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いつか時代が来たら

作者: ドク
掲載日:2026/07/11

「いつか俺の時代が来たら、全部変えてやる」


子供の頃から、何度そう思っただろう。


テレビでは、史上最年少の棋士が、大人たちを次々となぎ倒していた。


まだ学生服の似合う少年が、無数の記者に囲まれながら、落ち着いた声で答えている。


別のチャンネルでは、一人の野球選手が海を渡り、投手として剛速球を投げた翌日に、打者として巨大なホームランを放っていた。


人々は熱狂した。


百年に一人の天才だ。


日本の誇りだ。


生まれた時から何かが違ったんだろうな。


俺は、そんな言葉を聞くたびにテレビを消した。


嫌いだったわけではない。


むしろ、憧れていた。


眩しすぎて、見ていられなかった。


俺は彼らを讃える側には立ちたくなかった。


かといって、彼らのように讃えられる側でもなかった。


ただ、いつか讃えられる側に立つことだけを熱望していた。


何の努力もせずに。


俺だって、本気を出せば。


そう言いながら、野球部には入らなかった。


俺は頭を使うほうが向いている。


そう言いながら、将棋の本は三十ページで閉じた。


小説家になろうと思った。


原稿用紙を買った。


一行も書かなかった。


起業家になろうと思った。


成功者の動画を見た。


動画を見終わった頃には満足して眠った。


俺の人生には、いつも巨大な可能性があった。


ただし、それは一度も形にならなかった。


二十歳になった。


何も起きなかった。


二十五歳になった。


まだ何かが始まると思っていた。


三十歳を過ぎた。


遅咲きの天才、という言葉を好んで検索するようになった。


そして三十七歳。


俺は工場で働いていた。


ベルトコンベアーから流れてくる冷凍コロッケを見つめ、不良品を取り除く。


朝八時から夕方五時。


週五日。


同じ帽子。


同じ作業着。


同じ機械音。


誰かに夢を聞かれることもなくなった。


休憩時間。


同僚たちは、野球選手の活躍を話していた。


「昨日もホームランだってよ。化け物だな」


俺は黙ってコンビニのおにぎりを食べた。


昔なら言ったかもしれない。


俺だって、本気を出していれば。


だが、もう言えなかった。


人生を料理に例えるなら、あの野球選手は世界中から客が集まる最高級の料理だ。


最年少棋士は、誰にも再現できない芸術品。


では、俺は何だ。


肉か。


魚か。


野菜か。


いや。


パン粉だ。


味もない。


そのまま食べる奴もいない。


料理を引き立てる役目すら果たしていない。


袋の底に残り、湿気て捨てられるだけのパン粉。


いや。


俺は料理にすら、なれていなかった。


その日は残業だった。


工場を出ると、雨が降っていた。


傘はなかった。


駅まで走る気力もなく、俺は濡れながら歩いた。


ホームには、帰宅途中の人間が並んでいた。


皆、スマートフォンを見ている。


俺も見た。


画面には、若い起業家の記事が表示されていた。


二十二歳。


年商十億。


若者よ、失敗を恐れるな。


俺は鼻で笑った。


失敗するほど、何かをしたこともないくせに。


その時だった。


「待ちなさーい!」


小さな男の子が、ホームを走っていた。


母親らしき女性が追いかけている。


子供の手から、赤い電車のおもちゃが落ちた。


おもちゃはホームを転がり、黄色い点字ブロックを越えた。


子供は迷わず追いかけた。


「あっ」


誰かが声を上げた。


男の子の足が、ホームの端から消えた。


小さな体が線路へ落ちた。


遠くから、電車の警笛が聞こえた。


誰も動かなかった。


俺も動かなかった。


はずだった。


気づいた時には、線路の上にいた。


どうやって飛び降りたのか、覚えていない。


子供は泣いていた。


俺はその体を抱え、ホームへ持ち上げた。


何人もの手が伸びた。


「早く!」


「子供を!」


男の子の体が、俺の腕から離れた。


その瞬間。


足元で何かが引っかかった。


安全靴の紐だった。


工場を出る時、ほどけていることに気づいていた。


だが、結び直さなかった。


面倒だったから。


警笛。


光。


悲鳴。


俺は思った。


なんだ。


俺の人生。


最後まで、こんなものか。


そして、世界が消えた。


目を開けると、白い部屋にいた。


