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第五章



    1



 昼休みのチャイムが鳴り、雪はぐいっと背伸びをした。からっとした秋晴れの日差しが優しい。教室は昼下がりの穏やかな空気に包まれていた。こんな日はできたら昼寝をしたい。きっと、気持ちよく寝れるはずだ。


「飯どうする? 持ってきてないなら売店でなんか買って、またベランダで食うか? ほら、天気もいいし」


 後ろから陽斗が話しかけてきた。


「おう、そうするか」


 言いながら、席を立つ。


「その前に、トイレ行ってくる」

「了解!」


 教室の中は、誰かの笑い声がのんびりと響いていた。しかし、その音が急にかき消されるように、肩に衝撃が来た――



 芽火だ。



「あ、ごめん」


 彼女はいつもスマートフォンばかり見ている。周りを気にせず、何も見ようともせず、SNSや自分を加工した写真ばかりチェックしている。かなり危険な行動なのに、芽火は誰に指摘されても、やめようとしなかった。依存というより、あれはもう病気だとさえ思った。

 芽火が持っていたスマートフォンの画面に、目線を落とす。蒼らしき姿が映っているように見えた。


「ちょっと待て、それ!」


 気づけば、芽火の手からスマートフォンを奪っていた。


「何するのよ! 返して!」


 芽火はスマートフォンを取り返そうと、必死に腕を伸ばす。雪はその腕を払って、そのまま廊下に持っていく。画面には、蒼と芽火が並んでベッドの中にいる写真が映っていた。蒼は眠っていて、上半身は裸。芽火は彼の肩に頬を寄せて、カメラに向かってピースをしていた。

 指先が震えてくる。手で口を覆いながら、今にも胸の奥からせりあがってくる感情を抑えた。


「なんだよこれ……」

「あんたには関係ないでしょ! 早く返して!」


 芽火は語気を強め、雪の手からスマートフォンを乱暴に奪い返した。その勢いのまま、腕が大きく振り上がる。そして、まるでタイミングを計ったかのように、画面が向いた先に、背後から歩いてきた蒼の姿があった。スマートフォンの液晶には、先ほどのツーショット写真が大きく映し出されたまま。その画面を蒼の目が正面から捉えてしまった。

「おい、これ……」


 声色が変わる。蒼の眉がわずかにひそめられ、空気がぴんと張り詰めた。

 芽火は、はっとしたように振り返ると、スマートフォンを胸に抱いて、


「ごめん先生、真壁くんにバレちゃった」


 そう言って、舌を出すその笑顔は、無邪気というより、人を小馬鹿にしたような色が混じっていた。

 芽火は小走りに教室へ戻っていく。


「…………」


 蒼は言葉を失ったように、わずかに唇を動かす。けれど、声は出ない。ただ、目を伏せ、額に手をやるその姿が、すべてを物語っていた。

 雪は表情を歪める。汚いものを見るように、蒼を一瞥する。


「……最低です」


 吐き捨てる。そのまま背を向け、走った。


「真壁!」


 後ろから、足音がついてくる。


「来ないでください!」


 突き放すように言っても、蒼はあとを追ってくる。横切っていく生徒たちは皆、自分たちを訝しげに見ているようだった。

 廊下の一番奥にある、人気がない階段に差し掛かったところで、あえなく蒼に掴まった。


「真壁、聞いてくれ!」

「何を聞くっていうんですか! 先生がそんな人間だとは思いませんでした。女子生徒に手を出すなんて……」

「それには、訳が……」

「……先生」


 ゆっくりと蒼に近づいていく。


「最近は色々あって、辛い気持ちもわかります。でも、どうして芽火なんですか? 僕にその気持ちをぶつけてくれたらいいのに――」


 蒼の背後にある壁を叩く。頭を落としたまま、なにも返してこない蒼に腹が立って仕方ない。

 次第に涙が溢れてくる。泣いたって仕方がないのに、どうしようもなく溢れてきた。感情がぐちゃぐちゃで、わけがわからなくなる。雪はそのまま、厚い胸板に頭を押し当てた。


「あの女なんかに触れるくらいなら、僕に……僕に全部くださいよ……」


 すすり泣きながら、蒼に小さくそう言った。


「真壁……」


 蒼は雪の肩に手を置く。


「俺は、教師を辞める」

「え……」

「本当にすまない……」

「絶対にだめです! 先生がそこまで責任をおう必要ないです! だって、どうせあいつからでしょ? あいつは先生のこと狙ってたし、もしかして脅されてる!? あいつならやりかねない! もしそうなら僕がなんとかするよ? だから辞めないで!」

「それは違う。俺のせいなんだ」

「ねえ! お願いだから。辞めないでよ、先生!」

「……俺は教師失格だ」

「せ、先生!」


 去っていく蒼に手を伸ばす。しかし、足が動かなかった。頭の中では、「教師をやめる」という彼の一言が繰り返される。

 雪はその場で立ち尽くし、小さくなっていく彼の後ろ姿を見つめた。


「絶対に許さない……」


 冷たい廊下に吐き落とす。


「死んで償え……」


 握り込んだこぶしは震えていた。噛んでいた唇からは、血の味がした。

 十月の風が頬をなでる。街路樹のイチョウや楓は色づきはじめ、赤や橙が道路に点描のように舞っていた。夕暮れにさしかかる西陽はまぶしく、空はやけに冷えていた。

 雪は制服の下にパーカーを着て、フードを目深にかぶり、芽火の後ろ姿を遠巻きに見つめていた。

 駅へと向かう足取りは軽く、片手にはスマートフォン。通りすがる人に何度も肩をぶつけながらも、芽火は顔を上げることなく画面を見つめている。謝罪の言葉すら口にせず、まるで風景の一部を押しのけるように進んでいくその態度に、すれ違う人々は眉をひそめていた。雪の視線は、一瞬たりとも芽火から外さなかった。

 最寄りの駅に着くと、いつもとは逆側のホームに立った。こっちは芽火の帰宅方面のホームだ。

 自動販売機の陰から、彼女の立ち位置と周囲の乗客の配置を確認する。

 防犯カメラに視線を向ける。銀色の筒状カメラが、列車の進入方向に固定されている。

 あれは、列車の先頭車両を正面から捉えるためのもの。芽火と、そのすぐ後ろに並んでいる乗客――たとえば二人目までは、おそらくカメラのフレームに入る。だが、さらにその後方――三人目以降、列の後方に並んでいる人物は、角度的にフレームから外れそうだった。

 そして、芽火は幸運にも――いや、皮肉にも、最前列に並んでいた。後ろには、小柄な女性が一人だけ。

 時間は午後四時三十分。



 ここしかない。



 雪はゆっくりと息を吸い込み、呼吸を整えた。

 数日前、芽火がよく使うSNSで、ランダムな英数字だけの捨てアカウントを作っておいた。プロフィールもアイコンもない、痕跡を残さないための影のようなアカウント。

 フリーWi-Fiに接続し、ログインする。使い慣れていないスマートフォンで芽火のDMに、迷いなく打ち込んだ。


《芹沢蒼と何があったか、今すぐ答えろ》


 ほとんど間を置かず、返信が来た。


《誰!?》


 雪はホームの発車標へ視線を滑らせる。「16:36 快速XX行き」の文字が点滅し、その下で「まもなく列車が通過します」が淡く明滅している。

 雪は、素早く指を動かした。


《急げ。答えなければ、殺す。嘘をついても、殺す。逃げても無駄だ。私はずっと見ている》


 そのあとに、数枚の写真を添付して送る。

 芽火がスマホを見ながら歩く姿。

 誰かと電話をしている姿。

 手鏡で前髪を整えている姿。

 どれも無防備で、距離が近く、逃げ場のない写真だった。

 画面を見た途端、芽火の肩が跳ねる。怯えた瞳で周囲を見渡していた。


《ねえ、冗談でしょ!? やめてよ!》

《質問に答えろ。時間はない》

《なんの話だかわからない》

《わかっているはずだ》


 指先が震えているのが、遠目にもわかった。

 数秒後、芽火は観念したように返信を打つ。


《芹沢先生は酔いつぶれてて、自宅には入ったけど何もなかった。写真は、わたしが勝手に撮った。これでいいですか?》


 雪は唇を噛んだ。芽火の小さな背中が、視界の中で揺れている。右の手のひらが汗ばんでいく。心臓が、ゆっくりと、しかし確実に加速していった。

 彼女は、許されないことをした。


「お前のせいで、先生は……」


 胸の奥で、あの声がふたたび響く。



 死んで、償え。

 死んで、償え……。



 そのとき、ホームにアナウンスが落ちた。


「まもなく、通過電車が到着します。白線の内側までお下がりください――」


 空気が揺れる。

 遠くから、金属のうねる重低音。レールを震わせ、風を巻き上げる鉄の咆哮(ほうこう)。油と熱の匂いが鼻腔を刺す。雪は自動販売機の影から、そっと一歩だけ前へ出た。通過電車のシルエットが視界に入りはじめた瞬間――迷いなく、地面を蹴った。

