3
莉緒は頭痛に苛まれながら必死で状況を整理しようと試みた。
先ほどふと気づいたら見知らぬ店に佇んでいた。自分は幽霊と若奈の家で大騒ぎしていた気がするがそこから記憶がすっぽりと抜けている。
窓のない地下のような店はカウンターバーと一段上がったところにステージのようなものがあり、機械類のブースが設置されていてそこから大音量の音楽が流れていた。派手な照明の下には若い男女がひしめき合っていてそれぞれ音楽やアルコールを楽しんでいる。莉緒の座るソファの前にも足の高い丸テーブルが備え付けられておりいくつかカクテルが置かれていた。
莉緒の周りには見知らぬ男が二、三人囲っている。しきりに話しかけられているがどうも話がかみ合わない。隙をみて美咲に助けの電話を入れたが酒が入ってふざけた男の一人に取り上げられてしまった。
「ねー、このあと誰と付き合ってくれるの? いーかげん選んでよー」
軽薄そうな男が莉緒の肩を抱いてくる。頭痛とともに嫌な気分で吐きそうだ。もしかしたら莉緒の前に置かれたグラスが減っているのは知らない間に自分が飲んだのかもしれない。
「ほんとに中学生なんでしょ? こんなところ来て親に怒られたりしないの?」
「おめーなに良い人ぶってんの。キモいからそういうの」
男達がぎゃははと笑い転げる。
莉緒は得体の知れない男達を前にして足が竦んでいた。困惑気味に喧噪で満たされた店内に視線を巡らせる。逃げなければと思いながらもその隙を見いだせない。
「わ、私帰らないと」
「えーなに言っちゃってんの」
男の腕を押し返そうとすると、逆にその手を捕まれてしまう。喉の奥から掠れた悲鳴が上がる。
何かされる、怖いことは嫌だと思い莉緒は強く目をつぶった。
「あんたたちさあ、帰るっつってんの、分からない?」
不機嫌そうな声。
見ると莉緒の反対の腕に手をかけた少女――美咲がいた。周りの男達を邪魔と言わんばかりに押し退けて莉緒の側に立っている。
「あ? なに、こいつ――」
呆然とする男たちを横目で見ながら美咲は莉緒を男から引きはがすと自分を盾にするように背後に立たせた。
「美咲……なんで」
「こんな田舎の狭い街で不良が溜まり場にしてるのなんてここくらいでしょ」
言いながらテーブルの隅に放られた莉緒の携帯を掴みとる。はっとした男たちが口々に声を上げ始めた。
「今更帰るとかふざけすぎじゃねえ」
莉緒は美咲を背にしながら男達へ顔を向けつつゆっくりと後退する。ポケットから携帯を取り出した。
「中学生相手に何しようとしてたわけ? 今すぐ通報してもいいんだけど」
にやりと笑いながら美咲は携帯を目の高さでぶらぶらと振る。
「ハッタリかましてるだけだろ。別に俺たちはなにも……」
「未成年に無理矢理お酒飲ませるのは問題ないんだ」
「そいつが勝手に飲んでたんだよ!」
いきり立つ男達は二人を囲もうと席を立つ。
「なんなら、私の父親に直接電話してもいいわ。警察署長のプライベート回線に」
その言葉を聞いて男達は一瞬たじろいだ。美咲は莉緒に素早く耳打ちする。
「走るよ」
美咲に肩を抱かれながら莉緒は頭痛をこらえて走り出した。出遅れた男達が二人を追おうとするも店内に溢れた人が邪魔になり前へなかなか進めない。
二人は後ろを気にしながら店の出入り口へとたどり着き、地上への階段を駆け上がる。
「知らなかった、美咲のお父さんって警察の人だったんだ」
「ただのサラリーマンだけど?」
「……えー!」
雨が降り続ける外へ出ても念のため追ってくるかもしれない男達に見つからないよう走り続けた。繁華街のビルや店舗をぐるぐると回りながらもう後ろを気にしなくてもよくなった頃にようやく立ち止まった。コンビニと空き店舗の間の路地で一休みする。
「はぁ、はぁ、……ったくもう、ずぶ濡れだし。最悪じゃない」
二人が店にいる間に雨は本降りとなり空は日も落ちてすっかり暗くなっていた。
