表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

第一章 後編



    1



 早いもので、高校の入学式から三ヶ月半が経とうとしている。日差しはもう、真夏のものだった。グラウンドの端に設けられた屋外プールは、陽を浴びて水面がぎらぎらと揺れており、更衣室からは、男子たちの賑やかな声が絶えず聞こえていた。


「よっしゃ、今日はクロール勝負な!」

「バタフライはお前の負け確だろ!」


 肩をぶつけ合いながら、彼らは順番に水に飛び込んでいく。水音が弾けるたび、若い肉体が陽光を反射し、眩しく光った。

 雪はその輪には加わらず、ひとり、水に足を浸したまま、ぼんやりと眺めた。

 周りが男女を意識し始めたのは、中学生に入った頃からだと思う。

 なぜ、そんなに気になるのだろう。

 雪は、自分とは別の世界に住む生き物を、ただ、ガラス越しに眺めるように傍観(ぼうかん)していた。



 今も、根っこの部分は変わっていない。



 けれど、蒼に抱くこの想いは一体なんなのかと、自分に問いかけることがある。最初は、ただ自分がそういう〝性質〟だからだと思っていた。



 しかし、違った。



 自分が欲しかったのは、蒼という〝人間〟そのもの。 誰にも見せない顔が見たかった。自分にだけに見せる仕草、言葉、まなざし――そのすべてを、独り占めしたかった。



 僕だけのものにしたかった。

 たった一人でいい。そう思えた相手が、蒼だったのだ。



 ふいに、水面に落ちた誰かの跳び込みの飛沫(しぶき)が、はらりと頬を打った。


「よし」


 小さく息を吐き、恐る恐るプールの中へと足を踏み入れる。水温は思ったよりも冷たく、足首が沈むたびに、心臓がわずかに締めつけられるような感覚があった。それでも、ゆっくりと水の中を歩いて、陽斗のいる場所まで向かおうとした――が、しかし。

 身体がふっと沈んだ。

 バランスが崩れる。水面下で、何かが一気にほどけるように記憶が溢れ出した。潮の香り。春の冷たい海。喉を焼くような海水。呼吸が奪われるあの感覚。頭がぐらりと揺れ、背後へ引き込まれる。視界が一気に傾いたかと思うと、頬が水面に触れ、次の瞬間には顔ごと水中へ。ずるずると沈んでいくような錯覚。上と下の区別がつかない。自分が今、どこにいるのかもわからず、パニックが全身を襲う。

 喉に水が入りかけ、咳き込む。

 手足をめちゃくちゃに動かしても、水を掻く感覚が掴めない。水中から見上げた太陽がゆらゆら揺れていた。それを必死に掴もうと、手を前に突き出した。



 助けて。

 先生……助けて……。



 意識の輪郭が、遠のいていく。

 すると、春の海。あの時の記憶が、まるでフィルムが回り出したかのように、鮮明に蘇ってきた。



  ***



 防波堤から足が離れた瞬間、春の冷たい海に全身が浸かった。 口の中がしょっぱい。海水が喉の奥に入り込み、息ができなくなる。沈まないように必死で手足をバタつかせても、波は容赦なく、何度も水底へと引きずり込もうとする。


「だ、誰か……。た、助けて……」


 死ぬつもりなんてなかった。ただ、海の中に光る何かを見つけた気がしたんだ。それを見ようと前のめりになりすぎ、態勢を崩してしまった。



 まだ、中学に上がったばかりだった。



 体に合っていない大きな制服。履き慣れない新しい靴。桜に囲まれた校舎と教室に響くチャイムの音。そしてまだ見ぬ、いろんな出会いに胸を弾ませながら、入学したあの日。

 自分の下駄箱を探し、上履きに履き替える。長く続く廊下の向こうに春の光が差していた。廊下の冷たさが、少しだけ背筋を伸ばす。

 教室に入ると、生徒たちの顔はどれも緊張にこわばっていた。その空気が胸の奥に染み込んでくる。しかし、不安よりも期待の方が、ほんの少しだけ大きかった。友達というものも欲しかったし、吹奏楽部にも入ってみたかった。