 背後から、最後列の女性の背中を強く押す。


「きゃっ――!」


 彼女は反射的に前方へよろめき、芽火に体当たりする形になった。

 芽火は、突き飛ばされるように足を踏み外し――そのまま、線路側へと傾いた。小さな悲鳴。かすかに振り向いた芽火の顔が、一瞬だけこちらを見た気がした。



 ――次の瞬間。



 「……っ!」


 鈍い衝突音が響き、誰かの喉を裂くような悲鳴がホームを突き抜けた。雪は振り返らなかった。ホームからそのまま足早に階段を上り、改札を抜けた。

 身体は軽かった。まるで何かを脱ぎ捨てたようだった。

 駅前のロータリーに立ち、ゆっくりと息を整える。遠くから、騒然としたホームの様子がわずかに覗けた。

 駅員が叫び、警備員が走る。通行人たちは「何が起こった」と口々に言い合い、スマートフォンを手にした人々が騒ぎに吸い寄せられていく。

 雪は視線を逸らし、駅前の大きなイチョウの木を見上げた。金色の葉が、太陽の光を跳ね返していた。

 何日目だろう。

 タイミングと状況次第だった。



 でも、うまくいった。



 マスクをずらす。口元には、笑みが溢れた。





 その夜。真っ暗な部屋の中、雪はベッドに寝転びながらスマートフォンの通知を見つめていた。画面には、〇〇!ニュースの速報が表示されている。



【速報】XX線・△△駅で人身事故 女子高校生が死亡。本日16時頃、〇〇市内の△△駅構内で、通過列車にはねられた女子高校生が死亡する事故がありました。目撃者によると「後ろから何かにぶつかられていた」との証言もあり、警察では事件と事故の両面から捜査を進めています。



 雪は、親指で画面をスクロールさせる。

 記事には名前も顔写真も載っていない。ただ、女子高校生とだけ。

 次にSNSを開き、検索窓に文字を打ち込む。

 「△△駅」

 「人身事故」

 「女子高生」

 更新されたタイムラインには、憶測と同情と、無責任な善意が溢れていた。


『やば……今、線路に人が飛び込んだ……』

『女子高生だったらしい……怖すぎ』

『ホームで人にぶつかってよろけたみたいだったけど、まじか』

『ニュースでは、誰かに押された可能性があるって言ってるけどマジ?』

『自殺じゃなくて事件ぽい?』

『かわいそう』

『すごい音だった』

『初めて人が轢かれるとこ見ちゃった……』

『今日運悪すぎ』

『XX線かなり遅れそう。約束の時間に間に合わない!』

『ほんと人身事故やめてほしい』


 ざわつく投稿の数々を、雪は一つひとつ読みながら、冷静に目を細めた。

 映像や写真は載っていない。投稿者のほとんどが「見た気がする」という曖昧な言葉で、決定的な証言は、どこにもない。

 小さく息を吐いた。

 スマホをゆっくり伏せ、天井を見つめる。いつもと変わらない天井。自分の呼吸だけが耳に響いていた。



 もともと、落とすつもりだった。



 ただ、その前に一つだけ、聞いておきたかった。――真実を。

 しかし、人は嘘をつく。平気な顔で、何度でも。だから、危険な賭けをした。人は恐怖を突きつけられた瞬間だけは違う。足場を失い、逃げ場を奪われたとき、人はようやく本音をこぼす。

 澪織のときも、そうだった。パラペットの上で、彼女は震えながら言った。



 やっぱり、生きたい。



 あの声は、嘘じゃなかった。だからこそ、確信した。

 恐怖が、一番確実だと。

 わずかな高揚感が、じわりと内側に広がる。雲ひとつない青空の下で、深呼吸をしているような感覚だった。



 芽火は、もういない。



 あの声も、あの笑いも、二度と聞かずに済む。蒼が冤罪だったこともわかった。それを証明できたのは、自分だけだと思うと、胸の奥が静かに満ちていく。



 もう邪魔するものは、消えた。



 雪は、そっと目を閉じ、声に出さず笑った。



    2



 *灰原視点



 警報音が鳴り響く中、階段を二段飛ばしで駆け上がり、改札を抜けると、構内アナウンスの声が耳を突いた。


「XX線は、上り線で発生した人身事故の影響により、上下線ともに運転を見合わせております――」


 △△駅、上りホーム。黄色の規制テープの内側では、警察官と駅員が声を張り上げながら慌ただしく動き回っていた。

 ホームの端には、ビニールシートで覆われた転落現場。周囲には近づかないよう促す駅員の声が飛び、足止めされた乗客たちが、遠巻きにその様子を見つめている。

 灰原は規制線の内側へ一歩踏み込み、ホーム脇で作業を続けている人物に声をかけた。

 白い作業着に身を包み、ゴム手袋をはめた鑑識係が、しゃがみ込んだまま小型ライトをレール脇に向けている。足元には器具ケースと、番号札を付けられた証拠袋がいくつも並んでいた。


「鑑識さん、遺留品はこれで全部か?」


 呼びかけに、鑑識は顔を上げる。白いマスクをつけたまま一度うなずく。


「現時点では、確認できたのは以上です。被害者のスクールバッグ、教科書類、生徒手帳、それからスマートフォン、飛散物も一通り回収しました。いまのところ、これ以上は見当たりません」


 灰原は黙ってスマートフォンが入った透明の袋を拾い上げ、画面をのぞき込む。

 黒いロック画面。

 

「……顔認証対応か」


 灰原は呟く。


「……はい。すぐには、解除は難しいです」


 彼女の顔はレールに巻き込まれ、もう存在していなかった。


「……そうか」


 灰原はわずかに息を吐くと、スマートフォンを元の場所に置く。次に、生徒手帳に目を落とし名前を確認する。


「乾……芽火……」


 思わず眉を寄せる。

 澪織事件で名前を見たばかりの少女――まさか、今度はこの子が。


「こんな偶然……あるのか?」


 灰原は顎に手を当てた。

 視界の先。ホームの壁際に女性が一人、毛布を肩にかけられ、駅職員に付き添われて座っていた。

 顔は血の気を失い、唇はかすかに震えている。視線はどこにも定まらない。芽火のすぐ後ろに並んでいた乗客だった。

 灰原は歩み寄り、しゃがむ。


「あなたが、被害者の背後にいた方ですね?」


 女性はびくりと肩を揺らし、何度か瞬きをしてから、かすかに頷いた。


「何があったか、順番に話してもらえますか」

「急に……背中に、どん、と当たって……私、崩れて……」


 息が乱れる。胸が上下する。


「後ろから、強い衝撃があった、と?」

「……はい」

「それは、押される感じですか?」


 小さく首を横に振る。


「……わかりません。ぶつかっただけかも……でも、強い力でした」

「……なるほど」

「そ、それで、気づいたら……彼女が…………」


 声が途切れ、両手で口元を押さえる。過呼吸気味で、言葉が続かない。


「あの……!」


 女性は、縋るように灰原の袖を掴んだ。


「私、どうなるんですか……! 落とすつもりなんて……っ、ありませんでした……! お願いです、信じてください……!」


 灰原はゆっくりとその手を外す。


「大丈夫です。あなたを疑っているわけではありません。落ち着いてから、改めて詳しく伺います」


 女性は涙をこぼしながら、警官に支えられて立ち上がった。

 付き添っていた駅職員に声をかけた。


「防犯カメラの映像を確認したい。保存状況を教えてもらえますか」

「はい。管理責任者を呼びます」


 数分後、腕章を付けた駅設備の管理責任者が現れた。簡単な身分確認と、記録の取り扱いについての説明が交わされる。


「該当時刻の映像は保存されています。こちらへどうぞ」


 案内され、灰原は管理室へ入った。薄暗い室内。壁一面に並ぶモニター。複数のホーム映像が無機質に切り替わっている。


「問題の時刻、巻き戻せますか」


 技術担当が操作盤を叩く。タイムコードが逆行し、ホームの映像が静かに巻き戻る。

 灰原は腕を組み、画面を凝視した。

 芽火が改札を通る姿、階段を下りる様子までは鮮明に記録されていた。しかし、問題のホーム――特に芽火が並んでいたエリアに関しては、わずかに死角だった。


「ここ、ちょうどカメラの切れ目です」

「ホームの端、ここが?」

「ええ。もともとこのカメラは車両進入時の確認が目的なので、並んでいる乗客はややフレームの外なんです。加えて、西陽の逆光が強くて……」

「ここ、スローにしてくれ」


 灰原は映像を見ながら、眉間にしわを寄せた。

 芽火の背後に立っていた乗客の姿まで、ギリギリ写ってはいるが、その先が切れていた。列車が接近する瞬間に、突然視界の端から何かが動いたような残像が見える。だが、ぶつかったのか、故意に押したのか――詳細は判断できなかった。映像はその直後、急に白飛びし、次の瞬間には周囲の乗客が一斉に同じ方を向き、ざわめく様子が映っていた。

 カメラはそこだけが欠けている。目撃証言も曖昧。遺体の頭部損壊により、スマホもすぐにはロック解除できない。



 偶然か?