壁もない。


天井もない。


ただ、白い。


目の前には、古い木の机があった。


その向こうに、一人の男が座っていた。


白い服。


白い髪。


顔だけは、疲れ切った中間管理職のようだった。


「お名前を」


「……死んだんですか」


「質問に答えてください」


俺は名前を告げた。


男は分厚い本を開いた。


しばらくページをめくる。


戻る。


まためくる。


首を傾げる。


「困りましたね」


「何がですか」


「判断材料がありません」


「は?」


「あなたを天国へ送るか、地獄へ送るか。その裁定を行う予定でした」


男は本をこちらへ向けた。


ほとんど白紙だった。


「大きな善行なし。大きな悪行なし。功績なし。犯罪歴なし。人を救った記録は、最後に一件」


「じゃあ、その一件で天国でいいだろ」


「しかし、あなた自身も理由を理解していない」


「子供を助けたんだぞ」


「なぜ助けたのですか」


答えられなかった。


正義感。


勇気。


使命感。


どれもしっくりこない。


気づいたら体が動いていた。


それだけだった。


男はため息をついた。


「あなたの人生には、選ばなかった道が多すぎます」


机の上に、四つの扉が現れた。


「特例措置です」


「異世界転生か?」


「違います」


「能力をもらって人生をやり直す?」


「できません」


「じゃあ何だよ」


「過去へ戻ってください」


俺は立ち上がった。


「本当に人生を変えられるのか?」


「あなた自身の人生をやり直すことはできません」


「じゃあ、何をするんだ」


「過去の自分と話してもらいます」


「話すだけ?」


「過去は変わる可能性があります。ただし、選ぶのは過去のあなたです」


四つの扉が開いた。


「あなたが選ばなかった、四つの起点へ戻ります」


「もし、全部やり直せたら?」


「その結果をもって、あなたの魂を裁定します」


最初の扉を抜けると、中学校の校舎にいた。


夕暮れの教室。


窓から差し込む西日が、机と椅子の影を長く伸ばしている。


教室には、十四歳の俺が一人で残っていた。


鞄に教科書を詰めながら、何度も後ろの席を見ている。


その席の机には、油性ペンで落書きがされていた。


死ね。


臭い。


学校に来るな。


いじめられていた少年の席だった。


今日の昼休み、その少年は教室の隅で数人の男子に囲まれていた。


教科書を投げられ、上履きを窓から捨てられた。


周囲の人間は笑っていた。


俺は笑わなかった。


だが、止めもしなかった。


ただ見ていた。


少年は放課後になると、誰よりも早く教室から出ていった。


そして十四歳の俺は、誰もいなくなった教室で、一人、その席を見つめている。


「気になるなら、追いかけろ」


俺が声をかけると、若い俺は飛び上がった。


「うわっ!」


鞄を盾のように抱え、教室の後ろまで下がる。


「誰だよ、あんた!」


「俺だ」


「は?」


「未来のお前」


若い俺は、俺の顔をじっと見た。


そして怪訝そうに眉を寄せた。


「……おじさん、誰?」


「だから未来のお前だって」


「俺、将来こんなに老けるの?」


「三十七は、おじさんじゃない」


「十分おじさんだろ」


腹が立った。


だが、十四歳から見れば、三十七歳など立派なおじさんなのだろう。


若い俺は、教室の扉へゆっくり近づいていく。


「近づくなよ。先生呼ぶからな」


「呼んでもいい。どうせ俺の姿は、お前にしか見えない」


「何それ。幽霊?」


「死んだばかりだから、だいたい合ってる」


若い俺の顔が青ざめた。


「俺、死ぬの?」


「二十三年後にな」


「結構先じゃん」


「そういう問題じゃない」


廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえた。


若い俺は扉を開け、外を確認する。


誰もいない。


振り返ると、俺はまだ教室の中に立っていた。


「本当に……俺なの?」


「お前は昨日、母親の財布から五百円を抜いた」


「えっ」


「それでコンビニで漫画を買った。ばれたら、道で拾ったと言うつもりだ」


「分かった! 分かったから言うな!」


ようやく信じたらしい。


若い俺は鞄を机の上に置いた。


「未来の俺が、何の用だよ」


俺は、落書きされた机を指差した。


「追いかけろ」


若い俺の顔から、さっきまでの驚きが消えた。


「……誰を?」


「分かってるだろ」