 雪はピアノを四歳の時から習っていて、今はショパンの《雨だれの前奏曲》を練習中だった。この曲は、今まで弾いてきたどんな曲より好きだった。

 全部、弾けるようになりたかった。いろんな経験をしてみたかった。

 ありきたりで平凡な言葉だけれど、〝明るい〟といわれる毎日が、いつかは自分にも訪れると――今の今まで疑いもせず信じていた。



 なのに……。



 この状況は聞いていない。

 海水が否応なく顔にかかり、息を吸うたびに喉を焼いた。朝方の春の海に、きっと人なんていない。こうして、助けを求めても無駄なことはわかっていた。でも、まだ死にたくはなかった。何も始まってすらいない、十二歳の小さな体は、必死に生きようとしていた。

 そんな時、視界の先――防波堤から、人影が躊躇(ちゅうちょ)なく海に飛び込むのが見えた。波に逆らってクロールしながら、近づいてくる。

 そして、雪の小さな身体を抱き寄せた誰かが、こう言った――「大丈夫か」。

 その声が耳の奥で膨張しはじめたとき、視界は霞み、意識は遠のいていった。



 気づけば、咳き込んでいた。胸を押さえ、顔を歪める。


「もう大丈夫だ。今、救急車も呼んだからな」


 細目を開けると、男性の顔が視界に映る。額に張り付いた前髪。顎から滴る水。自分を見る彼の表情が、今も忘れられない。朝方の青白い光に照らされた姿が、キラキラと輝いていた。

 息も絶え絶えに震えていると、彼の上着を全身に巻いてくれた。とにかく、「大丈夫だ」「安心しろ」そんな言葉を何度も使って、安心させてくれた。

 程なくして、救急車が到着すると何人かの救急隊員が駆け寄ってくる。その中の一人が、彼に事情を聴いているようだった。

 雪は担架に乗せられる。


「な、名前……」


 運ばれようとしたとき、喉の奥に力を入れて必死に声へと変えた。

 彼はそれに気づき、近寄ってきた。


「どうした」

「名前を教えて……」

「――蒼、芹沢蒼だ」

「あおい……」


 離れていく彼に手を差し出し、「ありがとう」と言いたかった。しかし、声を出すだけの力は残っていなかった。

 蒼は大学生くらいに見えた。背が高くて、とにかく輝いて見えた。ほとんど意識なんてなかったのに、自分を救ってくれた彼の顔。声と名前。それらは、心に刻まれるように鮮明に覚えていた。



 そう――あれが、すべての始まりだった。



  ***



 目を覚ますと、そこには白い天井が見えた。視界の端で、レースのカーテンがふわりと揺れている。天井には、地図のような黒いシミがぽつりと滲んでいて、なぜか自然とそこに目が奪われた。

 ぼんやりとする頭。思考が霞んでいて、身体にわずかな重さがある。窓の外に目を向けると、柔らかい日差しがカーテン越しに差し込んでいた。

 この位置からは時計は見えない。

 まだ昼前だろうか。

 小走りの足音。ドアが開いた。誰かが急いで入ってきたらしい。カーテンの向こう側で養護教諭と交わす声が、かすかに聞こえてくる。やがて一人が出ていくと、目の前のカーテンが、そっと開かれた。立っていたのは、蒼だった。


「先生……」


 喉がかすれているのに、自分でも驚くほど自然に声が出た。


「気が付いたのか……良かった……」


 蒼が安堵の吐息を漏らす。

 いつもの優しい声。しかし、どこか震えていた。


「僕……どうして……」


 蒼はベッドの脇にしゃがみ込み、少し間を置いて答えた。


「プールでパニックを起こして、溺れたんだ」

「……え」

「体育の先生から連絡があって、急いで飛んできた」


 そうか、あのあとすぐ助けられたんだ。

 大きな事故にならなくて、本当に良かったのは自分のはずなのに、なぜだか、彼のほうが泣きそうな顔をしていた。


「そんなに……心配してくれたんですか?」

「当たり前だろ」

「……生徒だから、ですよね」


 蒼は、考えるように目を伏せる。膝の上に置かれた手が、ぎゅっと握られた。


「……ああ。お前は、大事な生徒だから」



 やっぱり――



 雪は視線をそらし、背を向ける。小さく丸まるように布団にもぐった。


「……真壁?」

「やっぱり僕じゃないんですね……。先生……全然、気づいてくれないし」

「……気づかない? 何の話だ」


 掛け布団の下で、雪は声を震わせながら答えた。


「克服したかったんです……。足もつくし、海水でもないし、もう大丈夫だって思った。でも、やっぱり無理だった」


 ぐっと、布団の端をつかむ指に力がこもる。


「なんか……久しぶりだったんです。あんな風に……息ができなくなるの。海水はすごく冷たくて、波が次々と押し寄せてきて……。きっとこのまま、誰にも気づかれないまま死ぬんだろうなって……怖くて仕方なかった」


