いつか時代が来たら
「いつか俺の時代が来たら、全部変えてやる」
子供の頃から、何度そう思っただろう。
テレビでは、史上最年少の棋士が、大人たちを次々となぎ倒していた。
まだ学生服の似合う少年が、無数の記者に囲まれながら、落ち着いた声で答えている。
別のチャンネルでは、一人の野球選手が海を渡り、投手として剛速球を投げた翌日に、打者として巨大なホームランを放っていた。
人々は熱狂した。
百年に一人の天才だ。
日本の誇りだ。
生まれた時から何かが違ったんだろうな。
俺は、そんな言葉を聞くたびにテレビを消した。
嫌いだったわけではない。
むしろ、憧れていた。
眩しすぎて、見ていられなかった。
俺は彼らを讃える側には立ちたくなかった。
かといって、彼らのように讃えられる側でもなかった。
ただ、いつか讃えられる側に立つことだけを熱望していた。
何の努力もせずに。
俺だって、本気を出せば。
そう言いながら、野球部には入らなかった。
俺は頭を使うほうが向いている。
そう言いながら、将棋の本は三十ページで閉じた。
小説家になろうと思った。
原稿用紙を買った。
一行も書かなかった。
起業家になろうと思った。
成功者の動画を見た。
動画を見終わった頃には満足して眠った。
俺の人生には、いつも巨大な可能性があった。
ただし、それは一度も形にならなかった。
二十歳になった。
何も起きなかった。
二十五歳になった。
まだ何かが始まると思っていた。
三十歳を過ぎた。
遅咲きの天才、という言葉を好んで検索するようになった。
そして三十七歳。
俺は工場で働いていた。
ベルトコンベアーから流れてくる冷凍コロッケを見つめ、不良品を取り除く。
朝八時から夕方五時。
週五日。
同じ帽子。
同じ作業着。
同じ機械音。
誰かに夢を聞かれることもなくなった。
休憩時間。
同僚たちは、野球選手の活躍を話していた。
「昨日もホームランだってよ。化け物だな」
俺は黙ってコンビニのおにぎりを食べた。
昔なら言ったかもしれない。
俺だって、本気を出していれば。
だが、もう言えなかった。
人生を料理に例えるなら、あの野球選手は世界中から客が集まる最高級の料理だ。
最年少棋士は、誰にも再現できない芸術品。
では、俺は何だ。
肉か。
魚か。
野菜か。
いや。
パン粉だ。
味もない。
そのまま食べる奴もいない。
料理を引き立てる役目すら果たしていない。
袋の底に残り、湿気て捨てられるだけのパン粉。
いや。
俺は料理にすら、なれていなかった。
その日は残業だった。
工場を出ると、雨が降っていた。
傘はなかった。
駅まで走る気力もなく、俺は濡れながら歩いた。
ホームには、帰宅途中の人間が並んでいた。
皆、スマートフォンを見ている。
俺も見た。
画面には、若い起業家の記事が表示されていた。
二十二歳。
年商十億。
若者よ、失敗を恐れるな。
俺は鼻で笑った。
失敗するほど、何かをしたこともないくせに。
その時だった。
「待ちなさーい!」
小さな男の子が、ホームを走っていた。
母親らしき女性が追いかけている。
子供の手から、赤い電車のおもちゃが落ちた。
おもちゃはホームを転がり、黄色い点字ブロックを越えた。
子供は迷わず追いかけた。
「あっ」
誰かが声を上げた。
男の子の足が、ホームの端から消えた。
小さな体が線路へ落ちた。
遠くから、電車の警笛が聞こえた。
誰も動かなかった。
俺も動かなかった。
はずだった。
気づいた時には、線路の上にいた。
どうやって飛び降りたのか、覚えていない。
子供は泣いていた。
俺はその体を抱え、ホームへ持ち上げた。
何人もの手が伸びた。
「早く!」
「子供を!」
男の子の体が、俺の腕から離れた。
その瞬間。
足元で何かが引っかかった。
安全靴の紐だった。
工場を出る時、ほどけていることに気づいていた。
だが、結び直さなかった。
面倒だったから。
警笛。
光。
悲鳴。
俺は思った。
なんだ。
俺の人生。
最後まで、こんなものか。
そして、世界が消えた。
目を開けると、白い部屋にいた。
壁もない。
天井もない。
ただ、白い。
目の前には、古い木の机があった。