美咲は握りっぱなしだった携帯で若奈へ電話を入れた。今居る場所と莉緒を無事保護したことを伝える。
「そこのコンビニで傘買うわ。……まったく、それもこれもあの色情狂のせいだと思うとマジで腹立つ」
「なァに、また邪魔したの、あんた」
急に口調が変わった莉緒に美咲が振り返る。雰囲気が変わっている。再び意識を乗っ取られたのだとわかった。
「あんた……ッ! いい加減莉緒の身体から出て行きなさいよ!」
「いやだねェ。せっかくの現世、まだ全然楽しませてもらってないんだから」
「死んでも娼婦やってる頭のおかしい女に生きてる人間がどうこうされるなんて御免だわ」
美咲の吐き捨てたような様子に莉緒――八重は眉根を上げた。雨で滴る髪を面倒そうにかき揚げる。
「……ああ、聞いたのかい。そうさねェ、根っからの売女だからねェ。生きてようが死んでようが変わりないのさ」
鼻で笑うように八重は言う。その態度に美咲はますます怒りが募っていった。
「快楽のためだけに生きてるようなクズだったわけ。そんなんだったら死んでも成仏できないだろうな」
すると八重は目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「クズかい。そりゃいいねェ。私の人生なんてクズ同然だったよ」と降りしきる雨を気にせずに薄暗闇を仰ぎ見る。
「身体を売ることしか知らなかった女の幸せってなんだと思う? 馬鹿で愚鈍なお国の偉い人が、空襲で家の無くなった民を顧みもせず女を買いにくるような時代さ。頭の悪い男達に抱かれながら最後に見たのは落ちてきた爆弾で真っ赤に燃えた梁と天井。あんな男と一緒に死ぬなんて、お笑いさね」
雨が八重の頬を伝う。自嘲を張り付かせた表情はどこも見ていないようで遠い昔を覗いているようでもあった。
「私にはわかんないんだよ。幸せな『えっち』をしたら私は成仏できるかもしれない。誰かに愛して抱いてもらえたらクズみたいな人生の延長を終わりにできるかもしれない」
「……だったら、」
震える声で美咲は口を開く。怒りなのか、雨による冷えで身体が震えてしまっているのか、自分でも区別が付かなかった。
「莉緒じゃなくて、私に取り憑いてよ!」
今度は八重が口をつぐんだ。じっと美咲の顔を見つめる。
「……私は、どうなってもいいから莉緒から出てってよ。莉緒を、返してよ……!」
「あんた……どうしてそこまでするんだい。この子のこと、どうしてそんなに……」
「だってッ!」
キッと八重を睨みつける。
「私は、莉緒のことが好きだから……! 友達だけど、同性だけど、でも……莉緒のことがずっと好きだった……」
最後の方は殆ど小声で聞き取れないほどだった。いつの間にか視線も八重の足下まで下がってしまい、雨打つ地面だけが視界に広がる。
つい大声で言ってしまったことに美咲は後悔した。よりにもよって当の莉緒に向かって、しかも中身は見ず知らずの幽霊に対して自分の思いの丈をぶつけてしまったのだ。
恥ずかしさのあまり顔を上げられない。
「――あんたの望みは私が叶えてあげられるってこと、教えてあげようか」
その言葉にはっとして顔を上げると八重が間近に佇んでいた。先ほどとは打って変わって淫靡な眼差しで美咲を見つめる。
「な、なに……」
「想いを遂げるなら、手助けしてやるってことさ」
言いながら八重はゆっくりと美咲を背後の壁に押しつけた。冷たい衣服が張り付いている上、ひんやりとしたコンクリートの感触に背筋が竦む。対照的に触れられた肩からは莉緒の体温を嫌でも感じた。
挑発的な八重の顔が美咲を覗き込む。何をしようとしているのか、何をされるのか分からない美咲ではない。
「やめてよ」
「どうしてだい? あんたはこの子のことが好きなんだろ」
「こんなの、違う……っ」
八重の肩を押し返そうとしたが逆にその腕をとられてしまう。そのまま強引に引っ張られ美咲は八重の胸に抱きつくような形になった。美咲の肩に八重の頭が乗せられる。耳元で感じる吐息が艶めかしい。