 掛け布団をずらし、ゆっくりと蒼の方に顔を向けた。すると、彼の目がわずかに見開かれる。

「えっ……まさか、あの時の……?」

「やっと、思い出してくれましたか」


 蒼は眉を寄せ、目を細めた。


「確か……何年か前に、男の子を助けたことがあった。でも、お前もっと幼くて……今とは全然、雰囲気が違ってたから」

「でも……覚えててくれたんですね」

「そりゃ、忘れられるわけないだろ」

「なら、僕はそれだけで充分です」


 蒼の表情が一段と真剣になる。


「でも、それなら……どうして今まで黙っていたんだ?」


 その問いに、雪はまつ毛を伏せた。


「それじゃ、ダメなんです。先生の方から、思い出してくれなきゃ意味がないから」


 唇を歪める。


「……僕、やっぱり変ですよね」


 あの出会いが、蒼の中で《《何か》》として残っていてくれたこと。

 それが嬉しかった。蒼には通りすがりの出来事だったかもしれない。しかし、自分にとっては、あの日から世界が動き出した。かけがえのない始まりだったのだ。


「先生……」


 そう呼びかけながら、手を伸ばした。蒼の手に、自分の指先を重ねる。


「……気づいてくれて、ありがとうございます」


 一瞬、蒼もその手を優しく握り返すが、それはほんのわずかな時間だった。すぐに、何かを振り切るようにして立ち上がり、距離を取った。


「あ、ああ……じゃあ、もう大丈夫そうだし、俺は行くよ……」


 彼が背を向けた瞬間、雪はその腕を掴み、ぐっと引き寄せた。

 バランスを崩した二人は、そのままベッドに倒れ込む。雪は仰向けになり、蒼が上に覆いかぶさる形になった。視界いっぱいに、蒼の顔が広がる。驚いたように見開かれた淡いブラウンの瞳は、どこにも焦点を結べず、小刻みに揺れている。窓の隙間から吹き込む風が、彼の前髪をそっとなびかせた。


「先生、一度でも僕に触れたいと思ったことありますか?」

「お前、今――なんて……」

 ガラリと保健室のドアが開く。二人は同時にハッとしたように動く。


「……何してるんですか?」


 長い髪をクリップで止め、黒い太ぶち眼鏡をかけた女の養護教諭が小首をかしげながら、ドア口に立っていた。

 蒼は立ち上がるなり、慌てて咳払いをし、


「ああ……その、安静にな。無理すんなよ」


 まるで逃げるように保健室をあとにした。

 去る後ろ姿を、雪はただ静かに見つめていた。



 今ならわかる。



 十二歳の自分があの海の中で、生きたいと必死にもがいたのは、新しい友達や学校生活、弾き終えていない曲が心残りだったからではなく、誰からも必要とされないまま死ぬのが嫌だったんだ。生まれてきた意味もわからないまま、この世から消えるのが怖かったんだ。

