第二章
1
ホームルームのチャイムが鳴り、蒼が教室に入ってくると、生徒たちは一斉に席に戻った。ざわついていた空気が、一瞬で静まる。黒板の前に立った蒼は、手にしたプリントとタブレットを教卓に置き、淡々と話し始めた。
「えー、来週の校外学習についてだけど、班決めが終わったから発表するぞ」
再び、教室がざわついた。
場所は水族館。誰と同じ班になるのか。それは生徒たちにとって一大事だった。当日をどれだけ楽しめるかは、その組み合わせにかかっているからだ。できれば、気心の知れた友達と組みたい。そう願うのは、皆同じだろう。
「班の人数は四人。先生がバランスを見て組んだから、文句は受け付けません」
あちこちから「えー……」という不満の声が漏れた。
「はいはい、じゃあ言ってくぞー」
蒼は、タブレットの画面に視線を落とす。決められた班を順に読み上げていった。
「一班、篠原、平田、岡田、渡瀬。二班、……」
雪はその声を、どこか上の空で聞いていた。
まだ頭がぼんやりしていて、あくびが自然と漏れる。机の上で手を組んで顎を乗せながら、うとうとしていた。
「四班、真壁、高野、三島、乾」
ぴしりと空気が張ったように、体が反応した。上体を起こし、思わず顔をしかめる。
最悪だ。よりにもよって、乾と同じ班?
芽火と関わると碌なことがない。人の懐に勝手に入り込んできて、土足で踏み荒らしていくようなやつだ。距離という概念が欠落している。だが、その名前の並びに、ひときわ明るく弾ける声が教室に響いた。
「やった! 真壁くんと一緒!」
嬉しそうにする芽火。そのテンションの高さが、教室の空気に、合っていない。
雪は、息を吐いた。
やっぱり、当日は思いやられそうだ。
机に突っ伏して、もう一度、深く息を吐いた。
読み上げを終えた蒼が、再び前を向いて話し出した。
「当日は班ごとに行動してもらう。ルートは各班で自由に決めていいけど、全員の意見をちゃんと聞いてな。無理やり決めたり、誰かを置いてったりはナシ。イルカショーには全班参加。時間や集合場所は、当日しおりを渡すから確認するように。先生たちも館内を巡回するから、困ったときはすぐ声をかけて。勝手な判断は禁止だ」
ふと気配を感じて後ろを振り向くと、案の定。
「ね、真壁くん、楽しみだね!」
芽火は満面の笑顔で、こちらを見つめていた。
その無邪気な声に、笑顔を返そうとしてみたが、頬の筋肉はこわばり、うまく動いてはくれなかった。
当日は快晴だった。天気予報ではずっと雨マークだったが、この日だけ晴れという奇跡が起きた。一学期の締めくくりの行事でもあり、誰もが心配していたが、イルカショーもどうやら無事に見られそうだ。
高校の駐車場には、いくつもの大型バスが並び、クラスごとに一号車、二号車と割り振られていた。
「B組はこれなー! 二号車だぞ、間違えるなよー!」
蒼が大きな声で指示しながら、生徒たちをバスへと誘導していく。引率教員が手際よくしおりを配りながら、生徒の動きを整理していた。
バスに乗り込むと、生徒たちは言われた通り班ごとに着席していく。雪は窓際、左前から二番目の席に腰を下ろした。ほどなくして、隣には芽火の姿があった。
なぜ、お前なんだ。
内心、頭を抱える思いだった。
窓枠に肘を乗せ、外を見ながら誘導に忙しそうな蒼を目で追う。
蒼が先生をしている姿は、どこか好きだった。背筋が伸びていて、生き生きとしていて。
……ああ、やっぱり似合ってる――そう思った。
「ねえ、真壁くん」
唐突に、芽火が話しかけてくる。
「……なんだよ」
「芹沢先生って、やっぱりカッコいいよね」
「急にどうした」
「いや、前から思ってたんだよね。背も高いし、ビジュもいいし、スーツ姿とかマジでイケてるっていうか。結構、女子に人気あるんだよ。しかも運動神経も抜群! バスケ部でインターハイ行ったって聞いたし」
「……そうみたいだな」
