第三章 後編
1
夏休みに起きた転落死という悲劇。紗英の死から、クラスメイトたちは立ち直ろうとしていた。
しかし、その中でも彼女と親しかった女子らは、未だに悄然とした面持ちで、わずかも笑顔を見せることはなかった。
当たり前だ。
亡くなってから、まだ数日しか経っていないのだ。
しかし、時間は容赦なく進む。
次第に、彼女の話題は減っていく。笑い声の中に、その名前が混じることはなくなり、やがて誰も口にしなくなる。笑顔も、声も、存在そのものも。日常の中からこぼれ落ちていく。
それが、生きていくということだった。
「十月の文化祭で歌う曲は坂本九の《心の瞳》に決まったが、次は指揮者と伴奏者を決めたい。誰かやりたいやつはいるか?」
朝のホームルームで蒼が生徒に投げかけるも、誰一人として手を挙げるものはいなかった。
「じゃあ、ピアノ弾ける人は?」
生徒たちは互いに顔を見合わせ、かぶりを振る。
蒼がひとつ息を吐くと、一人の女子が手を挙げた。
「確か、辻島さんは吹奏楽部でフルートを担当しているけど、ピアノも弾けたはずです」
「辻島か……」
辻島澪織は、一学期から学校を休みがちだった。
教室であからさまないじめを目にしたことはない。陰で何かされている様子もなかった。むしろ、そういったものとは無縁の場所にいるような子だった。
他人に深入りしない。いつも空気のように静かで、自席にうずくまり、図書館から借りてきたような装丁の分厚い小説をめくる手だけが、静かに動いていた。
外見は地味でも派手でもない。可愛いとも言えないが、不快さもない。性格にも棘はなく、波風を立てないように生きている――そんな印象だった。
一度だけ、澪織が数学の授業中に蒼に当てられたことがあった。
彼女はほんの数秒、呼吸を忘れたように固まっていた。顔はこわばり、視線は教科書のページのどこかに彷徨い、声は出なかった。
張り詰めた沈黙の中、蒼は気まずそうに「じゃあ、他の人」と言って、次の生徒へと視線をずらした。澪織は小さく頭を下げ、また何事もなかったようにノートを取っていた。
大人しい子、か。
雪はそう見なしていた。だが、どこかで引っかかるものがあった。
誰とも話さずに過ごしているはずの彼女が、蒼の言葉には必ず反応していた。指示にも説明にも、ことさらに頷いたり、笑ったりする。
必要以上に、演技じみた反応だった。
あの沈黙は、本当に〝緊張〟だったのか。わざと答えられなかったふりをして、蒼の同情を買おうとしていたのでは、と。
そんな馬鹿げた疑念が、頭の奥でかすかに点滅する。まるで、自分の存在を〝特別〟に見せるために、計算しているような……。ただの生徒としてではなく、「気になる子」として記憶に残すために。
雪の中に、得体の知れないざわめきが生まれていた。
警戒か、嫉妬か、それとも恐怖か。
いずれにせよ、それは放っておくには、少しばかり重いものだった。
そして、澪織はとうとう夏休み明けから完全に学校に来なくなってしまった。
一学期の頃から、蒼は彼女を気にかけてきた。一人で歩いている姿を見かけると声をかけたり、教室で資料を配る際にも、わざわざ彼女の席まで行って、何か言葉を添えていた。
それは担任として当然の対応だったかもしれない。しかし、雪には違って見えた。
「他にはいないか?」
蒼が改めて訊く。
今度は芽火がまっすぐ手を挙げた。
「真壁くんはどうですか? 小さい頃からピアノを弾いていたって聞きました」
「おお、真壁どうだ?」
「え……」
余計なことを、と思いつつ。きっと自分の名前が挙がると予想していた。
教室を見回すと、全員の視線が雪に集まっていた。
期待。哀れみ。無関心。どれも、他人事だ。
机に息を落とす。前髪が頰に触れた。
ここで引き受ければ、この視線も、この沈黙も終わる。
「わかりました。僕がやります」
直後、教室に歓声と拍手が沸いた。
その空気の変わりように、思わず顔をしかめる。
こいつらは誰かに押し付けることができて、喜んでいるだけだ。安全なところから、ただ見ているだけの卑怯者でしかない。
「真壁。引き受けてくれてありがとう。期待してるぞ」
「はい……」
それから、指揮者は自ら手を挙げた生徒会長の三島が担当することとなり、朝のホームルームは時間通りに終わった。
今日は放課後、音楽室でピアノ伴奏と合わせた練習ができる、数少ない貴重な日だった。
雪は自宅のグランドピアノで何度も練習を重ねてきた。楽曲の難易度は高くない。集中すれば数時間で弾けるようになる程度だった。
問題は、歌声の方だ。
男子はふざけてばかりで、女子は声が小さい。ハモリもバラバラで、まともに聴けたものじゃなかった。
指揮を担当する三島が、おしゃべりを続ける男子たちに声を荒げるが、誰も本気で取り合っていない。
そんな中、雪は鍵盤に指を置いたまま、音楽室の窓から空を見上げていた。
文化祭の合唱が失敗に終わろうと、どうでもよかった。ただ託されたものを、正確に、機械のように指を動かしてこなすだけだ。
「音楽室で練習できる日は限られてるんだから、みんなちゃんとやろうよ!」
大柄な女子が声を張り上げる。
「はいはーい」
数名の男子が、ふざけたように返事をして笑い合う。
「文化祭で恥かきたくなかったら、真面目にやって! もう一回、最初から!」
雪は小さく息を吸い、指揮者の合図に合わせて鍵盤を押した。
視界の端に蒼の姿が映る。
音楽室の出入り口から、じっとこちらを見つめていた。
歌声。ハモリ。ピアノの旋律――三つの音が一瞬、完璧に噛み合った。綺麗なハーモニーが教室に響く。けれど、それはほんの束の間だった。すぐに音は外れ、リズムは崩れた。
