第四章
1
蒼に救ってもらった、あの春の海から、もうすでに二か月が経とうとしている。中学生の雪は、念願の吹奏楽部に入り、新入生歓迎も兼ねた「定期演奏会」に向けてピアノの練習をしていた。三年生のピアノ担当の生徒が腕を骨折してしまい、急遽、代役が必要になったのだ。
顧問は部員の中から三名を候補に挙げ、放課後の音楽室で一人ずつ、課題曲を試演させることにした。順番を待つ間、雪は静かに楽譜を読み込んでいた。気持ちに焦りはない。だが、胸の内側では、軽く心拍が速まっていた。
「次、真壁」
名前を呼ばれ、ピアノの前に座る。椅子の高さを微調整し、軽く息を吐いてから、そっと鍵盤に手を置いた。一音目が、空気を割るように響く。
音楽室の片隅で顧問が腕を組んだままじっと耳を傾けているのが視界に入る。だが、意識はすでに音の中に没入していた。
旋律が進むにつれ、フレーズごとに音の強弱をつけ、和音の重なりを丁寧に際立たせていく。あの春の海で感じた不安と、救われた時の温度。それが指先に溶け込んでいた。ただ正確に弾くだけでなく、意味を込めるように、一音一音を紡ぐ。
演奏が終わると、音楽室にはしばしの沈黙が落ちた。
顧問は静かに楽譜を伏せた。
「……君に任せたいと思う」
一年生ながら、その音に宿る確かさと深みを買われ、雪は抜擢された。
音楽室にはフルート。トランペット。ホルン。いろんな音色の旋律が夕日の藍色に溶けていく。しかし、この日常は蒼がいなかったら訪れなかったかもしれない。あのまま海中に深く、深く沈んで、誰にも気づかれないまま、消えていたかもしれない。
雪は眉をひそめ、唇を噛みしめる。
窓の外を見つめながら、波の音を思い出していた。耳孔の奥底から徐々に大きくなっていく。冷たい海水。潮の香。底を感じられない恐怖と、容赦なく押し寄せてくる波。 生と死の境界。
今、耳に届く旋律ひとつひとつが、自分に与えられた宿命のように思える。ピアノの鍵盤を叩く指先が、生きていることを肯定してくれている気がする。そして、あんな状況下でも鮮明に思い出せる蒼の顔。必死に自分を助けようとしてくれた、あの精悍でまっすぐなまなざし……。
もう一度、会いたい。
近頃は、そんなことを何度も思っている自分がいた。それは恩返しとは違っていて、ただ――もう一度、確かめたかった。あの目は、自分を覚えてくれているのか、を。
部活時間が終わり、部員たちはそれぞれ楽器を片付け始めていた。ケースを閉じる音や、譜面をまとめる紙のこすれる音が、音楽室に重なっていく。雪も譜面を整えてから、グランドピアノの蓋をそっと閉じた。
心の奥に、小さな波紋が広がる。
もし、蒼がSNSをしているなら。
そんな考えが、唐突に胸の奥をかすめた。
もう一度、彼と関わる手段がそこにあるのだとしたら。自分の手で、それを見つけ出すことができたら……。
心が、わずかに熱を帯びた。
自宅に帰ると、足早に自分の部屋に入り、スクールバッグを片隅にほいと投げる。制服の上着をハンガーにかけると、そのままベッドにうつぶせに倒れ、スマートフォンをズボンの後ろポケットから取り出す。
せりざわあおい……。
消えゆく意識の中でも、しっかりとその響きは覚えていた。記憶の深いところから染み出すように、静かに、でも確かに。あの海の音と一緒に、自分の中に残っている。
検索結果を下にスクロールしながら見ていくと、ある記事が目に留まった。
タップして開いてみると――今から四年前、蒼が所属していた高校のバスケ部が、インターハイで優勝したという内容だった。記事には数枚の写真が添えられていた。試合中の躍動感あふれる一枚。全員が並びトロフィーを掲げた集合写真。そして、部長として紹介されている蒼が、やや照れたように笑っているソロカット。
雪は、思わずその写真を拡大した。
光に包まれているような、赤いユニフォーム姿の蒼。額にかかった前髪が汗で濡れ、背番号と黒のラインが鮮やかに映えていた。
間違いない。あの日、海で自分を助けてくれたのはこの人だった。
画面越しの彼は、記憶よりもわずかに幼く見えたけれど、あの時のまなざしだけは、変わらなかった。
雪は、一通り記事を読み終えると、今度は彼のSNSを探し始めた。しかし、芹沢蒼の名前では、どの検索欄にも引っかかってこなかった。アカウント名も、タグも、見当たらない。
「……さすがに本名じゃ、やってないか」
小さく呟いて、雪は仰向けになった。
スマートフォンを胸の上に乗せ、薄暗い天井をぼんやり見つめる。画面の余熱が肌にじんわり伝わってくる。
どうすれば、見つけ出せる?