「もう帰ったよ」


「まだ校門の近くにいる」


「あいつと話して、どうするんだよ」


「何でもいい。隣を歩け。一緒に帰れ」


若い俺は目を伏せた。


「嫌だよ」


「どうして」


「俺までいじめられる」


「かもしれないな」


「じゃあ無理だろ」


「無理じゃない」


「未来の俺は助けたのかよ」


言葉が止まった。


若い俺は顔を上げた。


「助けたから、俺に言ってるんだよな?」


何も答えられなかった。


「……助けなかったんだ」


静かな声だった。


責めているというより、失望しているように聞こえた。


俺は椅子に座った。


「そうだ」


「じゃあ偉そうに言うなよ」


「ああ」


「俺がいじめられても、未来のあんたは痛くないもんな」


「ああ」


「自分は何もしなかったくせに、俺にやらせようとしてる」


「ああ。その通りだ」


若い俺は苛立ったように鞄をつかんだ。


「帰る」


「今日、あの子を見捨てたことを、お前はすぐに忘れる」


若い俺の足が止まった。


「一週間もすれば、普通に笑える。高校に進めば、顔も思い出さなくなる」


「なら、いいじゃん」


「でも、ときどき思い出す」


俺は夕暮れの教室を見回した。


「自分が苦しい時じゃない。誰かが勇気ある行動をした時だ」


若い俺は黙っている。


「人を助けたニュースを見た時。仲間をかばった人間を見た時。お前は思うんだ」


俺は落書きされた机に触れた。


「あの日、俺は見ていただけだったって」


廊下の時計が鳴った。


若い俺はしばらく動かなかった。


やがて、小さな声で聞いた。


「追いつけるかな」


「走れば」


「何て言えばいい?」


「知らない」


「未来から来たんだろ」


「二十三年考えても、正解なんて分からなかった」


若い俺は教室の出口へ向かった。


「でも、何も言わないよりはいい」


廊下に出る直前、若い俺は振り返った。


「未来の俺」


「何だ」


「俺、格好悪い?」


それは俺に聞いているのか。


自分自身に聞いているのか。


分からなかった。


「今はな」


俺は答えた。


「でも、このあとで決められる」


若い俺は走り出した。


俺も後を追った。


校門の近く。


いじめられていた少年が、一人で歩いていた。


若い俺はその背中を追いかける。


だが、声をかける直前で足を止めた。


肩が震えている。


俺には何もできない。


背中を押すこともできない。


代わりに声をかけることもできない。


選ぶのは、過去の俺だ。


やがて若い俺は、震える声を絞り出した。


「なあ!」


少年が振り返る。


「……一緒に帰らない?」


少年は何も答えなかった。


驚いたように、若い俺の顔を見ている。


「別に、嫌ならいいけど」


若い俺は目を逸らした。


「俺も今日は、一人だから」


少年はしばらく黙った後、小さくうなずいた。


二人が並んで歩き出す。


俺は、その後ろ姿を見つめた。


過去の自分を格好いいと思ったのは、それが初めてだった。


二つ目の扉を抜けると、高校の屋上にいた。


空は赤く染まり、フェンスの向こうを鳥の群れが飛んでいた。


十七歳の俺が、一人でベンチに座っている。


手には、折り畳まれた便箋。


そこには、好きな女子生徒へ伝えるつもりだった言葉が書かれている。


今日、彼女は転校する。


あと三十分もすれば、母親の車で学校を離れる。


俺は告白しようと思っていた。


手紙まで書いた。


だが、結局渡せなかった。


「まだ間に合うぞ」


俺が声をかけると、若い俺は勢いよく振り返った。


「誰だよ!」


立ち上がり、フェンスを背にして身構える。


「勝手に屋上に入ってくんなよ」


「俺だよ」


「知らない」


「未来のお前だ」


若い俺は眉間にしわを寄せた。


「……あんた、誰?」


「だから、お前」


「意味分かんねえよ。先生?」


「こんな私服の先生がいるか」


「じゃあ誰だよ、おじさん」


「三十七歳をおじさんと呼ぶな」


「おじさんじゃん」


二度目なので、少しだけ慣れていた。


「お前が小学生の時、好きだった子の名字は今井」


若い俺の顔が変わった。


「初めて買ったエロ本は、駅前の古本屋で買った」


「声でけえよ!」


「家に持ち帰れなくて、公園の時計台の裏に隠した」


「分かった! もういい!」


若い俺は慌てて周囲を確認した。


屋上には、俺たち以外誰もいない。


「……本当に未来の俺?」