「いったん止めよう。でも、今のは悪くなかったね」
「初めてじゃない? ちゃんとハモったの」
「俺たちが本気出せば、こんなもんだし?」
「なら最初から出して!」
後ろから見ていた蒼が笑いながら口を開いた。
「いいぞー、みんな頑張ってる」
その一言で、教室の空気がわずかにやわらいだ。そして「もう一回!」という掛け声から、練習は次第に軌道に乗り始めた。
練習が終わると、生徒たちはそれぞれ荷物をまとめてがやがやと教室を出ていく。雪はピアノの前で、ひとり黙々と譜面を片付けていた。
「真壁」
声をかけてきたのは蒼だった。
「すごいな。こんなに弾けるとは思わなかったよ」
「これでも、四歳からピアノやってるんで」
「でも、ちょっと尊敬したよ」
「……え」
そんなことで? と思った。
胸の奥がふわりと熱を帯びる。
蒼が、自分を〝ちゃんと〟見てくれたようで――素直に嬉しかった。
「先生は、ドの音外してましたね」
「いや、それは……」
蒼は照れたように耳を赤くし、頭をかく。
「もしかして、思い出しちゃいました? 僕に抱きつかれたこと」
「お、おい……」
蒼が慌てて、周囲を見回す。
「そういう話はやめろ」
「……バレたら困りますか?」
「いや、それは……」
蒼は言いかけて、口を閉じた。
雪は思わず言葉を詫びようとしたが、それより先に、
「まあ、いい。合唱の練習、この調子で頑張ってな」
「……はい」
背を向けて離れていく蒼の後ろ姿から、目を離せなかった。
今すぐあの背中に飛びつきたい――そんな衝動が全身を駆け巡る。
しかし、それはできない。
指先が触れた譜面の端が、わずかに歪んだ。胸の奥に溜まった想いが、逃げ場を失って波打っていた。
2
廊下から駆け足で入ってきた女子が、雪のすぐ近くの席に腰をおろすと、友人に話しかけた。
「今、澪織ちゃんの課題プリントを芹沢先生に渡してきたんだけどさ……」
「そういえば、家が近いから頼まれてたんだっけ」
「うん。でね、さっき職員室で聞いちゃったんだけど。芹沢先生、今日、家庭訪問に行くみたいだよ」
「誰の?」
「澪織ちゃんに決まってるじゃん! 他の先生と話してるとこ、偶然聞いちゃってさ」
「まじか! でも、澪織ちゃん。夏休み明けてから一度も学校来れてないもんね。先生も心配なんでしょ」
「確かに芹沢先生、ちょっと暗い顔してた。たぶん、本気で心配してるんだと思う」
雪は、彼女たちの会話に耳を傾けながら、無意識に爪を噛んでいた。
心配している……。
その言葉が喉奥で引っかかる。
澪織の家に行くということは、部屋に上がるかもしれない。二人きりの、閉じた空間を想像するだけで、全身がざらりと痒くなった。
部活中も、頭の中はそのことばかりだった。集中できず、クラリネットでミスを連発してしまう。息が苦しくなり、胸が締め付けられる。音は霞んで、いつものように旋律として流れ込んでこない。譜面は知らない言語のように目の前で踊り、眩暈に似た違和感がこめかみを締めつけた。
雪はまた、同じ場所で間違え、部員らの視線を集めてしまう。
「すみません……」
顧問が優しく声をかける。
「大丈夫よ。でも、なんだか集中できていないみたいだし、体調も優れないようだから、今日はもう帰っていいわ」
雪は黙って頷き、ゆっくりとお辞儀をして席を立った。
音楽室を出てドアを閉めると、楽器たちが奏でる音色が、遠ざかる波音のように耳の奥で鳴った。
妙な気持ちになる。まるで、締め出された子供のような気分になった。
一階へ降りると、ちょうど蒼がスーツの上着を羽織って、職員玄関へ向かっていく姿が見えた。
今から、きっと澪織の家に行くのだろう。
気になる。でも……。
雪は一瞬迷ったが、足はすでに蒼を追っていた。
距離を取りながら、影のように歩く。制服姿のまま、アスファルトの端を踏みしめた。
着いた先は、こじんまりとした二階建ての戸建てだった。白を基調とした静かな外観。ブロック塀に囲まれた庭には、丸い植木鉢がひとつだけ置かれていた。
蒼がチャイムを押すと、ややあってドアが開く。すると、母親らしき女性が出てくる。軽く会釈をし、蒼を中へと迎え入れた。
雪はその様子を見届けると、すぐに玄関先まで駆け寄り、表札を確かめた。
――辻島。
やはり、ここが澪織の家。
雪は周囲を見回し、静かに視線を二階の出窓に向けた。
レースのカーテン越しに、うっすらと部屋の輪郭が見える。白いくまのぬいぐるみが、窓辺にぽつんと置かれていた。
きっと、澪織の部屋だ。
ドアを開け、蒼が入ってこないことを祈るしかないが、心のどこかで、すでにその先を想像していた。
時間にして十五分ほどだった。レースの向こう側に、人影が映った。蒼らしき高い輪郭。すぐ隣に、もうひとつの細い影が立ち上がる。
澪織だ。
二人は、窓際で何かを話しているようだった。
雪は、息を殺してその光景を見つめた。瞬きも、呼吸さえも、忘れていた。
その時だった。たった一瞬。けれど確かに見えた。
蒼の影が、澪織の影へと、ゆっくりと近づいて――その腕が、小さな体を包むように動いた。
見間違いではない。
胸の奥が締め付けた。言葉にできない、黒くて、熱いものが心の中に充満していく。
何かが壊れた。
それが何なのかはわからない。しかし、確実にそれは音を立てて壊れた。
帰宅後、雪はSNSを見ながら、眉根を寄せた。
また、誰かと話してる。
《《彼は》》どんな相手のコメントにも、当たり前のように丁寧に返していた。
それが彼のやさしさなのだと頭では分かっていても、落ち着かない。ネットの世界でも、彼は誰かのものになっていく。自分だけのものじゃないという現実が、胸の奥でじわじわと広がっていった。
この女、誰。