興味なさげに窓の外に目を向ける。しかし、芽火はそんな態度を意にも介さない。
「やっぱカッコいいなー。ちょっとアプローチしてみようかな」
その言葉には、さすがに反応せざるを得なかった。彼女の方を振り向き、眉をひそめる。
「は? 何言ってんだよ。先生にとか……ダメに決まってんだろ。つうか、絶対相手にされねえよ」
「なんでそんなことわかんの? 先生だって男でしょ? うまく誘えば、他の男と同じだって」
「他の男って……」
芽火はにやっと笑い、雪の太ももに手を滑らせる。
「たとえば、こういうふうにさ――」
ぞわりと、鳥肌が立つ。
「やめろ! 冗談でもそんなことすんな!」
反射的に大声を上げると、芽火は驚いたように手を引っ込めた。
「ご、ごめん……そんな怒らなくても……」
「とにかく、そういうのは他のやつにやれ」
芽火は、口を尖らせながら「はいはい」と棒読みで応え、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「それと……」
雪は、ぐっと言葉に力を込める。
「芹沢先生だけは、やめとけ」
「……なんでよ」
「いいから」
「なに、ムキになってんの? なんか変だよ、真壁くん」
芽火はきょとんとした顔で笑った。
「べ、別にムキになってねえし……」
「ふーん?」
芽火はスマートフォンへ視線を戻した。
その無遠慮さが、雪の神経を逆撫でしてくる。
本当に、この女は油断ならない。もし蒼に手を出すようなことがあったら――
脳裏をかすめた、ある悪い考えを振り払うように、外に目を向けた。
じめついた心を吸い取ってくれるような、鮮やかな蒼穹が広がっている。久しぶりに見た雲一つない空が、雪のざわついた心をわずかに宥めてくれた。
蒼は最後に点呼を取り、生徒が全員揃っていることを確認すると、運転手に声をかけた。
バスは静かに動き出す。
蒼はひとつ前、最前列の席に腰を下ろした。それが、唯一の救いだった。背もたれ越しに感じる蒼の存在。それだけで、心が落ち着いた。
バスはゆっくりと街を抜け、目的地の水族館を目指して進んでいく。窓の外の景色は、いつの間にか知らない町並みに変わっており、なんだか、冒険に出たようなワクワク感が胸をくすぐった。
「ねえ、先生」
芽火が、前席にいる蒼に声をかけた。
「ん? どうした。もしかして、気分でも悪いのか?」
「違うの。一緒に写真撮ってほしくて」
「ここで? 席立つのは危ないからダメだ」
「こうやって撮れば平気だよ」
芽火は蒼の腕を無理やり引き寄せ、頬を寄せた。
「先生、笑って」
パシャリ。シャッター音が響く。
その一部始終を、横目で睨みながら、無言を貫いていた。
保存された。データとして。芽火のスマートフォンの中に……。
雪はゆっくりと瞬きをした。
バスは水族館の駐車場に到着し、生徒たちは順番に外へ降りていく。
「はい、B組は降車したら班ごとに並んでー!」
蒼の声が、熱気の立ちこめるアスファルトの上に響いた。朝よりも陽射しが強く、真夏がもうすぐやって来ることを知らせるようだった。
「じゃあ、一班、二班……順番に確認するぞ」
雪は芽火たちと同じ班に並びながら、ズボンの両ポケットに手を入れた。
点呼を終えると、蒼は水族館の入り口に全員を集め、手短に説明を始めた。
「これから班ごとに自由行動になります。ただし、必ず時間は守ること。イルカショーは十三時から始まるので、それまでにこの場所に戻ってくるように。迷子になった場合は、この番号に電話してな」
館内地図と緊急連絡先の書かれたプリントを配っていく。
「じゃ、班ごとに出発していいぞ。くれぐれも、はしゃぎすぎないようにな」
その一声を合図に、生徒たちは色とりどりの流れ星のように、水族館の中へと散っていった。
雪は小さくため息をついてから、芽火たちのあとを追いかけた。