その向こうに、一人の男が座っていた。
白い服。
白い髪。
顔だけは、疲れ切った中間管理職のようだった。
「お名前を」
「……死んだんですか」
「質問に答えてください」
俺は名前を告げた。
男は分厚い本を開いた。
しばらくページをめくる。
戻る。
まためくる。
首を傾げる。
「困りましたね」
「何がですか」
「判断材料がありません」
「は?」
「あなたを天国へ送るか、地獄へ送るか。その裁定を行う予定でした」
男は本をこちらへ向けた。
ほとんど白紙だった。
「大きな善行なし。大きな悪行なし。功績なし。犯罪歴なし。人を救った記録は、最後に一件」
「じゃあ、その一件で天国でいいだろ」
「しかし、あなた自身も理由を理解していない」
「子供を助けたんだぞ」
「なぜ助けたのですか」
答えられなかった。
正義感。
勇気。
使命感。
どれもしっくりこない。
気づいたら体が動いていた。
それだけだった。
男はため息をついた。
「あなたの人生には、選ばなかった道が多すぎます」
机の上に、四つの扉が現れた。
「特例措置です」
「異世界転生か?」
「違います」
「能力をもらって人生をやり直す?」
「できません」
「じゃあ何だよ」
「過去へ戻ってください」
俺は立ち上がった。
「本当に人生を変えられるのか?」
「あなた自身の人生をやり直すことはできません」
「じゃあ、何をするんだ」
「過去の自分と話してもらいます」
「話すだけ?」
「過去は変わる可能性があります。ただし、選ぶのは過去のあなたです」
四つの扉が開いた。
「あなたが選ばなかった、四つの起点へ戻ります」
「もし、全部やり直せたら?」
「その結果をもって、あなたの魂を裁定します」
最初の扉を抜けると、中学校の校舎にいた。
夕暮れの教室。
窓から差し込む西日が、机と椅子の影を長く伸ばしている。
教室には、十四歳の俺が一人で残っていた。
鞄に教科書を詰めながら、何度も後ろの席を見ている。
その席の机には、油性ペンで落書きがされていた。
死ね。
臭い。
学校に来るな。
いじめられていた少年の席だった。
今日の昼休み、その少年は教室の隅で数人の男子に囲まれていた。
教科書を投げられ、上履きを窓から捨てられた。
周囲の人間は笑っていた。
俺は笑わなかった。
だが、止めもしなかった。
ただ見ていた。
少年は放課後になると、誰よりも早く教室から出ていった。
そして十四歳の俺は、誰もいなくなった教室で、一人、その席を見つめている。
「気になるなら、追いかけろ」
俺が声をかけると、若い俺は飛び上がった。
「うわっ!」
鞄を盾のように抱え、教室の後ろまで下がる。
「誰だよ、あんた!」
「俺だ」
「は?」
「未来のお前」
若い俺は、俺の顔をじっと見た。
そして怪訝そうに眉を寄せた。
「……おじさん、誰?」
「だから未来のお前だって」
「俺、将来こんなに老けるの?」
「三十七は、おじさんじゃない」
「十分おじさんだろ」
腹が立った。
だが、十四歳から見れば、三十七歳など立派なおじさんなのだろう。
若い俺は、教室の扉へゆっくり近づいていく。
「近づくなよ。先生呼ぶからな」
「呼んでもいい。どうせ俺の姿は、お前にしか見えない」
「何それ。幽霊?」
「死んだばかりだから、だいたい合ってる」
若い俺の顔が青ざめた。
「俺、死ぬの?」
「二十三年後にな」
「結構先じゃん」
「そういう問題じゃない」
廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえた。
若い俺は扉を開け、外を確認する。
誰もいない。
振り返ると、俺はまだ教室の中に立っていた。
「本当に……俺なの?」
「お前は昨日、母親の財布から五百円を抜いた」
「えっ」
「それでコンビニで漫画を買った。ばれたら、道で拾ったと言うつもりだ」
「分かった! 分かったから言うな!」
ようやく信じたらしい。
若い俺は鞄を机の上に置いた。
「未来の俺が、何の用だよ」
俺は、落書きされた机を指差した。
「追いかけろ」
若い俺の顔から、さっきまでの驚きが消えた。
「……誰を?」
「分かってるだろ」
「もう帰ったよ」
