第一章 後編
1
早いもので、高校の入学式から三ヶ月半が経とうとしている。日差しはもう、真夏のものだった。グラウンドの端に設けられた屋外プールは、陽を浴びて水面がぎらぎらと揺れており、更衣室からは、男子たちの賑やかな声が絶えず聞こえていた。
「よっしゃ、今日はクロール勝負な!」
「バタフライはお前の負け確だろ!」
肩をぶつけ合いながら、彼らは順番に水に飛び込んでいく。水音が弾けるたび、若い肉体が陽光を反射し、眩しく光った。
雪はその輪には加わらず、ひとり、水に足を浸したまま、ぼんやりと眺めた。
周りが男女を意識し始めたのは、中学生に入った頃からだと思う。
なぜ、そんなに気になるのだろう。
雪は、自分とは別の世界に住む生き物を、ただ、ガラス越しに眺めるように傍観していた。
今も、根っこの部分は変わっていない。
けれど、蒼に抱くこの想いは一体なんなのかと、自分に問いかけることがある。最初は、ただ自分がそういう〝性質〟だからだと思っていた。
しかし、違った。
自分が欲しかったのは、蒼という〝人間〟そのもの。 誰にも見せない顔が見たかった。自分にだけに見せる仕草、言葉、まなざし――そのすべてを、独り占めしたかった。
僕だけのものにしたかった。
たった一人でいい。そう思えた相手が、蒼だったのだ。
ふいに、水面に落ちた誰かの跳び込みの飛沫が、はらりと頬を打った。
「よし」
小さく息を吐き、恐る恐るプールの中へと足を踏み入れる。水温は思ったよりも冷たく、足首が沈むたびに、心臓がわずかに締めつけられるような感覚があった。それでも、ゆっくりと水の中を歩いて、陽斗のいる場所まで向かおうとした――が、しかし。
身体がふっと沈んだ。
バランスが崩れる。水面下で、何かが一気にほどけるように記憶が溢れ出した。潮の香り。春の冷たい海。喉を焼くような海水。呼吸が奪われるあの感覚。頭がぐらりと揺れ、背後へ引き込まれる。視界が一気に傾いたかと思うと、頬が水面に触れ、次の瞬間には顔ごと水中へ。ずるずると沈んでいくような錯覚。上と下の区別がつかない。自分が今、どこにいるのかもわからず、パニックが全身を襲う。
喉に水が入りかけ、咳き込む。
手足をめちゃくちゃに動かしても、水を掻く感覚が掴めない。水中から見上げた太陽がゆらゆら揺れていた。それを必死に掴もうと、手を前に突き出した。
助けて。
先生……助けて……。
意識の輪郭が、遠のいていく。
すると、春の海。あの時の記憶が、まるでフィルムが回り出したかのように、鮮明に蘇ってきた。
***
防波堤から足が離れた瞬間、春の冷たい海に全身が浸かった。 口の中がしょっぱい。海水が喉の奥に入り込み、息ができなくなる。沈まないように必死で手足をバタつかせても、波は容赦なく、何度も水底へと引きずり込もうとする。
「だ、誰か……。た、助けて……」
死ぬつもりなんてなかった。ただ、海の中に光る何かを見つけた気がしたんだ。それを見ようと前のめりになりすぎ、態勢を崩してしまった。
まだ、中学に上がったばかりだった。
体に合っていない大きな制服。履き慣れない新しい靴。桜に囲まれた校舎と教室に響くチャイムの音。そしてまだ見ぬ、いろんな出会いに胸を弾ませながら、入学したあの日。
自分の下駄箱を探し、上履きに履き替える。長く続く廊下の向こうに春の光が差していた。廊下の冷たさが、少しだけ背筋を伸ばす。
教室に入ると、生徒たちの顔はどれも緊張にこわばっていた。その空気が胸の奥に染み込んでくる。しかし、不安よりも期待の方が、ほんの少しだけ大きかった。友達というものも欲しかったし、吹奏楽部にも入ってみたかった。
雪はピアノを四歳の時から習っていて、今はショパンの《雨だれの前奏曲》を練習中だった。この曲は、今まで弾いてきたどんな曲より好きだった。