館内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌に心地よかった。照明は落とされ、辺りはほの暗い。そこかしこに設置された水槽が淡い青に発光しており、まるで水の中に迷い込んだような錯覚すら覚えた。
雪は、その幻想的な世界に思わず目を奪われる。
展示コーナーには、大小さまざまな魚たちが泳いでいた。色とりどりの身体を揺らしながら、各々が好き勝手に進む姿はどこか人間のようにも見える。その泳ぎ方には個性があり、よく見ると、感情のようなものさえ宿っているようだった。中でも、魚たちとともに海中を歩くような錯覚を覚えるトンネル水槽は圧巻だった。だが、耳障りな声が、その静寂を破る。
「ウケる!」
「見てこの顔!」
芽火は、男子たちと何かにつけて大声で笑っていた。雪は彼らから少し距離を取り、水槽の前を静かに歩く。静寂の青に、ひとり溶け込みながら、群れから離れた魚のように。
正午になり、水族館の館内にある広いフードコートが一斉ににぎわい始めた。班ごとに昼食を取るように指示されてはいたが、何を食べるかまでは自由で、生徒たちは思い思いの店へと散っていった。
辺りには、揚げ物の匂い。甘い香り。ソースの焦げた匂い……様々な匂いが混ざり合い、生徒の笑い声が天井にまで響いていた。
賑やかな場所は、一人でいることが好きな雪にとって苦手な空間だった。
同じ班の男子が、空いた席を確保しようと駆けていく。少しして、「芽火、雪、こっちだ!」と手を振る声が遠くから飛んできた。見れば、大きな窓際のテーブルをゲットしたらしい。
雪は、店先にぶら下がった提灯の文字に惹かれて、なんとなくラーメンを選んだ。芽火は、つややかな卵の山に、ケチャップのハートが描かれているカラフルなオムライスを受け取っていた。
前に座ってきた芽火が、そうそうに話しかけてきた。
「真壁くんはラーメンなんだ。私はこの映えそうなオムライスにした」
「へえ。……うまそう」
芽火はさっそく写真をパシャリ。
そんなやり取りの最中、芽火はふと首を傾けて周囲を見回した。
「芹沢先生、いないかな」
その名を口にした瞬間、胸の内に波が押し寄せた。
「いたいた。あそこ!」
芽火が人差し指を突き出す。指した先に、蒼がいた。何人かの生徒に囲まれ、屈託のない笑顔を浮かべている。
「やっぱ先生、人気だよね。呼んだら、ここで一緒に食べてくれるかな」
「……無理だろ」
雪は短く返し、麺をすする。
「ひとつ空いてる席あるし、声かけてみよ」
芽火は大きく手を振りながら声を投げた。
「せんせーい! ここ空いてますよー! 一緒に食べましょー!」
蒼がこちらに気づき、歩み寄ってくる。
「いいのか? 一緒に座っても」
班の生徒たちは口々に「もちろんです!」「嬉しい!」と歓迎の声を上げた。ただひとり、雪だけが答えていなかった。
全員の視線が、こちらへ向く。
「真壁、いいか?」
「……はい。どうぞ」
返事をしながらも、喉の奥に棘が刺さったような感覚が残った。
蒼が芽火の隣に腰を下ろすと、二人は横並びになった。
視界に、蒼の肩と芽火の肩がぴたりと重なる。
あの距離感。
二人の会話に、鼓膜がじんわり痛くなる。
「先生もラーメンなんだ。真壁くんと一緒じゃん」
芽火の何気ない言葉に、箸が止まる。
蒼は笑いながら、
「俺、ラーメン好きでさ。学生の頃はほぼ毎日食ってた」
「へー! 先生って意外と庶民的。じゃあ、今度一緒に行こ?」
「いやいや、生徒と外食なんかしたら、俺クビになるぞ」
「そんなの、誰にもバレなきゃいいでしょ?」
芽火はそう言いながら、無邪気な笑顔でウインクをし、蒼の肩に軽く触れた。わずかに顔を引いた蒼の仕草が、はぐらかしではなく、まんざらでもないように見えた。
雪は無言のまま、冷めかけたスープに箸を落とす。二人のやり取りが、耳障りで仕方なかった。
「そういえば、真壁くんって先生のこと、よく見てるよね」
「……何の話?」