 だが、あまりにも都合が良すぎる。事件性を立証する決定打が、すべて見えない。


「もう一度、巻き戻してくれ」


 灰原はそう言い、映像を再生し直した。

 後日。デジタル解析班の室内は、今日も無機質な静けさに包まれていた。蛍光灯の光が、機材の銀縁を鈍く反射させている。

 灰原は黙って中へ入り、無言のまま若い技術員の背後に立った。椅子の背もたれ越しに、スクリーンの映像が目に入る。


「乾芽火のスマホ、解析状況は?」


 技術員は、びくりと肩を上げる。


「灰原さん、いつも背後から急に、声をかけないでください。驚くじゃないですか」

「すまない。それで、どうだった」

「大方終わりました。データの復旧は完了しています。犯行直前に、脅迫されていたDMが見つかりました」


 技術員はタブを切り替える。


「若い世代でよく使われているSNSです。彼女のDMで、殺害を仄めかしています」

「送った相手はわかったか?」

「それが、完全な捨てアカウントで、すでに削除されています。回線もフリーWi-Fiを使っているので、すぐには個人の特定はできません」

「そうか……」

「あと、もう一つ気になるやり取りがあります」

「見せろ」


 表示されたのは、コミュニケーションアプリのトーク履歴。


「事件の三日前。相手は同級生と思われる女子生徒です」


 トークの一部が、モニターに表示される。


【芽火】

《最近ね、なんか誰かに後つけられてる気がするんだよね》

《帰り道とか、同じやつに見られてる感じ》

《こないだ電車乗る時も、改札の柱の影にいた》

《誰かに似てるんだよね。気のせいならいいんだけど……》


 灰原は、「誰かに似ている……」と、小さく呟いたあと、静かに息を吸い込んだ。

 数日前、駅の監視カメラ映像を確認したときの記憶が蘇る。

 事件当日、芽火が改札を抜ける映像のあと、同じ制服の男子生徒がわずかに気になっていた。

 顔は見えなかった。制服の下にパーカーを着て、フードを深く被り、マスクをつけている――その格好が、異様に印象に残っていた。



 ***



「駅の映像、巻き戻せるか? 前日の午後四時。△△駅の東口付近」

「はい、ちょっと待ってください……」


 技術員が素早く映像を呼び出し、タイムラインを巻き戻す。モニターには、改札前の通路が映し出された。乗客が行き交う中で、芽火の姿とその後をついていくように同じパーカーの男子生徒。

 ここで、動画を一時停止し、じっと画面を凝視する。

 やはりここでも顔は見えない。ただ、制服の袖から覗く、長くて細い指先。パーカーのフードから白いイヤホンのコードが、わずかに見えた。


「……」


 灰原は画面に目を細めた。

 姿勢。歩幅。そして――同じ制服。肩幅。小柄な体格。首筋の細さ……。

 頭の奥で、ある生徒の顔が浮かび上がった。



 ――真壁雪。



 ゆっくりと視線を落とす。メモ帳を取り出し、何も書かず、ただ開いたまま指でなぞった。

 真壁雪……まさかな。

 決定的な証拠は、まだ何もない。しかし、彼の名は二度も現場に残り、そして今――この映像にも、何かが滲んでいる。

 画面の中に映る、冬でもないこの季節にパーカーのフードを深く被った異様な男子生徒。

 灰原はモニターの光を見据えたまま、呟いた。


「……気のせい、とは思えないな」

 赤い看板と蛍光灯の白い光が、夜の路地裏を淡く照らしている。雨上がりのアスファルトが鈍く光り、湯気の匂いが通りまで流れていた。

 店の名前が書かれた暖簾(のれん)をくぐり、灰原は引き戸を開ける。


「いらっしゃい、灰原さん。最近よくいらっしゃいますね」

「ああ」


 ここは行きつけのラーメン屋だ。客は二人だけ。木のテーブルが三つ、カウンターが四席。壁には手書きのメニューと色褪せたビールのポスター。油と湯気の匂いが混じっている。換気扇の低い唸りが、絶えず店内を震わせていた。


「悩んでますね」

「ん? そう見えるか?」

「長い付き合いですから。顔に出てますよ」

「刑事失格だな」

「そんなことないですよ」


 店主は笑い、麺を湯切りする。湯が跳ね、白い蒸気が一瞬、視界を曇らせた。

 店主は五十を越えているはずだが、肩はがっしりとしている。白いTシャツの袖から覗く腕には、小さな火傷の跡がいくつも残っていた。頭には白いタオルを巻き、額や目尻には深いシワが刻まれていた。


「いつもの。生ビール大も」

「かしこまりました」


 灰原はカウンターに腰を下ろした。

 冷えた生ビールを目の前に置かれ、それに手をつける。喉を通る冷たさが、身体の奥に落ちていった。


「息子とはどうなんだ。この前、喧嘩したって言ってただろ」

「ああ、仲直りはしましたよ。高校生は難しい年頃ですね」

「だろうな」

「高校生って、みんな危なっかしいですよ。大人ぶってても、足元はぐらぐらだ。何を抱えているのか、親でもわかりません」


 その言葉に、動きを止まる。

 グラスの縁に触れた指先が、わずかに強張った。



 危なっかしい。



 真壁雪の顔が、脳裏に浮かぶ。

 あの目。あの静けさ。あれは、本当に〝危なっかしい〟で済むのか……。


「お待ちどうさま」


 目の前に置かれた丼から湯気が立ちのぼる。醤油の香りがふわりと広がり、現実へと引き戻された。


「人は空腹だと、考えがまとまりませんから。こういう時は、腹を満たすといいですよ」

「ああ」


 割り箸を割ると、斜めに裂けた。


「あはは、割り箸までご機嫌斜めですね」


 店主は、豪快に笑う。


「真っ直ぐにはいかないものだな」


 誰にともなく呟き、麺を啜る。

 壁の小さなテレビでは、別の高校生が起こした事件の速報が流れていた。


〈市内の高校生を――〉


 音声が、湯気に溶ける。映像だけが、無機質に繰り返される。

 店主が眉をひそめた。


「嫌になりますね……うちの息子と同い年なんですよ。こういうのを見ると、胸にきます」

「…………」


 胸にくる、か。

 何も返さず、丼の縁に視線を落とす。


「そういえば、もうすぐ文化祭で合唱をやるらしくて。最近ずっと練習してるんですよ。夜でも声が聞こえてきます」

「……合唱か」

「ええ。今年は見に行ってやろうと思ってます」


 スープを啜る。いつもと同じ味のはずなのに、今日は妙に薄い。舌が味を拾いきれていないのか、それとも、心が別のことを考えているからか。


「私も、今年は文化祭に出向くつもりだ」

「へぇ、灰原さんも行かれるんですね」


 灰原はわずかに口元を歪める。


「仕事だ」


 それだけ言うと、黙って麺を啜る。何度か、静かに。やがて丼を傾け、残ったスープを最後の一滴まで飲み干す。丼の底が、ゆっくりと現れた。


「ごちそうさん」

「もう行かれるんですね」

「ああ。明日も早い」

「ありがとうございました。また」


 小さく頷き、代金を置く。椅子がわずかに軋んだ。ガラガラ、と引き戸を開けると、外気が店内へ流れ込む。北風が湯気の残り香をさらっていった。路地裏の空気は冷たい。冬が足音を立て、近づき始めていた。

 灰原はコートの襟を立て、歩き出した。

 捜査会議は、署内の一角に設けられた仮設の会議室で行われていた。数人の刑事と鑑識、PCを開いたデジタル班の技術員が集まり、全員が立ったまま資料を確認していた。

 ホワイトボードの中央には、乾芽火の顔写真とプロフィールが掲げられていた。その周囲には、死亡時刻、関係者の一覧、事件当日の行動時系列がマーカーで書き込まれている。さらに、SNSの脅迫DMの全文と、現在の調査状況、解析済みのデジタル記録や聞き取りの進捗までもが、余白を埋めるように並べられていた。


「端末情報の照合結果、共有してくれ」


 灰原が短く促す。


「SNSのアカウントはすでに削除済みですが、Meta社からの協力でアクセス記録を取得しました」


 技術員がPCの画面を操作しながら言った。


「送信元は駅前のカフェチェーンのフリーWi-Fiです。MACアドレスは確認不能、VPN経由で位置情報も撹乱されています。ただ――端末情報だけは、照合に成功しました。XX市立〇〇高等学校の生徒、渡瀬(わたせ)(かおる)のスマートフォンです」

「……渡瀬薫?」


 灰原が割って言うと、眼鏡をかけた刑事が補足する。


「本人によれば、数日前、スマホをなくしたとのこと。いつ落としたかは不明で、学校で盗まれた可能性も否定できません。現在は別端末を使っていると証言しています」


 灰原はわずかに息を吐いた。

 脅迫に使われたアカウントは即削除、IPはフリーWi-Fi、端末は他物。完璧なまでに、〝個人特定を回避するための布石〟が打たれている。


「SNSアプリの操作履歴はすべて、その端末内で完結しています。Meta側にも、別のアカウントとの紐づけは一切なしです」


 技術員が補足した。


「つまり――最初から〝追跡されること〟を計算に入れていたってわけか」


 灰原は低く、唸るように言った。


「……自分のスマホでやっていたら、アカウントを消しても端末ログから辿れる。今のSNSは、大体の動作記録をクラウドに保持してるからな。――だがこれは、警察の動きまで予測した行動だ」


 言葉の端に、かすかな苛立ちがにじんでいた。


「で、渡瀬薫が犯人という線は?」


 顎ひげを蓄えた、体格のいい中年の刑事が低く問いかけた。


「現時点では難しいですね。犯行時刻、彼女は校内で部活動中でした。部員の証言も一致しています」


 眼鏡をかけた刑事が、メモ帳を確認しながら答えた。


「嘘はついていない……か」

「それと」


 デジタル班の技術員が、再び口を開く。


「鉄道会社から提供された追加映像があります。前方カメラの記録です。問題の時刻のみ抽出してあります」


 会議室の照明がわずかに落とされ、壁面モニターに映像が投影された。列車がホームへ進入してくる映像。逆光の影響は少ないが、解像度は荒い。運転席前方の視点から、列の先頭付近が正面に映っている。