「んっ!?」
首筋に暖かい感触。八重の唇が耳のすぐ下に触れたと分かった。そのまま肌に滴る雨粒を掬うように唇が上へと上がっていく。
やわらかい耳朶に触れたところで、それを口に含まれた。
「っひゃぅ……!」
鼓膜に雨とは違う水音が響く。甘い痺れにも似た感覚が身体の奥から疼いてくるのを振り払おうと美咲は頭を振る。八重の腕の中でもがいて、ようやく身体を離すことができた。
「やめてっ」
八重の腕をふりほどいて肩で息をする。
「こんなの……」
間違っている、と言おうとした美咲は言葉に詰まった。
彼女は莉緒の顔で、ゆっくりと微笑む。
「美咲、好きだよ」
莉緒の顔で、莉緒の声色で、何よりも聞きたかった言葉を紡がれる。
心の奥で違うと否定しながら美咲の身体は動かなかった。八重の唇が近づく。指先一つ動かせない。
「ダメっ!」
切羽詰まった声が雨音をかき消した。
「若奈!?」
途端、戒めが解けたように美咲の体に自由が戻った。もしかしたら金縛りをかけられていたのかもしれない。振り向くと傘を差して息を切らす若奈の姿があった。
「あんた……恵子かい?」
美咲から離れた莉緒は若奈を見て訝しげに尋ねた。
「そうだよ。若奈さんが身体を借してくれたの」
「え、ちょっ……」
驚く美咲だったが、若奈――身体を乗っ取っている恵子はやんわりと首を振る。大丈夫だ、と言いたげに美咲を見て頷いた。
「八重さん、もうやめよう。やっぱり、ダメだよ……私達はもう、現世にいない人間なんだから」
「……この世は生きてる人間のもんだってのかい」
「そうだよ……」
声は若奈を介して深い諦めの色を含んでいた。その面差しは屋敷で一人泣いていた少女の影と重なる。
「あんただって死んでも死にきれなかったからさまよってるんだろ。だったら、少しくらい良い目を見たっていいじゃないか。あんただって、だから私に抱かれたんだろ? 生きていた頃より幸せになりたかったんだろ!?」
「さっきから勝手なことばかり言って、この色情狂!」
美咲は思わず八重に詰め寄った。しかし、美咲がその身体に触れようとした瞬間、八重の氷のような視線で再び身動きがとれなくなってしまう。八重は美咲を一瞥して唇を歪ませた。
「……ああ、じゃあ良いよ。あんたの言うとおりあんたに取り憑いてやるよ。そしたらこの子は解放だ。その代わり、何が起きても文句なんか聞かないよ」
「八重さんっ!」
傘を放って、恵子が八重に抱きついた。美咲は固まってしまった身体の代わりに目だけで様子を伺う。
「恵子、離して」
「いや……やだ、八重さん、やめようよ。お願い」恵子はしがみつきながら何度も首を振る。
「離せっ!」
「やだっ! 離さない。八重さんのこと、絶対離さないっ」
今までになく強引な様に八重は困惑しながら、それでも彼女をふりほどこうとした。しかし恵子は更に八重を抱く力を強める。
「私はもう、知らない誰かと一緒にいる八重さんなんて見たくない。幽霊でも、生きてる人間でも、八重さんの隣に私以外の人がいるなんて、もう嫌……っ!」
「恵子、あんた……」
「さっき、八重さんが言った、生きてる頃より幸せになりたいって。私は八重さんに会えてもう幸せだったんだよ。私は一人でこの世に残されて、誰にも見つけてもらえない、誰にも触れられない寂しさに苦しんでた。友達もみんな私のことを忘れていくのに、私の時は止まったままで残された両親が私の死を何年も悼み続けて、それが呪いみたいに私をこの世に縛り付けてた。私のことなんて、もう忘れてくれればいいのにって」
傘もなく降りしきる雨に濡れる恵子の頬には雨とは違う涙が見える。美咲は、この子はずっと泣いてばかりだと場違いな感想を抱いた。
「八重さんは一人だった私を見つけてくれた。幽霊だからって寂しい思いをしなくてもいいんだよって言ってくれた。だから、私も八重さんを……」