「さっきのバスの写真。ほら、これ」
芽火にスマホ画面を突きつけられる。
そこには、蒼と芽火が並んで写ったツーショット。その後ろに、雪がこちらを睨むような表情で写っていた。
「ちょっと見てこれ。真壁くん、すっごい顔してる。マジで睨んでるっぽくない?」
芽火は笑いながら、蒼にもスマートフォンを向けた。
「え、こわー。先生、これ、怒られてますよ?」
蒼はわずかに眉をひそめながらも、「まあ、偶然だろ」と笑って受け流していた。しかし、雪の心はもう限界だった。
「……消せよ」
芽火が瞬きをする。
「なにを?」
「その写真」
芽火を睨みつける。フードコートのざわめきが、一瞬、遠のいた気がした。
雪は立ち上がり、食べかけのラーメンを乗せたお盆を持ち上げると、その場を離れた。
胸の奥で、焦げたような匂いがした。感情の火が喉元まで昇ってきて、息が苦しい。あのままいたら、自分の中で何かが壊れてしまう――そんな予感があった。
2
大きな声で、引率のひとりでもある女教師が「イルカショーが始まるので、外へ移動してください」とアナウンスしていた。
「真壁くん、行くよー! イルカショーだって!」
遠くの方から芽火が呼びかけている。
なんて、美しいんだろう。
雪は、クラゲ水槽をじっと眺めていた。
まるで夢の中にいるようだった。暗がりの水槽の中で、儚げに揺蕩う光のかたまりに目を奪われていた。
「まだいたのか」
時間の感覚が薄れかけたとき、背後から声がした。振り向くと、そこには蒼がいた。
「もうすぐイルカショー始まるぞ」
周囲を見渡すと、すでに生徒たちの姿はどこにも見当たらなかった。
「すみません、ちょっとクラゲを見るのに夢中になってしまって」
「そういうとこ、真壁らしいな」
蒼もクラゲ水槽に目を向けた。
手すり越しに肩がわずかに触れる。それだけで胸が跳ねた。誰の目にも映らない、偶然のような距離――それだけで、ぎゅっと胸の奥が掴まれ、抑えがたい感情が溢れてくる。
「クラゲがどうして光を放っているのか知ってるか?」
不意に蒼が問いかけてきたが、改めた声で、
「あ、でも、入学式の時に持ってた図鑑、よく見てたんだよな。なら知ってるか」
「いえ、実は、写真ばかり見ていて、解説とかはあまり読んでないんです……」
蒼が少しだけ笑った。
「そっか。でも、図鑑ってそういう楽しみ方もあるよな」
「すごく、癒されます」
雪は、水槽のガラス越しに映った蒼の横顔を、ちらりと見た。
「じゃあ、教えるけど、実際にはクラゲは、自分で光を出してるわけじゃない。あいつらは無色透明で、人の目にはほとんど見えないんだ。だからこうして、水槽に人工の光を当てる。視認できるようにね」
蒼は、水槽の奥を指さした。
「あそこにいる虹色のやつ、見えるか? あれはクシクラゲっていうんだ。櫛板っていう器官があって、そこが細かく動くことで光を反射してる。プリズム効果ってやつだな。だから、まるでネオンサインのように光るんだよ」
「やっぱり、先生はクラゲに詳しいですね」
雪は水槽越しに微笑むが、その直後――ほんの一瞬だけ、はっとする。
「まあ、クラゲに限らず、生き物は昔から好きだった。特に、水の中の生き物がね」
ゆらゆらと揺れる光の中で、蒼の横顔と、その先にあるクラゲを見つめるまなざしが、まるで――愛おしいものを慈しむように見えた。
雪は、胸の奥がわずかに痛むのを感じながら、水槽に目を戻す。
「そのまなざしが……僕だけに向けばいいのに」
「ん?」
つい出てしまった独白が聞かれてしまったのかと、慌てて話を変える。
「いや、ただ……クラゲって、無色透明だし。なんだか、魚と違って感情がないように見えますよね」
蒼はしばらくクラゲを見つめたあと、静かに口を開いた。
「たとえ感情がなくても……誰かがその存在に気づいてくれるなら、ちゃんと意味はあると思うよ」
その言葉に強く心を揺さぶられる。クラゲを見ながら小さく呟く。