ある女性アカウントからの馴れ馴れしいコメントに、指が止まった。
彼が笑うような口調で返しているのも、腹立たしかった。
雪はスマートフォンをベッドに叩きつけ、一気に感情が爆発し、部屋の隅に積み上げられた図鑑を蹴り飛ばす。それは、塔が崩れるように、音を立てて床に散らばった。
「……なんでみんな、僕のものに触れようとするんだよ……近づくな。全員消えろよ!」
叫び声と同時に、壁に拳を叩きつけた。
鈍い衝撃が指から肩にかけて響く。痛みは感じなかった。
夜の海のように暗く、底知れない闇の部分が姿を現す。静かで、冷たい。けれどどこか、懐かしさすら伴っていた。それは感情というより、もっと深い層――言葉にならない黒い澱のようなものだった。苦しさも、怒りも、哀しみも、すべて飲み込んだ先にだけ残るもの。
雪は、その重さに気づきながらも抗わなかった。それが自分の中にあるのだと、ただ静かに受け入れていた。
二日後。それは突如、昼休みの教室を津波が襲うような出来事が起きた。
芽火が手を上げて、注目と言わんばかりに声を上げた。彼女の通る高い声が教室に響く。
「澪織の裏アカ発見しましたー!」
教室にいたクラスメイトは、一斉に芽火に駆け寄っていく。中には笑いながら、半信半疑のままスマートフォンを覗き込もうとする者もいた。
「裏アカって本当!?」
女子の一人が、芽火のスマートフォンを貸してとばかりに掴む。画面を覗き込むなり、小さく息を呑んだ。
「マジ! 澪織って裏では私たちのことバカにしてたみたいだよ」
芽火は、殊更に肩をすくめる。
「しかも、ずっと前から投稿してたみたい。隠れてコソコソやってたんだよ」
「え、嘘でしょ!? 私、大人しいだけで優しい子だと思ってたのに……」
駆け寄ってきた、色白で真面目そうな女子が眉を落とした。
「なんで、裏アカってわかったの?」
「ID見てよ。めっちゃわかりやすいから」
芽火は、IDが記されているところを指差して、勝ち誇ったように言う。
「mioriXaoi」
「……もしかしてこのaoiって芹沢先生のこと!?」
「だと思うよ。だって、この前の家庭訪問のあとに、こんなわかりやすいポストしてるんだもん」
耳にピアスを付けたショートボブの女子は、画面を読みながら、やや顔を赤らめて笑い出す。
「……守るって言ってくれた。抱きしめてくれて嬉しかった……だって! きゃあああ」
両腕をさすりながら、顔をしかめる。
「やっば、キモ過ぎる! てか、この相手が本当に芹沢先生だとしたらやばくない?」
「確かにね。まあ、澪織に問い詰めたところで吐かなそうだけど」
「もしガチだったら普通にアウトじゃん。芹沢先生、通報レベルじゃない?」
「いや、どっちかって言うと、澪織の妄想オチでしょ。芹沢先生、そういうタイプに見えないし」
そこに、IDを検索していた一人の男子が、声を上げた。
「てか、俺たちのこと見下してね? クラスのやつらみんなガキ過ぎて、ついていけない。バカとは話したくない――だってさ」
別の男子も裏アカを見ながら、吐き捨てるように言う。
「他にも、悪口ばかりだ……もう完全に陰キャの裏人格じゃん。サイコじゃね?」
誰もがスマートフォンを覗きこみながら、次々に見つけた投稿を読み上げていく。
声は次第に大きくなり、嘲笑が飛び交い、まるで誰かを焚きつけるための火種が撒かれているかのようだった。笑い声と軽蔑、興奮と軽薄な正義感が入り混じり、その中心には、澪織という名前だけが残酷に晒されていた。
そんな中、雪は自席に座ったまま、澪織の裏アカを見つめていた。
クラスメイトの悪口なんて、心底どうでもよかった。
守るって言ってくれた。
抱きしめてくれて、嬉しかった。
その言葉だけが、許せなかった。
彼女は、欲しかったものをすでに蒼から貰っていた。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
雪は、騒がしい教室をあとにして、廊下の窓枠に肘をかけた。
下に見える灰色の地面を見つめながら、
「許さない」
声は低く、静かに落ちた。鼻に皺を寄せる。
雨雲が垂れこめていた。色彩が薄れた景色が、雪の感情をますます深いところまで沈めていった。
今日は吹奏楽部の練習は中止だった。教室に誰もいなくなると、雪はゆっくりと立ち上がり、廊下に出た。靴音が静かに響く。誰とも目を合わせず、向かうのは――職員室。
扉の前で一度立ち止まり、耳を澄ます。中では数人の教師が談笑しているようだった。
蒼の声は聞こえない。きっと、体育館でバスケの練習を見ているのだろう。
扉をわずかに開ける。
「失礼します」
いつもよりわずかに高い声が出た。
教師たちは軽く顔を向けたが、すぐに自分たちの会話に戻った。紙をめくる音。ペン先の走る音。コピー機の駆動音が重なっている。
生徒が何かを忘れたのだろう。そんな程度の関心しかないようだが、雪にとっては好都合だった。
鍵棚の位置は把握している。以前、音楽室の施錠を任されたときに覚えた。金属の束。番号札のついたフック。その中の、十三番。
屋上の鍵だ。
天井の隅に、防犯カメラがある。
作動しているかはわからない。しかし、用心するに越したことはない。
棚の手前で足を止め、置かれていたプリントを一枚手に取る。棚を隠すようにプリントをかざし、フックに手を伸ばす。
指先が金属の輪をなぞる。ひとつ、ふたつ、三つ目。
屋上。
鍵を外す。音は立てない。手の中にしっかりと、その鍵が収まった。ポケットへ滑り込ませる。
そのまま何もなかった顔をして、雪は教師に会釈した。
「ありがとうございました。失礼します」
扉に手をかけると、
「あ、真壁くん」
