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第三章 前編



    1



 退屈な夏休み。何をするでもなく、縁側に寝転んでアイスキャンディーを舐めていた。ひんやりとした甘さが、舌の上でゆっくりと溶けていく。

 先生に、会いたいな。

 雪は空をぼんやりと仰ぎながら、蒼の顔を思い浮かべた。

 あの声。あの手。あの匂い。生まれて初めて、誰かのすべてがほしくなった。

 独り占めしたいと。

 しかし、担任と生徒という関係性は、思っていた以上に大きな壁だった。

 雪にとっては、そんなもの些細なことにすぎないけれど、蒼は違った。

 世間体、倫理、大人としての分別。それらをちゃんと背負って、生きている人だった。でも、思う――全部、壊してしまえたらいいのに、と。常識の向こう側に、たった二人きりの世界を築けたなら。触れられない距離も、歯がゆい沈黙も、きっと、なくなる。

 庭にいる蝉は、まるで自分の内側を煽ってくるように、鳴き続けた。


 「うるさい!」


 感情の波が、一気に押し寄せてくる。

 傍らにあったクッションを掴み取り、ぎゅっと顔に押し付ける。子どものように足をバタつかせながら、「あー!」と叫んだあと、クッションを放り投げた。

 そのまま弾んで転がって、やがてぴたりと止まる。

 それをじっと見つめた。横ざまのまま腕を枕代わりにして、身体を丸める。

 冷房の効いた部屋とは違って、扇風機の生暖かい風しかこない縁側は蒸していた。しかし、どこにも行く気力が起きなかった。

 近くに置いてあったスマートフォンの着信音が鳴る。

 やおら上体を起こし、画面を覗く。

 表示された名前に、眉がぴくりと動いた。

 紗英。


「……なんだよ、こんなときに」


 少し迷ったが、通話ボタンを押した。


「よう」

『あ、雪くん?』

「どうした、急に」

『いやさ、明後日おうちで花火鑑賞するんだけど来ない?』

「花火鑑賞?」

『そう、毎年恒例なんだけど、うちのベランダから花火がよく見えるんだよね。だから、良かったら雪くんも来ないかなって』

「うーん、そうだな……」

『あと、学校では内緒なんだけど、芹沢先生も来るよ』

「芹沢先生!?」


 雪はスマートフォンを持ち替え、わずかに前のめりに、もう一度聞く。


「先生も来るの?」

『うん、実は私、先生の従妹なんだよね。だから、家族ぐるみで知り合いっていうか』


 それを聞いたとたん、雪のボルテージは一気に下がっていく。


『それもあって、家族イベントにたまに来ることがあるの。で、花火は毎年、絶対来ててね。それで蒼さん、いつもお酒飲みながら〝たまやー〟とか言っちゃって、ほーんとそういうとこ可愛いんだよね』

「今、蒼さんって」


 その呼び方が、喉の奥を締めつけた。


『あっ、気を付けてはいるんだけど、油断してるといつもの癖が出ちゃうの……』

「へー、いつもは蒼さんって言ってんだ」


 紗英は蒼の従妹。確かに二人の距離感は近く見えたし、学校では紗英がよく蒼の横で楽しく喋っているのを見かけていた。しかし、そこまでの間柄だとは思わなかった。


「つうか、内緒だったのにいいのか?」

『いいって?』

「僕に話して」

『うーん、雪くんはなんだろうな。話してもいいかなって思えたんだよね。隣の席だし、私が教科書忘れたり、消しゴム失くしたりした時、快く貸してくれたでしょ? そういうの嬉しかった。それに、雪くんって口堅そうだから。約束とかも絶対守ってくれそうっていうか』