「ああ」


「何しに来たんだよ」


俺は手紙を指差した。


「渡しに行け」


若い俺は、手紙をポケットに押し込んだ。


「嫌だ」


「どうして」


「無理だから」


「何が」


「どうせ振られる」


「まだ分からないだろ」


「分かるよ。あの子、人気あるし」


「だから何だ」


「俺なんかが告白したら、迷惑だろ」


聞き覚えのある言葉だった。


自分を卑下しているようで、実際は傷つかないための言い訳。


「未来の俺は、告白したの?」


若い俺が聞いた。


「しなかった」


「やっぱり」


「そして二十年間、告白していればと思い続けた」


「そのために戻ってきたの?」


「それだけじゃない」


俺は屋上から校門を見下ろした。


一台の車が止まっている。


もう時間がなかった。


「行け」


「振られたらどうする」


「泣けばいい」


「笑われたら?」


「怒ればいい」


「友達に言いふらされたら?」


「しばらく学校に来たくなくなるかもな」


「最悪じゃん」


「ああ。最悪かもしれない」


若い俺は呆れた顔をした。


「未来から来たなら、成功する方法を教えろよ」


「知らない」


「宝くじの番号とか」


「覚えてない」


「株とか」


「やったことない」


「役に立たねえな」


「俺もそう思う」


若い俺は少しだけ笑った。


だが、すぐに表情を曇らせる。


「怖いんだよ」


「ああ」


「行って、全部駄目になったら」


「全部は駄目にならない」


「なんで分かる」


「告白に失敗しても、明日は来るからだ」


俺には、今なら分かる。


失敗を人生の終わりだと思っていた。


だから、始めなかった。


だが実際には、ほとんどの失敗の翌日にも腹は減る。


電車は動く。


学校も会社もある。


世界は、こちらの絶望など気にせず続いていく。


「お前は、振られるのが怖いんじゃない」


俺は言った。


「自分が特別じゃないと分かるのが怖いんだ」


若い俺は黙った。


図星だった。


「行ってこい」


「……未来は変わる?」


「変わるかもしれない」


「付き合える?」


「それは分からない」


「幸せになれる?」


答えられなかった。


若い俺は、俺の顔を見つめる。


「未来の俺、幸せじゃないの?」


少し考えてから答えた。


「幸せになるために、何かをした記憶がほとんどない」


若い俺はポケットから手紙を取り出した。


皺がついている。


「もし振られたら、未来の俺のせいだからな」


「好きにしろ」


若い俺は屋上の扉へ向かった。


「なあ」


俺が呼び止める。


「何だよ」


「手紙を渡すだけじゃなくて、自分の口で言え」


「なんで」


「手紙は、渡さずに持って帰れるからだ」


若い俺は嫌そうな顔をした。


それでも、屋上から走り去った。


校舎の玄関。


転校する彼女が、最後の挨拶を終えて出てくる。


若い俺は物陰に隠れていた。


なかなか出ていかない。


彼女が車に乗ろうとする。


その時、若い俺が走った。


「待って!」


彼女が振り返る。


若い俺は肩で息をしていた。


手紙を握りしめたまま、何度も口を開いては閉じる。


「俺……」


声が裏返った。


「ずっと、好きだった!」


結果。


振られた。


彼女には、好きな人がいた。


若い俺は校舎裏で泣いた。


「最悪だ」


「そうだな」


「行かなきゃよかった」


「そうか?」


「振られたんだぞ」


「でも、答えを聞けた」


「聞かないほうがよかった」


「俺は二十年間、答えすら知らなかった」


若い俺は袖で涙を拭いた。


「未来の俺」


「何だ」


「これ、いつか笑い話になる?」


「なる」


「本当に?」


「ああ」


「いつ?」


「二十三年後でも、少し痛い」


「なってねえじゃん」


若い俺は泣きながら笑った。


その笑顔を見た瞬間、次の扉が現れた。


三つ目の扉の先には、古いアパートの一室があった。


二十二歳の俺が、一人で旅行鞄に服を詰めている。


机の上には、友人たちと行く旅行の予定表。


携帯電話には、母からの着信が何件も残っている。


祖母の容体が悪い。


病院へ来てほしい。


だが過去の俺は、母からの電話にこう答えた。


旅行は何か月も前から決まっていた。


今さらキャンセルできない。


ばあちゃんには、また会えるだろ。


祖母は、その日の夜に亡くなった。


「旅行はやめろ」


俺が言うと、若い俺は振り返った。