全部、弾けるようになりたかった。いろんな経験をしてみたかった。
ありきたりで平凡な言葉だけれど、〝明るい〟といわれる毎日が、いつかは自分にも訪れると――今の今まで疑いもせず信じていた。
なのに……。
この状況は聞いていない。
海水が否応なく顔にかかり、息を吸うたびに喉を焼いた。朝方の春の海に、きっと人なんていない。こうして、助けを求めても無駄なことはわかっていた。でも、まだ死にたくはなかった。何も始まってすらいない、十二歳の小さな体は、必死に生きようとしていた。
そんな時、視界の先――防波堤から、人影が躊躇なく海に飛び込むのが見えた。波に逆らってクロールしながら、近づいてくる。
そして、雪の小さな身体を抱き寄せた誰かが、こう言った――「大丈夫か」。
その声が耳の奥で膨張しはじめたとき、視界は霞み、意識は遠のいていった。
気づけば、咳き込んでいた。胸を押さえ、顔を歪める。
「もう大丈夫だ。今、救急車も呼んだからな」
細目を開けると、男性の顔が視界に映る。額に張り付いた前髪。顎から滴る水。自分を見る彼の表情が、今も忘れられない。朝方の青白い光に照らされた姿が、キラキラと輝いていた。
息も絶え絶えに震えていると、彼の上着を全身に巻いてくれた。とにかく、「大丈夫だ」「安心しろ」そんな言葉を何度も使って、安心させてくれた。
程なくして、救急車が到着すると何人かの救急隊員が駆け寄ってくる。その中の一人が、彼に事情を聴いているようだった。
雪は担架に乗せられる。
「な、名前……」
運ばれようとしたとき、喉の奥に力を入れて必死に声へと変えた。
彼はそれに気づき、近寄ってきた。
「どうした」
「名前を教えて……」
「――蒼、芹沢蒼だ」
「あおい……」
離れていく彼に手を差し出し、「ありがとう」と言いたかった。しかし、声を出すだけの力は残っていなかった。
蒼は大学生くらいに見えた。背が高くて、とにかく輝いて見えた。ほとんど意識なんてなかったのに、自分を救ってくれた彼の顔。声と名前。それらは、心に刻まれるように鮮明に覚えていた。
そう――あれが、すべての始まりだった。
***
目を覚ますと、そこには白い天井が見えた。視界の端で、レースのカーテンがふわりと揺れている。天井には、地図のような黒いシミがぽつりと滲んでいて、なぜか自然とそこに目が奪われた。
ぼんやりとする頭。思考が霞んでいて、身体にわずかな重さがある。窓の外に目を向けると、柔らかい日差しがカーテン越しに差し込んでいた。
この位置からは時計は見えない。
まだ昼前だろうか。
小走りの足音。ドアが開いた。誰かが急いで入ってきたらしい。カーテンの向こう側で養護教諭と交わす声が、かすかに聞こえてくる。やがて一人が出ていくと、目の前のカーテンが、そっと開かれた。立っていたのは、蒼だった。
「先生……」
喉がかすれているのに、自分でも驚くほど自然に声が出た。
「気が付いたのか……良かった……」
蒼が安堵の吐息を漏らす。
いつもの優しい声。しかし、どこか震えていた。
「僕……どうして……」
蒼はベッドの脇にしゃがみ込み、少し間を置いて答えた。
「プールでパニックを起こして、溺れたんだ」
「……え」
「体育の先生から連絡があって、急いで飛んできた」
そうか、あのあとすぐ助けられたんだ。
大きな事故にならなくて、本当に良かったのは自分のはずなのに、なぜだか、彼のほうが泣きそうな顔をしていた。
「そんなに……心配してくれたんですか?」
「当たり前だろ」
「……生徒だから、ですよね」
蒼は、考えるように目を伏せる。膝の上に置かれた手が、ぎゅっと握られた。
「……ああ。お前は、大事な生徒だから」
やっぱり――
雪は視線をそらし、背を向ける。小さく丸まるように布団にもぐった。