心の中で問いかけながら、何度も検索履歴を見返す。脳裏に浮かんだキーワードを手当たり次第に組み合わせ、頭の中でぐるぐると組み替えていく。
必ず見つける。
諦めるという選択肢は、最初からなかった。
その日から、学校から帰るたびに、スマートフォンを手にベッドへ倒れ込んでいた。
蒼を探すことが、日課のように染みついていた。
今日は、インターハイの記事に載っていたバスケ部員の名前を一人ずつ検索していく作戦に出た。SNSに本名で登録している人物は少なかったが――ようやく、一人だけ引っかかったアカウントがあった。
雪はそのページを開き、投稿されていた自撮りの中から顔を確認する。目元。輪郭。笑い方。記事の集合写真と見比べながら、何度も照らし合わせた。
「……この人だ」
思わず呟く。
そこからは、過去の投稿写真を一枚ずつ丁寧に見ていった。
投稿数は、二百五十八件。
部活の風景。自撮り。ふざけた集合写真。どれも関係のない日常の断片のはずなのに、一つひとつに呼吸を止めるような集中で見つめる。
ある写真のところで、スクロールしていた指を止めた。
ピンチアウトして拡大すると、写真の端。光の滲む逆光の中に、横顔だけが映っていた。通った鼻筋。瞳の形。肩から首にかけてのライン。
蒼だ。
雪は、画面を見つめたまま一瞬、動けなかった。希望の輪郭が、ようやく画面の中で形を持ちはじめた。
次に、アカウントのフォロワー一覧を開き、百人以上の名前を一つずつ確認しはじめた。スクロールする指先は、じんわりと汗ばんでいた。アイコンをじっくりと見ていく。小さな手がかりにも目を凝らす。
指が止まる。その中に――『aoi』という名前があった。タップすると、雪はわずかに息を呑んだ。
画面の中に広がっていたのは、淡い水色の世界。投稿された写真のほとんどが、海の生き物や水辺の風景。クラゲ。小さな魚の群れ。白く砕けた波……そこには、あの日の記憶と重なる色が並んでいた。その合間に、蒼と友人たちが笑顔で映る数枚の写真がある。制服姿。私服姿。ふとした横顔――どれも彼の暮らしの断片だった。
やっと、見つけた。
雪はスマートフォンの画面に指を這わせる。
声は届かない。しかし、画面の向こうには確かに蒼が生きていた。今も、こうして世界のどこかで呼吸していることが、ただ嬉しかった。
小さくガッツポーズをすると、ベッドへと沈み込む。仰向けのままスマホを掲げて、そっと唇の端を緩めた。部屋はもう真っ暗で、スマホの淡い光だけが頬を照らしていた。
瞳の奥では、青と白が、静かに――混ざりはじめていた。
2
海辺の風景。水族館。部屋の片隅に置かれたガラスの水槽。蒼は、そんな写真をよくSNSにアップしている。投稿には決して長い言葉は添えられていない。
《きれいだった》
《癒される》
そんな短い一文とともに、淡い光に照らされた世界が切り取られていた。
蒼の目を通したその風景が、美術館の絵のように見えた。色。構図。空気感。すべてが洗練されていて、彼の感性を物語っていた。
雪はそのたびに、心を震わせながらコメントを打ち込んだ。
『綺麗ですね』
『これなんて魚なんですか?』
そんな他愛もない言葉でも、指先は何度も書き直し、送信ボタンを押すたびに胸が高鳴った。
蒼は、必ず返事をくれた。
『名前はチンアナゴ。砂の中に隠れてるやつ』
『このクラゲ、水族館で一番人気だったよ』
まるで、蒼と直接会話をしているような――そんな錯覚が、たまらなく嬉しかった。
ある日、蒼は《これからバイト》という一言と共に、自撮りの写真をアップしていた。後ろには通りの街並みと、ぼんやりとした店舗のガラスが映っていた。本屋でアルバイトをしていることは以前の投稿から知っていたが、具体的な場所まではわからなかった。
その写真を見て、雪は閃いた。スマホの画面を拡大し、通りに映り込んだ電柱の街区表示板をピンチアウトして読み取る。表示された地名を地図アプリで検索し、周辺の書店を一つずつ照合していった。