女教師が呼び止めた。肩が強張る。
「はい」
「合唱の伴奏するようね。頑張ってね」
「ありがとうございます」
背を向け、職員室を出た。
廊下には、柔らかな日差しが差し込んでいた。風が通り抜ける。
鍵はポケットの中に、微かに重く沈んでいた。
3
そういえば、蒼が言っていた。クラゲには、毒があると。
雪は湯上がりの髪をバスタオルで拭きながら、スマートフォンを手に取った。検索欄に「クラゲ 毒」と打ち込み、指先で画面をスクロールする。蒼の口から聞いた「キロネックス」や「アカクラゲ」の名前がすぐに目に入った。
それ以外にも、ハブクラゲ、カツオノエボシ――どれも強い毒を持ち、刺されれば激痛や命の危険さえあると記されていた。
《触手を取り除き、海水で洗浄し、ただちに医療機関へ――》
スクリーンの光に照らされた瞳は、ある場所を想像した。
たったひとさしで、世界を変えるもの。触れただけで、相手の体温を奪うもの。
「……いいな」
言葉がこぼれる。
毒のあるクラゲになりたいと、本気で思った。知らずに近づいてきた誰かを、静かに蝕む存在。優しさの仮面を被って、その下に針を隠し持ったまま、愛する人の肌に沈められたら――
バスタオルを肩にかけたまま、雪はゆっくりとベランダへ出た。
夜の風は、半袖の肌をかすかに冷やす。青い夏の終わりの匂いが、どこか切なく、鼻腔をかすめた。
空を見上げると、月だけがやけに明るかった。星は見えないのに、月だけが、まるで世界を照らすように冴え渡っている。
雪はその光に瞳を細め、ぼんやりと心の中で呟く。
もう、迷わない。
蒼に触れていいのは、自分だけ。それ以外は、どんな理由があっても、決して許さない。
きっと、誰が見ても自分は異常者だ。そんなこと、自分が一番わかっている。それでも、この感情は止められない。世間が宣う、常識的な考慮や判断など知るものか。他人のことなど気にしない。他の誰がどうなろうと構わない。蒼が自分だけを見てくれるなら、それでいい。
「どうしてなんだろう……」
気づけば、声になっていた。
もっと普通に愛せたら、どんなに幸せだろう。
しかし、それは永遠に来ない。
手に入らない。
それが自分という人間。
それが現実だ。
雪は腕を摩ると、静かに部屋へ戻った。扉が閉まり、夜の風が、すっと途絶えた。
教室のドアが開く音に、ほとんどの生徒が何気なく視線を向けた。その視線が、次第にひとつの点に集中する。
入ってきたのは、澪織だった。
休み明け、久しぶりに登校してきた彼女を見て、ざわめきが静かに広がっていく。しかし、誰一人、声をかける者はいなかった。
澪織はどこかすっきりとした顔で、ゆっくりと自席につく。鞄を机の横にかけると、いつものように本を手に取り読み始めた。
しかし、その沈黙は長くはもたなかった。芽火と数人の女子が、まるで予定していたかのように席を立ち、澪織の机の前に仁王立ちした。
「ねえ、大人しい子、演じるのもうやめない?」
芽火の声は、笑っているようで、明らかに攻撃的だった。
「え……?」
澪織はゆっくりと顔を上げた。その瞳が、薄く揺れる。芽火はスマートフォンを突き出すようにして、画面を見せた。
「みんなのこと裏でバカにして笑ってたんだね。自分だって子供のくせして」
澪織の表情が見る見るうちに青ざめていく。指先が震え、本のページがゆっくり閉じられた。
「それにさ、mioriXaoiって。あんたこそ頭ん中お花畑じゃん。正直、気持ち悪いんだけど!」
芽火の作ったような笑い声が、教室の中に甲高く響く。含み笑いが、あちこちから滲むように漏れた。囁きが、それに重なっていく。
「や、やめて……」
澪織は震える声で言った。背中は小さく縮こまり、目は伏せられていた。それでも芽火たちは容赦なく続ける。
「これでまた明日から学校来なくなったら、まじ笑えるんだけどー」
わざとらしく声を張り、周囲に響かせる。教室のあちこちから、冷笑や乾いた笑いがにじんだ。
「やめてって……」
澪織の唇はわなないていた。目元には、じわりと涙の光が浮かび始める。
そのとき、図ったようなタイミングで、チャイムが鳴った。全員が一斉に席に戻る音だけが、重たい沈黙を引き裂いた。
ややあって、蒼が教室に入ってくると、いつものように明るく、爽やかな笑顔で「おはよう」と生徒に挨拶していた。
だがその声は、まるで異物を押し込むように、教室の不穏な空気とぶつかった。蒼は違和感に眉をひそめつつも、何も言わず黒板の方へ向かう。
雪は、澪織の青ざめた顔をじっと見つめていた。
自業自得。
しかし、それだけでは済まされない。雪の胸の奥に、静かに、確実に何かが立ち上がっていた。
ちゃんと、この気持ちに決着をつけなければ。
雪は放課後、帰り支度をする澪織に声をかけた。
「ちょっと、時間ある? 今日あったことで話したいことがあるんだ」
「え……」
「大丈夫。僕は君の見方だから」
柔らかい笑顔を見せてやる。
澪織はわずかな沈黙のあと、視線を落としたまま、頷いた。
「ねえ、真壁くん。どこに向かってるの……?」
澪織の不安そうな声が後ろからついてくる。
雪は穏やかな口調で、「屋上だよ」と返した。
「……屋上って、出入り禁止じゃなかった?」
階段を上っていた足を止めて、雪は顔だけ後ろに向ける。
「大丈夫。ちゃんと許可をとってきたから。それに、誰にも邪魔されないところで君と話したいんだ」
「……分かった」
澪織の表情はまだ強張っていた。しかしそれは、屋上に行くことを怖がっているわけではなく、今朝の出来事がずっと彼女の心中に深く残っているのだと思う。