「僕はクラゲになりたいです」
「クラゲ、か?」
「先生に……そんな風に見つめられたいから」
蒼の瞳が揺れた。
急に前髪をかき上げる仕草すら、どこか落ち着かないようだった。
雪は息を飲みながら返事を待った。
やがて、蒼は喉の奥で何かを選ぶように、声を漏らした。
「真壁……それは……」
「ごめんなさい。いつも先生のこと困らせてますよね」
「別に……困ってるわけじゃない。でも……」
言葉は、そこで濁った。
雪は、わずかに声を強めて訊く。
「困ってないなら、いいってことですか?」
返ってきたのは、ほんの少しだけ焦ったような声だった。
「いや、つうか知ってるか? クラゲには強い毒を持った種類もいるんだぞ?」
「……毒?」
「ああ。中でも、オーストラリアの海岸にいるキロネックスってやつは、刺されたら最短で一分以内に死ぬこともある。『殺人クラゲ』って呼ばれてるくらい、危険だ。あそこのアカクラゲも、長い触手に毒の針を持ってる。死んでても、触ると危ないんだ」
雪はその時、昔の記憶を思い出していた。
***
小さい頃。よく蟻を潰したり、クモの巣に絡まった蝶の羽を、ちぎるようにして引き裂いた。カマキリの手足を、ハサミで丁寧に切り落としたこともあった。命って、どこにあるんだろう。どこまで壊せば、消えるんだろう。それを確かめるみたいに、無邪気なふりをして遊んでいた。血が流れなくても、壊れてしまうものがあると知ったのは、あの頃だったかもしれない。
自分の中には、今もあの頃の〝なにか〟が残っている気がする。時おり、ひょっこりと顔を出すんだ。誰かを独り占めしたくなる衝動。壊してしまいたくなる欲望。綺麗なものに惹かれるとき――それと同じくらい、壊したくなる本能のようなものが喉元までせり上がってくる。
怖い。
けれど、それが自分だとも思う。
***
雪は、遠くを見つめたまま呟く。
「綺麗なものにはやっぱり刺があるんですね」
「たしかに、そういう生き物もいるな」
蒼いに視線を向ける。
「でも、僕は……先生にとって危険じゃないです」
蒼は黙って雪を見つめたあと、ふっと息を吐いた。
「お前は危険なんかじゃない。誰にとっても」
肩をそっと叩かれる。
「ほら、もう行くぞ。先生も怒られちまう」
雪は頷き、もう一度、美しく光を反射するクラゲに視線を向ける。青白い光に照らされて、透きとおるその見た目が、まるで感情を持たない魂のようにも見えた。
イルカショーは青空の下で始まっていた。ステージには何人かの調教師と司会者がマイクを片手に持ち、オープニングの挨拶をしていた。
プールのような匂いが鼻をかすめる。ステージは想像以上に大きく、観客席はそれを半分囲むような形で、せり上がっている。肌に感じる空気は水分を多く含んでいて、頬をなでる風まで瑞々しかった。
イルカを生で見るのは初めてだった。艶やかな流線型の体が光を反射して、美しくきらめいている。並んだ四頭はお行儀よくステージに待機していて、その姿に「なんて忠実で健気なんだろう」と、思わず見入った。
蒼は腰に手を当てながら、入口から席を見渡していた。空席があるか確認しているようだ。
「……あそこがまだ空いてるな」
後ろから二番目の端、やや日陰の席にぽつんと空きがある。
「もうショーが始まってるから、迷惑にならないように、あそこに座ろう」
蒼はそう言って、階段を上がっていく。雪も小走りにあとを追っていった。
プラスチック製でできた硬めの椅子に座る。
「思ったよりも段差があるから、後ろの方も意外と見やすいな」
「はい……すごく」
しかし、雪はそれどころではなかった。本来なら、騒がしい班の連中と並んで見ているはずだったイルカショー。しかし、自分がはぐれたことで、今こうして蒼と並んで座っている――僥倖の極みと言ってもいいくらいだった。
イルカたちが、水の中でくるくると踊り。跳ね。輪の中をくぐる。ボールを使ったアクションを見せるたび、観客席から拍手が湧き起こった。