「僕ってそんな風に見えてるんだね」

『うん! 少なくとも私はそう思ってるよ。だからどうかな、もし良かったら来てくれない?』


 通話越しの紗英の声は、どこまでも無邪気だった。しかしその明るさが、今はやけに耳に障った。

 雪は無意識に、爪を噛んでいた。視線を横へ逸らし、もう一度強く噛む。


「行くよ。なんか楽しそうだし」

『本当? 良かった。じゃあ、明後日の十八時に私のうちに来て。住所は、後でメッセージに送るね』

「分かった。……じゃあ、また」


 電話を切る。そのままスマートフォンを横に、ほいと投げた。

 縁側から見える小さな庭に視線を向けて、眉をしかめた。

 いい加減、この暑さにはうんざりだ。

 額から汗がじんわりと滲む。手にしていたアイスキャンディーが棒からずるりと滑りかけ、慌てて口でキャッチする。溶けた甘さを無理やり舌に絡め取った。

 再び横になり、天井の一点をじっと見つめる。脳裏に浮かぶのは、蒼の横で無邪気に笑う紗英の姿だった。

 思わず舌打ちが漏れる。苛立ちが込み上げてくる。雪は、唸りながら髪をかき回した。



    2



 雪は地図アプリを開きながら、辺りをキョロキョロと見回していた。

 やっぱり、分からない……。

 方向音痴な自覚はあるものの、こうして迷ってしまうと、焦りだけが先立つ。

 画面を拡大したり縮小したりしていると――


「雪!」


 背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、蒼がこちらへ歩いてきた。


「先生……」

「紗英から聞いたよ」

「そうですか」

「それにしても何してんだ、こんなところで」

「いや、地図見ても、いまいち場所がわからなくて……」

「真壁は、本当に方向音痴だな。紗英の家はそっちじゃない。そこをまっすぐ行った先だ」

「そっか……確かに、えーっと……」


 スマートフォンを縦にしたり横にしたりしていると、蒼が小さく笑った気がした。その直後、優しく頭を撫でられる。


「よし、行くぞ」


 蒼は先を歩き出す。

 少し前を歩く彼の大きな背中を見つめながら、雪の胸はざわついていた。


「子供をあやすみたいに触るなよ……」


 そう呟いた。

 今日も猛暑日だ。夕方になっても気温は下がらず、三十度を優に超える中を二人は並んで歩く。

 紗英の住むマンションの通りには、急な上り坂があった。


「ここ、地獄の坂って呼ばれてるらしいぞ。自転車で登りきれたやつ、いないんだと。電動じゃないやつな」


 蒼はそう言って、歯を見せて笑った。

 暑さと傾斜に容赦なく体力を奪われていく。雪は息を切らしながら、それでも蒼のあとを懸命についていった。

 右を向くと、小さな庭の入り口に、木製のアーチがある。その先には、レンガの小道が続いていた。両脇には、色とりどりの花が整然と咲いている。手入れの跡が、そこかしこに残っていた。隣には、朱色のマンション。外壁には、ところどころ雨の跡のような染みが浮かんでいた。左を向くと、公園の木々が茂っている。けれど、その中に子どもの姿はなかった。蝉の声すら聞こえず、どこか不自然な静けさがあった。


「……驚いたか?」


 坂を上りながら、唐突に蒼が言う。


「え?」

「俺と紗英のこと」

「ああ、ちょっとだけ。でも、まあ……そういうのって、よくある話というか」


 そう答えながら、雪はわずかに目を伏せた。


「それよりも……学校以外で先生と一緒にいられるのが羨ましいなと思いました」

「また、そんなこと言って……。今こうして一緒にいるだろ?」

「そうですけど……こんなんじゃ足りないです……」


 その言葉に、蒼は歩を止めた。

 雪は立ち止まる彼の横に並ぶと、言った。


「あ、大丈夫ですよ。このことは内緒にします。紗英とも、そう約束してるし」

「このこと?」

「先生と紗英の関係ですよ」

「いや、まあ……別に隠してるわけじゃないけど、クラスで騒がれたらちょっと面倒だなと思うだけだ」


 蒼は耳の上あたりを照れたように掻いた。


「……そうなんですね。でも、本当に紗英が羨ましいです」

「分かったから、今はやめてくれ……ますます疲れる」


 言葉が胸を突く。雪はそっと目を細めて呟いた。


「疲れるってなんだよ……」


 その声は、きっと蒼には届いていない。ほんの少しだけ、届いてしまえばいいのにとも思った。

 雪は、ふたたび蒼の背中を追い、黙って坂を登っていった。



 地獄の上り坂をなんとか登りきった二人は、広くて統一感のあるマンションのエントランスを抜け、冷房の効いたエレベーターに滑り込んだ。

 紗英の住む七階の部屋の前で、蒼は息を整えながらインターホンを押す。ほどなくしてドアが開き、陽気そうな夫婦が笑顔で出迎えてくれた。その後ろから、紗英が顔をのぞかせる。