「ここで停止します」


 映像が止まる。

 芽火の姿。その背後、小柄な女性。そして、一瞬だけフレームの端に映り込む影。フードを深く被った、男子生徒。マスクもしており、顔は映らない。



 だが、この体格……。



 灰原の目が、わずかに細くなる。


「……拡大できるか」


 技術員がズームする。画質はさらに荒れる。だが、袖口から覗く細い指先と、イヤホンの白いコードがかろうじて確認できた。

 灰原の脳裏に、ある姿が浮かぶ。



 改札映像で見た男子生徒か……。



「しかし、これだけでは故意に押したかどうかは断定できません。それに、個人特定も難しいですね」


 技術員が冷静に言う。


「同じ制服ですね。ズボンですし、同校の男子の可能性が高いです」


 若い刑事がモニターに近づき、腕を組む。

 灰原は、ホワイトボードに視線を移し、文字を黙って見つめた。

 乾芽火への脅迫文の中には、芹沢蒼の名が仄めかされている。教師と生徒、そしてその死――単なる偶然とは思えなかった。


「芹沢蒼への事情聴取は?」

「本人は、芽火と〝その夜〟一緒にいたことを認めました。ただ、脅迫文の送り主については、思い当たる節はないと」


 担当した若い刑事が、そう答えた。

 灰原は、目を伏せたまま資料に指を這わせる。

 〝思い当たらない〟という言葉――それが本心だったのか、それとも誰かを庇っているのか。これは〝誰かを守るため〟の犯行かもしれない。あるいは、〝誰かに見てもらうため〟の舞台だったのか――胸の奥に、微かなざらつきが残った。

 捜査会議が終わり、室内の空気がほどける。資料を抱えた刑事たちが三々五々、廊下へと散っていった。

 灰原は最後まで席を立たず、ホワイトボードに書かれた芹沢蒼の名前を見つめていた。

 会議室を出る。蛍光灯の白い廊下。数メートル先に、蒼の事情聴取を担当した若い刑事の背中が見えた。


「――少し、いいか」


 声をかける。


「灰原さん」

「芹沢の件だ。録音、あるんだろう」

「あ、はい。署内サーバーに上がってますが……」

「今、聞きたい」


 若い刑事は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。


「では、会議室を使いますか?」

「いや。静かな場所がいい」


 二人は資料室の奥にある小さな打ち合わせ室へ移動する。窓のない部屋。机と椅子が二脚。壁に掛けられた時計の秒針だけが規則正しく刻まれている。

 若い刑事がノートPCを開き、ファイルを立ち上げた。


「ここです。全編録音です」

「ありがとう。あとは一人でいい」


 彼は軽く会釈して部屋を出ていった。

 扉が閉まると外部の音が消え、しんと静まる。

 灰原は椅子に腰を下ろし、再生ボタンを押した。

 小さなノイズ。

 それから、若い刑事の声。


〈これからお話を伺います。録音させていただきますがよろしいですね〉


 数秒の沈黙。


〈……はい〉


 芹沢蒼の声は、低く、落ち着いている。

 灰原は目を閉じた。


〈あなたの生徒でもある乾芽火さんを自宅に招いたのは事実ですか?〉

〈事実です。ただ、招いたわけではありません〉


 灰原は指で机をとん、と叩く。


「招いたわけではない……か」


 再生は続く。


〈私はその晩、ひどく酔っていました。相手が彼女だと判別もできないくらいでした〉


 停止。

 わずかに目を細める。


「判別もできない、ね」


 酔っていた。覚えていない。

 だが、言葉は整いすぎている。

 再び再生。


〈朝起きた時には、彼女はもういなくなっていました。置き手紙を見て、乾さんが私を自宅まで送ってくれたことを知ったんです〉

〈なぜ、そんなにお酒を?〉

〈生徒が立て続けに亡くなって……私のせいだと思ったんです〉

〈どうして、そう思ったんですか?〉

〈教師だからです……〉


 ここで、わずかな間。

 巻き戻す。

 もう一度。


〈教師だからです……〉


 言葉のあと、呼吸が揺れている。


「……責任感か。罪悪感か」


 さらに再生。


〈脅迫DMを送った人物に心当たりはありませんか?〉


 長い沈黙。

 室内の秒針の音だけが響く。


〈……ありません〉


 ここで停止。


「今の沈黙……七秒」


 再生。


〈本当に?〉


 数秒の沈黙。


〈……本当に、わかりません〉

〈でも。このDMの内容からして、あなたの勤務校の生徒である可能性は高い〉


 椅子の軋む音。


「落ち着きがないな」


 わずかに大きくなる刑事の声。


〈この人物は、あなたのことを知りたがっている。脅迫するほどに。あなたを、気にかけている生徒がいるのでは?〉

〈気にかけてる……生徒、ですか〉

〈いるんですね?〉

〈いえ。そんな生徒は……いません……〉


 停止。

 視線を横へ流す。


「今の間……誰かが頭を過ったか?」


 再生する。


〈庇っているのでは?〉

〈え……〉

〈生徒を。本当は心当たりがある〉

〈……あの子は、そんなことをする人間じゃない〉

〈あの子? 誰のことですか?〉

〈……いえ。誰も思い当たりません〉

〈でも、心当たりがあるから〝あの子〟と言ったのでは?〉

〈頭が混乱して……本当にいません……〉


 灰原は、そこで停止ボタンを押した。

 室内の空気が変わる。


「あの子……」


 小さく、呟く。

 刑事の質問は、〝気にかけている生徒〟が〝DMの送り主〟ではないか、という推測だった。蒼はどちらに対しても、いないと言っていたのに、〝あの子〟と口にした。



 本当に言い間違えか?



 巻き戻し、もう一度その部分を聞く。


〈……あの子は、そんなことをする人間じゃない〉


 声はわずかに震えている。

 否定ではない。願望だ。


「……なるほどな」


 芹沢蒼は犯人を知らないのではない。



 〝疑っているが、信じたくない〟。



 脳裏に、あの静かな少年の姿が浮かぶ。


「やはり、芹沢は〝彼〟を守ろうとしている?」


 だが……守られている側は、本当に守られるべき存在なのか。

 灰原はゆっくりとノートPCを閉じた。



    3



 昨夜から降り続く雨は、朝になっても衰える気配を見せなかった。教室には重たい沈黙が漂っている。誰一人、口を開かない。咳払いすら許されないような緊張感が、空気を張り詰めさせていた。ただ窓の向こうから、激しい雨音と、ときおり遠くで唸る雷鳴だけが、静寂の隙間を縫うように聞こえていた。

 芽火の席には、学級委員が持ってきた白い小花が、机の真ん中にぎこちなく置かれる。教室にはもう、紗英と澪織の花がある。三つめの白が、視界をじわじわと圧迫した。扉が開いても「おはよう」は出てこない。入ってきた生徒は一瞬だけ芽火の席を見て、視線を落とした。後列の男子が、ペン先を折る乾いた音を立て、隣の女子がびくりと肩をすくめる。机の上のスマートフォンが震え、女子は裏返した。けれど、また震える。止む。震える。止む——それがしつこく続く。やがて男子の一人が、消え入りそうな声で言う。


「このクラス、呪われてるんじゃね……?」

「変なこと言うの、やめてよ!」


 近くの女子が語調を強める。


「だって、こんな立て続けにおかしくないか?」

「そ、そうだけど……」

「お祓いした方がいいんじゃね?」


 日に焼けた短髪の男子が、さらりと言う。


「私、ママが知り合いでお祓いできる人いるよ」

「お祓いって……マジかよ」


 その時、青白い顔をした女子がぼそっと呟いた。


「てか、渡瀬さん。なんで、刑事に呼ばれてたの?」

「それは……スマホのことで」


 雪の斜め前の席にいる薫が、弱々しく答えた。


「スマホ?」

「別になんだっていいでしょ……」

「なんで言えないんだよ。もしかして、お前が乾さんを?」


 隣席の男子が、眉をひそめて言う。


「は? んなわけないでしょ!」

「だって、事件性があるから何度も警察きてんじゃねえの?」

「渡瀬さんって、乾さんのこと苦手って前言ってたよね……」

「やっぱり、お前」

「し、知らない。私は何もしてないから!」


 すると、角の席にいた男子がぽつり。


「次は、誰」

「……こわっ!」


 女子が思わず椅子を引き、大きな音が教室に響く。


「いい加減にして。不謹慎でしょ? 呪いもないし、渡瀬さんだって——絶対ないから」


 学級委員のひとりが立ち上がり、声を張る。声色はわずかに震えていた。


「なんで言い切れんだよ。二ヶ月で三人だぞ。〝偶然〟って言う方が無理あるだろ。呪いか、他殺かどっちかだろ」


 体育会系の男子が机の足を蹴り、前髪を掻き上げるように頭を落とした。

 肩を震わせて泣き出す女子。怖さに耐えるように自分の体を抱き、身を縮める女子。教室の空気が、ゆっくりと水底へ沈むように冷えていく。

 ホームルームのチャイムが鳴る。神妙な面持ちの蒼がドアを開け、黒板の前に立った。出席簿を開いたまま、しばらく口を開かない。そして、喉の奥でひとつ息を整え、静かな声で言う。