 きっと、ずっと探していたのかもしれない。自分だけを必要としてくれる、そんな――片割れのような存在を。



 養護教諭は、すれ違った蒼の背を振り返るように見つめたあと、躊躇(ためら)いがちに口を開いた。


「……ねえ、真壁くん。もしかして、芹沢先生に何かされた?」

「え?」

「いや、私も一瞬だったし、見間違いかもしれないけど……」

「勘違いです」


 雪は、鋭く言い切った。

 その語気の強さに、養護教諭は思わず手にしていたプリントの束を握り直し、眼鏡のフレームをなぞるように押し上げた。


「……そう。なら、いいの。もし何かあったら、いつでも聞くからね?」

「本当に、なんでもないので」


 きっぱりと答えたその声は、どこか冷たい壁のように相手を遠ざけていた。壁の内側が、決して誰にも踏み込めない場所であることを、自分自身が誰より知っていた。

 また廊下から足音が駆け寄ってくる。


「おい、大丈夫か!?」


 息を荒げて現れたのは陽斗だった。心底心配そうな顔で、雪の様子を確かめている。


「ああ、もう平気だ」


 安心させるように笑ってやる。

 その笑顔に、陽斗はようやくほっとしたのか、その場にぺたんと座り込んでしまった。


「プールの中で、あんなふうに溺れて……俺、マジで焦ったわ。先生が気づかなかったら、どうなってたか……。ごめん、俺、足がすくんじまって……動けなかった」

「気にすんなって。心配かけて悪かったな」


 陽斗は立ち上がり、そっと雪に寄り添うように声をかける。


「今日は、もうこのまま帰るのか?」


 保健室の掛け時計を見ると、十一時二十五分――四時限目、数学が始まる直前だった。


「……いや、戻るよ」

「大丈夫なのか?」

「うん、もうピンピンしてる」


 雪は冗談交じりに軽く腕を曲げ、力こぶを作ってみせた。

 自分でもそれが演技だと分かっていたが、それ以上の表現を持ち合わせていなかった。


「……そっか。無理すんなよ」


 陽斗の気遣いに、どう返していいかわからないまま、わずかに口元をゆるめた。

 着く頃には、四時限目はすでに始まっていた。

 ドアを静かに開ける。視線が、集まる。

 黒板の前で、蒼が数式を書きながら振り返った。


「真壁。もう大丈夫なのか?」

「はい……もう平気です」

「そうか。でも無理はするなよ。辛くなったら、すぐ言いに来い」


 雪は小さく頷いてから、自席に向かった。鞄から教科書とノートを取り出し、筆記用具を揃える。その指先が、どこかぎこちないのを自覚していた。

 黒板に浮かぶ数式。蒼の伸びた手がチョークを滑らせ、スムーズな曲線を描いていく。

 あの指が、自分に触れた時の感覚が、皮膚の奥にまだ残っている。



 あの手は、誰にでもあんなふうに触れるのだろうか。



 考えたくない疑念が、ひたりと胸に貼りついた。

 蒼の声が空間に響いているのに、まるで水の中にいるようだった。よく聞こえない。何も頭に入ってこない。シャーペンの先が、紙の上に触れる。しかし、書く内容が見つからない。