「あっ、蒼さん! それと……雪くんも! いらっしゃい」


 紗英は明るく弾けるような笑顔を向けてきた。

 夏の光が似合う――そんな印象だった。

 爽やかで、涼しげで、浴衣なんか着たら男はみんな一ころなんだろうなと、雪はふと思った。


「ささ、蒼くん上がって。ビールも冷えてるわよ」

「いつもありがとうございます。でも今日は……生徒もいるので控えめにしときます」

「あら、教師ぶっちゃって」

「なんすかそれ、俺はちゃんと教師っすよ!」


 紗英の母親と親しげに冗談を言い合う蒼の様子に、雪の心はわずかに沈んだ。

 声のトーン。やわらかい表情。距離感。

 きっと、毎年こうして家族のように過ごしているのだろう。その事実が、妙に胸に引っかかった。

 蒼の後に続いて家に入ると、母親がふとこちらを向く。


「それと……雪くんだったわね。初めまして。紗英がいつもお世話になってます」


 笑いじわを深く刻んで、柔らかな微笑を向けてくる。

 花柄のエプロンに、後ろで束ねられたブラウンがかった長い髪。きっと、ついさっきまで台所に立っていたのだろう。化粧は控えめなのに、どこか品があって――まさに、理想のお母さんのような佇まいだった。


「いえ、僕の方こそ……」


 軽く頭を下げると、「遠慮しないでね」と中へ促される。

 廊下を進むとすでに、何か美味しそうな匂いが漂っていた。


「ここにトイレがあるから、気兼ねなく使ってね」


 廊下を歩きながら、母親がそう説明してくれる。

 やがて突き当たりの白いドアが開かれると、広々としたリビング&ダイニングが現れた。開放感がある高い天井。大きなテレビに、高級そうな額絵。L字型のソファは白のファブリックで統一され、足元には無地のカーペットが敷き詰められている。ダイニングには立派なカウンターがあり、その上には出来たての料理や色とりどりのおつまみが並べられていた。


「紗英ちゃん、今日はバルコニーで食べるから。それ、できたやつテーブルに置いてくれる?」


 母親はバルコニーの方を指差す。


「はーい」


 紗英は素直に応じ、料理を慎重に持っていく。そのあとに続いて、雪もバルコニーへと足を運んだ。

 思わず息をのむ。

 とにかく広い。ちょっとしたカフェの屋外席くらいの広さがあり、大人が何人いても余裕がありそうだった。

 手すりに近づくと、眼下には遠くまで続く街並みが広がっており、その向こうには、今夜花火大会が行われる川が、くっきりと見えていた。


「……すごいな」


 ぽつりと漏らした声が、夕方の静かな空に落ちる。


「すごくないって。でも、ここ本当によく見えるの。楽しみにしててね!」


 無邪気に笑う紗英の横顔は、どこまでも明るい。きっと彼女の愛される人柄は、この家庭の空気があるからだ。何も欠けることのない生活。笑い声が絶えず、互いを思いやる空気が、当たり前のように流れている。こんな素敵な住まいと温かな家庭は、雪には眩しすぎた。

 そして、蒼も、その中のひとりだった。

 自然に溶け込んでいるその光景を見ると、どうしようもなく、自分が惨めに感じられた。

 七歳の頃、両親は離婚した。母に引き取られたが、家にいることは少ない。会話もほとんどない。夕食は、いつも一人だった。余裕がないのだろうと思う。それでも、自分に関心が向けられることはなかった。家庭での寂しさは、ピアノを弾いてるときだけ忘れられた。

 だから、こうして幸せそうな家庭を目の当たりにするたび、自分の居場所の希薄さを、痛感するのだ。

 花火は、十九時からだ。

 いつもは、遠くで響く音を窓越しに聞くだけだった。

 それが今年は、こんな場所で、こんな人たちと、一緒に見上げることになるなんて。

 一通り食事を終えたあと、まるでここからが本番とばかりに、紗英の父親が追加のおつまみとビールをベランダに持ってきた。


「よし、今年もやっちゃうか」


 悪戯っぽく蒼に声をかける。


「いや、今日は生徒もいますし、ほどほどにしときます」

「そういやお前、教師だもんな。まさか、あの蒼くんがなぁ……あの泣き虫だったお前が!」

「やめてくださいよ!……それ、何年前の話ですか!」

「はははっ。お前が、こーんなちっこい頃だったか……それが今じゃ、こーんなでかくなって……まったく、驚きだな」


 父親は身長を誇張して手で表し、大きな声で笑った。


「ほらほら、意地悪なこと言わないの。もうすぐ始まるわよ」


 母親があいだに入って、ビールを注ぐ。

 バンッ!