「まだ校門の近くにいる」
「あいつと話して、どうするんだよ」
「何でもいい。隣を歩け。一緒に帰れ」
若い俺は目を伏せた。
「嫌だよ」
「どうして」
「俺までいじめられる」
「かもしれないな」
「じゃあ無理だろ」
「無理じゃない」
「未来の俺は助けたのかよ」
言葉が止まった。
若い俺は顔を上げた。
「助けたから、俺に言ってるんだよな?」
何も答えられなかった。
「……助けなかったんだ」
静かな声だった。
責めているというより、失望しているように聞こえた。
俺は椅子に座った。
「そうだ」
「じゃあ偉そうに言うなよ」
「ああ」
「俺がいじめられても、未来のあんたは痛くないもんな」
「ああ」
「自分は何もしなかったくせに、俺にやらせようとしてる」
「ああ。その通りだ」
若い俺は苛立ったように鞄をつかんだ。
「帰る」
「今日、あの子を見捨てたことを、お前はすぐに忘れる」
若い俺の足が止まった。
「一週間もすれば、普通に笑える。高校に進めば、顔も思い出さなくなる」
「なら、いいじゃん」
「でも、ときどき思い出す」
俺は夕暮れの教室を見回した。
「自分が苦しい時じゃない。誰かが勇気ある行動をした時だ」
若い俺は黙っている。
「人を助けたニュースを見た時。仲間をかばった人間を見た時。お前は思うんだ」
俺は落書きされた机に触れた。
「あの日、俺は見ていただけだったって」
廊下の時計が鳴った。
若い俺はしばらく動かなかった。
やがて、小さな声で聞いた。
「追いつけるかな」
「走れば」
「何て言えばいい?」
「知らない」
「未来から来たんだろ」
「二十三年考えても、正解なんて分からなかった」
若い俺は教室の出口へ向かった。
「でも、何も言わないよりはいい」
廊下に出る直前、若い俺は振り返った。
「未来の俺」
「何だ」
「俺、格好悪い?」
それは俺に聞いているのか。
自分自身に聞いているのか。
分からなかった。
「今はな」
俺は答えた。
「でも、このあとで決められる」
若い俺は走り出した。
俺も後を追った。
校門の近く。
いじめられていた少年が、一人で歩いていた。
若い俺はその背中を追いかける。
だが、声をかける直前で足を止めた。
肩が震えている。
俺には何もできない。
背中を押すこともできない。
代わりに声をかけることもできない。
選ぶのは、過去の俺だ。
やがて若い俺は、震える声を絞り出した。
「なあ!」
少年が振り返る。
「……一緒に帰らない?」
少年は何も答えなかった。
驚いたように、若い俺の顔を見ている。
「別に、嫌ならいいけど」
若い俺は目を逸らした。
「俺も今日は、一人だから」
少年はしばらく黙った後、小さくうなずいた。
二人が並んで歩き出す。
俺は、その後ろ姿を見つめた。
過去の自分を格好いいと思ったのは、それが初めてだった。
二つ目の扉を抜けると、高校の屋上にいた。
空は赤く染まり、フェンスの向こうを鳥の群れが飛んでいた。
十七歳の俺が、一人でベンチに座っている。
手には、折り畳まれた便箋。
そこには、好きな女子生徒へ伝えるつもりだった言葉が書かれている。
今日、彼女は転校する。
あと三十分もすれば、母親の車で学校を離れる。
俺は告白しようと思っていた。
手紙まで書いた。
だが、結局渡せなかった。
「まだ間に合うぞ」
俺が声をかけると、若い俺は勢いよく振り返った。
「誰だよ!」
立ち上がり、フェンスを背にして身構える。
「勝手に屋上に入ってくんなよ」
「俺だよ」
「知らない」
「未来のお前だ」
若い俺は眉間にしわを寄せた。
「……あんた、誰?」
「だから、お前」
「意味分かんねえよ。先生?」
「こんな私服の先生がいるか」
「じゃあ誰だよ、おじさん」
「三十七歳をおじさんと呼ぶな」
「おじさんじゃん」
二度目なので、少しだけ慣れていた。
「お前が小学生の時、好きだった子の名字は今井」
若い俺の顔が変わった。
「初めて買ったエロ本は、駅前の古本屋で買った」
「声でけえよ!」
「家に持ち帰れなくて、公園の時計台の裏に隠した」
「分かった! もういい!」
若い俺は慌てて周囲を確認した。
屋上には、俺たち以外誰もいない。