 目を細め、前を見る。

 蒼の背中。美しい数式。淡く反射するチョークの粉。

 胸が、疼いた。

 この痛みは、なんだろう。心が、自分のものでなくなっていくようだった。

 ふと、窓から風が吹き込んできた。教科書のページがふわりとめくれ、そこに夏の匂いが漂う。

 それは、プールの水の匂いとも、蒼の制汗剤の香りとも違い、淡く、切ないものだった。



    2



 窓の外はすっかり茜色に染まり、校舎の廊下にはもう、誰の気配もなかった。

 雪は、音楽室にあるグランドピアノの上で、静かに譜面を片付けていた。今日は部長が欠席で、顧問に頼まれて最後の施錠を任されていた。

 誰もいない静かな空間に、ふいに足音が響く。床板を踏む音が近づいてきて、思わず顔を上げた。音楽室の扉を開けて現れたのは、蒼だった。


「……先生」

「悪い、まだ開いてて助かった。これ、生徒会のスピーカー。今朝の朝礼で使ったやつなんだけど、ずっと持ちっぱなしでさ。返しに来たんだ」


 片手に中型の黒いスピーカーを抱え、蒼は照れくさそうに肩をすくめた。


「副顧問って、地味に大変なんですね」


 雪は微笑みながら、彼の姿を見つめた。

 スーツの上着は脱ぎ、ワイシャツの袖をラフにまくり上げている。 腕の太さ。広い肩幅。シャツ越しでも分かる厚い胸板。蒼は、普段よりもずっと大人の男に見えた。

 持っていた譜面が手からするりと落ちる。床にばら撒かれる。

 蒼はすかさず、駆け寄り譜面も拾い上げていく。


「すみません……」

「真壁はこういうとこあるよな」

「こういうとこ?」

「うっかり者っていうか、放って置けなくなる」


 その言葉に思わず、拾っていた指が止まる。


「どうした?」


 動かない雪をみて、蒼は不思議に思ったのか、声をかけてきた。


「いえ……」


 譜面を全部拾い上げると、蒼は「はい」と渡し、


「これ、どこに置けばいい?」


 と、黒いスピーカーを持ち上げる。


「器楽準備室ですね。こっちです」


 音楽室の奥にあるドアを開けると、ひんやりとした空気と、ほのかな埃の匂いが流れ出た。


「ここです」


 棚を指さすと、蒼は「ありがとう」と短く言って中へ入っていった。


「じゃあ、僕は隣で譜面片付けていますね」

「わかった」


 蒼は棚に機材を収めていく。

 再び静寂が音楽室に戻る。雪は譜面の整理を続けながら、先ほどの蒼の姿を繰り返し思い出していた。

 しばらくして、器楽準備室から戻ってきた蒼が、ふっとピアノの椅子に腰を下ろす。


「いやー、今日は忙しくて、なんか疲れたわ」


 肩をぐるりと回すと、シャツの布地がひくりと張って、筋肉の動きがくっきりと浮かび上がった。


「先生も疲れることあるんですね」

「あるに決まってるだろ。俺のことなんだと思ってんだ」

「だって、数学教師にバスケ部の顧問、生徒会の副顧問まで……体力バケモノじゃないと務まりませんよ」


 冗談めかしに言うと、蒼は笑って頭をかいた。


「まあ、いろいろ任されるってことは、それだけ信頼されてるってことだし、俺としては嬉しいけどな。でも、たまに……キツいなって思う日もあるよ。もう、歳かな」


 そう言って、肩をすくめる笑顔の奥に、わずかに本音の疲れが滲んでいた。


「先生の歳って、確か……」

「二十四だ」

「てことは、僕の八個上ですね」

「まあ、そうなるかな」

「そんな変わらないじゃないですか」

「八個はけっこう変わるだろ」

「全然。僕は気にしませんけど」


 蒼の背中に自分の背中を預けるようにして、静かに座る。

「ん、どうした?」

「先生って、ピアノ弾けますか?」


 問いかけると、蒼は苦笑いしながら首を横に振った。


「いや、まったく。音楽はからっきしでな」


 雪は声色を変え、いたずらっぽく微笑む。


「じゃあ、クイズです。ドの音はどれでしょう」

「唐突すぎるだろ。てか、バカにしてるのか?」

「そんなことありませんよ。ドの音くらい、先生にだって」


 そこで、目を細める。


「もし、当てられたら先生の言うことなんでも聞きます」


 その提案に、蒼は一瞬まばたきを繰り返す。

 静かな音楽室の空気が、じわりと変わる。


「ほら、早く。時間制限つけますよ?」

「……わかったよ」


 蒼はゆっくりと鍵盤に指を伸ばし、真剣な表情でひとつの音を押す。コーンと、やわらかい音が夕暮れの空間に溶けるように響く。


「そこじゃないです」


 雪は笑うと、蒼の手をそっと取ってひとつ右へずらし、鍵盤を押し込んだ。

 再び音が響く。

 今度は、確かに「ド」だった。


