっとすると黎ちゃんなんじゃないかって」

 ぼくは愛想笑いをした。

「どうしたんだよ、とうとう酔いが回っちゃった?」

 しかし彼女は笑わなかった。むしろ眉間にしわを寄せて、「どうだろう……でもさ、部活のときとか、しょっちゅう最近面白い小説の話とか、私や黎ちゃんの作品の批評とかしたじゃん? 他の人とはそれほどしなかったし」

「ああ、懐かしいな。なんかいろいろあったな、お前の作品。病気の少女と犬の友情物語とか、街猫たちの大冒険とか、飛べない小鳥と象の親子の話とか……」

 彼女は目を見開いた。

「よく憶えているねー! あ、一番最初のやつ、黎ちゃんに『ハチ公のパクリか』って言われたの憶えてる」

「え、そんなこと言ったっけ?」

「メチャクチャムカついたから憶えてる!」

「そうか、……ごめん」

「いや、むしろ燃えたね! 私の作品は自己満足だったんだってわかったし、『見返してやる!』と思ってやる気が増した!」

「それは……なんか違う気がする」

「とにかく、黎ちゃんが私を煽ったの! 要は、そういうこと」

「はあ……」

 さっぱりわけがわからない。前からこうだったと言えばそうだけど。


 ……あの日。あのとき。

 三月の終わりごろ。ちょうどこの時期に満開になった桜が、さよならを告げるように花びらを風に乗せて見送っていた卒業式。三年間を共にし、勉強に、部活に励んだ友人たちとの悲喜こもごもの思い出を、忘れがたく涙とともに過ごした一日を、思い出した。

 ある人は大学へ行き、ある人は浪人し、またある人は就職する未来をそれぞれ抱きながら、卒業証書を片手に記念撮影に勤しむ。そんななかで、このときが最後、とばかりに告白する人もいた。多くは玉砕し、ごくわずかながらハッピーエンドを手にすることもあった告白イベント。でもぼくは、自分の思いを胸の内側にそっと仕舞い込んで、忘れることにした。それは、ちっぽけな見栄のせいか、それとも……


 カラン、と氷が音を立てた。その音がぼくを現実へ呼び戻した。

「でもそれって、恋とは言わないんじゃないか?」

 考えもなく呟いたこのひと言のおかげで、ぼくは三度目のデコピンを喰らうハメになった。

「わーかってないなあ! 恋するってことは夢見ることなの。一緒に夢を見ることなの!」

「でも、夢って要はエゴだろ。恋愛なんて、自分の都合を互いに押し付けあって、幸せだと錯覚するだけのことにすぎない。ただの幻だ」

「それはぁ……あるかもしれない。けどね、幻でも幸せだって思うことは本物なんだよ。だって、あのとき黎ちゃんと一緒にいた頃は、とっても楽しかった。これは、嘘なんかじゃないよ。私のなかで生きてるもん」

「はい、名言メーカー乙です」

「茶化さないでよ!」

「痛ッ!」

 今度はチョップが飛んできた。

 ぼくが頭を抱えていると、彼女は席を立った。本当に怒らせたのだろうか、と少し不安になったが、それは杞憂だった。グラスに水を汲んできただけのことだった。

「あーあ」と彼女は盛大にため息を吐く。「せっかくいい気分で酔ってたのに、黎ちゃん素っ気ないから覚めちゃった」

「酔いすぎるのは危険だからな。酒にも夢にも」

「とても十二年前に『夢に生きる』とか言ってた人だと思えないね」

「ほっとけ」目を逸らす。「……そりゃあ、昔は夢とか憧れとかに目一杯努力したり、あれこれ工夫したりするのは、楽しかったけどさ。気づいたんだよ。夢は、叶わないから夢なんだって。最初から叶わないものに生きようってのは、クズみたいな戯れ言にすぎないんだ。だから、もう、辞めたんだ」