「……真壁?」
「やっぱり僕じゃないんですね……。先生……全然、気づいてくれないし」
「……気づかない? 何の話だ」
掛け布団の下で、雪は声を震わせながら答えた。
「克服したかったんです……。足もつくし、海水でもないし、もう大丈夫だって思った。でも、やっぱり無理だった」
ぐっと、布団の端をつかむ指に力がこもる。
「なんか……久しぶりだったんです。あんな風に……息ができなくなるの。海水はすごく冷たくて、波が次々と押し寄せてきて……。きっとこのまま、誰にも気づかれないまま死ぬんだろうなって……怖くて仕方なかった」
掛け布団をずらし、ゆっくりと蒼の方に顔を向けた。すると、彼の目がわずかに見開かれる。
「えっ……まさか、あの時の……?」
「やっと、思い出してくれましたか」
蒼は眉を寄せ、目を細めた。
「確か……何年か前に、男の子を助けたことがあった。でも、お前もっと幼くて……今とは全然、雰囲気が違ってたから」
「でも……覚えててくれたんですね」
「そりゃ、忘れられるわけないだろ」
「なら、僕はそれだけで充分です」
蒼の表情が一段と真剣になる。
「でも、それなら……どうして今まで黙っていたんだ?」
その問いに、雪はまつ毛を伏せた。
「それじゃ、ダメなんです。先生の方から、思い出してくれなきゃ意味がないから」
唇を歪める。
「……僕、やっぱり変ですよね」
あの出会いが、蒼の中で《《何か》》として残っていてくれたこと。
それが嬉しかった。蒼には通りすがりの出来事だったかもしれない。しかし、自分にとっては、あの日から世界が動き出した。かけがえのない始まりだったのだ。
「先生……」
そう呼びかけながら、手を伸ばした。蒼の手に、自分の指先を重ねる。
「……気づいてくれて、ありがとうございます」
一瞬、蒼もその手を優しく握り返すが、それはほんのわずかな時間だった。すぐに、何かを振り切るようにして立ち上がり、距離を取った。
「あ、ああ……じゃあ、もう大丈夫そうだし、俺は行くよ……」
彼が背を向けた瞬間、雪はその腕を掴み、ぐっと引き寄せた。
バランスを崩した二人は、そのままベッドに倒れ込む。雪は仰向けになり、蒼が上に覆いかぶさる形になった。視界いっぱいに、蒼の顔が広がる。驚いたように見開かれた淡いブラウンの瞳は、どこにも焦点を結べず、小刻みに揺れている。窓の隙間から吹き込む風が、彼の前髪をそっとなびかせた。
「先生、一度でも僕に触れたいと思ったことありますか?」
「お前、今――なんて……」
ガラリと保健室のドアが開く。二人は同時にハッとしたように動く。
「……何してるんですか?」
長い髪をクリップで止め、黒い太ぶち眼鏡をかけた女の養護教諭が小首をかしげながら、ドア口に立っていた。
蒼は立ち上がるなり、慌てて咳払いをし、
「ああ……その、安静にな。無理すんなよ」
まるで逃げるように保健室をあとにした。
去る後ろ姿を、雪はただ静かに見つめていた。
今ならわかる。
十二歳の自分があの海の中で、生きたいと必死にもがいたのは、新しい友達や学校生活、弾き終えていない曲が心残りだったからではなく、誰からも必要とされないまま死ぬのが嫌だったんだ。生まれてきた意味もわからないまま、この世から消えるのが怖かったんだ。
きっと、ずっと探していたのかもしれない。自分だけを必要としてくれる、そんな――片割れのような存在を。
養護教諭は、すれ違った蒼の背を振り返るように見つめたあと、躊躇いがちに口を開いた。
「……ねえ、真壁くん。もしかして、芹沢先生に何かされた?」
「え?」
「いや、私も一瞬だったし、見間違いかもしれないけど……」
「勘違いです」
雪は、鋭く言い切った。
その語気の強さに、養護教諭は思わず手にしていたプリントの束を握り直し、眼鏡のフレームをなぞるように押し上げた。