「……みんな。誰かを疑うのはやめよう。ここで、争っても仕方ない。警察も動いているし、あとは大人たちに任せてくれないか」


 誰かが小さく息を吐く。


「それと、文化祭は予定通りやることになった」

「え、こんな状況でもやるんですか?」

「校長が生徒の心のケアのためにも、文化祭は例年通り行うと」

「なにが、心のケアだよ……」


 男子が机を叩く。

 芽火の席の白い小花が、空調の風にわずかに揺れた。誰のものでもない手がそこに触れたみたいだった。

 文化祭まで、残り一週間を切っていた。しかし、合唱の練習は思うように進まなかった。声が出ない。誰もが周囲を窺いながら、口を開くことさえためらっている。


「辛い気持ちはわかる。でも、もう時間がない。練習しよう」


 指揮者の三島が、教壇の前で声を張る。


「……こんな状態で、できるわけないだろ。警察も来るし、クラスメイトが三人も立て続けに死んでんだぞ」


 誰かが吐き捨てるように言った。


「そうだけど……」

「このクラスだけ参加しなきゃいいんじゃね? さすがに、察してもらえるだろ」

「そんなの……できるの?」

「知らねえけど、無理してやる必要あるか?」


 重苦しい空気が音楽室を包む中、一人の女子生徒が前に出て、みんなの顔を見回した。


「ダメだよ……亡くなった三人のためにも、最後まで歌おう? みんな楽しみにしてたじゃん。ここまで頑張ってきたのに……」

「……うん、そうだよ。やろうよ」


 何人かがうなずいたものの、他の生徒たちは無言で帰り支度を始める。


「ねえ、お願い! 練習しようよ……」


 女子の声は、次第にかすれていった。


「……ごめん、今日は無理」

「俺も。歌う気になれない……」


 生徒たちは、ぞろぞろと音楽室を後にしていく。

 教室には、靴音だけが響いていた。

 雪はピアノの椅子に座り、ただ黙ってその様子を見つめていた。

 その視線の先。

 音楽室の外に、灰原の姿があった。

 出ていく生徒たちに軽く頭を下げながら、彼は静かに歩み寄ってくる。その表情は穏やかだったが、目の奥は研ぎ澄まされていた。

 疑っている。

 確信はないにせよ、真実へとたどり着こうとする意志がそこにあった。

 雪は譜面を鞄にしまい、ピアノの蓋をそっと閉じる。


「ここが音楽室ですか。懐かしいですね」


 灰原がまるで世間話のように、何気ない口調で言った。微笑みながら、彼は言葉を続ける。


「私も中学生の頃、吹奏楽部だったんです。担当はフルートでしてね」

「……そうなんですか」

「意外ですか?」

「はい、ちょっと……」


 灰原は音楽室の隅に飾られた写真や、棚に置かれた打楽器類に目をやった。


「世の中、意外なことって多いですよね。まさか、と思うようなことが――君にも、何かあるんじゃないかな。そういう〝まさか〟が」

「……さあ」

「ないのかな? 例えば……友達の、意外な一面とか」


 鞄の取っ手を握る。


「……あの、何が言いたいんですか? 僕、このあと予定があるので」

「もちろん。すぐ済みますよ。……ひとつだけ」

「……なんですか」

「ここ数日、部活を休んでいたようですね」

「はい」

「何かあったのかな」

「家庭の事情で……」

「家庭の事情です、か」

「内容も言わなきゃいけませんか?」

「いえ、答えたくなければ大丈夫ですよ」

「そうですか」


 灰原の目が、わずかに鋭くなる。


「あとひとつだけ。乾芽火さんが駅で亡くなった時――君は、どこにいましたか?」

「……帰宅中だったと思います」

「同じ駅に、向かっていたのでは?」


 背筋をわずかに伸ばす。


「……もしかして、僕、疑われてますか?」

「いやいや。ただの確認ですよ。我々にとっては、日常業務のひとつですから」

「僕が駅に着いた頃には、すでに人身事故は起きていて、警察もいました。亡くなったのが乾さんだと知っだ時は、驚きました」

「なるほど……」

「……じゃあ。もう行きますね」


 軽く会釈し、灰原の横をすり抜ける。


「――そうだ」


 背中にかけられた声に、足が止まる。


「文化祭。もうすぐでしたよね。たしか……十一月の《《十三日》》でしたっけ?」

「いえ、十四日です」

「……そうか。十四日、でしたか」


 灰原はわずかに視線を落とす。


「十三という数字を、どこかで見た気がしてね。それと、勘違いしたようだ」


 肩がわずかに揺れる。


「なぜか、その数字がずっと頭に残っていて……」


 灰原は何気ない口調のまま、ゆっくりと目を上げた。


「ああ、そうだ。屋上の鍵番号でした」


 空気が一瞬、薄くなる。

 視線を逸らしてはならない。逸らせば、何かが決定的になる気がした。


「……文化祭。刑事さんも来るんですか?」

「ええ。仕事の一環です。君たちの様子を、見ておこうと思ってね」

「……そうですか。じゃあ、失礼します」

「楽しみにしていますよ。君たちの合唱。――頑張ってください」


 返事はしなかった。白いイヤホンを耳に差し込み、音楽室を後にする。

 窓の外。夕空を二羽の鳥が並んで飛んでいた。白く、儚い影のようなその姿は、まっすぐ海へ向かっていた。

 雪はそれを目で追った。

 顎を引く。静かにひとつ、息を吐いた。



    4



 放課後。文化祭前日の校舎は、まだわずかに熱を孕んでいた。

 雪は合唱の練習を終え、廊下を歩いていた。

 天井からは色とりどりの装飾が吊るされ、窓には切り抜かれた画用紙が貼られていた。手作りの看板。折り紙のガーランド。教室の黒板には大きく描かれたタイトルと、完成間近のイラスト。遠目には、もう明日を待つだけの空間に見える。

 しかし足元には、切り損ねた模造紙の端が丸まり、使いかけのガムテープや余った板材が置かれたままだ。椅子の影には絵の具のついた新聞紙が畳みきれずに残り、スプレー塗料の匂いがまだ薄く漂っている。



 ――まもなく完全下校時刻です。速やかに下校してください。



 校内放送が、淡々と告げる。

 ぱたぱたと足音が重なり、遠くで「また明日!」という声が弾けた。笑い声とざわめきが階段へ流れ込み、やがて下へ、下へと吸い込まれていく。どこかの教室から、まだ名残のような笑いがひとつ、ふたつ。それもほどなく途切れた。

 静まり返った廊下には、カラフルな装飾だけが残り、どこか寂しげだった。

 その先に、蒼の姿を見つける。


「先生。お疲れ様です」


 雪は駆け寄り、深く頭を下げた。


「ああ、お疲れ様」


 顔を上げた雪は、指先で眼鏡の縁を軽く押し上げた。


「眼鏡か」

「今回は落ちませんよ。ちゃんと調整したので」


 雪はレンズ越しに、蒼をまっすぐ見つめた。


「そういえば」


 蒼が思い出したように言う。


「はい?」

「担任になったばかりの頃、この場所で話したな」

「ええ。覚えてます」


 雪は一歩、蒼に近づいた。


「もう、あれから七ヶ月も経つんですね」

「そうか……」


 蒼は小さく息をつく。


「先生。また、ここで僕に眼鏡をかけてくれませんか?」

「もうしないよ」

「えー、どうしてですか。またしてくださいよ。先生を近くに感じたいんです」


 蒼の喉が、わずかに動く。


「真壁……」


 雪はくすりと笑う。


「冗談ですよ。そんな動揺しないでください」

「……別に動揺はしてない。ただ、反応に困るだけだ」


 蒼はこめかみを掻きながら視線を落とす。

 雪はもう一歩近づき、表情をうかがうように下から覗き込んだ。


「先生、すぐ僕から目をそらしますよね。どうしてですか?」

「そんなことはないさ……」


 蒼は顔を横に向ける。

 雪は「ほら」と、小さく笑った。

 蒼は言葉に詰まる。


「まっすぐ見てくるからだろ……お前の目は……」


 そこで言葉を切り、蒼ははっとした顔をする。


「てか、どうした。少し目が赤いな」

「コンタクトしてたら痛くなっちゃって。さっき眼鏡に変えたんです」

「大丈夫か?」

「もう大丈夫です。でも、コンタクトにしてみてわかったことがあります」


 雪はわずかに睫毛(まつげ)を伏せる。


「自由が利かないっていうか。痛くても我慢しなきゃいけない時があるじゃないですか」

「確かにな。俺も長年コンタクトだけど、そういう時はある」

「……それが嫌なんです」


 雪は静かに言った。


「自由が利かないものって、苦しいなって」


 蒼は答えず、ただ雪を見つめていた。


「先生。今、時間ありますか?」

「何かあったか?」

「大事な話があるんです」


 蒼はわずかに間を置いてから、静かに頷いた。

 夕陽が教室を茜に染めていた。机と椅子が長く影を落とし、二人だけの空間が静かに沈んでいく。


「先生。もう、大丈夫です」

「え?」

「学校、辞めなくていいんです」

「どういうことだ?」

「乾さんが言ってたんです。あれは、勝手に撮ったものだって。先生は泥酔(でいすい)していて、何もなかったって」


 蒼の表情がぴくりと動く。


「だから、もう大丈夫です」


 しかし、蒼はゆっくりと首を横に振った。


「それでも、俺がしたことは教師として許されることじゃない」

「え……」

「気持ちは変わらない。俺は、教師を辞める」

「ど、どうしてですか! 先生と乾さんの間には何もなかったって言ったじゃないですか!」

「そういう問題じゃないんだ」

「じゃあ何の問題なんですか!?」

「……」


 蒼は、言葉を探すように口を開きかけ、しかし視線を逸らした。


「まさか、あいつのこと庇ってるんですか……? あいつはもう死んだんですよ? 死んだ人間のことなんて、今さらどうでもいいでしょ!」

「真壁!」


 蒼の声が一段高くなる。だが、その瞳の奥にあるのは怒りではなく、動揺だった。


「……これだけしても、気持ちは変わらないんですね」

「これだけ?」

「そうです。先生と一緒にいたくて乾さんを落としたのに……」


 蒼の呼吸が止まる。


「……今、なんて言った?」

「だから。先生と一緒にいるために、乾さんを線路に落としたんです」


 こわばる蒼の顔。


「やっぱり、真壁……お前……」

「え、もしかして気づいてくれていたんですか?」

「いや……確信はない。でも、お前のことを信じたかった」


 雪は、かすれた笑い声を漏らす。


「でも、意外だな。先生が気づくなんて。海で命を助けてくれた話もそうだけど、あれだけヒントを与えていたのに、大事なことは全然気づいてくれなかった」

「ヒント……?」


 雪は鞄から、やや傷んだ一冊の図鑑を取り出す。


「入学式の日。電車が人身事故の影響で到着が遅れていましたよね。先生は、慌てていたけど、僕にとっては好都合でした。到着した電車の中に先生が見えた時は、最高に嬉しかったです。すぐ、同じ車両に乗って、無理やり隣に並んだんです。覚えてますか? そのとき、これをわざと落としたんです」