「子供の戯れ言だよ、そんなのは……」
「あんた、まだそんなこと!」唇だけは動かせるようだと気づき、美咲がここぞとばかりに口火を開く。
しかし八重はそんなことも意に介さず、恵子を突き飛ばすように身体から遠ざける。
「あんたは幽霊のままでも良いんだろうさ。でも私は違う、このままじゃ幸せになんかなれやしない!」
「そんなことない……っ」
よろめきながら恵子は反論する。苦しそうに頭に手を添えていた。美咲は、乗り移ってもあまり具合がいいものではないらしいことを思い出し、若奈の身体と恵子の状態を心配する。
「だ、大丈夫?」
美咲の言葉に目だけで頷き再び恵子は八重を見据えた。
「……私が、あなたを幸せにしてみせる、絶対に、幸せにしてあげる!」
今まで以上に大きな声で訴えかける。雨音に負けないように、死者の声とは思えないくらいに。
「私は八重さんを幸せにして、一緒に成仏する。そしてきっと生まれ変わって、あなたと一緒に生きてみせる」
「それこそ、戯れ言……」
「それでもいい! 私は、八重さんのことが好きなんだもの! 好きな人との幸せを語るくらい、簡単なことだよ!」
「こんなクズになんて熱上げてるんだい……馬鹿じゃないのかい、あんたは……」
「馬鹿だもん、同じ幽霊なのに、幽霊に恋するくらい私は馬鹿なんだよ。八重さんに触れてると、ドキドキするんだよ。もう、心臓なんて動いてないくせに。フリだけでも、八重さんの腕の中で私は死ぬんじゃないかってくらい幸せに思ってたんだよ、もう死んでるのに」
美咲には恵子を捉える八重の瞳が少しだけ揺らいだように見えた。
「……私は、とんでもない子に惚れられてたんだねェ」
再び恵子が八重の側まで近付き、ゆっくりとその身体に腕を回す。今度は、突き飛ばされることもなかった。
「戻ろう、八重さん。誰でもない、私があなたを幸せにするから」
いつの間にか雨は止んでいた。路地に残された水たまりの中に少女が三人、ずぶ濡れのまま立っている。
「その言葉、嘘じゃないかい……?」
「もちろん……っ」
八重は穏やかな雰囲気に戻っていた。美咲の身体の戒めもいつの間にか解けたようで、何度も金縛りにあった身体がぎしぎしと悲鳴を上げている気がする。やれやれと息をつくと途端に寒気が襲ってきた。
「っへっくしゅん!」
美咲のくしゃみに二人は顔を見合わせ、どちらからともなく吹き出した。
八重と恵子は美咲を引き連れて屋敷へ戻った。夜のお化け屋敷はなかなかに雰囲気があり、流石の美咲も入るのを躊躇うほどだったが、目の前に幽霊に取り憑かれた友達二人が居るので恐怖するのもなんだかなあと思うくらいには落ち着くことが出来た。
「あんた達にはとんでもない迷惑かけたね」
すっかりしょげた風の八重に美咲はどう反応していいのか少し困った。悪霊だったと言われればそうだが、今となっては話の出来る普通の人間と変わりないのだ。
「結局、あんたらの痴話喧嘩に巻き込まれたようなもんだからね。正直、怪談話にもなんないわよ」
「ごめんなさい……」
八重よりもよほど落ち込んだ風の恵子が深々と頭を垂れる。見た目は莉緒と若奈なので、なんとも不思議な気分だ。
「じゃあ、そろそろ身体返してもらうわよ」
美咲が言うと二人は頷きあった。
「ほんとにあんたには酷いことしたね。……でも、ありがとう。この子とのこと、上手くいくよう祈ってるよ」
「あっ、あれは勢いで言っただけで、その! いいからさっさと出ていきなさいよ、もう!」
「ありがとう、あなた達に会えてよかった」
そう言って、すっと二人の意識が無くなったように身体の力が抜けた。美咲は慌てて二人を抱き止め倒れないように支える。しばらくして、眠りから覚めたように若奈が目を覚ました。
「……えっと、美咲ちゃん?」
「よかった、身体なんともない?」
まだ眠っている莉緒をソファに寝かせて、美咲は若奈の身体を改める。少し足下がおぼつかない風だったが意識ははっきりしていた。