きっとイルカたちはこの日のために、毎日厳しい練習にも耐えてきたのだろう。
一斉にイルカがジャンプする。大きな水しぶきが観客席のすぐそばまで飛んでくる。歓声が青空に響いた。
「先生はイルカも好きですか?」
「ああ、大好きだ」
蒼はイルカショーを見ながら、どこか子供のように目を輝かせていた。
「イルカはとても知能が高いんだ。情報処理能力や、仲間とのコミュニケーション能力にも優れてる。海で溺れた子供を助けたって話もあるんだ。とても優しくて、勇敢な生き物なんだよ」
青く透き通る水の中を泳ぐイルカを見つめる。
ふと、口元がゆるんだ。
「先生みたいですね」
その言葉に、蒼は小さく首を振る。
「……俺は、そこまで勇敢じゃないよ」
「勇敢ですよ。だって、僕を助けてくれたじゃないですか」
蒼の横顔を見つめる。
彼は視線を落とし、どこか遠くを見るように目を細めた。
「あの時は……俺も無我夢中だったな」
その声は、わずかに湿っていた。
雪は黙ってうなずき、華麗にダンスをするイルカの姿を目で追いながら、また問いかけた。
「イルカに、乗ったことはありますか?」
その突飛な質問に、蒼は驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑った。
「さすがにそれはないけど……いつか、そういうのも体験してみたいな」
笑顔を見せてくれる蒼を見つめると、気持ちがいっぱいになる。こんな表情を、もっと見たい。できるならずっと隣で、いろんな顔を知っていきたい――そう願ってしまう。表情ひとつひとつを記憶のシャッターにいつまでも残しておきたい、そんなことを考えてしまう。
ぼんやり見つめていると、蒼が振り向いた。
「ん? どうした?」
「どうもしません」
「なら、俺の顔じゃなくてステージを見ろ。イルカって、本当にかわいいよな」
「僕よりかわいいですか?」
それを聞いた蒼は「はっ!?」と、声が上ずる。
「先生のその反応も可愛いです」
「ばっ……馬鹿言うな……。生徒は、俺にとってみんな可愛い教え子だ」
「へえ、そうなんですね」
口を尖らせて見せると、蒼がくすっと笑った。
「なんか、不満そうだな」
「だって……」
「わかったよ。お前はその中でも、特別可愛いよ」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
嬉しい。
たしかに、嬉しい。けれど――どこか、浅い。〝生徒〟という枠の中での特別。それ以上でも、それ以下でもない。
水槽の内と外。
ガラス越しに見つめられるクラゲのように、触れられないまま、ただ光を当てられているだけだ。
「でも、僕は特別なんですね」
「だって、そう言わないとまた子供みたいに拗ねるだろ?」
「ひどいな……。どうせ、先生から見たら僕はまだ子供ですよ」
「ほら、また拗ねる。お前は本当に世話が焼けるな」
蒼は笑いながら、雪の頭をぽんと軽く叩いた。
胸の奥がざわめく。体温が、そこからじわりと広がっていく。
でも、違う。違うんだ。
こんな触れ方じゃない。欲しいのは、もっと――自分だけに向けられる、確かな熱だ。
3
雪はひとり、淡い光に照らされた水槽をぼんやり眺めていた。
ふと、ある違和感に気がつく。耳に、喧騒が途切れたような静けさが忍び込んだ。その静寂に不安を覚え、辺りを見渡す。
「あれ、みんな?」
見ると、家族ずれや腕を組みながら歩くカップルばかりで、先生も生徒の姿もなかった。見知らぬ人たちが通り過ぎていく中、雪は焦り始める。
スマートフォンで時間を確認すると、時刻は十五時を回っていた。予定表と照らし合わせれば、ちょうど帰りのバスが出発する時刻だった。
血の気が引く。