ここだ。
その街には、大きなチェーン系の書店がひとつだけあった。雪は、投稿があった曜日と時間を記憶し、その日を選んで、その本屋へ向かうことにした。
次の週。学校から帰宅すると早速、支度を始めた。制服を脱いで、私服に着替える。そして、帽子をかぶった。
場所は、自宅からかなり遠かった。電車を三回乗り継ぎ、合計二十四駅。片道で一時間半は優にかかる距離だった。
それでもよかった。
会えるかもしれない、という希望があれば、どんなに遠くても構わなかった。
ちょうど帰宅ラッシュの時間だったのもあり、電車は人だらけで息苦しかった。空気も重く、何もしてないのに心がすり減った。
街はすっかり暗くなっていて、駅前の通りには会社帰りのサラリーマンたちが足早にすれ違っていく。ネオンの光がビルの窓に反射して、写真とはまるで別の街に来たようだった。
スマートフォンで時間を確認すると、すでに二十時を回っていた。通っている中学校では、門限の時間だった。
目的の本屋は、想像よりもずっと大きかった。ガラス張りの外観に、明るい照明。チェーン店らしい清潔感と整然とした書棚が、外からでも見て取れた。
雪は帽子を目深にかぶり、自動ドアの前に立つ。
ウィン。
開く音とともに、空気が変わった。生温かった外気とは違い、涼しく澄んだ冷房の風が肌を撫でた。店内の明かりはまぶしいほどで、一瞬だけ視界が白んだ。目を細めて周囲を見回すが、蒼の姿は見当たらない。
本を探すふりをしながら、通路を一本ずつ確認していく。心音が、自分の中だけで大きく響いていた。
最後の通路を覗くと、一瞬、息が止まる。
いた。
オレンジ色のエプロン。真っ直ぐな背筋。蒼が、整理された本棚の前で何冊かの本を手際よく並べていた。
雪はその場をそっと離れ、棚の影で胸に手を当てる。
鼓動がうるさい。こんなにもうるさく鳴る心臓は初めてだ。小さい頃から何度も、ピアノのコンクールに出ていたが、ここまで緊張したことはなかった。
深呼吸をひとつ。息を整え、帽子の角度をそっと下げる。
よし。
そう心の中で呟いて、声をかけた。
「……あの」
蒼がこちらを向く。
「はい」
爽やかな声が返ってくる。雪は、緊張で喉がカラカラになっているのを感じながら、
「えっと……海の生き物図鑑ってありますか?」
声を絞り出した。
「ありますよ」
蒼は、「こっちです」と柔らかく誘導してくれる。
「この棚になります」
蒼は軽くお辞儀をすると、そのまま元いた通路に戻ろうとした。
行かないで。
心の中でつぶやいた瞬間、口が勝手に動いていた。
「おすすめって……ありますか!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。喉は紙のように乾いていて、言葉を発するたびに、音が絡みついてきた。
蒼はぴたりと足を止め、くるりとこちらに向き直る。その顔がふっとやわらぎ、優しい笑みを浮かべた。
「そうですね……」
腕を軽く組み、本棚の背表紙を一つひとつ確かめるように見つめる。
「これとか、いいっすよ。解説も丁寧だし、写真がまた綺麗で……水族館好きな人には人気です」
蒼は迷いなく一冊を取り出し、手渡してくれた。指先が触れそうなほど近い。胸が跳ねた。
「じゃあ、これにします」
間髪入れずに答えると、「えっ……」と、蒼は驚いたような顔をするが、すぐに頷いた。
「あ、分かりました。――じゃあ、あちらでお会計を」
雪は小さく頭を下げ、蒼のあとを数歩遅れてついていく。その背中だけは、うつ向くことなくまっすぐ見れた。
レジでの動きも無駄がなく、袋詰めの手つきもきびきびしていた。
商品を受け取ったとき、ふと視線が重なる。蒼は、眩しいほどの笑顔を浮かべ、白い歯をのぞかせた。
「あ、あの……また来ます」
