婚約破棄したいと言った覚えはありませんが?
「……は?」
開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだと思う。
目の前に広がるのは、白磁の大理石に金の刺繍が施された絨毯。光り輝く謁見の間で、私は呆然と立ち尽くしていた。
私――エレノア・マーシュは、しがない男爵家の娘だ。
髪は地味な茶髪、顔立ちもぼんやりとしている。貴族令嬢の華やかさなんてカケラもなく、社交界では「あの地味な子ね」とすら認知されないレベルの“中の中”である。
そんな私が、なぜか帝国の頂点に君臨する超絶美形、ルイシス皇太子の婚約者に選ばれて早三年。
「エレノア……僕が悪かった。すべて、僕の愚かさが招いた結果だ」
床に跪き、私の手を取って額を押し当てているのは、あの傲慢で有名な許婚様だ。
(えっ、ちょっと待って。膝、ついてる……? あの殿下が??)
先日までの殿下を思い出す。
気に入らない報告を持ってきた側近を冷徹な一言で切り捨て、私と目が合えば「フン」と鼻で笑って去っていった、あの冷血王子である。
この婚約だって、政争の駆け引きか何かで、私のことなんて視界にさえ入っていないと思っていたのに。
「あの、殿下? お顔をお上げください。周りの近衛兵さんたちが、見たこともない顔で震えています……」
「いや、上げない! 君が許してくれるまで、僕は二度と顔を上げない!」
叫ぶ殿下の声が謁見の間に響き渡る。
端っこに控えている側近のハンスさんが、見ちゃいけないものを見たような顔で天を仰いでいた。お疲れサマンサ。
「……あの、それで。私に『君との婚約を解消したい』とおっしゃるために、本日ここにお呼び立てになられたのでは?」
私が恐る恐る尋ねると、殿下は跳ね起きる勢いで顔を上げた。
氷の彫刻のように整った美貌が、恐怖で引きつっている。
「断じてない!! 婚約解消など、死んでもしない! 尻が十字に割れたとしても絶対にありえない!」
「比喩が上手いんだか下手なんだか」
「君が先日、『殿下はいつもお忙しそうですし、私のような地味な女ではお役に立てませんから、いつでも婚約など破棄してくださいね』と微笑んだとき、僕は気づいたんだ……君は僕の傲慢な態度に傷つき、去ろうとしているのではないかと!」
あ、あの時の話か。
ただ単に「お互い興味なさそうだし、いつでも解放してくれて構わないですよ」くらいの世間話のつもりだった。
積極的に破棄したいとまでは言った覚えはなかったのだが――まさかそんな重大に受け止められていたとは。
「僕は愚かだった! 自分の傲慢さを隠す術を知らず、君に甘え、突き放すような真似ばかりしていた! だが、改心した! 君を失うくらいなら、僕はなんだって捨てる!」
殿下は懐から、一発で超高級品とわかるクリスタルのハサミを取り出した。
「反省の意を示すため、今からこの髪を切り落とし、坊主になる」
「……は?」
「幸い、僕の頭蓋骨の形は美しいと評されている。坊主になっても、君の視界を不快にさせることはないはずだ」
「待ってください!! ハサミを置いて!!」
本気で自らの金髪に刃を入れようとしたので、私は叫びながら手首を掴んだ。
なんだその無駄に自信のある頭蓋骨のアピールは。
なにより、意外とお前に憧れている令嬢は多いんだぞ。国中の令嬢がショックで寝込んだらどうする。
「……ならぬか。髪を切るだけでは、君の怒りは収まらぬか……!」
「怒ってないです! ただただ恐怖を感じています!」
殿下がハサミを床に放り投げ、次にポケットから取り出したのは――重厚な意匠が施された、小さな銀の鍵だった。
「……これは?」
「貞操帯の鍵だ」
謁見の間に、しーんとした静寂が訪れた。
遠くで、側近のハンスさんが「ひぃっ」と短い悲鳴を上げたのが聞こえた。近衛兵の一人は、そっと目元を覆っている。
「……えーっと。殿下?」
「僕の心も体も、永久に君だけのものだ。鍵は君に預ける。君が許すまで、僕は誰とも、もちろん君とすらも一線を越えない。僕の貞操の権利は、すべて君の手の中にある」
「なにからなにまでいらないです」
「受け取ってくれ!!」
手のひらに、ずっしりと重い銀の鍵を押し付けられた。
冷たい金属の感触が、無駄にリアルで怖い。何なのこの人? ちょっと前までの俺様キャラはどこ行ったの??
「まだだ。これだけでは君の将来の不安を拭えまい」
殿下はすっと立ち上がると、羊皮紙の書類――皇帝の御璽が押された、超重要な公文書を広げた。
「父上……皇帝陛下からはすでに許可を得た。近々、僕は皇太子の座を辞し君に皇位継承権を譲る」
「はい???」
「君が女帝となるのだ、エレノア。僕は王配として君を支える。面倒な書類仕事、他国との外交、貴族どもの泥臭い腹芸……すべて僕が裏で片付ける。君は何もしなくていい。皇帝の玉座に座り、ただ美味しい紅茶を飲み、僕に時折……そう、三日に一度でも笑いかけてくれれば、それでいい」
殿下の瞳は、恐ろしいほど純粋な輝きを放っていた。
(狂ってる……)
私は知っていた。この人がものすごく優秀で、仕事中毒で、国の政治を一人で回していけるような天才だということは。
でも、その天才的な頭脳をフル回転させた結果叩き出した答えが、「自分が全部働いて、地味な婚約者を女帝にしてただ甘やかす」なの、おかしくない??
「……殿下。私、政治の知識なんてありませんよ?」
「僕がいる」
「刺繍と、庭のお花の手入れくらいしかできません」
「最高の庭園を作らせよう――国中の魔術師を集めて空に浮かべてもいい。刺繍の糸は世界中から最高級品を揃える」
「……毎日、お昼寝したいです」
「僕の膝を枕にするといい! いやまてよ国宝の安眠枕の方が……」
迷いがないようなあるような、とにかく完璧なまでの即答だった。
手に握らされた「貞操帯の鍵」を見る。それから跪いたままじっと私を見上げてくる、国一番の美形を見つめ返した。
(どうしよう……断る隙がない……)
これまで「地味だから」「男爵家だから」と社交界の隅っこで息を潜めて生きてきた私の人生が、この激重メンヘラ美形皇太子のせいで、おかしな方向へ舵を切り始めた。
「……ハンスさん」
助けを求めて横を見ると、側近のハンスさんは静かに目を逸らし、深々と頭を下げた。
『どうか我が国を、そしてこの愚かな殿下をお願いします』と言いたげなリアクションだった。見捨てないでほしい。
「……あの、殿下」
「なんだい、僕の愛しい女帝」
「……とりあえず、坊主にするのだけは勘弁してください。髪のある殿下の方が、見栄えが良いので」
そう言うと、ルイシス殿下の顔が、ぽっと赤くなった。
パッと花が咲いたような、今まで見たこともないような眩しい笑顔。
「……君がそう望むなら。僕は一生、この髪を君のために伸ばし続けよう」
あ、ダメだこれ。
逃げられないやつだ。
私は深々とため息をつきながら、とりあえず手のひらの中の「貞操帯の鍵」を失くさないようにポケットへしまい込んだのだった――重っ!
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