「……本当に未来の俺?」
「ああ」
「何しに来たんだよ」
俺は手紙を指差した。
「渡しに行け」
若い俺は、手紙をポケットに押し込んだ。
「嫌だ」
「どうして」
「無理だから」
「何が」
「どうせ振られる」
「まだ分からないだろ」
「分かるよ。あの子、人気あるし」
「だから何だ」
「俺なんかが告白したら、迷惑だろ」
聞き覚えのある言葉だった。
自分を卑下しているようで、実際は傷つかないための言い訳。
「未来の俺は、告白したの?」
若い俺が聞いた。
「しなかった」
「やっぱり」
「そして二十年間、告白していればと思い続けた」
「そのために戻ってきたの?」
「それだけじゃない」
俺は屋上から校門を見下ろした。
一台の車が止まっている。
もう時間がなかった。
「行け」
「振られたらどうする」
「泣けばいい」
「笑われたら?」
「怒ればいい」
「友達に言いふらされたら?」
「しばらく学校に来たくなくなるかもな」
「最悪じゃん」
「ああ。最悪かもしれない」
若い俺は呆れた顔をした。
「未来から来たなら、成功する方法を教えろよ」
「知らない」
「宝くじの番号とか」
「覚えてない」
「株とか」
「やったことない」
「役に立たねえな」
「俺もそう思う」
若い俺は少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を曇らせる。
「怖いんだよ」
「ああ」
「行って、全部駄目になったら」
「全部は駄目にならない」
「なんで分かる」
「告白に失敗しても、明日は来るからだ」
俺には、今なら分かる。
失敗を人生の終わりだと思っていた。
だから、始めなかった。
だが実際には、ほとんどの失敗の翌日にも腹は減る。
電車は動く。
学校も会社もある。
世界は、こちらの絶望など気にせず続いていく。
「お前は、振られるのが怖いんじゃない」
俺は言った。
「自分が特別じゃないと分かるのが怖いんだ」
若い俺は黙った。
図星だった。
「行ってこい」
「……未来は変わる?」
「変わるかもしれない」
「付き合える?」
「それは分からない」
「幸せになれる?」
答えられなかった。
若い俺は、俺の顔を見つめる。
「未来の俺、幸せじゃないの?」
少し考えてから答えた。
「幸せになるために、何かをした記憶がほとんどない」
若い俺はポケットから手紙を取り出した。
皺がついている。
「もし振られたら、未来の俺のせいだからな」
「好きにしろ」
若い俺は屋上の扉へ向かった。
「なあ」
俺が呼び止める。
「何だよ」
「手紙を渡すだけじゃなくて、自分の口で言え」
「なんで」
「手紙は、渡さずに持って帰れるからだ」
若い俺は嫌そうな顔をした。
それでも、屋上から走り去った。
校舎の玄関。
転校する彼女が、最後の挨拶を終えて出てくる。
若い俺は物陰に隠れていた。
なかなか出ていかない。
彼女が車に乗ろうとする。
その時、若い俺が走った。
「待って!」
彼女が振り返る。
若い俺は肩で息をしていた。
手紙を握りしめたまま、何度も口を開いては閉じる。
「俺……」
声が裏返った。
「ずっと、好きだった!」
結果。
振られた。
彼女には、好きな人がいた。
若い俺は校舎裏で泣いた。
「最悪だ」
「そうだな」
「行かなきゃよかった」
「そうか?」
「振られたんだぞ」
「でも、答えを聞けた」
「聞かないほうがよかった」
「俺は二十年間、答えすら知らなかった」
若い俺は袖で涙を拭いた。
「未来の俺」
「何だ」
「これ、いつか笑い話になる?」
「なる」
「本当に?」
「ああ」
「いつ?」
「二十三年後でも、少し痛い」
「なってねえじゃん」
若い俺は泣きながら笑った。
その笑顔を見た瞬間、次の扉が現れた。
三つ目の扉の先には、古いアパートの一室があった。
二十二歳の俺が、一人で旅行鞄に服を詰めている。
机の上には、友人たちと行く旅行の予定表。
携帯電話には、母からの着信が何件も残っている。
祖母の容体が悪い。
病院へ来てほしい。
だが過去の俺は、母からの電話にこう答えた。
旅行は何か月も前から決まっていた。
今さらキャンセルできない。
ばあちゃんには、また会えるだろ。