 その時、夜空に最初の一発目が打ち上がった。

 まるで巨大な映画スクリーンの中で見るような、完璧な眺めだった。雲ひとつない夜空は、まるで花火のための空だった。音の振動が胸に響き、空気が微かに揺れる。火薬の匂いなんて届くはずがないのに、息を吸い込むたび、なんだか匂いを感じられる気がした。

 雪は一人席を離れ、ベランダの手すりの前に立つ。夜空に咲いては儚く散っていく色とりどりの花を見つめた。後ろでは、家族団らんの賑やかな声が響いている。しかし、そこに混ざることはできなかった。

 やっぱり、自分はここにいるべきじゃない。

 そんな思いが、胸の奥でじわじわと広がっていた。


「綺麗だな」


 隣に立った蒼が、手すりに腕を預けて同じ空を見上げていた。

 ふいにその横顔を見た瞬間、雪は一瞬にして惹き付けられる。

 高く通った鼻筋。自然で形のいい眉。少し薄めの唇と、男らしい角のある輪郭。すべてが完璧だった。まるで、自分の理想をそのまま写し取ったかのようだった。蒼がビールをぐいと煽る。その仕草すら、眩しく見えた。


「先生、僕にもビールください」

「ダメだ。お前、未成年だろ」

「でも、僕……思ったより大人ですよ」

「そういう話じゃない。法律があるんだよ」

「固いですね」

「当たり前だろ。俺は教師だからな」


 語調を強めた蒼が、もう一度はっきりと言う。


「……そう。俺はお前の教師だ」

「それだけ、なんですか?」

「ん?」


 蒼がこちらを向く。

 表情が緩んでいるように見えた。すでに、ほんの少しだけ酔っているのだろう。それでも、聞かずにはいられなかった。


「僕は……ただの生徒、なんですか?」

「……聞きたいか?」

「はい、聞きたいです」


 一瞬だけ、蒼の顔から微笑みが消える。


「――ああ。お前は、俺の生徒だ」


 その言葉と同時に、夜空にもう一度、大輪の花が咲いた。

 眩しすぎる閃光が雪の視界を満たし、けれど、心の奥では確かに、何かがひび割れた。

 蒼は何も気づかぬまま、ゆっくりと背を向けて、また、あの温かい場所。賑やかな笑い声の方へと戻っていった。

 雪はその背中を、黙って見送る。

 蒼に駆け寄っていく紗英が、腕にしがみつく。二人はなにか楽しそうな会話をしているが、声までは聞こえない。

 紗英の頭にそっと手を置く蒼。嬉しそうに目を細める紗英。

 どうやっても、届かない。

 それが、たまらなく悔しかった。嫉妬と絶望が静かに溶け出して心を黒く染めていく。

 僕が、あそこにいられたらいいのに……。

 そう願ってしまった瞬間、雪の中で何かが変わっていく音がした。

 花火も終盤に差しかかる頃、紗英がふいに席を立ち、ひとりで家の中へと戻っていった。雪もすぐにあとを追う。

 キッチンへ向かうと、彼女は冷蔵庫を開けて、なにかを探していた。


「どうした?」

「ジュース取りに来たの。向こう、お酒ばっかりだったから」


 そう言って、苦笑いを浮かべながらジュースを一本取り出す。


「ねえ……僕たちも、ビール飲んでみない?」

「え、ダメだよ。私たち、まだ高校生だし」

「それ、さっき先生にも言われた。すっげえ子ども扱いされて、ちょっとムカついたわ」

「まじかー」

「だから、こっそり飲もうよ」

「でも……」

「大丈夫。これは共犯――僕は誰にも言わない。君も、言えないよね?」

「……確かに。実はね、ちょっと興味あったの。だって、みんなすごく楽しそうなんだもん」


 紗英はバルコニーの方を見て笑う。


「だよね」


 冷蔵庫から、雪はふたつの缶ビールを取り出す。


「ほら、これ君の分」


 カチッと缶を開けて、一本を紗英に渡した。


「てか、こっちにもベランダがあるんだ」


 雪はリビングの裏手を指しながら言う。


「ああ、そっちは小さいベランダ。洗濯物干す用なんだけどね」

「へぇ」


 そちらへ歩き出す。


「ねえ、そっちじゃ花火見えないよ?」


 そう言われて、雪は缶ビールをわずかに持ち上げた。


「だって、これ飲みながらじゃ帰れないっしょ」