「……そう。なら、いいの。もし何かあったら、いつでも聞くからね?」
「本当に、なんでもないので」
きっぱりと答えたその声は、どこか冷たい壁のように相手を遠ざけていた。壁の内側が、決して誰にも踏み込めない場所であることを、自分自身が誰より知っていた。
また廊下から足音が駆け寄ってくる。
「おい、大丈夫か!?」
息を荒げて現れたのは陽斗だった。心底心配そうな顔で、雪の様子を確かめている。
「ああ、もう平気だ」
安心させるように笑ってやる。
その笑顔に、陽斗はようやくほっとしたのか、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「プールの中で、あんなふうに溺れて……俺、マジで焦ったわ。先生が気づかなかったら、どうなってたか……。ごめん、俺、足がすくんじまって……動けなかった」
「気にすんなって。心配かけて悪かったな」
陽斗は立ち上がり、そっと雪に寄り添うように声をかける。
「今日は、もうこのまま帰るのか?」
保健室の掛け時計を見ると、十一時二十五分――四時限目、数学が始まる直前だった。
「……いや、戻るよ」
「大丈夫なのか?」
「うん、もうピンピンしてる」
雪は冗談交じりに軽く腕を曲げ、力こぶを作ってみせた。
自分でもそれが演技だと分かっていたが、それ以上の表現を持ち合わせていなかった。
「……そっか。無理すんなよ」
陽斗の気遣いに、どう返していいかわからないまま、わずかに口元をゆるめた。
着く頃には、四時限目はすでに始まっていた。
ドアを静かに開ける。視線が、集まる。
黒板の前で、蒼が数式を書きながら振り返った。
「真壁。もう大丈夫なのか?」
「はい……もう平気です」
「そうか。でも無理はするなよ。辛くなったら、すぐ言いに来い」
雪は小さく頷いてから、自席に向かった。鞄から教科書とノートを取り出し、筆記用具を揃える。その指先が、どこかぎこちないのを自覚していた。
黒板に浮かぶ数式。蒼の伸びた手がチョークを滑らせ、スムーズな曲線を描いていく。
あの指が、自分に触れた時の感覚が、皮膚の奥にまだ残っている。
あの手は、誰にでもあんなふうに触れるのだろうか。
考えたくない疑念が、ひたりと胸に貼りついた。
蒼の声が空間に響いているのに、まるで水の中にいるようだった。よく聞こえない。何も頭に入ってこない。シャーペンの先が、紙の上に触れる。しかし、書く内容が見つからない。
目を細め、前を見る。
蒼の背中。美しい数式。淡く反射するチョークの粉。
胸が、疼いた。
この痛みは、なんだろう。心が、自分のものでなくなっていくようだった。
ふと、窓から風が吹き込んできた。教科書のページがふわりとめくれ、そこに夏の匂いが漂う。
それは、プールの水の匂いとも、蒼の制汗剤の香りとも違い、淡く、切ないものだった。
2
窓の外はすっかり茜色に染まり、校舎の廊下にはもう、誰の気配もなかった。
雪は、音楽室にあるグランドピアノの上で、静かに譜面を片付けていた。今日は部長が欠席で、顧問に頼まれて最後の施錠を任されていた。
誰もいない静かな空間に、ふいに足音が響く。床板を踏む音が近づいてきて、思わず顔を上げた。音楽室の扉を開けて現れたのは、蒼だった。
「……先生」
「悪い、まだ開いてて助かった。これ、生徒会のスピーカー。今朝の朝礼で使ったやつなんだけど、ずっと持ちっぱなしでさ。返しに来たんだ」
片手に中型の黒いスピーカーを抱え、蒼は照れくさそうに肩をすくめた。
「副顧問って、地味に大変なんですね」
雪は微笑みながら、彼の姿を見つめた。
スーツの上着は脱ぎ、ワイシャツの袖をラフにまくり上げている。 腕の太さ。広い肩幅。シャツ越しでも分かる厚い胸板。蒼は、普段よりもずっと大人の男に見えた。