祖母は、その日の夜に亡くなった。
「旅行はやめろ」
俺が言うと、若い俺は振り返った。
「うわっ! 誰だよ!」
握っていた下着を床に落とす。
「どこから入った?」
「玄関からじゃない」
「泥棒?」
「未来のお前だ」
「何だそれ」
若い俺は、机の上にあった置き時計を持ち上げた。
投げつけるつもりらしい。
「ちょっと待て。投げるな」
「出ていけよ、おじさん!」
「またおじさんか」
「警察呼ぶぞ!」
「お前が小学校五年生の時、祖母の家にあった壺を割ったのは猫じゃない。お前だ」
若い俺の手が止まる。
「あれは……誰にも言ってない」
「知ってる。俺だからな」
時計をゆっくり机に戻す。
「本当に未来の俺?」
「そうだ」
「なんで、そんな作業着みたいなの着てるの」
「工場勤務だから」
「俺、工場で働くの?」
その落胆した顔に腹が立った。
昔の俺は、本気で自分が何者かになると信じていた。
「悪いか」
「悪くはないけど……」
「何だ」
「社長とか、小説家とかになってると思ってた」
「安心しろ。どれにもなってない」
「安心できないだろ」
若い俺は旅行鞄を閉じた。
「それで、何の用?」
「病院へ行け」
若い俺の顔が曇った。
「ばあちゃんのこと?」
「ああ」
「でも、旅行は今日なんだよ」
「旅行はまた行ける」
「みんな待ってる」
「謝れ」
「キャンセル料もかかる」
「払え」
「金ないよ」
「働け」
「簡単に言うなよ」
俺は若い俺の胸ぐらをつかもうとした。
だが、手は体をすり抜けた。
触れることはできない。
「ばあちゃんは今日死ぬ」
若い俺の表情が固まった。
「嘘だ」
「今日の夜だ」
「母さんは、危ないかもって言っただけだ」
「その『かも』が最後だった」
「未来を変えたら、死なないかもしれないだろ」
「死ぬ」
言い切るしかなかった。
「お前が行っても、行かなくても、ばあちゃんは死ぬ」
「だったら、行っても意味ないじゃん」
若い俺は吐き捨てるように言った。
俺も当時、同じことを考えた。
会いに行ったところで病気は治せない。
何も変わらない。
なら、旅行を選んでも仕方がない。
そうやって、自分を納得させた。
「死ぬ人間に会う意味は、助けることだけじゃない」
「じゃあ何だよ」
「分からない」
「分からないのかよ」
「ああ。でも、行かなかった後悔は知ってる」
若い俺は窓の外を見る。
友人の車のクラクションが聞こえた。
迎えが来たのだ。
「友達を裏切ることになる」
「事情を話せば分かる」
「もし怒られたら?」
「そいつとは、その程度の関係だったってことだ」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
俺は静かに言った。
「だから、お前に選ばせてる」
若い俺は旅行鞄を見た。
携帯電話を見た。
そして、部屋の隅に置かれた祖母からもらった古い扇風機を見る。
しばらくして、旅行鞄を床に置いた。
携帯電話を手に取る。
友人へ電話をかけた。
「ごめん。今日、行けない」
相手が何かを言っている。
若い俺は何度も謝った。
電話を切ると、顔を伏せた。
「これでいいのか」
「分からない」
「またそれかよ」
「行けば分かる」
病院。
祖母は小さくなっていた。
若い俺はベッドのそばに座り、その手を握った。
「来てくれたのかい」
祖母は目を細めた。
「ごめん。遅くなって」
「何が?」
「もっと会いに来ればよかった」
祖母はゆっくり首を振った。
「来てくれたじゃない」
それが最後の言葉だった。
病室の外。
若い俺は壁にもたれて泣いた。
「これで未来は変わる?」
「分からない」
「俺、成功できる?」
「分からない」
「幸せになれる?」
「それも分からない」
若い俺は涙を流したまま、少し怒ったように笑った。
「あんた、本当に何も知らないんだな」
「ああ」
俺は閉じられた病室の扉を見る。
「でも、知らなくても選ばなきゃいけないんだ」
「意味はあるの?」
「意味なんて、後から決めればいい」
次の扉が、病院の廊下に現れた。
最後の扉を抜けると、狭いワンルームに出た。
二十五歳の俺が、一人で机に座っている。