顔を伏せるようにして、小走りで店をあとにした。
自分を海から救ってくれたあの日から、約一年が経っていた。だからなのか、間近で蒼の姿を見た瞬間、胸の奥が弾けそうになった。心拍が一気に跳ね上がり、鼓動が全身を強く打ち付け、周りが揺れているのではないかと錯覚するくらいだった。驚くほど背が高く、顔も小さい。焼けた肌には健康的な艶があり、綺麗に揃った白い前歯が笑顔の中で光っていた。黒髪にはゆるくスパイラルパーマがかかっていて、店内の光を受けて、ふんわりと揺れて見えた。
全部が眩しかった。理想以上の現実が、そこにいた。緊張で手のひらは汗ばんでいたけれど、来てよかったと心から思った。「また来ます」と言ったあの言葉を、ちゃんと実行に移したくなった。
でも……。
「僕だって気づかなかったな……」
わずかに寂しさを覚えた。
ひとつ息を吐く。
きっと、次は気づいてくれる。そう信じながら、雪は曜日を合わせて、本屋へ通った。
買うのは、決まって生き物図鑑。
中学一年の雪には、決して多くない小遣いだったけれど、大事に貯めていた貯金を崩し、そのすべてを交通費と図鑑に費やした。
いつの間にか、部屋の隅には一度も開かれていない図鑑が高く積まれていた。
雪はその本を、ただ見つめる。その中で、何度もページを捲り、紙が歪むまで読んだ図鑑があった。実は、最初に勧められた本のことは知っていた。蒼のSNSで紹介されていた図鑑だったからだ。表紙には青くて神秘的なクラゲの写真が印刷されている。地元の本屋に何度も足を運び、それが置かれている棚の前に立ち尽くし、手に取っては戻し、また手に取る。
しかし、買うことはしなかった。
彼が選び、彼が触れたものだからこそ価値がある。
本が変わったわけではない。ただ、それを〝蒼の持っていたもの〟にしたかった。だから、それ以外の本には、興味がなかったのだ。
雪は高く積み上がった図鑑を、今度は睨みつける。
「どうしてだよ!」
貯金が無くなるまで通い詰めたのに、海で助けた男の子だと、蒼は気づいてはくれなかった。
悲しみが怒りに変わる。図鑑を手で叩き、髪をぐしゃぐしゃに掻きながら、屈み込む。背中を丸め、もう一度、「どうして……」と、呟いた。
ヒグラシの鳴き声が、遠くから聞こえてくる。赤い線状の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
3
冬に行われるピアノコンクールの全国大会は、雪にとって特別なものだった。どうしても、本選で弾きたいものがあったからだ。
中学三年になった雪は、蒼が勤める高校に進学することを決めていた。この新たな船出に、どうしても〝あの曲〟を、大きな晴れ舞台で弾きたかった。
必ず、予選を通過して、本選へ行く。
蒼を思いながら、練習に練習を重ね、自分の音にしていく。ある日は、朝から晩まで弾き続けた。
予選当日。ホールの扉をくぐったとき、空気が変わったのがわかった。静寂という名の音が、あちこちに満ちていた。
緞帳の奥から、かすかに誰かの演奏が聞こえてくる。流れるようなパッセージが、天井の照明に吸い込まれていくようだった。
舞台袖で順番を待つ。手のひらが湿っていた。しかし、不思議と怖くはなかった。
係員に呼ばれる。立ち上がり、足音を忍ばせるようにステージへ向かう。客席から大勢の視線を感じた。
目は合わせない。動揺したら終わる。今は、指先だけを信じよう。
ピアノの前に座り、深く息を吸う。
ドビュッシー《アラベスク第1番》。
軽やかで、柔らかな旋律。繊細な指の動きと、内側から滲む情感が問われる曲だ。
鍵盤に触れた瞬間、別の世界に入り込んだ。水の輪郭のような音が、ホールの隅々に広がっていった。柔らかく、少し切なく、それでいて明るさを秘めた旋律。迷いながらも、どこかに向かおうとする音楽。それは、自分自身のようでもあった。