持っていた譜面が手からするりと落ちる。床にばら撒かれる。
蒼はすかさず、駆け寄り譜面も拾い上げていく。
「すみません……」
「真壁はこういうとこあるよな」
「こういうとこ?」
「うっかり者っていうか、放って置けなくなる」
その言葉に思わず、拾っていた指が止まる。
「どうした?」
動かない雪をみて、蒼は不思議に思ったのか、声をかけてきた。
「いえ……」
譜面を全部拾い上げると、蒼は「はい」と渡し、
「これ、どこに置けばいい?」
と、黒いスピーカーを持ち上げる。
「器楽準備室ですね。こっちです」
音楽室の奥にあるドアを開けると、ひんやりとした空気と、ほのかな埃の匂いが流れ出た。
「ここです」
棚を指さすと、蒼は「ありがとう」と短く言って中へ入っていった。
「じゃあ、僕は隣で譜面片付けていますね」
「わかった」
蒼は棚に機材を収めていく。
再び静寂が音楽室に戻る。雪は譜面の整理を続けながら、先ほどの蒼の姿を繰り返し思い出していた。
しばらくして、器楽準備室から戻ってきた蒼が、ふっとピアノの椅子に腰を下ろす。
「いやー、今日は忙しくて、なんか疲れたわ」
肩をぐるりと回すと、シャツの布地がひくりと張って、筋肉の動きがくっきりと浮かび上がった。
「先生も疲れることあるんですね」
「あるに決まってるだろ。俺のことなんだと思ってんだ」
「だって、数学教師にバスケ部の顧問、生徒会の副顧問まで……体力バケモノじゃないと務まりませんよ」
冗談めかしに言うと、蒼は笑って頭をかいた。
「まあ、いろいろ任されるってことは、それだけ信頼されてるってことだし、俺としては嬉しいけどな。でも、たまに……キツいなって思う日もあるよ。もう、歳かな」
そう言って、肩をすくめる笑顔の奥に、わずかに本音の疲れが滲んでいた。
「先生の歳って、確か……」
「二十四だ」
「てことは、僕の八個上ですね」
「まあ、そうなるかな」
「そんな変わらないじゃないですか」
「八個はけっこう変わるだろ」
「全然。僕は気にしませんけど」
蒼の背中に自分の背中を預けるようにして、静かに座る。
「ん、どうした?」
「先生って、ピアノ弾けますか?」
問いかけると、蒼は苦笑いしながら首を横に振った。
「いや、まったく。音楽はからっきしでな」
雪は声色を変え、いたずらっぽく微笑む。
「じゃあ、クイズです。ドの音はどれでしょう」
「唐突すぎるだろ。てか、バカにしてるのか?」
「そんなことありませんよ。ドの音くらい、先生にだって」
そこで、目を細める。
「もし、当てられたら先生の言うことなんでも聞きます」
その提案に、蒼は一瞬まばたきを繰り返す。
静かな音楽室の空気が、じわりと変わる。
「ほら、早く。時間制限つけますよ?」
「……わかったよ」
蒼はゆっくりと鍵盤に指を伸ばし、真剣な表情でひとつの音を押す。コーンと、やわらかい音が夕暮れの空間に溶けるように響く。
「そこじゃないです」
雪は笑うと、蒼の手をそっと取ってひとつ右へずらし、鍵盤を押し込んだ。
再び音が響く。
今度は、確かに「ド」だった。
「ここです。惜しかったですね」
「くそう、もうちょいだったか」
「あーあ、せっかく何でも言うこと聞いてあげたのに」
雪は立ち上がり、ゆっくりと蒼の前に立つ。わずかに身を乗り出すようにして距離を縮めると、蒼はとっさにピアノへ手をついた。
ドシャーン――と、思いがけない不協和音が鍵盤から鳴り響く。
夕陽に照らされていたせいか、蒼の顔がわずかに赤らんで見えた。驚きと、わずかな戸惑いが混じった表情で見つめられる。
「ど、どうした真壁。ちょっと近すぎるぞ……」
「もし正解してたら、僕に何をさせたかったですか?」
「いや…………」
蒼は、考えるように小さく唸りながら、視線を斜め上に持っていく。