机の上には、新品の原稿用紙。
一枚目には、タイトルだけが書かれている。
『いつか俺の時代が来たら』
俺は覚えていた。
この日、小説を書こうと思った。
原稿用紙を買い、机を掃除し、お気に入りのペンを用意した。
だが、一行目が書けなかった。
書き始めれば、自分に才能がないと分かるかもしれない。
最後まで書いて、誰にも評価されなかったら。
自分が特別ではないと証明されてしまう。
だから俺は、書かなかった。
「書け」
俺が声をかけると、若い俺は静かに振り向いた。
ほかの時代の俺とは違い、驚いて叫んだりはしなかった。
疲れた顔で、じっとこちらを見る。
「……誰?」
「未来のお前」
「そう」
妙にあっさりしている。
「信じるのか?」
「最近、何が起きても驚かない気がする」
「二十五歳で達観するな」
若い俺はペンを机に置いた。
「未来の俺、何歳?」
「三十七」
「小説家になった?」
答えられなかった。
沈黙だけで伝わったらしい。
「なってないんだ」
「ああ」
「じゃあ、何しに来たの?」
「書けと言いに来た」
若い俺は笑った。
「小説家になれなかった奴が?」
「ああ」
「説得力ないだろ」
「書かなかったから、なれなかった」
「書いてもなれなかったかもしれない」
「そうだな」
「才能がなかったかもしれない」
「ああ」
「なら、同じじゃん」
「違う」
俺は丸められた原稿用紙を拾った。
「失敗した奴は、一度は自分を信じた」
若い俺は黙っている。
「俺は、自分の可能性だけを大事にして、一度も使わなかった」
「使ってなくなったら、どうするんだよ」
「何が」
「可能性だよ」
若い俺は苦しそうに言った。
「書いて、つまらないものしか作れなかったら、俺には何もないって分かるだろ」
ようやく分かった。
俺が守っていたもの。
それは夢ではない。
自分が、まだ本気を出していない天才かもしれないという可能性だった。
実力を試さなければ、才能がないとも証明されない。
何もしない限り、俺は永遠に本気を出せばできた人間でいられる。
「お前には、何もないかもしれない」
俺は言った。
若い俺が顔を上げる。
「俺にも、何もなかった」
「じゃあ、書く意味ないだろ」
「それでも書け」
「どうして」
「何もない人間が、何もないと知った後に何をするのか」
原稿用紙を机に戻す。
「俺は、それを知らないまま死んだからだ」
若い俺は、未来の自分の姿を眺めた。
作業着。
荒れた手。
疲れた目。
夢見ていた未来とは、ほど遠い姿だ。
「俺、死ぬの?」
「ああ」
「いつ?」
「十二年後」
「何で?」
「子供を助けて、電車に轢かれる」
若い俺の目が見開かれた。
「俺が?」
「ああ」
「人を助けるの?」
「ああ」
「なんで?」
俺は少し笑った。
「分からない。気づいたら体が動いてた」
若い俺は俺の顔を見た。
「未来の俺って、駄目な奴?」
「かなりな」
「最低?」
「そこまで悪いこともしてない」
「良いことは?」
「ほとんどしてない」
「じゃあ普通?」
その言葉が胸に刺さった。
俺が最も嫌っていたもの。
普通。
何者でもない人間。
「そうだ」
俺は答えた。
「俺は、普通のまま死んだ」
若い俺は原稿用紙を見つめる。
「普通じゃ駄目なの?」
すぐには答えられなかった。
過去の俺から投げかけられたその言葉は、三十七年間、考えたことのない問いだった。
普通では駄目だと思っていた。
讃えられなければ。
歴史に残らなければ。
誰かが熱狂するほどの人間にならなければ。
人生には価値がないと思っていた。
「分からない」
俺は言った。
「でも、普通であることと、何もしないことは違う」
若い俺はペンを持った。
「一行目、何を書けばいい?」
「いつか俺の時代が来たら、変えてやる」
「そのままじゃん」
「いいんだよ」
「恥ずかしくない?」
「死んだ後なら、だいたいのことは恥ずかしくない」
若い俺は笑った。
そして、原稿用紙に一行目を書いた。
文字は下手だった。
文章もありきたりだった。
特別な才能を感じさせる一行ではなかった。
それでも、俺の人生には存在しなかった一行だった。
若い俺は、二行目を書こうとして手を止める。