 そのとき彼女ははっと息を呑んだ。返すべき言葉が見つからないようだった。

 春なのに、雪の積もるように静寂が降りてくる。時計の針だけが、この瞬間が止まってないことを証明していた。でも逆に、それがぼくの心をきつく締め付けたのだった。

「そっか。黎ちゃんも、大変だったんだね……」

 散々時間を掛けて、絞り出すようにそういう彼女の表情はとても淋しげだった。

「親の苦労に比べりゃ、大したわけでもないさ」と言って、立ち上がる。時計はもう十一時半になりそうだった。「さて、そろそろ俺もお暇させてもらうよ。終電遅れちゃうし」

「下まで見送るよ」

 と、彼女も立ち上がる。


「ところで知らなかったと思うから言っとくけど……私さ。お酒飲みすぎるとわけのわからないこと言っちゃうんだよ。さっきまでのは、勢いに任せて言っただけで、……その」と少し目を泳がせるように、「忘れてくれると嬉しいかなあって。もう私自身何言ったか憶えてないんだけどね、あはは」と頭を掻きながら言う。

 ぼくは答えなかった。しかしエントランスに降りたとき、敢えて立ち止まり、彼女と向かい合った。

「俺も宴会帰りでまだ酔いが残っててさ。ちょっとだけ、つまらないことを言わせてくれ」

「何さ」

「好きだった」

 沈黙。

「……過去形、なんだね」

「今さら言ったって仕方ないしな。あのときは本物だったかもしれないが、今じゃ化石だ。もう大切に眺めることしかできない」

 またしても、沈黙。

「知ってたよ。黎ちゃん、私に気があるんだろうなって」

「だろうな」

「私の作品を叩いたのも、あとから思うとちょっとした意地悪だってことも理解できた」

「……そうか」

 それはちょっと違う。あのときは素直にハチ公のパクリだと思っていた。むしろそこから真剣に書いて、レベルあげてきたときに初めてぼくは彼女に魅せられていたのだと気がついたのだ。だが、それは言うだけ野暮だと思った。卵か鶏かという堂々巡りはする必要がない。

「でもさあ、いくらなんでも、その告白は卑怯だよ……」

 彼女はそれでも笑った。涙と嗚咽と、そして怒りが綯い交ぜになりながらも、笑っていた。

「……バカ」

 両目からポロポロと涙が溢れさせながらも、彼女はにっと笑った。その笑顔は卒業写真で見せたものと、全く同じだった。

 一瞬呆気に取られていると、彼女は袖で目を擦って「また、来なよ」と言った。

「うん。気が向いたら、ね」

 彼女は何か付け加えようとしたが、その口は音のない言葉をいくつか呟いただけだった。そして、諦めたように「じゃあ」と手を振る。その振り方が、卒業式で見たそれによく似ていた。ぼくは心に刺さるものを感じた。だがそれを飲み込み、精一杯の笑顔を貼り付けて「今夜はありがとう。またいつか、必ず」と言った。嘘だった。

 また一人になる。夜はすっかり更けていて、静寂が耳に五月蝿かった。ぼくはイヤホーンを取り出して、耳に付ける。大音量で流すポップ音楽が、心を静かにしてくれた。ぼくはリズムに全てを任せて、駅の方に向かって歩き出した。

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[良い点] 男は夢見て女は現実を見るってやつですね 負け犬の証明って感じで寂しく終わって印象深かったです
[良い点] 夢、みたいな話。 価値観を押し合っている恋は、怖いものかもしれないけれど。 うまいこと噛み合うよう許容できると、死ぬまで変わらない愛へ切り替わるのかもしれませんね。 [一言] 素晴らしい作…
[一言] 君の恋愛小説が気になってやってきました!← かつて片思いしていた相手と、取り返しのつかなくなった頃に再会する。話としては誰にでもありそうな、君にもあたしにもありそうな題材だけ…
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