「強いて言うなら……数学で八十点以上取ってもらう、かな。お前、他は優秀なのに数学だけ惜しいから」
「じゃあ、先生が教えてください」
「授業で教えてるだろ?」
「みんなとじゃなくて。マンツーマンで、です」
蒼は言葉に詰まる。肩に手を置かれた。
その瞬間、雪は身を寄せる。
硬くて温かい蒼の身体。制汗剤の爽やかな香りが、鼻先にふっと香った。
「先生は、僕の気持ち、もう分かってますよね?」
「……真壁、やめろ」
そう言いつつも、蒼の手は雪の肩に添えられたままだった。ぐっと力を入れれば振りほどけるはずなのに、それをしない。
「先生……」
声に、息が混じる。
「……ごめん、そういうのは……やめてくれ」
身体を離されると、そのまま音も立てずに、蒼は音楽室を出ていった。
残された雪の耳には、ドシャーンと鳴ったあの不協和音の余韻が、いつまでも消えずに残っていた。
家に帰ると、すぐに自室に入った。
カバンをベッドの脇に置き、制服に手をかける。ネクタイを緩めながら、勉強机の棚に置かれた図鑑を一冊、手に取った。
ベッドに腰を下ろし、そっとページをめくるとそこには、いつもと変わらない海の世界――静かで、美しく、どこか冷たい光をたたえた写真たちが並んでいた。
指先が、ふと一か所で止まる。
折り目が深くついた、クラゲのコーナー。何度も見返しているせいで、そこだけ紙がわずかに歪んでいた。儚げで、危うくて、今にも消えてしまいそうな姿が、どこか自分を見ているようだった。
そっと、写真に触れて指を滑らす。
雪は開いたままの図鑑を胸に抱いて、ベッドに身を倒した。
目を閉じる。
音楽室の夕陽。不協和音。腕の硬さ。鼓動。それらが、ゆっくりと体の奥に沈んでいく。
息が浅くなる。
自分でも説明のつかない熱が、下腹の奥に溜まっていくのを感じた。
――違う。
こんな形で、先生を思い出したくない。けれど、止められない。指先が震える。思考が曇る。触れたい。触れられたい。その衝動が、理性を押し流していく。
やがて静寂が戻ったあと、雪はベッドに沈んだまま、視線をつっと横に滑らせ、笑みを浮かべた。
部屋の片隅に高く積み上げられた図鑑たち。それらはすべて、一度も開いたことはなく、ただそこに置いていた。
数学の参考書を買うため、雪は本屋に行く支度をしていた。
授業では、いつも集中できず、この前のテストではひどい点数を取ってしまった。恥ずかしくて蒼の顔が見れなかった。だから、次はなんとしてでも成績を上げたい、その一心だった。
今朝の天気予報では、夕方ごろから雨になると言っていたが、まだ午前十一時。傘は邪魔になると思い、財布とスマートフォンだけズボンのポケットに入れて自宅を出た。絵の具で塗ったような灰色の雲が、ちらほらと浮かんでいる。でも、予報を信じて歩き出す。
本屋は駅前にしかないため、バスに乗り込んだ。
車窓から見える景色は妙に暗く感じ、灰色の建物がやけに不気味に見えた。バスは本屋の前に停車した。
空を見上げると、まだ雨は降っていないが、雲行きはますます怪しくなっていた。
すぐに本屋に入り、参考書の棚を目指す。
この店は誘惑が多い。目移りしてしまい、気づけば一時間は過ぎている――そんなこともよくある。けれど今日は、目的の参考書をすぐに見つけ、雪は足早に会計を済ませ、自動ドアをくぐった。
うわ、雨だ……。
まだ、十二時前なのに雨がパラパラと降り始めていた。天気予報が少し早まっただけなのに、妙に悔しくて、わずかな苛立ちを覚えた。
時刻を確認しにバス停に向かう。次にバスが来るのは十二分後だった。
強まりつつある雨を、バス停の小さな屋根の下から覗き見る。ぽたりぽたりと落ちてきた雨粒が目の中に入り、ぐっと瞼を瞑った。そして、視線を前に戻す。
――先生!?