「うん、大丈夫。……その様子だと、解決したのかな?」
「ん。あの色情狂を説得して、戻ってもらった。今はどこにいるんだろ。二階かな」
「このあたりに気配はないね……でも、たぶんまだ居るよ」
相変わらず雨の後の蒸し暑さが屋敷を覆っている。恐らく、涼しいと感じる場所に二人が居るのだろう。美咲はそれでも涼みに行こうとは思わない。馬に蹴られて死んでしまうのはまっぴら御免だ。
「んーあー……あれ? ここどこ? また変なとこにいる」
ようやく目覚めた莉緒が相変わらず暢気な声を上げた。
「莉緒……っ、あんた身体大丈夫? どこかおかしくない?」
美咲は莉緒に駆け寄り、体中を点検しようとする。私の時とはずいぶん違うなあと若奈が笑っていると、くすぐったそうにした莉緒が助けを求めて涙目になっていた。
「美咲、ちょ、美咲ってば何なに、なんなのー!」
「ったく、なかなか目を覚まさないから心配した……」
「うっわ、私なんでこんな濡れ濡れなのっ!? 服びっちょりで下着スケスケ……美咲ったらこんなマニアックなプレイを……」
「するかアホ!」
莉緒の頭を叩く良い音が屋敷に響いた。
*
幽霊騒動から二週間近くが過ぎた。
噂に聞くと、あのお化け屋敷はもうすぐ業者が入り取り壊されることになるという。前の持ち主が土地を手放して、新しい権利者が更地にしてから別の建物を建てるとのことだった。
段々と怪談話も聞かなくなり、やがて忘れられていくのだろうと美咲はペンを動かしながらぼんやりと考える。あの二人は今もあの場所にいるのだろうか。それとも成仏したのだろうか。
「ねーエアコンの温度もうちょい下げようよー」
正座した美咲の足元で莉緒の間延びした要望が聞こえる。彼女はフローリングに寝ころびながら雑誌を読んでいた。
「ダメ。節電しろって親がうるさいの」
夏休みの宿題が終わらないと泣きついてきたので一緒に宿題を片づけようと勉強会を始めて一時間、すっかり飽きてしまった莉緒はローテーブルの上にある宿題など見向きもせず現実逃避に勤しんでいる。
「やばい、今週のジャンプやばい。チャドの霊圧また消えたよ、何度目だよ」
「莉緒、宿題やりにきたんじゃないの」
「美咲の終わるまで見守っててあげる~」
「それ写す気満々だろ!」
足元にいるのをいいことに膝頭で莉緒の頭を小突いた。あう、と犬のような悲鳴を上げてゴロゴロと床を転げ回っている。
「美咲ちゃんが優しくないー。お化け屋敷の時はあんなに心配してくれたのに」
ぶつぶつと文句を垂れながら再び美咲の膝横で寝ころぶ。定位置を譲る気はないようだ。雑誌に飽きたのか、今度は携帯をいじりながらさぼり続けている。
「元はといえばあんたが肝試しなんて言い出したからでしょ」
「夏の風物詩だよ、宿題よりも大事な必須課題だよ!」
あれだけ苦労したのは一体誰のためだと思っているのか、懲りない莉緒に美咲は溜息しか返せない。当の莉緒は次に美咲の左手で勝手に手遊びを始める有様だ。片手が塞がってしまい、美咲は物を書きづらいと文句を言おうとした。
その前に、唐突に莉緒が口を開く。
「ねえ、美咲。私、美咲のこと好きだよ」
「……え……?」
テーブル下から聞こえてくる声は明瞭ではっきりと聞き取れた。聞き取れてしまった。
美咲は莉緒の言葉を脳内で反芻しながら、混乱する思考に頭が真っ白になる。急になにを言い出したんだ、こいつは。
「え、ちょ、まって……莉緒、それって……」
ぐるぐるする頭を抱えながら美咲は必死で言葉を探す。こんななんでもない時に莉緒が自分に告白をしてきたのかとおかしな夢でも見ているような気分だった。
だが、美咲の逡巡は空しい結果に終わる。
「あ、やっぱ心拍数上がった!」
「……ん?」
見ると左手に押しつけられていたのは莉緒のスマートフォン。莉緒がしたり顔でその画面を見せると途中で大幅に突き抜けた折れ線グラフと数値が表示されていた。