「あ、そっか……私ったらバカみたい」

「すぐ飲んで、戻ればいいよ」

「うん、そうだね」


 二人は細長いベランダに出た。物干し竿が掛けられただけの薄暗い空間。向こうのベランダの喧騒とは打って変わって、静寂があった。


「こっち側、暗いんだね」

「うん。建物もないし、公園と、あとは山くらいしかないから」

「じゃ、飲んでみよっか」


 雪は缶を口に運び、ひとくち。


「……苦っ!」

「ほんとに? どれどれ……」


 紗英も続けて飲む。


「……苦い。でも、意外とおいしいかも?」

「まじか。紗英って、将来酒豪になりそう」

「ひっど。私は行動をわきまえる、おしとやかな女性になるんだから」

「おしとやか? 紗英が?」


 雪は笑いながら言う。


「ほんとだよ。蒼さんも褒めてくれたし」

「褒めた?」

「うん。お前は明るくて、人に優しくて、親切で……きっといい女になるって」


 指がわずかに缶を歪める。


「それにね、蒼さん、雪くんのことも言ってた。あいつと仲良くしてくれてありがとうな。これからも頼むって……。まるで兄みたいに」


 ――兄?


「本当にそう言ったの?」

「うん」

「マジうぜえ……」

「え?」

「なにが、仲良くしてやれだ。まるで、兄みたいって……」

「雪くん? どうしたの? なんか怒ってる?」

「お前にはわからないよ」


 自分でも驚くほど、冷えた声だった。


「……ごめん。なんか私、気に触ること言ったんだね……」


 教師と生徒、兄と弟、そんな関係性なんて求めていない。二人でひとつみたいな、そんな唯一無二の存在になりたいんだ。


「てか、雪くん。花火終わっちゃう! 急いで飲もっ!」


 グイグイとビールを煽る紗英。その無防備すぎる姿や警戒心のなさが、どこか鬱陶しく感じた。

 その瞬間――

 バンッ!

 夜空を裂くような音が響く。

 直後。

 ドサッ、と重たい音が地面に落ちた。

 それに続くように、誰かの甲高い悲鳴が、夜に吸い込まれていった。

 雪はその場を離れ、トイレへと向かう。ドアを静かに閉め、缶の中身をすべて便器に流し込む。備え付けの小窓を開けて下を覗くと、ちょうどごみ置き場が見えた。

 落ちた時の音や跳ね返りを抑えるために、手の中の空き缶を、ぐしゃりと小さく握りつぶす。その音さえ、ひどく静かに聞こえた。そして、ゴミ置き場に目掛けてそれを放った。

 しばらく間を置いてから、雪はトイレの水を流すと、ドアの向こうからノックされた。


「ねえ、紗英なの?」


 母親の声だ。

 雪はそっと扉を開ける。


「あ、雪くん……紗英、見なかった?」


 青ざめた顔で尋ねてくる。声は細く、掠れている。まるで、喉の奥に不安そのものを詰まらせているようだった。


「……さあ、見てませんけど。どうかしましたか?」

「さっき、悲鳴が聞こえてね。それで心配になって戻ってきたんだけど、紗英がいなくて……」

「僕は、ただトイレに来ただけなので」

「そう……そうよね。本当にどこへ行ったのかしら……。あの子、勝手に出歩いたりするような子じゃないのに……」


 母親は、そのあとも落ち着かない様子で部屋の隅々まで見回していた。

 不安と焦燥(しょうそう)のにおいが、家中に広がっていく。

 それからおよそ一時間後。玄関のチャイムが鳴り、母親が怯えたようにインターホンのモニターを覗きこむ。そこには制服姿の警察官が二人、無表情で立っていた。


「……あの、なにかあったんでしょうか?」

「はい。少し確認させていただきたいことがありまして。中へ入らせていただいてもよろしいでしょうか?」

「……わかりました」


 母親は戸惑いながらもドアを開ける。警察官たちは簡単な身分証を提示し「XX警察署の者です」と名乗ったあと、重い足取りで室内へと入ってきた。やがて、静かな口調でこう告げられる。


「……実は先ほど、このマンションの敷地内で、若い女性が倒れているのが発見されました。すでに死亡が確認されており、隣人の証言から、涼原紗英さんの可能性が高いと見ております」