道路を挟んだビルの軒先で雨宿りをしている蒼の姿が見えた。反射的に、雪は走り出していた。身体が濡れることなんて気にしていられない。自分はここにいると大きく手を振りながら、「先生」と叫ぶ。しかし、蒼は気づかない。数十メートル先にある横断歩道まで走り、まだかまだかと信号が青になるのを待った。
「先生!」
もう一度、
「芹沢先生!」
大きく手を振りながら呼びかけた。
ようやっと気づいた蒼は、「おお」といった感じに片手を挙げた。
「つうか、びしょ濡れじゃないか」
蒼はどこか呆れたような、でも優しい目をしていた。
「雨なんかどうだっていいです……」
「風邪を引いたらどうするんだ」
「先生がいたから慌ててきたんです」
「本当にお前は変なやつだな」
言いながら、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、濡れた肩や腕をぱっぱと拭き始めた。
雪はその手を掴む。
「先生、なんで優しくするんですか」
「いや、濡れてたらそりゃ拭いてやるだろ」
「そうだけど、僕のこと眼中にないならその優しさは罪ですよ」
「また、そんなことを。先生を困らせるな」
蒼は掴まれた手を解いて、今度は額と頬についた滴を拭く。
「そういうところがダメなんです!」
もう一度蒼の腕を掴む。さっきよりも力がこもる。
「おい」
「先生のこと嫌いになれたらいいのに……」
蒼を見つめながら、唇を強く結んだ。胸が苦しくて、鼻からかすかに息が漏れる。
「蒼、おまたせ!」
ふいに、後ろから女性の声がした。
駆け寄ってきたのは、髪の長い大人の女性だった。ぱっと見ただけでいい女なのが分かるくらい、清楚で可憐な人だった。艶のある黒髪、肌は白く、目が大きい。くっきりとした二重瞼に添えられたまつ毛がくるんとカールしており、抜け目がないと思った。優しげな雰囲気からは、どことなく知性と包容力が滲み出ている。
蒼と同じくらいの年齢だろうか。雪は、彼女を見て眉をひそめた。
掴んでいた腕をばっと払われたかと思うと、蒼は慌てた様子で、
「おう、久しぶり」
「ごめんね、ちょっと電車が遅れちゃってさ……待ったでしょ」
「いや、別にそんな待ってないよ。気にするな」
「ていうか、この子、誰?」
「ああ、俺の生徒」
「あ、生徒さんだったんだ」
柔らかい笑顔を向けられる。
「こんにちは」
雪は小さくお辞儀をする。
「本屋さんに行ってきたのかな?」
「はい、ちょっと数学の参考書がほしくて……」
「偉い! 実は私も教師なんだけどね。みんなも君みたいに勉強熱心だったらいいのに」
「……あの、二人は付き合ってるんですか?」
空気を刃物で切り裂くように、率直に聞いた。
蒼は短く息を呑んだあと、目をそらすようにして言った。
「ああ、先生の……彼女だ」
息が詰まった。
数瞬、時が止まり、音も遮断され、何も聞こえない。何かがパンッと弾ける。雪ははっとした顔をすると、一歩、また一歩と後ずさる。
「ま、真壁……」
……嘘だ。冗談だと言ってよ。
声にならない声が喉の奥に張り付いて、出てこない。そっと差し出される蒼の手を拒むように、顔を背け、走り出す。
もう、その場に立っていられなかった。何も考えたくなくて、我武者羅に走った。
雨がうるさかった。
アスファルトに叩きつけられる水の粒が跳ね返る。走りながら、雪は何度も瞬きをした。涙なのか雨なのか、自分でもわからなかった。胸の奥で、何かが音を立てて崩れ始めている。
蒼の声。
蒼の手。
蒼の優しさ。
それは、全て誰かのものだった。
「彼女」
その二文字が、何度も頭の中で反響する。
彼女。
彼女……。
彼女…………。
足がもつれ、歩道の端で膝をついた。手のひらが濡れた地面に触れる。
冷たい。
――ああ。
これだ。この冷たさだ。春の海の冷たさと、同じだ。息ができなくて、胸が苦しい。
でも違う。
あのときは、蒼が飛び込んできた。
今は?
誰も来ない。誰も、助けない。
蒼には「彼女」がいる。
雪は、ゆっくりと立ち上がった。
雨が顔を叩く。髪が額に張りつく。心の奥で、何かが静かに切り替わるのがわかった。