 図鑑が、机の上に音を立てて置かれる。


「先生なら、気づいてくれると思ったのに。中学の頃、僕がどれだけあの本屋に通ったと思ってるんですか」

「まさか……あれって……」

「やっと気づきました?」

「確かに、図鑑をよく買っていく子がいるなとは思ってた。でも、あの時は私服だったし、帽子もかぶっていて、顔もはっきり見えなかった」

「そうですね。あの頃は、僕も照れくさくて先生の顔ちゃんと見れなかったし、レジも忙しそうだった。だから、許しますよ。――でもね……」


 雪は椅子に腰をかけ、天井を見上げる。


「この学校を選んだのも、先生がいるからでした。一緒の空間にいられるだけで嬉しかった。でも、驚いたな。まさか、先生が担任になってくれるなんて。小説の主人公になった気分でした。なのに……先生、辞めちゃうんだ」


 ゆっくりと、蒼の方へ視線を戻す。


「どうして、そこまでするんだ……」

「本当に、わからないんですか?」


 蒼は眉根を寄せた。


「そんな怖い顔しないでくださいよ。悲しいな」

「真壁……聞くが、紗英と辻島の件もお前が関わっているのか」


 雪は小さくかぶりを振り、息を吐いた。


「花火の日、お前も一緒にいた。紗英がベランダから中へ戻ったあと、お前も追うように入っていったのを見た。本当にトイレにいたのか? 紗英と一緒にいたんじゃないのか」

「そんなこと、どうでもいいでしょう。今は僕の話です」

「真壁! ちゃんと答えろ!」

「……邪魔だったからです」


 その瞬間、蒼の表情に恐怖と悲しみが浮かぶ。


「紗英も辻島さんも、僕たちの仲を邪魔する存在だった」


 雪は静かに言った。


「だから、落としました」


 教室の外から、遠くで机を動かす音が聞こえる。文化祭の準備は、まだどこかで続いているらしい。

 一歩、蒼の前に出る。


「先生。文化祭、明日ですね」


 蒼は何も答えない。


「僕、先生のためにピアノ、ちゃんと弾きます。だから、見ていてください」


 微笑み、雪は静かに教室を後にした。

 机の上には、置き去りにされた海の生き物図鑑。それは、憧れと執着を詰め込んだ象徴だった。

 けれど、今の自分には、もう必要のないものだった。

 文化祭当日は、雲ひとつない秋晴れに恵まれた。

 澄み渡った空の下、校門の前ではカラフルな看板や手書きのポスターが貼られていた。スピーカーからは生徒のアナウンスが響き、BGM代わりの軽快な音楽が、場内の空気をさらに盛り上げていた。

 校庭には模擬店がずらりと並び、たこ焼きや焼きそばの香ばしい匂いが風に乗って漂う。制服姿の生徒たちが呼び込みに声を張り上げ、クラスTシャツを着たグループが記念写真を撮り合っていた。昇降口を抜けると、教室や廊下には手作りの装飾があふれ、壁には美術部の作品や写真コンテストの展示が並んでいる。演劇の開演を知らせるチラシが配られ、生徒と保護者がごった返す中で、笑い声やカメラのシャッター音があちこちから聞こえてきた。

 合唱は体育館で行われた。客席は落とされた照明の中に沈み、ステージだけが眩しく浮かび上がっている。出番が近づくにつれ、生徒たちの表情は硬くなっていった。胸に手を当てる者。身体を揺らしながら、不安を押し殺す者。深呼吸を何度も繰り返し、唇を噛みしめる者。ステージ裏には、張り詰めた沈黙が流れていた。だが、雪だけは違った。観客の視線も、照明の熱も、すでに知っている。幼い頃からピアノのコンクールに出て、何度も賞を取ってきた。だから、文化祭の舞台など、怖くはなかった。

 出番が来る。生徒たちは指定された位置へ移動し、雪もピアノの前に座った。譜面を置き、椅子をわずかに引き寄せる。



 探していた。



 客席の闇の中に、蒼の姿を。



 どこ。

 先生。



 視線が、ふと止まる。



 ――いた。



 蒼は、逃げることなく、まっすぐにこちらを見ていた。

 胸が高鳴った。

 合唱曲は、坂本九《心の瞳》。

 指揮者が腕を上げる。合図と同時に、雪の指が鍵盤を滑った。静かに、流れるような澄んだ旋律が体育館に広がっていく。

 歌声が重なる。歌詞を噛みしめるように、ひとつひとつ言葉をなぞる。途中から、嗚咽を堪えきれず、泣き出す生徒もいた。それでも、指は止まらない。正確に、淡々と、感情を削ぎ落とすように鍵盤を叩く。



 すべては、蒼のためだった。



 「俺は、教師をやめる」


 


 その言葉が、唐突に頭をよぎる。


 


 「気持ちは変わらない」


 


 胸の奥が、ぎしりと音を立てた。

 曲は後半に差しかかっていた。

 盛り上がる旋律。

 高まる感情。



 耐えきれなかった。



 雪は、思いきり鍵盤を叩きつけた。

 不協和音が、体育館を裂く。一瞬で、すべての音が止んだ。歌声も、呼吸も、空気すら凍りついたようだった。

 全員の視線がピアノに集まる中、雪は立ち上がった。


「雪!」


 陽斗の声が聞こえた。だが、振り返らない。ステージを降り、そのまま走り出す。

 どうしても届かない。どれだけ手を伸ばしても、蒼には届かない。その現実が、雪の胸を焼いていた。

 校門の前で、呼び止められる。


「おい、どうしたんだよ!」


 足を止め、振り返る。

 息を切らした陽斗が、そこにいた。


「ごめん……」

「やっぱり、雪なのか?」


 陽斗の両手が肩を強く掴んだ。


「え?」

「俺、見ちゃったんだ。辻島さんが屋上から落ちた時……誰かが、その場から去っていく後ろ姿を」


 雪は、何も言わず視線を落とす。


「でも、確信がなかった。ただ……雪っぽかったってだけで。後ろ姿しか見えなかったし。だから、今まで黙ってた。でも、そうなら!」

「……僕じゃないよ」

「うん。わかってる……わかってるけど……」


 陽斗の顔には、迷いと恐怖が滲んでいた。

 その表情を見て、雪は小さく笑う。


「もし、仮にそうだとして。陽斗はどうしたいの?」

「どうしたいって……」

「警察に言う?」


 陽斗は、言葉を失う。


「証拠、ないよね。言ったって、何も変わらない」

「雪……お前……」


 陽斗の後方。遠くから、灰原がこちらへ向かってくるのが見えた。

 踵を返す。


「雪!」


 陽斗が追いかけてくる。だが、その直後――ブレーキの甲高い音が空気を引き裂き、鈍い衝撃音が響いた。

 ちょうど校門前に入ってきた車にはね飛ばされ、陽斗は地面に叩きつけられていた。


「……陽斗……」


 声にならない声が、喉からこぼれ落ちる。一瞬、時間が止まったかのように、周囲の音が遠のいた。

 追ってきた灰原が走り出す。近くにいた教師たちも駆け寄った。

 悲鳴とざわめきが重なり、倒れた陽斗を中心に、人の輪が一気に広がる。


「救急車を!」


 誰かの叫び声。雪は唇を強く噛みしめる。

 灰原の視線が、まっすぐこちらを射抜いた。



 見られている。



 後ずさる。首を横に振り、再び走り出す。


「おい! 待て!」


 灰原の声が背後で響いた。

 逃げなくてよかった。逃げる必要なんて、なかったはずだ。それなのに、あの目を恐れた。決定打になるような証拠は、きっとない。それでも、恐ろしかった。

 灰原は、自分を疑っている。真実を見抜こうとしている。

 自信が揺らいだ。

 完璧に作り上げたはずの城は、しょせん未熟な子供が積み上げた砂の城にすぎず、ひとたび潮が満ちれば、あっさりと呑まれてしまうのではないか……。

 そう思った瞬間には、足がもう反対へ向いていた。





 *灰原視点。



 現場は騒然としていた。陽斗は横たわり、意識はない。だが胸はかすかに上下している。出血も多くはない。路面に残るブレーキ痕。車の速度もそれほどではなかったはずだ。命に別状はないと、願いたかった。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