階段の踊り場に反響する二人の足音だけが、静けさの中に響いていた。窓の向こうでは雲がゆっくりと流れている。時間の流れさえ、どこか歪んでいるようだった。
最後の一段を上ると、雪はズボンのポケットに手を入れ、小さな銀色の鍵を取り出した。それは淡い光を受けて、ひときわ冷たく鈍い輝きを放つ。
ゆっくりと鍵を鍵穴に差し込み、回す。
カチリと音がしてロックが外れると、雪はそっと袖をかぶせた手でドアノブを握った。音が響かないよう注意しながら、屋上の扉を静かに押し開ける。
ガチャ――
金属が軋む音とともに、冷たい風が吹き込んだ。空気の流れに乗って、二人の髪がわずかに揺れる。
初めて踏み入れた屋上は思っていたより広々としており、どこか寂しげだった。無人の空間には、吹き抜ける風の音と、遠くの車の走行音だけがかすかに届く。フェンスはなく、高さが百センチくらいのパラペットが屋上を囲っていた。
何も遮るものがないその景色は、澪織の足を自然と止めさせた。
「本当に、入って大丈夫なんだよね?」
もう一度、確認するように聞いてくる。
「ああ、誰も知らないから問題ない」
「え……」
雪は背を向けたまま、淡々とそう言った。
「まず、聞きたいことがあるんだけど――あの投稿、本当だった?」
澪織は、曇らせた声で小さく「うん……」と答えた。
「……そのことは、ごめんなさい。でも、真壁くんのことを言ったんじゃないから」
「違うって」
雪はその言葉を遮るように言い、数秒だけ間を置いた。
「そうじゃなくて……」
くるりと澪織の方を向き、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
「守るって言ってくれた。抱きしめてくれて嬉しかった……」
その一文を、まるで詩を読むように丁寧に繰り返す。
雪は、一歩ずつ澪織に近づいていく。
「そ、それは……」
澪織は口元を震わせながら言葉を紡ぐが、声は弱々しく、風に消えそうだった。
「これって、芹沢先生のことだよね?」
まっすぐに澪織を射抜く。その視線に、彼女の表情がわずかに強張った。
「ち、ちがっ……」
「誤魔化したって無駄だよ。だって、僕、その場で見てたもん」
「見てた……?」
「うん。窓の外から、二人のことずっと見てた」
淡々としたその言葉に、澪織は小さく息を呑んだ。一歩、身を引くように後ずさる。
「な、なんでそんなことするの? それ、ストーカーじゃない……?」
澪織の声は震えていた。しかし、雪は表情を変えない。
「辻島さんに言われたくないな。君だって、似たようなことしてるじゃん」
「私はしてない――」
そう言いかけた澪織の言葉を、雪が静かに切り落とす。
「裏アカ、全部見たよ。最初からずっと、先生のことばっかりだったね――早く会いたい。あなたの授業が大好き。優しい声が好き。私に喋りかけてくれた。今日も親切にしてくれた……」
「やめて……」
澪織の声は、今にも泣き出しそうだった。
「ぜーんぶ、芹沢先生のことだよね?」
声が静かに低くなる。
澪織は俯いたまま動かず、唇を噛みしめていた。手のひらはぎゅっと握られ、肩が小刻みに震えている。
「ねえ、聞かせてくれないかな」
雪は足もとに視線を落としながら、ゆっくりと問いかけた。
「なんで、芹沢先生から辻島さんを抱きしめにいったの?」
澪織の喉がごくりと鳴る。
「それは……ただ……」
言い淀んだその瞬間、雪の中で何かが音を立てて切れた。
「ただ、ただ、ただ、ただ!」
抑えていた怒りが堰を切り、雪は澪織の肩を勢いよく掴んだ。
がくんと身体が揺れ、彼女は痛みに顔を歪める。
「痛い……」
「痛い? ――僕の方が痛いよ!」
叫ぶ声は、風に削がれながらも辺りに響く。
そのまま澪織の肩を揺さぶった。
「どれだけ痛いか教えてやりたいよ。心臓を何度も針で刺されるような気持ち――お前なんかにわかるわけない!」
言葉を吐きながら、唇の端がわずかに引きつる。
「お前みたいなやつ、反吐が出るんだよ……なんで、僕のものに手を出すわけ?」
「真壁くんのもの……?」
澪織は怯えたように問い返した。雪は即座に言い返す。
「そうだよ。先生は僕のものなの!」
「え……」
その言葉に、澪織の瞳が怯えと困惑で揺れた。
「……真壁くん、もしかして。芹沢先生のこと、好きなの?」
「好き?」
その単語が耳に入った瞬間、雪はあざけるように笑った。
「そんな浅っっい言葉、使わないでほしいな。お前らみたいな上っ面だけの恋とは、次元が違うんだよ!」
底知れない感情が込み上げてくる。吐きそうだ。
「真壁くんの言ってることが、よく分からないよ……」
震えながらそう呟いた澪織に、雪は怒声をぶつける。
「だから、分かるわけないって! 僕がこの高校を選んだ理由だって芹沢先生がいたからさ。自分の人生すべてかけたって惜しくないんだよ!」
声が、屋上の空気をつんざくように響いた。
***
中学時代の雪は、日課のように蒼のSNSを開いていた。
学校の帰り道、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、いつものようにSNSアプリを起動する。フォローしているのは、蒼――たったひとりだけ。タイムラインには彼の投稿しか表示されていない。
アイコンはデフォルトのまま。アカウント名は「クラゲ」。
彼の投稿にリプライすることもあったが、素性は明かしていない。
本当ならDMで「海で命を助けてもらった者です」と感謝を伝えるべきなのかもしれない。しかし、ここで言うのは、なにか違うと思った。
それに今はこうして、〝知らない誰か〟として、蒼と関われていることが、どこか少しだけ楽しかった。
リロードするとタイムラインの一番上に、新しい投稿が現れた。足が止まる。胸の奥で微かに何かが揺れる。