 空気が凍りついた。


「え……? まさか……うそ……」


 母親の顔が真っ青になり、言葉を失ったまま数秒が過ぎた。

 父親は、警察から差し出されたスマートフォンを受け取り、「これは、紗英のものだ……」と呟いた。指はひどく震えていた。

 直後、母親は崩れるようにその場にしゃがみ込み、震える声で泣き始めた。

 その場にいた誰もが、現実を受け止めきれない中、警察官のひとりが、補足するように続ける。


「……また、現場のそばには開封済みの缶ビールが一本、落ちていたとの報告もあります。ご家族の方に確認いただきたいのですが、紗英さんは普段お酒を飲まれることは?」

「……そんな、あの子はまだ未成年です……お酒なんて……」


 母親は涙をぬぐいながら、震える声でかぶりを振った。


「念のため、後日詳しい検査を進めさせていただきます。今のところ事故の可能性が高いと見ていますが、詳しい状況は追ってご連絡いたします」


 蒼は、それらの言葉をただ黙って聞いていた。

 嗚咽とすすり泣きが、さっきまでの笑い声を塗り替えていく。あの明るかった空間が、もう遠い昔のようだった。

 雪は、蒼のすぐ隣に立ち、指を静かに組み合わせる。


「人間も、花火みたいに。あっけなく散ってしまうんですね」


 わずかな間を置く。


「……バン、って」


 それと同時に、組まれていた手をぱっと放した。

 雪は、横目で蒼を見上げた。

 彼の目には、深く暗い影が差していた。


「先生……?」


 囁くように呼ぶと、蒼は何も言わず、ただじっと見つめ返してきた。

 その瞳の奥には、揺れる涙の光が滲んでいた。



 ※灰原(はいばら)(けい) 警部補(捜査一課) 視点。



    3



 灰原は、破損したスマートフォンを手のひらの上でゆっくりと傾ける。電源を入れようとしても反応はない。これ以上は下手に触るより、デジタル解析班に預けるべきだろう。


「これが、現場近くで見つかった遺留品か」


 そばにいた若い鑑識が頷いた。


「はい。本人のものと確認済みです。ただ、状態が悪く、データの確認は……」

「分かっている。デジタル解析に回してくれ。復旧できるかもしれない」


 そう返すと、灰原はスマートフォンを鑑識に渡して、今度はベランダの手すりへと歩を進めた。

 七階の高さ。フェンスの内側から外を覗き、風を受けながら、手すりに両肘をかけてみる。ぐらつきはない。高さも、成人男性の胸元ほどはある。

 酔った状態で、足元をふらつかせたにしては。

 そのまま身を乗り出し、わざと重心を前にかける。下には数名の鑑識が作業をしており、立ち入り禁止の黄色テープがまだ貼られていた。隣では鑑識が床に番号プレートを置き、ベランダの床を撮影を終え、足早に戻っていく。

 ……無理がある。

 よほど意図的に乗り越えるような動作をしなければ、ここから落ちるのは難しい。バランスを崩したというより、自ら体をフェンスの外に投げ出したと考えるべき角度だ。

 だが――あの日、缶ビールをたった一本。

 それで人は、ここまで危うい動きをするものか?