「はっはーん。美咲ちゃんたら動揺しまくり、可愛いじゃん」
「…………」
美咲は渾身の力を込めて、開いていた教科書を莉緒の頭に叩きつけた。もちろん角を使った。
「いったあああ!」
「馬鹿、死ね! 幽霊に取り憑かれて死ね!」
「ひどい!」
ひどいのはどっちだ、と言いそうになって美咲は自分が泣きそうになっていることに気づいて慌てて莉緒から顔を背けた。痛がる莉緒の声が背後から聞こえてくる。頭に上った血はなかなか下がってくれないようで、とうとう連鎖反応なのか涙が一筋こぼれた。
「……っく……馬鹿……莉緒の馬鹿……っ」
「美咲?」
一度泣いてしまうと止まらなくなるようで、嗚咽を抑えきれずに美咲は肩を震わせた。その様子におずおずと莉緒が近寄る。
「よらないで」
「……美咲、あのね」
「うるさい、馬鹿、死ね」
「……ひどいよぉ」
美咲は覗き込む莉緒から顔を背け続ける。こんなことで泣いているところを見られたくなかった。本気にしたと思われるのが辛かった。
莉緒はそっと美咲の肩を抱く。振り払おうと思ったが、流れる涙を止めようとすることで精一杯だった。
「ほんとだよ?」
美咲の耳元で莉緒が囁く。
「美咲さ、私が取り憑かれてるときに告ったでしょ」
「……っ!」
恐ろしいことを聞いてしまった。八重は、どうやら莉緒に対して美咲の想いを気づかせるお節介をしたようだった。
余計なお世話だ。美咲は八重に心の中で悪態をつきながらますます顔を上げられなくなってしまった。
「美咲は私のこと、あんまり好きじゃないかと思ってた」
好きでもないのに一緒に居るわけ無いでしょ、と言いたかったがやめた。
「私はさ。美咲のこと、ずっと好きだったよ。たぶん」
たぶんって何だよ、と突っ込みを入れたかったがやめた。
「美咲が私のこと好きーって言ってくれたこと、嬉しかったんだよ。それでわかった。私も美咲好きだったんだなあって」
こういう流されやすいタイプは苦労するんだろうな、とぼんやり考えてから良くない未来を妄想するのはやめた。
「美咲、好きだよ」
何回好きだって言えば気が済むんだと言いたかったがやめた。
涙で顔がぐしゃぐしゃで、美咲はもう顔を上げられない。鼻も垂れてきた。
「ねえ、顔上げてよ」
空気読めよ馬鹿と罵りたかったが、まともに莉緒の顔なんて見られないと思った。
莉緒は耳まで真っ赤になっている美咲のことなどまるで気づかないように駄々っ子よろしく肩を揺さぶっている。
「ねーねー。美咲ちゃーん」
無邪気な莉緒は右へ左へ美咲の顔を覗き込もうと必死だ。
「ねえってばー」
美咲の中で何かが切れた。
「あーッ!! 子供かあんたはッ!」
しなだれかかっていた莉緒を美咲は勢い良く立ち上がることで部屋の隅へ吹き飛ばした。目を白黒させている莉緒にずかずかと歩み寄って、ビシッと指さす。
「そうだよ、あんたの事好きだって言ってるだろうが! こっちは感極まってるんだよ、放っといてよ、もしくは優しく肩を抱いてやるとか色々気遣い見せろよ! あーもう恥ずかしくてこっちが死ぬわ!」
しばらくぽかんとしていた莉緒だったが、一呼吸おいて綻んだ花のように笑った。
「あはは。美咲、涙で顔ぐっしゃぐしゃ」
「……誰のせいだと思ってるんだよ、この馬鹿ーッ!!」
美咲の絶叫が家中にこだまする。
驚いた家人が部屋まで様子を見に来たので二人は大慌てでその場を取り繕った。
二人の関係は友達から一歩進んだものになったはずなのに、いつもと変わらない光景に美咲は密かに嘆息する。
今まで悩んでいた自分が一人相撲をしていたようで、急に虚しくなってしまった。
落ち込む美咲に莉緒が今度は優しく肩を抱く。
「でも、美咲の泣き顔かわいいね」
美咲は、人間は恥ずかしさで死ぬことが出来るんだろうかと考えたが、やめた。
死んで幽霊になるなんて、私達にはまだ早い。
おしまい