「……これって」
投稿には、こう書かれていた。
『来年の春から、念願の先生に』
添えられた写真は、見覚えのない高校の校舎だった。すぐに画面をピンチアウトして、校銘板を確認する。
――XX市立〇〇高等学校。
スマホを握る手に力が入る。
ここに行こう。
心の中で静かに呟いた。
前を向き、一歩、足を踏み出す。軽やかな足取りで深呼吸をする。藍色の空が、まるで絵の具で描いた色彩画のように鮮やかに見えた。歩道をのそのそと歩いていた黒猫が、ちらりとこちらを見上げた。その仏頂面にさえ、思わず笑みがこぼれる。
今まで進路のことについて思い煩うことはなかった。高校は行ければどこでもいいとさえ思っていた。しかし――今、行きたいと思える理由がちゃんと出来た。
その日を境に、雪の頭の中は高校のことでいっぱいになった。ネットで何度も校名を検索し、制服のデザインや校舎の写真を眺めては、再来年から始まる新しい日々に思いを馳せた。蒼と同じ空間で、同じ時間を過ごせる。
胸が高鳴った。
授業も、昼休みも、放課後も、すべてが蒼と隣り合わせの毎日になる。
そんな現実離れした妄想すら、本当に起こると信じきっていた。
雪の成績は学年でも常に上位。中学三年に上がってからは、進路相談のたびに担任から、もっと上の偏差値の高校を勧められた。しかし、雪は何度でも言った。ここに行きたい、と。
両親もとくに反対はしなかった。ただ、「行きたいところでいいよ」とだけ。
だから、他を選択する理由もなかった。
――蒼と、同じ場所にいたい。
すべては、その願いだけだった。
***
雪は突き動かされるように走り出し、まるで舞台に飛び乗るような勢いでパラペットに片足をかけた。
「な、なにしてるの……!」
澪織の声はかすれ、震えていた。雪はゆっくりとその上に立つ。足元が揺らぎ、靴の先がほんの少し空に浮いた。眼下に広がる校庭。遠くに連なる住宅街の屋根――そして、手を伸ばせば届きそうな、鈍い曇り空。
雪は静かにそれらを見据えながら、後ろにいる澪織へまるで、科白を呟くように言った。
「ねえ――僕はここで死のうと思う」
「死ぬ!?」
「ああ、君のせいで、生きていけないから」
「どういうこと……?」
「僕の、大事なものを――奪ったからだよ」
雪の声は、ささやくようでいて、確かに響いていた。
「芹沢先生のこと言ってるなら……私、本当に何でもないから。あの日だって、私を慰めるために……」
「今さら、そんな言い訳、聞きたくないな」
乾いた笑い声が漏れる。
「本当なの。だから、お願い……そこから降りて。危ないよ」
「……僕の机の引き出しに、遺書を入れてきたんだ」
唐突に放たれた言葉に、澪織はぎょっとして目を見開く。
「遺書……?」
「うん。僕は、〝辻島澪織のせいで死にます〟って書いた」
わざわざ、笑いを含んだ声でそう言った。
その一言で、彼女の表情から血の気が引いていった。唇を震わせながら、手で口元を覆う。
「やめて……そんなの、やめて……お願いだから……」
「辻島さんはこの先、殺人者として、生きていけるの?」
「――そんなの、無理に決まってるじゃん!」
感情がはじけ、澪織の瞳から涙が溢れた。
声を張り上げたあとの彼女は、まるで何かが抜け落ちたように、肩を落とす。
「……じゃあさ、ここに来てよ」
「え……」
「ここにきて、一緒に死のう」
これから、どこかに遊びに行こうとでもいうように、柔らかく笑う。
「辻島さんだって、もうクラスに居場所ないだろ? あんな状況、耐えられないだろ?」
「それは……」
「だから、もう、楽になろう」
そっと手を差し伸べる。
澪織は、その手を一度拒むように首を横に振った。しかし、目を見つめ返した時には、何かを諦めたように、ふらりと一歩、足を出した。
雪は彼女の白い手を掴み、引き寄せる。
「ほら、何も怖くない。僕もいるし、大丈夫だから」
澪織は唇を噛みながらも、うっすらと首を振った。
「真壁くん……でも、私……やっぱり、生きたい……」
「これ、受け取って」
「……え」
雪は、ポケットから銀色の鍵を取り出し、そっと彼女の手に握らせた。
風が凪ぐ。
屋上は無音になり、空が少しだけ色を変えた。
澪織の長い黒髪が、静かに宙を舞うように揺れる。
そして――次の瞬間。
雪の視界から、彼女が消えた。わずかな間をおいて、地上から鈍い音が届く。
ズボンのポケットに手を入れる。パラペットの縁に立ったまま、ゆっくりと天を仰ぎ、目を閉じた。
北風が戻っていた。冷たく、それでいて心地よく、頬を撫でていた。
*灰原視点
4
救急搬送はすでに終わっていた。
校庭の一角は、黄色い規制テープで簡易的に囲われており、遠巻きに集まった生徒たちは、互いに顔を見合わせながら小さくざわめいている。制服警官が数人の生徒に声をかけ、順番に事情を聞いていた。
現場となったコンクリートの地面には、うっすらと血痕が残っていた。白いチョークで落下位置が囲われ、その横に小さな証拠番号のプレートが置かれている。鑑識がメジャーで落下地点から校舎までの距離を測り、カメラのシャッター音が乾いた音を立てていた。
灰原はその様子をしばらく無言で見てから、地面へ視線を落とした。
血痕は一点にまとまっている。飛散は少ない。
即死に近い落下。
頭の中で、状況を組み立てる。
教師と警備員の話では、生徒の屋上への出入りは禁止されている。鍵は職員室の鍵棚で管理され、使用には申請が必要だという。
ただし、返却の確認は徹底されているとは言い難い。屋上の鍵は、事件当日の昼前にはすでに所在不明になっていた。いつ無くなったのか、把握している者はいない。