慌てて出口を探すが、現在地がわからない。加えて水族館の館内は入り組んでいて、回遊式の構造がまるで迷宮のよう。自分がどこをどう進んでいたのかも思い出せない。思考の中で「まずい」という言葉が何度も何度もリフレインする。迷子になったせいで全員の足を引っ張ったなんて知られたら、からかいの標的になる。あいつまたやらかした、と笑われる。いや、もっと陰湿に。いじめの火種にだって、なりかねない。
水族館の中を走り回っている中、遠くの方から声を投げられた。
「真壁!」
振り向くと、 息を切らしながら蒼が駆けてきた。
「……先生」
「何やってたんだ。もう集合時間、だいぶ過ぎてるぞ」
頬ににじんだ汗が、彼の焦りを物語っていた。
「ごめんなさい、迷っちゃって……」
「緊急連絡先の書かれたプリント、持ってただろ?」
「そうだった……」
蒼はため息をひとつつき、
「たく、お前ってやつは……」
「みんなはどうしてますか?」
「先に帰ってもらった。俺が責任をもって真壁を連れて帰ると、他の引率には伝えてある」
聞くなり、雪はこうべを垂れた。
「また、迷惑かけちゃいましたね」
「まあ、担任の仕事だ。生徒を無事に帰すのも俺の役目だよ。だけどな……心配は、させるな」
まだ顔を上げられなかった。
「もういい、帰るぞ」
優しい声色がふっと降りてくる。
蒼は出口がある方に向かって歩き出すが、その背中を咄嗟に引き留めた。
「あの、ちょっとだけ水族館の中回りませんか?」
「ん?」
蒼は立ち止まり、後ろを振り向く。
「もう、みんな帰ったんですよね。なら、誰にも……気づかれませんよ」
「……いや、そういうわけにはいかないよ」
雪はわずかに視線を落としたあと、静かに口を開いた。
「先生と……話したいことが、あるんです。お願いです」
しばらくの沈黙。蒼は悩ましげに眉を寄せてから、頭をかいた。
「わかった。少しだけな」
その瞬間、思わず笑みが溢れる。
蒼の表情にも、困ったような、でもどこか柔らかい笑みが浮かんでいた。
淡い照明を当てられた神秘的な空間を、二人はゆっくりと肩を並べながら歩いた。そんな中、最初に沈黙を破ったのは蒼だった。
「さっきもここ見たな」
「はい、でも、全然飽きなくて」
「真壁は魚が好きなんだな」
「はい、神秘的だし、とても綺麗だ。でも……」
「でも?」
水槽の中を見つめながら、吐息を漏らす。
「なんだか、悲しそうにも見えるんです。自由に泳ぎ回ってるようで全然違う。魚からしたら、ここは監獄のような所なんだろうなって」
「たしかに、人間の娯楽に使われてるだけだからな……」
雪は手すりに視線を落とし、指先でなぞるように触れる。
「でも、閉じ込められた感覚。僕にもちょっとわかる気がするんです」
蒼が、そばに立つ。
「僕の中も、この水槽みたいな感じです。毎日、何かに縛られて、言いたいことも言えず、したいこともできなくて……小さな水槽の中で、じっと我慢してる感じがするんです」
手すりを掴み、ぎゅっと力を込める。
「そうか……」
「大人になったら、自由になれるんですかね」
笑顔を蒼に向ける。しかし、唇の端が引きつってしまう。
「ああ、いつかは自由に泳いでいける日が来ると思う。でも、それは今の自分自身にもかかってる」
「今の自分?」
蒼は水槽を見つめたまま、しばらく言葉を探し、それから続けた。
「夢を見つけて、それに向かって勉強をして、経験値を上げていく。そういった準備期間が今なんだよ」
「準備期間……」
「そうだ。お前はまだ何にだってなれる。未来は自分次第でどんな形にも変えられる。だから、今は耐える時なんだ」
雪は、唇を強く結んだ。
「真壁は夢とかあるのか?」
「夢か……今はまだ漠然としててわからないです。でも、ひとつだけ叶えたいことはあります」
「なんだ?」
「先生を僕だけのものにしたい」
「おい、真壁……」
「分かってます。先生には彼女がいますもんね……」
「……」
その沈黙は、拒絶か。言い訳か。それとも……。