やがて、最後の音が空中で溶ける。曲が終わると、場内に静かに拍手が起こった。
結果発表の瞬間、番号が読み上げられる。会場のあちこちで歓声が上がる中、雪は小さく息を呑んだ。
――通過した。
本選への切符を手にした瞬間だった。
数週間後、再びホールの舞台へと戻ってきた雪は、本選の幕開けを迎えていた。
控室には数人の出場者がいた。椅子に座って指を動かす者。スコアを見返す者。黙って瞑想する者。
静かだった。ピリつくほどに。
雪は壁際の椅子に座り、両手を膝に乗せていた。視線は落としたまま。心のざわめきは、もう遠くにあった。
鞄の中から図鑑を取り出す。
海の生き物図鑑。それをぎゅっと握る。
音は、祈りに似ている。
どうか、この音が、届きますように――そんな願いを込めた。
出番が来ると、そっと図鑑を鞄の中に戻した。
ホールの天井は、まるで空のように高かった。ステージ中央に立つ。舞台の灯りは静かに自分を照らし、孤独を温めてくれた。
ショパン《雨だれの前奏曲》。
この曲は、雪にとって〝特別〟だった。
今、ここに自分がいるのは、蒼が見つけてくれたからだ。でなければ、この曲を最後まで弾くことはできなかった。これは、感謝の意味もある。そして、この命が尽きるまで、彼を想おうと、あの日、春の海から救ってもらった時に誓った。
音が落ちる。
最初の一音が鳴った瞬間、場の空気が変わる。ピアノの音が雨粒のようにホール全体に広がっていく。まるで、〝静かに泣く〟ような音。胸の中に沈殿したものを、少しずつ掘り起こすような音。
中盤、嵐のような和音が渦を巻く。指が強く鍵盤を叩くたび、記憶の奥に潜んだ感情があふれ出す。
誰かに叫びたかった。
助けて、と。
けれど、最後にはまた静かな雨が戻ってくる。まるで、「それでも、生きていこう」と囁かれているようだった。
しかし、突然――音に違和感を覚えた。
焦りとともに、もう一度、同じ場所を弾く。それでも、違和感が取れない。何度も、何度も、何度も、弾き続ける。
ダメだった。
自分らしくなかった。自分の音に聞こえなかった。
どうして。
どうして……。
腕を強く掴まれる。
係員が雪の暴走を止めに入った。
「これじゃ、届かない! お願い、弾かせて! 最後まで弾かせて!」
しかし、そのまま強制的に舞台の袖へと追いやられてしまった。
ピアノを引き剥がされたあと、雪は控室の椅子に崩れるように腰を下ろしていた。膝に図鑑を抱きしめ、喉を押し殺すようにして、ひとり嗚咽を漏らす。震える指でページをめくると、レシートが床にすべり落ちた。
雪は、それを逃がすまいと拾い上げる。指先に触れる薄い感触。そこには日付と値段、端に小さく印字された名前があった。
〈担当:芹沢〉
雪にとって、それはただのレシートではなかった。蒼と同じ空間にいた証。あの日、確かに一緒にいたと言う痕跡。捨てられるはずがなかった。
そっとクラゲのページに差し込む。
レシートは折れないようにラミネート加工して、栞がわりにしていた。
普通の人には理解されないだろう。しかし、それは祈りに近いものだった。――〝聖遺物〟のような。
「……ごめんなさい」
掠れた声が漏れる。
「最後まで、弾けなかった……」
今、こうして生きていられるのは、蒼がいたからだ。あの春の海で、迷いなく手を伸ばしてくれた人。止まっていた時間を、再び動かしてくれた人。
それなのに。
その人に届けるはずだった音を、途中で見失ってしまった。
悔しさと情けなさで、胸の奥がひどく痛んだ。
唇を噛みしめる。
蒼の手で救われた命を、こんな風に無駄にしてはいけない。迷ってはいけない。
今度、会う時は。
そのときは、ちゃんと顔を上げて。目を見て、話せる自分でいたい。もっと強くなる。もっと、彼に似合う唯一無二の存在になってみせる。
だから――
「……待っててね」
囁くように落とされた言葉は、図鑑の奥へ、静かに沈んでいった。