 部屋に戻ると、リビングの隅で亡くなった彼女の両親が肩を寄せ合うように立っていた。

父親は所在なさげに腕を組み、母親は小さく鼻をすすっている。


「すみません、少しだけ、お時間をいただけますか」


 灰原は、ポケットから小型のメモ帳を取り出しながら近づいた。


「お嬢さんのことで、ひとつお聞きしたいことがあります」

「うちの子は……」


 母親は、そこで声を詰まらせて、手のひらを胸元で握りしめた。

 深い悲しみの中で身を震わせている母親を見て、灰原は、穏やかな声で問う。


「普段から高いところに登る癖はありましたか。あるいは、危ないとわかっていても勢いで動いてしまうような……」


 母親は黙ってしまう。代わって、父親が口を開いた。


「小さい頃は……そういうところも、多少はありました。木登りとか、ジャングルジムとか。お転婆と言われれば、まあ、そうだったかもしれません」

「最近は?」

「高校生になってからは、落ち着いていました。進路のことも考えていたし……」


 父親は言葉を探すように視線を彷徨わせる。


「ただ……あの日は、ビールを一本だけ飲んでいたらしくて」


 母親も小さく頷きながら、


「……もしかしたら、ちょっとはしゃいじゃって……それで、手すりに」


 言葉はそこで途切れた。

 母親はふらつき、崩れそうになる。灰原が肩を抱いた。


「大丈夫ですか」

「はい……」

「もう休んでください……ありがとうございました」


 小さく頭を下げる。

 現場を後にすると、マンションの外では風が強くなっていた。

 遺族は皆、彼女の死を理解できないまま受け入れようとしている。だが、そのために。疑うことを途中でやめてしまっている。そこが、灰原には一番引っかかっていた。



 後日、捜査会議は、あっけないほど短く終わった。


「――現段階では、事件性なし」


 会議室に残ったその言葉が、灰原の耳にいつまでも残っていた。


「事件性なし、か……」


 椅子に腰を落としたまま、誰に聞かせるでもなく呟く。

 やがてゆっくり立ち上がり、そのまま捜査一課の会議室を出た。廊下の窓の外には、曇天が広がっていた。雲は低く垂れ込め、どこか重たく見えた。

 証拠不十分。明確な他殺の痕跡なし。遺族も事故の可能性を受け入れている。それが、上の判断だった。

 灰原はポケットからメモ帳を取り出す。親指で角をぱらぱらとめくった。

 ベランダの構造。転落位置。手すりの高さ。空になった缶ビール一本……。

 破損したスマートフォンのデータにもおかしな点はなく。遺書も見当たらない。

 しかし――そこには、確かに違和感が残っている。

 灰原の脳裏に、あの両親の顔が浮かぶ。


『明るい子だったんです。小さい頃は活発でしたけど……高校生になってからは落ち着いていました』


 その声には、取り繕いでも隠蔽(いんぺい)でもない、本当に「分からない」と思っている人間の曖昧さが滲んでいた。

 灰原はこれまで、何度も嘘を見抜いてきた。何かを隠している人間の目は、必ずどこかで揺れる。だが、あの両親の目には、それがなかった。

 それでも、腑に落ちない。

 本当に事故死なのか。見落としていることはないのか。


「……繋がらないんだよ」


 そう呟いた瞬間、手帳の端がぐしゃりと歪んだ。

 廊下の窓に風が当たり、ガラスが小さく鳴る。

 このまま放っておけば、事件は事故として処理される。誰も疑わないまま、静かに終わる。だが、灰原の中で燻り続けるこの感覚は、それを許さなかった。

 どこかに綻びがある。事故ではないと言える何かが、必ず。

 腕時計に目を落とす。ため息が落ちた。


「……これで打ち止めですかね」


 背後から声がした。振り向くと、さっきまで会議に同席していた若い巡査が歩いてきた。配属二年目の男だ。首を軽く回しながら、疲れたような笑みを浮かべている。

 灰原は立ち止まらず、廊下を歩きながら小さくかぶりを振った。


「事故死で片づけたい奴が多いだけだ」

「でも、ご遺族も納得されてましたし……証拠も、特には」


 その言葉で、灰原の足が止まった。

 廊下の窓の雲が少し切れ、弱い夕光が差し込む。

その光が、灰原の横顔をかすかに照らした。


「〝特にない〟って言葉が、一番気に入らないんだ」


 低く言う。

 横で戸惑った様子の巡査が何か言いかけたが、結局言葉にはならなかった。

 廊下の奥で、電話の呼び出し音が鳴っている。その音を聞きながら、灰原は眉をひそめた。

 エレベーターを使わず階段を下りていく。背広のポケットに収めた小型のメモ帳が、足音に合わせてかすかに揺れていた。

 ――真壁 雪。

 その名が、妙に頭に張り付いて離れない。調査資料には一度だけ出てくる〝同級生〟の名義。事故現場にいて、被害者と血縁関係のない唯一の人物。

 階段を下りる足取りが早くなる。


「ちょっと寄りたいところがある。お前は先に上がっててくれ」


 振り返らずに巡査に告げると、まっすぐある場所へ向かった。

 デジタル解析班の室内は、いつもと同じ静けさに満ちていた。大型モニターの前で若い技術員がラップトップを操り、画面にはファイルツリーとタイムスタンプが並んでいる。灰原はノックもせずに入り、背後に立った。


「解析結果、見せてくれないか」


 若い技術員は軽く肩をすくめる。


「あ……灰原さん」


 透明の袋に入ったスマートフォンを取り出す。


「例のスマホです。まず物理状態からですが、液晶は粉砕、筐体はへこみがありました。ただ基板の損傷は軽微で、通電は確認できました」


 次に、技術員はモニターを操作しながら、抽出済みの項目を淡々と説明する。


「カメラロール、通話履歴、メッセージ、SNSデータ、検索履歴、端末ログ。クラウド同期も有効で、バックアップ先のクラウド上にも同一データが残っています。ファイルはイメージ化して保存済み。改ざんの痕跡はなしです」