「未来の俺」
「何だ」
「これを書いたら、人生変わる?」
俺は答えた。
「少なくとも、書かなかった人生ではなくなる」
若い俺は小さくうなずいた。
そして二行目を書き始めた。
その背後に、白い部屋へ戻る最後の扉が現れた。
白い部屋へ戻ると、男は分厚い本を開いていた。
白紙だったページに、文字が増えている。
「裁定を行います」
俺は椅子に座った。
「天国か」
男は黙った。
「地獄か」
男は本を閉じた。
「どちらでもありません」
「は?」
「あなたは過去を変えました」
「じゃあ、新しい人生を生きられるのか?」
「いいえ」
「どういうことだ」
男は四枚の紙を机に置いた。
一枚目。
いじめられていた少年の隣に立った俺。
二枚目。
好きだった人に告白した俺。
三枚目。
祖母の手を握った俺。
四枚目。
小説を書き始めた俺。
「彼らは、あなたではありません」
「俺だろ」
「あなたが選ばなかった道を選んだ、別のあなたです」
「じゃあ俺は?」
「あなたの人生は終わりました」
胸が苦しくなった。
結局、俺は何者にもなれなかった。
「ただし」
男は最後のページを開いた。
そこには、一行だけ書かれていた。
ホームから転落した少年を救助。
「あなたは人生の最後に、一度だけ考える前に行動した」
「一度だけか」
「はい」
「たった一度」
「はい」
男は微笑んだ。
「しかし、その一度で、一人の人生が続きました」
白い空間に映像が現れた。
助けた男の子がいた。
母親に抱きしめられ、泣いていた。
その後、少年は成長した。
高校生になった。
大学へ進んだ。
そして、大人になった。
駅のホーム。
一人の老人が倒れた。
少年だった男は、迷わず駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
映像が消えた。
「あなたは、自分をパン粉だと言いましたね」
男が言った。
「……ああ」
「パン粉だけでは料理になれない」
「やっぱりな」
「ですが」
男は本を閉じた。
「パン粉がなければ、完成しない料理もあります」
俺は黙った。
「あなたは世界を変えませんでした」
「分かってる」
「歴史にも残りません」
「分かってるよ」
「誰からも讃えられないでしょう」
俺は笑った。
「それも分かってる」
男は立ち上がった。
白い空間に、一つの扉が現れた。
「裁定を言い渡します」
俺は目を閉じた。
「あなたを――」
扉が開いた。
その向こうから、工場の機械音が聞こえた。
「人生へ戻します」
俺は目を開けた。
「……は?」
「一度だけです」
「いつに戻る」
「あなたが死ぬ、一年前」
「能力は?」
「ありません」
「才能は?」
「増えません」
「金は?」
「ありません」
「若返りは?」
「一年だけです」
俺は笑った。
「何もないじゃないか」
男も笑った。
「最初の人生と同じです」
扉の向こう。
工場の休憩室が見えた。
机の上には、コンビニのおにぎり。
テレビでは、若い野球選手がホームランを打っていた。
同僚たちが歓声を上げている。
以前の俺なら、テレビを消していた。
「最後に質問があります」
男が言った。
「次の人生では、何者になりますか?」
俺は考えた。
天才。
英雄。
小説家。
成功者。
どれも違った。
「分からない」
俺は答えた。
「でも」
扉へ向かって歩いた。
「今度は、何かを始めてみるよ」
扉をくぐる。
背後で男が言った。
「あなたの時代は来ません」
俺は振り返った。
「知ってる」
そして笑った。
「だから、俺から行くんだ」
工場の休憩室。
テレビの中で、天才が歓声を浴びていた。
俺は初めて、拍手をした。
誰かを讃えることは、負けることではなかった。
そして休憩が終わる前、売店で一冊のノートを買った。
最初のページを開く。
ペンを握る。
一行目を書く。
いつか俺の時代が来たら、変えてやる。
少し考え、その一文を二本の線で消した。
そして、新しく書いた。
今日、俺は何かを始める。
それは歴史には残らない。
誰も熱狂しない。
誰にも讃えられない。
それでも。
俺の人生はようやく、料理になろうとしていた。