「……どうだった」


 通話相手は鑑識の指紋解析班。


「報告です。先日預かった真壁雪の指紋と、屋上の鍵に付着していた指紋の一部が一致しました」



 やはり――



 目を細める。


「ただし、証拠としては弱いです。鍵には複数の指紋が付着しており、付着経緯の特定はできません」

「参考一致だな」


 視線の先、すでに雪の姿が消えた通路を見据える。

 屋上の貸出簿は確認済みだ。あの日、真壁雪の名はなかった。



 無断使用。



 胸の奥で、何かがはっきりと噛み合った。


「……灰原さん、これ以上の単独捜査は控えてください。警部補といえど、指揮系統を無視するのは問題になります」


 釘を刺すような口調だった。


「ああ、報告はする」


 灰原は通話を切ると、ポケットに手を入れたまま空を仰いだ。





 警察署に戻った頃には、窓の外、ビルの隙間から夕焼けの光が細く差し込んでいた。捜査一課のフロアは蛍光灯の白い光に満たされ、あちこちで電話の音とキーボードの打鍵が重なっている。

 灰原はコートを羽織ったまま自席を横切り、係長の席へ向かった。


「戻りました」


 声をかけると、書類に目を落としていた係長が顔を上げる。


「……灰原か。どうした」


 灰原は簡潔に言った。


「XX市立〇〇高等学校の生徒、辻島澪織が転落する前に所持していたと思われる屋上の鍵についてです。鑑識の指紋解析班から連絡がありました。真壁雪の指紋と一致したものが出ています」


 係長の眉がわずかに動く。


「真壁……あの高校生か」

「はい。ただし、確定証拠にはなりません。鍵には複数の指紋が付着しており、付着経緯までは特定できないとのことです」


 係長は椅子にもたれ、腕を組んだ。


「……で?」


 灰原は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。


「参考一致ですが、無断で鍵に触れている可能性は高いと見ています。貸出簿にも真壁の記名はありませんでした」


 係長の顔つきが変わった。


「待て」


 低い声だった。


「お前、さっき〝指紋一致〟って言ったな」

「はい」

「その指紋、どこから取った」


 フロアのざわめきが、わずかに遠くなる。

 灰原は淡々と答えた。


「音楽室です。真壁が触れたピアノの鍵盤と椅子から採取しました」


 係長の手が机を軽く叩いた。


「灰原」


 その声は怒りを抑えている分だけ、余計に重かった。


「お前、勝手にやったのか」

「……参考程度の確認です」

「参考じゃない。立派な捜査だ」


 係長は椅子から身を乗り出した。


「お前な、捜査はチームでやるもんだ。勘で単独で動くな」


 灰原は視線を逸らさない。


「勘ではありません。違和感です」

「何が違う」

「辻島澪織の死です」


 空気がわずかに張り詰める。


「誰もが自殺と片付けました。ですが、私はどうしても納得できなかった」

「……」

「乾芽火の件が起きた時、確信に近い違和感になりました」


 係長はしばらく黙っていた。やがて、ため息をつく。


「だからって勝手に指紋を取る理由にはならん」

「承知しています」

「次からは必ず報告しろ。いいな」

「はい」


 係長は椅子にもたれ直した。


「で、その真壁って生徒、今どこにいる」

「文化祭の最中(さなか)に学校から姿を消しました」

「いなくなった?」

「合唱中、突然ピアノを叩いてステージを降りました」

「それは、妙だな」

「これから真壁の自宅を確認してきます」

「わかった。ただ、逮捕状はまだ出ていない。無理な行動はするな」


 灰原は口元を引き締め、頷く。


「了解しました」


 席から離れ、灰原は足早に警察署をあとにした。

 真壁……。

 灰原は表札を見つめ、目を細めた。

 平成初期を思わせる、どこか懐かしい二階建ての戸建てだった。薄く色あせた外壁に、古い瓦屋根。敷地の前には低いブロック塀があり、その向こうに小さな庭が広がっている。庭の奥には縁側が見えた。しかし、手入れは長く止まっているようだった。夏に伸びたまま放置された雑草が、白く乾ききって地面に倒れている。植え込みの枝も好き放題に伸び、ところどころ枯れていた。玄関先のコンクリートには薄く土埃が積もり、靴跡だけがわずかに残っていた。ポストにはチラシが数枚差し込まれたままだ。人の気配はあるのに、生活の温度だけが、どこか抜け落ちている家だった。

 呼び鈴を鳴らすと、インターフォンから女性の声がした。


「はい」

「夜分に失礼します。XX警察署の灰原と申します。真壁雪くんはご在宅でしょうか」

「いえ、まだ帰ってきていません。なにかあったんでしょうか」


 妙に淡々とした受け答えだった。


「お母様でいらっしゃいますか」

「そうですが」

「雪くんのことで、少し確認したいことがありまして。今、お時間よろしいでしょうか」

「はい……」


 ほどなくして、玄関ドアが静かに開いた。隙間から顔を覗かせるようにして、女性がお辞儀をする。

 黒い髪はハーフアップにまとめられ、きちんと整えた化粧がまだ崩れていない。白い肌に、くっきりとした目鼻立ち。落ち着いた色のブラウスに細身のスラックスという装いから、仕事帰りなのだとわかる。玄関の奥には、脱いだばかりらしいパンプスがきちんと揃えて置かれていた。

 整った輪郭と、静かな目元。

 ふと、真壁雪の顔を思い出す。

 親子なのだと、説明されなくてもわかるほど、よく似ていた。

 灰原は警察手帳をわずかに持ち上げた。


「今日は、雪くんの学校で文化祭がありました。ご存知ですよね?」

「はい、存じていますが……仕事があったもので、参加はできませんでした」


 申し訳なさそうに視線を落とす。


「そうですか。雪くんが伴奏者だったことはご存知ですよね?」

「ええ。最近はよく、合唱の課題曲を練習していましたので……」


 灰原は一度うなずき、静かに言った。


「実は、雪くんは演奏の途中で突然ステージを降りました」

「え……?」


 母親の眉がわずかに動く。


「どこか行きそうな場所に心当たりはありませんか?」


 考えるように視線を宙へ向け、母親は小さく首を振った。


「……すみません。仕事が忙しくて、あの子が日頃どんなことをしているのか、あまり把握できていないんです」


 その言葉には、言い訳というより、どこか諦めにも似た響きがあった。


「ただ、この時間に帰っていないのは珍しいです。いつもなら、私が帰宅する二十一時頃には部屋の明かりが点いているので」

「そうですか……」

「それで、あの子に何かあったんでしょうか」


 灰原は頷き、言葉を選ぶように口を開いた。


「先々月、クラスメイトの辻島澪織さんが、学校の屋上から転落して亡くなりました」

「そんなことが……」

「なにも聞いていないんですか?」

「はい。学校のことは何も話さない子なので……」

「その件で、雪くんからも話を聞きたいと思いまして」

「そうなんですか……」


 母親は眉を曇らせる。


「あの、もしよろしければ、雪くんのお部屋を少し見させてもらうことはできますか?」

「それは……勝手に入ると、あの子、すごく怒るので……」

「ですが、確認することで居場所の手がかりが見つかるかもしれません」


 母親は迷うように目を伏せた。やがて納得したように頷く。


「……わかりました」


 母親はスリッパを用意し、「こちらです」と手で示した。

 二階へ上がる。廊下の突き当たりに、雪の部屋があった。

 母親がゆっくりとドアを開け、電気を点けると、あるものが視界いっぱいに広がった。



 クラゲの写真だ。



 水族館で撮られたと思われるクラゲが、壁一面に貼られていた。青いもの。透明なもの。傘のように広がるもの。水の中を漂う無数の影。壁は青いペンキで塗りつぶされていた。刷毛(はけ)の跡が、何度も何度も重ねられている。

 灰原は壁を見上げた。


「……水槽のつもりか」


 その光景を見た母親は目を見開き、今知ったというような表情を浮かべている。

 視線が、一点に止まる。その中心に――なぜかクラゲではなく、朝焼けの海の写真が貼られていた。


「この海はご存知ですか?」


 尋ねると、母親は片頬に手を添え、視線を横へ向けた。


「……昔、家族で温泉旅行に行った時の海と似ています」

「場所はわかりますか?」

「はい。XX市にある、△△海岸だったと思います」


 灰原は顎に手を当て、小さく唸った。

 視界の端に異様なものが映る。部屋の片隅に、図鑑が高く積み上げられていた。

 近づき、一冊手に取る。

 めくったときの硬さ。紙の張り。一度も開かれていない本だと、すぐにわかった。

 ゆっくりと周囲を見回す。

 天井。机。テレビ台。ベッド……。その場で片膝をつき、身をかがめる。

 ベッドの下に、なにかある。小さな段ボール箱だ。灰原はそれを引き出す。


「中を見ても?」

「はい……」


 箱を開けた瞬間、息が止まった。


「これは……」


 中には未使用の注射器が数本。そして、透明な液体の入った小瓶。

 しばらくそれを見つめたあと、ゆっくりと顔を上げる。


「……何をするつもりなんだ、真壁」


 もう一度、朝焼けの海の写真へ視線を向けた。


「……そこか」


 スマートフォンが震えた。画面には、捜査一課の後輩の名前が映し出されている。


「灰原だ」

『病院からです。さっきの高校生、意識が戻りました』

「……わかった。今から向かう」

 病院で後輩と合流し、陽斗の容態を聞く。

 検査の結果は、肋骨の骨折と軽い脳震盪。不幸中の幸いだった。

 灰原はそっと病室のドアを開けた。

 陽斗は起きていた。額には包帯。胸元には固定用のバンドが巻かれている。

 彼は気づくと、小さく頭を下げた。


「……真壁雪を追っていたんだな」


 ベッドの横に立つ。

 陽斗は視線を落とし、頷いた。


「二人で、何を話していた」


 問いに、陽斗はすぐには答えなかった。

 病室に沈黙が流れる。窓から差し込む月明かりが、白いシーツを淡く照らしていた。


「……あの日」


 ようやく、かすれた声が落ちる。


「辻島さんが転落した時……屋上に、誰かいたんです。後ろ姿だけだったけど……雪、だった気がして」


 シーツを握る指に、力がこもる。


「でも……確信はありません。一瞬だったし、遠かったし……ずっと言えなかったんです」


 顔を上げる。迷いと恐れが、まだ消えていない。


「……三人、亡くなってますよね。同じクラスで、立て続けに……。ずっと考えてたんです。もしかして、雪が関わってるんじゃないかって」


 灰原は何も言わず、ただ聞いていた。


「刑事さん……何か、知ってるんじゃないですか。あの時、雪のこと追ってましたよね」

「まだ断定はできない。だが、真壁を疑ってはいる」


 陽斗の唇が結ばれる。


「……もし」


 言葉を絞り出す。


「もし、そうだったら。あいつ、どうなるんですか。俺、あいつがピアニストになるの見たいんです! 刑事さんも聴いたでしょ。俺、詳しくないけど……それでも分かるんです。雪の音は、すごいって」