「うわっ! 誰だよ!」


握っていた下着を床に落とす。


「どこから入った?」


「玄関からじゃない」


「泥棒?」


「未来のお前だ」


「何だそれ」


若い俺は、机の上にあった置き時計を持ち上げた。


投げつけるつもりらしい。


「ちょっと待て。投げるな」


「出ていけよ、おじさん!」


「またおじさんか」


「警察呼ぶぞ!」


「お前が小学校五年生の時、祖母の家にあった壺を割ったのは猫じゃない。お前だ」


若い俺の手が止まる。


「あれは……誰にも言ってない」


「知ってる。俺だからな」


時計をゆっくり机に戻す。


「本当に未来の俺?」


「そうだ」


「なんで、そんな作業着みたいなの着てるの」


「工場勤務だから」


「俺、工場で働くの?」


その落胆した顔に腹が立った。


昔の俺は、本気で自分が何者かになると信じていた。


「悪いか」


「悪くはないけど……」


「何だ」


「社長とか、小説家とかになってると思ってた」


「安心しろ。どれにもなってない」


「安心できないだろ」


若い俺は旅行鞄を閉じた。


「それで、何の用?」


「病院へ行け」


若い俺の顔が曇った。


「ばあちゃんのこと?」


「ああ」


「でも、旅行は今日なんだよ」


「旅行はまた行ける」


「みんな待ってる」


「謝れ」


「キャンセル料もかかる」


「払え」


「金ないよ」


「働け」


「簡単に言うなよ」


俺は若い俺の胸ぐらをつかもうとした。


だが、手は体をすり抜けた。


触れることはできない。


「ばあちゃんは今日死ぬ」


若い俺の表情が固まった。


「嘘だ」


「今日の夜だ」


「母さんは、危ないかもって言っただけだ」


「その『かも』が最後だった」


「未来を変えたら、死なないかもしれないだろ」


「死ぬ」


言い切るしかなかった。


「お前が行っても、行かなくても、ばあちゃんは死ぬ」


「だったら、行っても意味ないじゃん」


若い俺は吐き捨てるように言った。


俺も当時、同じことを考えた。


会いに行ったところで病気は治せない。


何も変わらない。


なら、旅行を選んでも仕方がない。


そうやって、自分を納得させた。


「死ぬ人間に会う意味は、助けることだけじゃない」


「じゃあ何だよ」


「分からない」


「分からないのかよ」


「ああ。でも、行かなかった後悔は知ってる」


若い俺は窓の外を見る。


友人の車のクラクションが聞こえた。


迎えが来たのだ。


「友達を裏切ることになる」


「事情を話せば分かる」


「もし怒られたら?」


「そいつとは、その程度の関係だったってことだ」


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃない」


俺は静かに言った。


「だから、お前に選ばせてる」


若い俺は旅行鞄を見た。


携帯電話を見た。


そして、部屋の隅に置かれた祖母からもらった古い扇風機を見る。


しばらくして、旅行鞄を床に置いた。


携帯電話を手に取る。


友人へ電話をかけた。


「ごめん。今日、行けない」


相手が何かを言っている。


若い俺は何度も謝った。


電話を切ると、顔を伏せた。


「これでいいのか」


「分からない」


「またそれかよ」


「行けば分かる」


病院。


祖母は小さくなっていた。


若い俺はベッドのそばに座り、その手を握った。


「来てくれたのかい」


祖母は目を細めた。


「ごめん。遅くなって」


「何が?」


「もっと会いに来ればよかった」


祖母はゆっくり首を振った。


「来てくれたじゃない」


それが最後の言葉だった。


病室の外。


若い俺は壁にもたれて泣いた。


「これで未来は変わる?」


「分からない」


「俺、成功できる?」


「分からない」


「幸せになれる?」


「それも分からない」


若い俺は涙を流したまま、少し怒ったように笑った。


「あんた、本当に何も知らないんだな」


「ああ」


俺は閉じられた病室の扉を見る。


「でも、知らなくても選ばなきゃいけないんだ」


「意味はあるの?」


「意味なんて、後から決めればいい」


次の扉が、病院の廊下に現れた。


最後の扉を抜けると、狭いワンルームに出た。


二十五歳の俺が、一人で机に座っている。


机の上には、新品の原稿用紙。


一枚目には、タイトルだけが書かれている。


『いつか俺の時代が来たら』