職員室には防犯カメラが設置されている。しかし、プライバシー保護の観点から、通常は作動させていないという。したがって、その時間帯の出入りは、確認できない。
「灰原さん!」
鑑識の一人が声をかける。
灰原が近づくと、彼は地面にしゃがみ込み、手袋越しに一点を指した。
「これです」
アスファルトの隙間に、小さな鍵が落ちていた。キーホルダーには〝13〟という数字が刻まれている。
「屋上の鍵かもしれません」
鑑識が言う。
「よし。動かすな。まず撮影だ」
すぐに別の鑑識が証拠番号のプレートを置き、数方向から写真を撮る。フラッシュが瞬き、シャッター音が重なった。
「撮影完了です」
「回収しろ。指紋も確認してくれ」
「了解」
ピンセットで鍵を持ち上げ、証拠袋へ入れる。
「スマートフォンは?」
灰原が訊く。
「遺体搬送の際に確認済みです。制服のポケットに入っていました。いま鑑識で解析に回しています」
「電源は?」
「入ったままでした」
「そうか」
灰原は顎に手を当て、ゆっくりと校舎を見上げた。
そのまま駆け足で、屋上へ向かう。階段を上るたび、下から聞こえる生徒たちのざわめきが遠ざかっていく。
鉄製の屋上扉は、制服警官によってすでに開けられている。灰原は外へ出た。風が強い。屋上にはフェンスがなく、コンクリート製パラペットが建物をぐるりと囲んでいるだけだった。転落防止というより、ただの境界線に近い。
「生徒の出入りを禁止する理由は、これか」
灰原は呟き、パラペットの縁に近づいて膝をついた。下を覗き込むと、先ほどのブルーシートが小さく見えた。
しばらく視線を動かし、落下地点の位置を確かめる。
「……真下じゃないな」
灰原は眉を寄せる。
普通に飛び降りたなら、もう少し壁際に落ちるはずだ。それと、地面に落ちていた鍵――屋上のものと思われるそれは、遺体からわずかに離れた位置にあった。
ポケットから落ちたと考えるには距離がありすぎる。
「……手に持ったまま落ちた、か」
屋上の床に目を移す。
埃は少なく、コンクリートの地面にはところどころ薄い靴跡が残っている。ただ、揉み合ったような痕跡は見当たらなかった。
「靴は?」
鑑識に尋ねる。
「両方とも履いたままでした」
灰原はパラペットに手を置いた。
「この高さだと……彼女の身長は?」
「百五十三センチです」
「パラペットは?」
「約百センチ」
鑑識はメジャーを当てながら答えた。
「踏み台はありませんが……よじ登れない高さではありません」
灰原は息を吐き、視線を遠くの校舎に移した。
この静けさの中に、何かが潜んでいる気がしてならなかった。
灰原は、澪織のクラスへ向かった。
教室はすでに空になっている。さっきまでここで授業が行われていたとは思えないほど、しんと静まっていた。
彼女の席に立つ。机の中には何もなかった。教科書も、筆箱も、ノートも、すべて鞄の中だ。紙の切れ端ひとつない。遺書の痕跡もない。帰る準備をしただけ――そんな印象だった。
死ぬつもりの人間が、本当に何も残さないだろうか。
いや、それよりも。
この〝何もなさ〟がむしろ不自然だった。
灰原は、教室の窓から見える校庭に目をやる。空は晴れていたが、遠くには雨雲が見えた。
ゆっくりとポケットに手を差し入れ、呟く。
「人は……隠していることにほど、癖が出るものだ」
その言葉は、誰にも聞かれることなく、教室の壁に染みこむように静かに消えていった。
応接室に集められたのは、三人。芹沢蒼。乾芽火。そして真壁雪。
いずれも、今回の件で当日または前後に澪織と接点を持っていたとされる生徒と職員である。
灰原は、向かい合う円形の配置ではなく、三人を横並びにし、自身はあえて横顔を観察できる位置に座った。
「それでは、順にお話をうかがいます。皆さんに疑いがあるわけではありません。ただ、事実を整理したいだけです」
蒼は背筋を伸ばす。雪は手を膝に揃えてじっと俯いている。芽火は落ち着かない様子で、そわそわしていた。
「まず、芹沢先生。辻島澪織さんと個人的な関わりは?」
「ありません。ただ、夏休み明け以降、彼女が登校していなかったため、家庭訪問には伺いました」
「家庭訪問の記録、残ってましたね。日時は、七日前の午後五時ごろ。滞在時間は?」
「三十分ほどです」
「その時、彼女は自殺を仄めかすようなことはありましたか?」
「いえ、そういったことはありませんでした。ただ、クラスメイトと馴染めないことを悩んでいました」
「実際、教室での彼女の様子はどうでしたか?」
「……確かに、周囲と距離を置いている印象はありました」
灰原は軽く頷き、芽火に目を移す。
「あなたは、辻島さんと何か話を?」
「話というか……SNSの裏アカを見つけて、内容がちょっと問題あったから、教室で話しただけです」
「問題、というと?」
「他の生徒の悪口とか……あとは、芹沢先生に向けて呟いているような投稿も……守ってくれたとか」
芹沢の目が一瞬揺れた。雪は俯いたまま、微動だにしない。
「その日、教室で辻島さんに直接、指摘したんですね?」
「はい。……別に責めたつもりはなかったです。ちょっとからかったくらいで」
芽火の目は泳いでいた。
「でも、聞くところによると、かなりその事で罵ったとか。周りの生徒も見ているだけだったと聞きましたが」
「それは……」
「教室には彼女を味方するものはいなかった。あなたに避難され、相当辛かったんじゃないでしょうか」
芽火は視線を落とし、唇を噛み締める。
「そして、ひとり屋上へ向かった」
「そ、それじゃ、私のせいで澪織が自殺したみたいじゃないですか!」
芽火は前のめりになり、焦りの表情が浮かび上がる。