 目に涙が浮かぶ。

 灰原は、そっと陽斗の肩に手を置いた。


「……大事なんだな」

「親友だと思ってます」


 陽斗の頰に涙が伝う。


「でも……もう分からない。あいつが、何考えてるのかも……」


 頭を押さえ、顔を歪めた。


「……もういい。無理に話さなくていい。正直に話してくれて、助かった」


 陽斗をベッドに横たえる。シーツの端を整え、目を伏せる。


「刑事さん」


 呼び止める声は、弱い。

 陽斗はかすかに笑っていた。


「……雪のこと、助けてください」


 その瞳には、友を想う切実な光が宿っていた。

 灰原は、ただ頷いた。

 病室を出る。エレベーターを降り、病院のエントランスへ向かう。自動ドアの向こうでは、街の灯りが、ぼんやりと滲んでいた。

 ふと、ロビーの片隅にある長椅子に目が留まる。そこに、ひとりの男が座っていた。



 芹沢蒼。



 薄暗い照明の下、蒼はスマートフォンを両手で包み込むように持っている。顔を伏せていて、表情は読めない。ただ、肩がわずかに震えているように見えた。


「……先生」


 声をかけると、蒼は顔を上げた。わずかに目を見開く。だが驚きはすぐに消えた。


「……刑事さんも、いらしてたんですね」

「向井陽斗くんの容体を確認しに。意識が戻ってよかった」

「はい……」


 蒼は、ほっとしたように目を閉じる。しかしその表情には、安堵というより、どこか深い疲れが滲んでいた。


「何か話したいことがあるんじゃないですか?」


 そう問うと、蒼はスマートフォンを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。

 唇を噛む。指先がわずかに動く。


「……もし、明日の朝。生徒のひとりが〝最後に会いたい〟と言ってきたら……あなたならどうしますか」

「会う」


 即答だった。

 蒼の瞳が、わずかに揺らいだ。

 スマートフォンを持ち上げる。画面には、『クラゲ』というハンドルネームからのDMが表示されていた。本文は、たった一行。



『明日の早朝。あの海で待っています』



 蒼はゆっくりと息を吐き、そっとスマートフォンをポケットにしまった。


「俺は…………」


 そこで言葉が途切れる。

 灰原は何も言わず、その沈黙の続きを待った。


「……あの、お願いがあります」


 蒼の視線は、ここではないどこか――誰にも届かない海の彼方を見ているようだった。顔は教師のものではない。ただ、真壁雪という少年に心を動かされたひとりの大人の顔だった。

 灰原は、静かにうなずく。

 雪は、蒼のSNSのDMに短い文章を打ち込んだあと、送信ボタンを押した。

 既読がつくかどうかを確かめることはしなかった。それを見てしまえば、迷いが生まれる気がしたからだ。

 スマートフォンの電源を落とし、ポケットの奥へ沈める。冷たい端末の感触だけが、掌に残った。

 海へ向かう途中、街はまだ眠っていた。信号機だけが無機質に色を変え、誰のためでもなく光っている。

 潮の匂いが濃くなるにつれ、胸の奥が静まっていく。

 怖さはなかった。ただ、ここへ来るまで長かったという感覚だけがあった。

 浜辺には誰もいない。夜の名残を引きずる空の下、海はまだ目覚めきっていなかった。波は小さく砕け、白い泡を残して引いていく。そのたび、砂浜に細い水の筋が広がり、すっと消えた。

 潮風が頬を撫でる。

 冷たかった。

 懐かしかった。

 波打ち際に腰を下ろすと、砂がゆっくりと沈み、身体を受け止めてくれた。

 視界に広がる海は、息を潜め、闇を溶かしたような色をしている。

 黒く、深く――それでいて、拒まない。



 やっとだ。



 灰原は、もう答えに辿り着いているかもしれない。

 それでも、ここへは逃げるためではなく、会うために来た。

 手のひらに残っていた砂を、ゆっくりと握り込む。ざらりとした感触が、皮膚に食い込んだ。

 立ち上がる。


「あああ――!」


 喉を裂くような叫びが、海へ放たれる。

 声は黒い水面に吸い込まれ、どこにも届かない。波だけが、同じ音を繰り返している。

 口元を腕で押さえる。

 視界が滲む。頬を伝うものが、やけに熱い。

 ふと、笑いが込み上げた。

 次の瞬間、嗚咽に変わる。

 胸の奥がひきつる。息がうまく吸えない。

 涙が、止まらなかった。


「……真壁!」


 名を呼ぶ声が、潮風にちぎられながら届く。雪は振り返り、小さく笑んだ。



 来てくれると、信じていた。



 海沿いの遊歩道に立つ蒼が、こちらをまっすぐ見据えている。

 砂浜へ降り、白い砂を踏みしめながら、波打ち際を横切るようにして歩いてくる。その足取りは、迷いなく、まっすぐだった。


「先生。……来てくれたんですね」

「……お前だったんだな。あのアカウント」

「はい。最後まで、先生は気づいてくれませんでしたね」


 責める気はなかった。ただ、事実をなぞるように言った。

 蒼に見つめられる。その目に浮かんでいたのは、恐怖でも怒りでもなく、どうして気づけなかったのかという後悔のまなざしにも見えた。


「この海、覚えていますか」


 雪は視線を海に向ける。


「先生は、溺れている僕を見て、躊躇なく飛び込みました。震えている僕に、自分の上着を巻いてくれて……『大丈夫だ』『安心しろ』って、何度も言ってくれた」


 唇の端に笑みがこぼれる。


「先生は、朝焼けの海に照らされて……キラキラしていた」


 蒼は、ゆっくりとうなずいた。


「あの時から、僕の時間は動き始めたんです。先生が生きる意味をくれたから」


 水平線の向こうが、わずかに白み始めた。黒かった海は、少しずつ青を帯びていく。


「子どもの頃から、自分はどこか違うのかなって思っていました。みんなの当たり前が、僕には違和感でしかなかった……」


 波が、かすかに音を立てる。

 雪は海を見据えたまま、息を漏らした。


「クラゲって、自分で泳いでいるように見えるけど……実際は、ほとんど流されているだけなんです……。海の流れには、逆らえない……僕も、逆らえなかった」


 声が、わずかに掠れる。


「……僕は普通に人を愛せなかった」


 朝日が水平線に差し込み、二人を照らし始めた。


「先生のまなざしが、僕だけを見ればいいと思った。誰かに奪われるくらいなら、壊してでも手に入れたかった。それが愛だと、ずっと思ってた」

「真壁……」

「先生」


 雪は振り返り、微笑んだ。


「救われないまま生きるって……すごく苦しいんですね」


 靴底が砂に沈む。雪は海へ駆け出した。

「おい、待て!」


 蒼の声が背中に届く。

 冷たい水が足首を(さら)い、身体の芯まで染み込んでくる。過去の感覚が、鮮明に蘇る。溺れたときの息苦しさ。水の重さ。そして、差し伸べられた手。

 二人は、胸まで水に浸かり、向き合った。

 蒼の手が頬に触れる。その指先は、あの春の日よりも、ずっと震えていた。


「……ごめん。俺が全部、間違ってた」


 波が、ふたりの間を揺らす。


「違います」


 雪は首を振った。


「先生は、ずっと正しかった」

「いや、俺は教師という立場を使って、お前から逃げてた。……自分の気持ちからも」


 波が、胸元を強く打つ。


「先生……それってどういう――」

「やめるんだ、真壁!」


 遠くから声が響いた。見ると、浅瀬に立つ灰原の姿が、夜明けの光に滲んでいた。


「……酷いな、先生。僕たちだけの世界に部外者を呼ぶなんて……」

「すまない。でも、俺は……!」


 波が強まる。

 雪は、そっと蒼のうなじに手を当てる。蒼の表情がわずかに歪んだ。


「……真壁……なにを……」


 蒼の呼吸が乱れる。


「先生。アイしてます」


 雪は、静かに言った。


「僕を生かしたのは先生です。だから、最後も先生がいい。この海で――今度は、終わらせて」


 蒼の腕が、一瞬止まる。掴むのか、引き寄せるのか、押し返すのか。その逡巡(しゅんじゅん)が、わずかな時間を生む。

 雪は、蒼の唇に触れた。

 拒まれないか、それだけを見ていた。


「先生なら……わかってくれるって、信じてました」


 強い光が海を照らす。白と青が、淡く混じり始めていた。

 蒼の腕が、雪の細い首へと伸びる。

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