俺は覚えていた。


この日、小説を書こうと思った。


原稿用紙を買い、机を掃除し、お気に入りのペンを用意した。


だが、一行目が書けなかった。


書き始めれば、自分に才能がないと分かるかもしれない。


最後まで書いて、誰にも評価されなかったら。


自分が特別ではないと証明されてしまう。


だから俺は、書かなかった。


「書け」


俺が声をかけると、若い俺は静かに振り向いた。


ほかの時代の俺とは違い、驚いて叫んだりはしなかった。


疲れた顔で、じっとこちらを見る。


「……誰?」


「未来のお前」


「そう」


妙にあっさりしている。


「信じるのか?」


「最近、何が起きても驚かない気がする」


「二十五歳で達観するな」


若い俺はペンを机に置いた。


「未来の俺、何歳?」


「三十七」


「小説家になった?」


答えられなかった。


沈黙だけで伝わったらしい。


「なってないんだ」


「ああ」


「じゃあ、何しに来たの?」


「書けと言いに来た」


若い俺は笑った。


「小説家になれなかった奴が?」


「ああ」


「説得力ないだろ」


「書かなかったから、なれなかった」


「書いてもなれなかったかもしれない」


「そうだな」


「才能がなかったかもしれない」


「ああ」


「なら、同じじゃん」


「違う」


俺は丸められた原稿用紙を拾った。


「失敗した奴は、一度は自分を信じた」


若い俺は黙っている。


「俺は、自分の可能性だけを大事にして、一度も使わなかった」


「使ってなくなったら、どうするんだよ」


「何が」


「可能性だよ」


若い俺は苦しそうに言った。


「書いて、つまらないものしか作れなかったら、俺には何もないって分かるだろ」


ようやく分かった。


俺が守っていたもの。


それは夢ではない。


自分が、まだ本気を出していない天才かもしれないという可能性だった。


実力を試さなければ、才能がないとも証明されない。


何もしない限り、俺は永遠に本気を出せばできた人間でいられる。


「お前には、何もないかもしれない」


俺は言った。


若い俺が顔を上げる。


「俺にも、何もなかった」


「じゃあ、書く意味ないだろ」


「それでも書け」


「どうして」


「何もない人間が、何もないと知った後に何をするのか」


原稿用紙を机に戻す。


「俺は、それを知らないまま死んだからだ」


若い俺は、未来の自分の姿を眺めた。


作業着。


荒れた手。


疲れた目。


夢見ていた未来とは、ほど遠い姿だ。


「俺、死ぬの?」


「ああ」


「いつ?」


「十二年後」


「何で?」


「子供を助けて、電車に轢かれる」


若い俺の目が見開かれた。


「俺が?」


「ああ」


「人を助けるの?」


「ああ」


「なんで?」


俺は少し笑った。


「分からない。気づいたら体が動いてた」


若い俺は俺の顔を見た。


「未来の俺って、駄目な奴?」


「かなりな」


「最低?」


「そこまで悪いこともしてない」


「良いことは?」


「ほとんどしてない」


「じゃあ普通?」


その言葉が胸に刺さった。


俺が最も嫌っていたもの。


普通。


何者でもない人間。


「そうだ」


俺は答えた。


「俺は、普通のまま死んだ」


若い俺は原稿用紙を見つめる。


「普通じゃ駄目なの?」


すぐには答えられなかった。


過去の俺から投げかけられたその言葉は、三十七年間、考えたことのない問いだった。


普通では駄目だと思っていた。


讃えられなければ。


歴史に残らなければ。


誰かが熱狂するほどの人間にならなければ。


人生には価値がないと思っていた。


「分からない」


俺は言った。


「でも、普通であることと、何もしないことは違う」


若い俺はペンを持った。


「一行目、何を書けばいい?」


「いつか俺の時代が来たら、変えてやる」


「そのままじゃん」


「いいんだよ」


「恥ずかしくない?」


「死んだ後なら、だいたいのことは恥ずかしくない」


若い俺は笑った。


そして、原稿用紙に一行目を書いた。


文字は下手だった。


文章もありきたりだった。


特別な才能を感じさせる一行ではなかった。


それでも、俺の人生には存在しなかった一行だった。


若い俺は、二行目を書こうとして手を止める。


「未来の俺」


「何だ」


「これを書いたら、人生変わる?」


俺は答えた。


「少なくとも、書かなかった人生ではなくなる」