「異常は?」

「表面的には特に。最後にやり取りがあったのは〝真壁雪〟というアカウントで、事故の一日前です」

「中身は?」

「会話は短い挨拶や集合時刻の確認、花火の話など、日常的なやり取りばかりです。削除履歴や消去操作のタイムスタンプも確認できていません。逆に、綺麗すぎるくらいです」


 技術員は、さらにモニターを操作しながら、補足した。


「電源断直前のセッション情報も取得しましたが、強い感情や異常な検索はありません。ログの整合性も取れてます」


 灰原は画面を見つめたまま、小さく唸る。


「基板やファームのタイムスタンプも取っているな?」

「はい。端末からはOSレベルのログ、アプリの送受信タイムスタンプ、GPSの最終記録まで抽出してあります。すべて証拠管理番号で保管済みです」


 そこで、技術員は眉を八の字にして、声色を変える。


「灰原さん、もしかしてまた単独調査してますか? あまり、無茶しない方が」

「真壁雪……」


 灰原はその名前を低く繰り返した。響きに意味はない。記録は正確だ。だが、どうにも腑に落ちない。すべてが整いすぎている。死の直前としては、通信に感情の匂いがない。淡白すぎる。

 灰原は手帳に目を落とし、短く付箋を貼るようにメモを取った。


「この名前は追う。何か分かり次第、すぐに俺に直で連絡を」

「分かりました。ですが、本当に〝怪しい〟ですかね?」


 灰原は手帳を閉じると、そのまま背を向けて歩き出した。ドアの前で立ち止まり、視線だけを後ろに向ける。


「ああ。証拠に残らない異変ほど恐ろしいものはない。……そういうもんだ」


 その言葉を残し、静かに部屋を出た。



    4



 普段よりも静かな昼休み。教室に風が通り抜け、誰かのノートがパラリと音を立てる。その小さな音だけが、やけに耳に残った。

 雪は机の上で腕を組み、頬を預ける。

 空いた隣の席。紗英が座っていた場所を、じっと見つめていた。

 二学期の始まりに飾られた白いユリの花は、すでに茶色く滲み、その輪郭を失いつつあった。うなだれた頭が、朽ちかけた命の象徴のようだった。

 あれから――もう、二週間が経とうとしている。

 夏休みの終盤、紗英の通夜と葬儀が行われ、生徒も何人かが参列していたが、棺の中は見せてもらえなかった。

 七階からの転落。

 その姿は、誰の記憶にも耐えられないほど痛ましかったという。

 検視の結果、紗英の血中からは微量のアルコールが検出された。飲んでいたのは、缶ビール一本――人生で、最初の酒だった。

 たったそれだけで身体がふらつき、足を滑らせ、真っ逆さまに落ちていった。そう結論づけられた。

 けれど、ほんの一本のビールで?

 雪は思う。

 あのときの紗英は、ふらついてなどいなかった。意識も明瞭(めいりょう)で、足取りだってしっかりしていた。

 しかし誰も、それに気づいていなかった。

 蒼も。

 紗英の家族も。

 皆、こう口を揃えて言っていた。


「まさか、紗英が酒なんて……」


 疑われたのは、酒を口にした動機ばかり。なぜ落ちたのかには、誰一人として踏み込まなかった。

 最初から、雪のことなど眼中にすらなかったのだ。

 通夜の場で、雪は祭壇に手を合わせた。瞼を閉じても涙は出なかったが、胸の奥にほんの少しだけ、ざらついたものが残っていた。それは、罪悪感とは少し違った。

 蒼が悲しんでいる。そのことだけが、胸に引っかかっていた。

 沈痛な面持ちの蒼の顔。その表情に、紗英との深い繋がりが伝わってきたからだ。

 でも、仕方がなかった。

 あのとき、感情がどうしても抑えきれなかった。蒼が、紗英にだけ向ける特別なまなざし……あの柔らかいまなざしが、あまりにも羨ましくて――憎らしかった。

 だから、落とした。

 そして同時に、自分の中の〝何か〟が目を覚ました気がした。その存在は、むくりと顔を上げ、堂々と自分の中に棲みついた。

 ふと、一輪のユリがぽとりと頭を落とした。力なく、茎の根本から折れてしまった。

 雪はそれを見て、ただ――小さく唇の端で笑った。

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