「また困らせてますね。でも、分かっていても、気持ちが抑えられないんです……自分でもガキみたいなことしてるって、ちゃんとわかってます」
「いや……」
蒼は躊躇いがちに、うなじに手を置く。
「生徒にこんな話するのもどうかと思うんだが……あの日、ほら、偶然駅前で会っただろ?」
「はい」
「あのあと、すぐ彼女とは別れたんだ……」
「え!?」
「もともと、別れを切り出すつもりだったんだ。二年前にお互い教員になって、彼女の勤務先が地方になってな。それからずっと遠距離なんだ。この前も、会うのは半年ぶりだった」
「そうだったんですか……」
「あいつの気持ちが、俺から離れていくのがわかったんだ」
蒼は水槽の中を泳ぐ魚の群れに、視線を落とした。
「やっぱり難しいよ。近くにいないってのは。遠ければ遠いほど、心も離れてく……」
「ありがとうございます」
「え?」
蒼は雪の顔を見て、何回か瞬きをする。
「そんな大事なこと。僕に話してくれて。なんだか特別な存在になれた気分です」
「本当に、お前は大袈裟だな」
「そうですか?」
雪は笑いながら、先へ歩き出した。
「なあ……」
蒼に短く呼び止められる。
向き直った雪は、笑みを浮かべた。
「僕のわがままに付き合ってくれてありがとうございます……そろそろ帰りましょうか、先生」
蒼の手がふいに前へ差し出される。腕を掴まれた。
「先生?」
蒼は何かを言いかけて、飲み込んだ。視線が、水槽の青へ逃げる。
「……いや、帰るべきなんだろうけど」
深く息を吐く。
「え……?」
「い、いや。ほら、まだ見てないところもあるだろう? 勉強がてら、な」
「どうしたんですか?」
雪は首をかしげる。
「ん?」
「なんか、先生……ちょっと変ですよ?」
「は? 変じゃない。別に、なんでもないから」
そっけない返事の裏で、蒼の耳がわずかに赤く染まっているのを、雪は見逃さなかった。
「……本当に変じゃないですか?」
「当たり前だろ。……とにかく、もう少しだけ回るぞ」
「はい」
雪は肩をすくめ、わずかに微笑んだ。
気になっていた彼女の存在は、もう消えた。胸の奥に引っかかっていたものが、すっとほどけた。
隣を歩く蒼に視線を向ける。
満足が、胸の奥に広がっていく。
帰りの電車の中、二人は並んで座っていた。窓の外はゆっくりと茜色から群青へと移り変わっていく。
雪は流れていく景色を、ぼんやりと眺めていた。
ピンク色に染まる雲。燃えるような夕日。その下では、制服姿の学生が自転車をこぎ、主婦たちが買い物袋を提げ、犬を連れた老人が歩道をのんびり歩いている。灰色のビル群、その合間に混ざる色とりどりの戸建て住宅。そして空高く伸びるクレーンが、新しい建物の骨組みを積み上げていた。この一瞬の哀愁、刻々と過ぎていく日常の断片が、雪はなぜか好きだった。
そして、今はなによりも、特別な時間だった。
蒼が隣にいる。
肩がわずかに触れただけで、胸の奥が熱を帯びてくる。蒼の太ももに置かれた大きな手。今すぐその指先に、触れてみたかった。
電車が駅に止まるたび、乗客がどっと乗り込んできて、いつのまにか立ち客が車窓の外の景色を遮っていった。おまけに、目の前に立った中年女性の香水が強くて、雪は思わず顔をしかめた。
ふと隣を見ると、蒼が電車の揺れに身を任せるように、ゆらゆらと揺れながら眠っていた。
その寝顔を、静かに見つめてみた。
いつもは凛とした教師の顔。それが今は、どこか無防備で、わずかに幼くみえた。
唇が自然とほころぶ。
空気が揺れる。
蒼の頭が雪の肩にそっと倒れかかる。
心臓が大きく跳ねた。
彼の呼吸が、体温が、すぐ隣にあることに今でも信じられなかった。
「……先生?」
かすかに名前を呼んでも、蒼は眠ったままだ。安心しきったその表情に、胸が締めつけられる。
乗り換え案内を見ると、目的地まではまだ八駅もあった。
雪は、この一時だけでもと、静かに目を伏せ、蒼の頭にそっと自分の頬を添えた。