若い俺は小さくうなずいた。


そして二行目を書き始めた。


その背後に、白い部屋へ戻る最後の扉が現れた。


白い部屋へ戻ると、男は分厚い本を開いていた。


白紙だったページに、文字が増えている。


「裁定を行います」


俺は椅子に座った。


「天国か」


男は黙った。


「地獄か」


男は本を閉じた。


「どちらでもありません」


「は?」


「あなたは過去を変えました」


「じゃあ、新しい人生を生きられるのか?」


「いいえ」


「どういうことだ」


男は四枚の紙を机に置いた。


一枚目。


いじめられていた少年の隣に立った俺。


二枚目。


好きだった人に告白した俺。


三枚目。


祖母の手を握った俺。


四枚目。


小説を書き始めた俺。


「彼らは、あなたではありません」


「俺だろ」


「あなたが選ばなかった道を選んだ、別のあなたです」


「じゃあ俺は?」


「あなたの人生は終わりました」


胸が苦しくなった。


結局、俺は何者にもなれなかった。


「ただし」


男は最後のページを開いた。


そこには、一行だけ書かれていた。


ホームから転落した少年を救助。


「あなたは人生の最後に、一度だけ考える前に行動した」


「一度だけか」


「はい」


「たった一度」


「はい」


男は微笑んだ。


「しかし、その一度で、一人の人生が続きました」


白い空間に映像が現れた。


助けた男の子がいた。


母親に抱きしめられ、泣いていた。


その後、少年は成長した。


高校生になった。


大学へ進んだ。


そして、大人になった。


駅のホーム。


一人の老人が倒れた。


少年だった男は、迷わず駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


映像が消えた。


「あなたは、自分をパン粉だと言いましたね」


男が言った。


「……ああ」


「パン粉だけでは料理になれない」


「やっぱりな」


「ですが」


男は本を閉じた。


「パン粉がなければ、完成しない料理もあります」


俺は黙った。


「あなたは世界を変えませんでした」


「分かってる」


「歴史にも残りません」


「分かってるよ」


「誰からも讃えられないでしょう」


俺は笑った。


「それも分かってる」


男は立ち上がった。


白い空間に、一つの扉が現れた。


「裁定を言い渡します」


俺は目を閉じた。


「あなたを――」


扉が開いた。


その向こうから、工場の機械音が聞こえた。


「人生へ戻します」


俺は目を開けた。


「……は?」


「一度だけです」


「いつに戻る」


「あなたが死ぬ、一年前」


「能力は?」


「ありません」


「才能は?」


「増えません」


「金は?」


「ありません」


「若返りは?」


「一年だけです」


俺は笑った。


「何もないじゃないか」


男も笑った。


「最初の人生と同じです」


扉の向こう。


工場の休憩室が見えた。


机の上には、コンビニのおにぎり。


テレビでは、若い野球選手がホームランを打っていた。


同僚たちが歓声を上げている。


以前の俺なら、テレビを消していた。


「最後に質問があります」


男が言った。


「次の人生では、何者になりますか?」


俺は考えた。


天才。


英雄。


小説家。


成功者。


どれも違った。


「分からない」


俺は答えた。


「でも」


扉へ向かって歩いた。


「今度は、何かを始めてみるよ」


扉をくぐる。


背後で男が言った。


「あなたの時代は来ません」


俺は振り返った。


「知ってる」


そして笑った。


「だから、俺から行くんだ」


工場の休憩室。


テレビの中で、天才が歓声を浴びていた。


俺は初めて、拍手をした。


誰かを讃えることは、負けることではなかった。


そして休憩が終わる前、売店で一冊のノートを買った。


最初のページを開く。


ペンを握る。


一行目を書く。


いつか俺の時代が来たら、変えてやる。


少し考え、その一文を二本の線で消した。


そして、新しく書いた。


今日、俺は何かを始める。


それは歴史には残らない。


誰も熱狂しない。


誰にも讃えられない。


それでも。


俺の人生はようやく、料理になろうとしていた。

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