「ここです。惜しかったですね」

「くそう、もうちょいだったか」

「あーあ、せっかく何でも言うこと聞いてあげたのに」


 雪は立ち上がり、ゆっくりと蒼の前に立つ。わずかに身を乗り出すようにして距離を縮めると、蒼はとっさにピアノへ手をついた。

 ドシャーン――と、思いがけない不協和音が鍵盤から鳴り響く。

 夕陽に照らされていたせいか、蒼の顔がわずかに赤らんで見えた。驚きと、わずかな戸惑いが混じった表情で見つめられる。


「ど、どうした真壁。ちょっと近すぎるぞ……」

「もし正解してたら、僕に何をさせたかったですか?」

「いや…………」


 蒼は、考えるように小さく唸りながら、視線を斜め上に持っていく。


「強いて言うなら……数学で八十点以上取ってもらう、かな。お前、他は優秀なのに数学だけ惜しいから」

「じゃあ、先生が教えてください」

「授業で教えてるだろ?」

「みんなとじゃなくて。マンツーマンで、です」


 蒼は言葉に詰まる。肩に手を置かれた。

 その瞬間、雪は身を寄せる。

 硬くて温かい蒼の身体。制汗剤の爽やかな香りが、鼻先にふっと香った。


「先生は、僕の気持ち、もう分かってますよね?」

「……真壁、やめろ」


 そう言いつつも、蒼の手は雪の肩に添えられたままだった。ぐっと力を入れれば振りほどけるはずなのに、それをしない。


「先生……」


 声に、息が混じる。


「……ごめん、そういうのは……やめてくれ」


 身体を離されると、そのまま音も立てずに、蒼は音楽室を出ていった。

 残された雪の耳には、ドシャーンと鳴ったあの不協和音の余韻が、いつまでも消えずに残っていた。

 家に帰ると、すぐに自室に入った。

 カバンをベッドの脇に置き、制服に手をかける。ネクタイを緩めながら、勉強机の棚に置かれた図鑑を一冊、手に取った。

 ベッドに腰を下ろし、そっとページをめくるとそこには、いつもと変わらない海の世界――静かで、美しく、どこか冷たい光をたたえた写真たちが並んでいた。

 指先が、ふと一か所で止まる。

 折り目が深くついた、クラゲのコーナー。何度も見返しているせいで、そこだけ紙がわずかに歪んでいた。儚げで、危うくて、今にも消えてしまいそうな姿が、どこか自分を見ているようだった。

 そっと、写真に触れて指を滑らす。

 雪は開いたままの図鑑を胸に抱いて、ベッドに身を倒した。

 目を閉じる。

 音楽室の夕陽。不協和音。腕の硬さ。鼓動。それらが、ゆっくりと体の奥に沈んでいく。

 息が浅くなる。

 自分でも説明のつかない熱が、下腹の奥に溜まっていくのを感じた。



 ――違う。



 こんな形で、先生を思い出したくない。けれど、止められない。指先が震える。思考が曇る。触れたい。触れられたい。その衝動が、理性を押し流していく。

 やがて静寂が戻ったあと、雪はベッドに沈んだまま、視線をつっと横に滑らせ、笑みを浮かべた。

 部屋の片隅に()()()()()()()()()()()()()。それらはすべて、一度も開いたことはなく、ただそこに置いていた。



 数学の参考書を買うため、雪は本屋に行く支度をしていた。

  授業では、いつも集中できず、この前のテストではひどい点数を取ってしまった。恥ずかしくて蒼の顔が見れなかった。だから、次はなんとしてでも成績を上げたい、その一心だった。

 今朝の天気予報では、夕方ごろから雨になると言っていたが、まだ午前十一時。傘は邪魔になると思い、財布とスマートフォンだけズボンのポケットに入れて自宅を出た。絵の具で塗ったような灰色の雲が、ちらほらと浮かんでいる。でも、予報を信じて歩き出す。

 本屋は駅前にしかないため、バスに乗り込んだ。

 車窓から見える景色は妙に暗く感じ、灰色の建物がやけに不気味に見えた。バスは本屋の前に停車した。

 空を見上げると、まだ雨は降っていないが、雲行きはますます怪しくなっていた。

 すぐに本屋に入り、参考書の棚を目指す。

 この店は誘惑が多い。目移りしてしまい、気づけば一時間は過ぎている――そんなこともよくある。けれど今日は、目的の参考書をすぐに見つけ、雪は足早に会計を済ませ、自動ドアをくぐった。



 うわ、雨だ……。



 まだ、十二時前なのに雨がパラパラと降り始めていた。天気予報が少し早まっただけなのに、妙に悔しくて、わずかな苛立ちを覚えた。

 時刻を確認しにバス停に向かう。次にバスが来るのは十二分後だった。

 強まりつつある雨を、バス停の小さな屋根の下から覗き見る。ぽたりぽたりと落ちてきた雨粒が目の中に入り、ぐっと瞼を瞑った。そして、視線を前に戻す。



 ――先生!?