灰原はそこでメモを取り、わずかに間を空けてから、今度は雪に視線を移した。
「真壁くん。君は辻島さんと、最後にいつ話しましたか?」
「……放課後、少しだけ話をしました」
「どんな話をしたのかな?」
「さっきのこと気にするなって言いました」
「君は彼女の味方だったのかい?」
「味方というか、哀れだなと思ったので」
「哀れか……」
灰原は手を組み、質問を続ける。
「その時、彼女が死にたいくらい辛そうに見えたかな?」
「どうだったかな……でも、あれだけ、みんなの前でからかわれたら死にたいって思うんじゃないかな」
芽火の方に視線を向けたが、表情は沈着そのものだ。だが、灰原は表情ではなく間を見ていた。
やはり、言葉を組み立ててから出している。
「君は、紗英さんとも同じクラスだったね」
唐突な転調。
雪のまつ毛が一瞬だけピクリと揺れた。
「ええ……はい」
「奇妙だとは思わないかい? このクラスから、一学期にひとり。そして、秋になってもうひとり。どちらも転落死。事故と自殺とみなされている」
室内の空気が変わった。
芽火が肩を竦めて、
「偶然……じゃないんですか?」
灰原は言葉を返さず、雪の方に顔を戻す。
「真壁くん。君は、紗英さんと澪織さん、ふたりに共通点があったと思う?」
「……わかりません」
「どちらも、君のすぐそばにいたと思うけどね。……見えていたはずの距離だったのに、何も知らなかったのかい?」
静寂。
雪の唇がわずかに動くが、言葉は出てこなかった。
「そういえば、あなた……文化祭でピアノ伴奏をすると、何人かの生徒が話してました。指が綺麗だって」
「……あ、はい。ピアノは、ずっとやっていて」
「なるほど。……指先、力ありますね。細いのに、芯が通ってる」
「……?」
雪は少し困惑したように微笑んだ。
灰原もまた、何でもないような笑みを返して言葉を結ぶ。
「ありがとう」
灰原は手元のノートに線を引きながら、最後にこう締めくくった。
「……でも、不思議なんだ。なぜ、教室で目立たない存在だったふたりが、立て続けにこの世を去ったのか。君のすぐ横で、静かに、消えていった」
その声には怒気も責めも含めない。
雪は、しばらくして、小さく「……わかりません」とだけ繰り返した。
三人が廊下に出ていくその背を見ながら、灰原は短く呟いた。
「――手が震えなかったな」
ノートには一行、こう書かれていた。
『真壁 雪:表情に乱れなし。言葉に選び。手に躊躇いなし。違和感、小。保留。』
5
澪織が屋上から転落した翌日。教室は、音を吸い込む箱みたいに静かだった。誰かが椅子を少し引いた金属音や、日直が黒板に日付を書くチョークの擦れる音まで、やけに耳に刺さる。カーテンの隙間から入る風がプリントをめくり、紙の端がかさりと鳴る。誰かのシャープペンが床に落ちた。慌てて拾おうとした拍子に膝が机の底に当たり、鈍い音が教室に響く。何人かの肩がびくりと跳ねた。だが、誰も声を上げなかった。
昨日まで彼女を嘲笑い、非難していたクラスメイトも、澪織の席を真正面から見られない。視線は机の角や自分の手元ばかりを彷徨い、教室全体が海中に深く沈んでいくようだった。
空気の重さを割るように、扉が開く。
「おっはよー」
芽火が、いつもと変わらぬ調子で入ってきた。その明るい声は水面に落ちた石みたいに、静けさの中に波紋を残した。
「お前、よくそんなテンションでいれるな」
前の列の男子が、座ったまま睨み上げる。
「え?」
芽火が振り向く。
「昨日、お前があんなこと言った直後だぞ。辻島、屋上から落ちたの」
「なにそれ、私が悪いって言いたいの?」
「実際、そうなんじゃねえの?」
「あんただって、一緒に笑ってたじゃん! みんなだって、面白がって見てたでしょ?」
向けられる視線を払うように、芽火は声を張った。男子は言い返す言葉を失くし、唇を噛む。
「それに、まだ自殺って決まったわけじゃないよ」
「どういうこと?」
近くの女子が眉をひそめる。
「事情聴取されたとき、刑事の人、なんか探ってる感じだった」
芽火は鞄を机に置き、顎に指を添えた。
「なんか、他殺の可能性を疑ってるっぽかった」
「他殺……?」
教室がざわめく。
「特に真壁くんに、変なこと聞いてたよ」
雪は肩をぴくりと動かす。息を呑んだ。
「真壁くん、昨日ホームルームのあと何してた?」
「部活に行ったけど」
「ふーん……そう」
芽火は意味ありげに頷き、席に座った。
状況的に、自殺で片付く。
鍵はあえて指紋を拭かなかった。完全に拭けば不自然になるからだ。
指紋より、所持だ。
見つかる時、誰が持っていたかだ。
「それにしても……席に花瓶が二つって、ちょっと……気味悪いよね」
長い髪をゆるく巻いた女子が、視線を逸らしたまま言う。
誰も否定しなかった。
「なあ、雪」
背後から陽斗の声。
「どうした?」
雪は開いた数学の参考書を持ったまま、振り返る。
「いや……」
陽斗は言い淀み、視線を斜め下に落とした。
「ん?」
「すまん、なんでもない……」
「そうか」
雪は前を向き直る。そのとき、隣の空席が目に入った。
紗英の席だ。
小さな白い花が挿された花瓶。四十九日まで飾ろう、と蒼たちと決めた花は、もう三度取り替えられている。学級委員が毎朝、水を替える姿を雪は隣で見ていた。
視線を奥へ送る。後ろから二番目、壁際の席。今日、新しく活けられたばかりの花が澪織の机に立っていた。花びらはまだ硬く、茎がまっすぐで、香りが少し強い。
教室に漂う花の匂いは、廊下の向こうから聞こえてくる笑い声と混じり、どこか場違いな甘さを残していた。
雪は参考書に視線を戻し、風で捲れそうになったページを手で押さえた。