 道路を挟んだビルの軒先で雨宿りをしている蒼の姿が見えた。反射的に、雪は走り出していた。身体が濡れることなんて気にしていられない。自分はここにいると大きく手を振りながら、「先生」と叫ぶ。しかし、蒼は気づかない。数十メートル先にある横断歩道まで走り、まだかまだかと信号が青になるのを待った。


「先生!」


 もう一度、


「芹沢先生!」


 大きく手を振りながら呼びかけた。

 ようやっと気づいた蒼は、「おお」といった感じに片手を挙げた。


「つうか、びしょ濡れじゃないか」


 蒼はどこか呆れたような、でも優しい目をしていた。


「雨なんかどうだっていいです……」

「風邪を引いたらどうするんだ」

「先生がいたから慌ててきたんです」

「本当にお前は変なやつだな」


 言いながら、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、濡れた肩や腕をぱっぱと拭き始めた。

 雪はその手を掴む。


「先生、なんで優しくするんですか」

「いや、濡れてたらそりゃ拭いてやるだろ」

「そうだけど、僕のこと眼中にないならその優しさは罪ですよ」

「また、そんなことを。先生を困らせるな」


 蒼は掴まれた手を解いて、今度は額と頬についた滴を拭く。


「そういうところがダメなんです!」


 もう一度蒼の腕を掴む。さっきよりも力がこもる。


「おい」

「先生のこと嫌いになれたらいいのに……」


 蒼を見つめながら、唇を強く結んだ。胸が苦しくて、鼻からかすかに息が漏れる。


「蒼、おまたせ!」


 ふいに、後ろから女性の声がした。

 駆け寄ってきたのは、髪の長い大人の女性だった。ぱっと見ただけでいい女なのが分かるくらい、清楚で可憐な人だった。艶のある黒髪、肌は白く、目が大きい。くっきりとした二重瞼に添えられたまつ毛がくるんとカールしており、抜け目がないと思った。優しげな雰囲気からは、どことなく知性と包容力が滲み出ている。

 蒼と同じくらいの年齢だろうか。雪は、彼女を見て眉をひそめた。

 掴んでいた腕をばっと払われたかと思うと、蒼は慌てた様子で、


「おう、久しぶり」

「ごめんね、ちょっと電車が遅れちゃってさ……待ったでしょ」

「いや、別にそんな待ってないよ。気にするな」

「ていうか、この子、誰?」

「ああ、俺の生徒」

「あ、生徒さんだったんだ」


 柔らかい笑顔を向けられる。


「こんにちは」


 雪は小さくお辞儀をする。


「本屋さんに行ってきたのかな?」

「はい、ちょっと数学の参考書がほしくて……」

「偉い! 実は私も教師なんだけどね。みんなも君みたいに勉強熱心だったらいいのに」

「……あの、二人は付き合ってるんですか?」


 空気を刃物で切り裂くように、率直に聞いた。

 蒼は短く息を呑んだあと、目をそらすようにして言った。


「ああ、先生の……彼女だ」


 息が詰まった。

 数瞬、時が止まり、音も遮断され、何も聞こえない。何かがパンッと弾ける。雪ははっとした顔をすると、一歩、また一歩と後ずさる。


「ま、真壁……」



 ……嘘だ。冗談だと言ってよ。



 声にならない声が喉の奥に張り付いて、出てこない。そっと差し出される蒼の手を拒むように、顔を背け、走り出す。

 もう、その場に立っていられなかった。何も考えたくなくて、我武者羅に走った。

 雨がうるさかった。

 アスファルトに叩きつけられる水の粒が跳ね返る。走りながら、雪は何度も瞬きをした。涙なのか雨なのか、自分でもわからなかった。胸の奥で、何かが音を立てて崩れ始めている。



 蒼の声。

 蒼の手。

 蒼の優しさ。



 それは、全て誰かのものだった。


「彼女」


 その二文字が、何度も頭の中で反響する。



 彼女。

 彼女……。

 彼女…………。



 足がもつれ、歩道の端で膝をついた。手のひらが濡れた地面に触れる。



 冷たい。



 ――ああ。



 これだ。この冷たさだ。春の海の冷たさと、同じだ。息ができなくて、胸が苦しい。



 でも違う。



 あのときは、蒼が飛び込んできた。



 今は?



 誰も来ない。誰も、助けない。

 蒼には「彼女」がいる。

 雪は、ゆっくりと立ち上がった。

 雨が顔を叩く。髪が額に張りつく。心の奥で、何かが静かに切り替わるのがわかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